久しぶりに、芦屋歌会へ行ってきました。
あつ~い!!
やはり息子さんや娘さん、お孫さんが、
帰省してきているなどのご事情が、
シーズン的におありのようで、
人数が少なめでした。
そして、歌も「夏」「蝉」「戦争」関連に
集中していたような気が。
暑さは、思考や感受性を萎えさせますなぁ~。
が、今回の私の歌は、
別に夏に作った歌でもなく、
そんな言い訳が通用しないんですけどね(笑)
歌、お披露目。
★
ついつい口を
滑らした
小さく漏れた
本音は
大きな志の 綻び
「最初の2行が、安易な表現」
「『小さく漏れた本音=大きな志』?
内に秘めていたのに、
ついつい、信頼関係がない人に
言ってしまったってこと?」
「いやいや、『大きな志の綻び=小さな本音』
ってことなんじゃないの?
志があるにはあるんだけれど、本音がでたってことで」
「この、『大きな志』って、なんなんでしょうかねぇ……
もうちょっと具体的に……」
と、やや難解だったようでございます××。
いろんな要素から抽出したんですけれど、
直接的なきっかけは、
歌会のときではなかったけれど、
1対1で、第三者の歌のお話をしていて、
その人の歌を非難がましくしゃべった自分を
後悔して。
真剣であるほど、
激しいジレンマを抱えることは、
避けきれないと思っているけれど、
自制心がきかず、
その人の人格を否定しているような、
厳しい口調があったな、と。
「その漏れた本音は、お前の本心すべてか?」
という、自問自答から生まれた歌。
★
自分が「こうだ」と思っている、
理想的なもの、追いかけみたい憧れのようなもの、
継続していきたいと思っているものは、
実質的には何も変わらない。
だが、人につい漏らしたことも、これまた本心。
だとすると、この大きな(大それたとも言う)ものと、
小さな本音の関係は、
どういうものだろうと考えたとき、
「綻(ほころ)び」という言葉が出てきた。
綻びが出来るのは、
開き直りでもなんでもなく、
生々しく生きているんだから、仕方ない。
大切なのは、
その綻びにどう対処していくかだとか、
「大きな志」を、
矛盾があっても矛盾なく、
その胸の泉の底で、揺らめいた水の向こうに、
確認できるかどうかだ。
小さいからと、ホッタラカシにしているうちに、
ある段階から、なし崩し的に破れやしないか。
今のうちに当て布を探して、みっともなくても、
縫い合わせる方法はないのか。
具体的には、どういうことをすればいいのか。
誰かに自分の見方を変えられても、
やはり黙って、前を見据えることができるのかどうか。
そんなことなんじゃないのか、と。
★
ただねただね。
背景には、
そういう流れがあったとしても、
言葉的には
「『大きな志』たぁ、随分、大きく出ましたね」
と、自分にツッコミたくなるような気持ちが
なかった訳ではない。
自分が思っているイメージよりも、
かなりデカメな言葉を持ってきたよな、という感じは、
否めなくて、
実は人に読んでもらうにあたり、
肝を冷やしていたというか。
心臓が痛かったというか……。
「小さく漏れた/本音は」の対として『大きい』系の言葉を入れたいぞ」
という、
『言葉のアヤ』的なところが、直接的な動機だったし。
自分が、言葉に追いついていない。
やっぱり、そこが読み手に伝わったのか、
そこが一番、この歌を難解にした原因かな、と、
コメントを聞きながら思った。
言葉遊びがすぎて、
全く思っていない言葉を、使ったっていうわけではないんだけどね。
……って、いうのも、
芦屋歌会の時には、
なんとなく言えなかったんだけど、
間接的には、
草壁主宰を見ていて思うことでもあったの。
かなり稀なんだけど、
主宰に対して、
「え~!?」と思うことがあるし、
「ちょっとそれはどういうこと!?」と、
素朴に思うこともある。
が、まぁ、
ずーっとしばらく見ていると、
考え方の基本は変わっていないんだなぁってことは、
なんとなくわかってくる(←なんとなくだけど・笑)。
「大きな志」を持つ人の綻びは、
大きく見えるなぁ~と、のんきに思ったりして。
多分、頻繁に会わないし、会話もしないから、
「綻び」と呼べる程度で済んでいるのかもしれないが(笑)
だから、
主観的な関わりで「大きな志」と詠うと、
「きゃ~!恥ずかしい~!」と身の縮む思いがするし、
客観的な距離を持って「大きな志」と詠むと、
そんなに不自然とは自分の中では感じない。
読み手からの、「具体的に」という指摘は、
ある意味的確かだな、と思うけれど、
この言葉で作者の思いを突き止めていくという行為よりは、
「自分にとっての『大きな志』ってなんだろう……
綻びが出来たときって、どんなんだっただろう」とか、
そっちのほうへ、
気持ちを引き寄せて、読んでもらったほうが、
作者としてはありがたかったけど、
私と読み手の間の「大きな志」という言葉のイメージが、
かけ離れすぎてて、
私が思うように多義的に機能してくれなかったようだった。
そっちの方向へ持って行けれなかったのは、
この歌の力不足なところだったかもしれないと、
思っている。
読まれた歌は、
読まれたまんまに拡がっていくこともあれば、
留まってしまうこともある。
せめて、
今の私自身にフィットしていない「大きな志」という言葉が、
「大風呂敷」に変貌しないように、
私は
地道に、日々こつこつと、
綻びを縫い合わせながら、
言葉に追いつくように、拡げていきたいです。チクチク。
★
芦屋歌会は、全国歌会の歌の締切日の前日だった。
二次会では、参加するのかしないのか。
歌は送ったか、まだなのか。
そんな話が飛び交った。
そして、誰からともなく、
「飛行機のチケットはもう取った?」
という話が出てきた。
その時私は、いや、私たちは、
何にも動いちゃいなかった。
という話は、また後日。
あつ~い!!
やはり息子さんや娘さん、お孫さんが、
帰省してきているなどのご事情が、
シーズン的におありのようで、
人数が少なめでした。
そして、歌も「夏」「蝉」「戦争」関連に
集中していたような気が。
暑さは、思考や感受性を萎えさせますなぁ~。
が、今回の私の歌は、
別に夏に作った歌でもなく、
そんな言い訳が通用しないんですけどね(笑)
歌、お披露目。
★
ついつい口を
滑らした
小さく漏れた
本音は
大きな志の 綻び
「最初の2行が、安易な表現」
「『小さく漏れた本音=大きな志』?
内に秘めていたのに、
ついつい、信頼関係がない人に
言ってしまったってこと?」
「いやいや、『大きな志の綻び=小さな本音』
ってことなんじゃないの?
志があるにはあるんだけれど、本音がでたってことで」
「この、『大きな志』って、なんなんでしょうかねぇ……
もうちょっと具体的に……」
と、やや難解だったようでございます××。
いろんな要素から抽出したんですけれど、
直接的なきっかけは、
歌会のときではなかったけれど、
1対1で、第三者の歌のお話をしていて、
その人の歌を非難がましくしゃべった自分を
後悔して。
真剣であるほど、
激しいジレンマを抱えることは、
避けきれないと思っているけれど、
自制心がきかず、
その人の人格を否定しているような、
厳しい口調があったな、と。
「その漏れた本音は、お前の本心すべてか?」
という、自問自答から生まれた歌。
★
自分が「こうだ」と思っている、
理想的なもの、追いかけみたい憧れのようなもの、
継続していきたいと思っているものは、
実質的には何も変わらない。
だが、人につい漏らしたことも、これまた本心。
だとすると、この大きな(大それたとも言う)ものと、
小さな本音の関係は、
どういうものだろうと考えたとき、
「綻(ほころ)び」という言葉が出てきた。
綻びが出来るのは、
開き直りでもなんでもなく、
生々しく生きているんだから、仕方ない。
大切なのは、
その綻びにどう対処していくかだとか、
「大きな志」を、
矛盾があっても矛盾なく、
その胸の泉の底で、揺らめいた水の向こうに、
確認できるかどうかだ。
小さいからと、ホッタラカシにしているうちに、
ある段階から、なし崩し的に破れやしないか。
今のうちに当て布を探して、みっともなくても、
縫い合わせる方法はないのか。
具体的には、どういうことをすればいいのか。
誰かに自分の見方を変えられても、
やはり黙って、前を見据えることができるのかどうか。
そんなことなんじゃないのか、と。
★
ただねただね。
背景には、
そういう流れがあったとしても、
言葉的には
「『大きな志』たぁ、随分、大きく出ましたね」
と、自分にツッコミたくなるような気持ちが
なかった訳ではない。
自分が思っているイメージよりも、
かなりデカメな言葉を持ってきたよな、という感じは、
否めなくて、
実は人に読んでもらうにあたり、
肝を冷やしていたというか。
心臓が痛かったというか……。
「小さく漏れた/本音は」の対として『大きい』系の言葉を入れたいぞ」
という、
『言葉のアヤ』的なところが、直接的な動機だったし。
自分が、言葉に追いついていない。
やっぱり、そこが読み手に伝わったのか、
そこが一番、この歌を難解にした原因かな、と、
コメントを聞きながら思った。
言葉遊びがすぎて、
全く思っていない言葉を、使ったっていうわけではないんだけどね。
……って、いうのも、
芦屋歌会の時には、
なんとなく言えなかったんだけど、
間接的には、
草壁主宰を見ていて思うことでもあったの。
かなり稀なんだけど、
主宰に対して、
「え~!?」と思うことがあるし、
「ちょっとそれはどういうこと!?」と、
素朴に思うこともある。
が、まぁ、
ずーっとしばらく見ていると、
考え方の基本は変わっていないんだなぁってことは、
なんとなくわかってくる(←なんとなくだけど・笑)。
「大きな志」を持つ人の綻びは、
大きく見えるなぁ~と、のんきに思ったりして。
多分、頻繁に会わないし、会話もしないから、
「綻び」と呼べる程度で済んでいるのかもしれないが(笑)
だから、
主観的な関わりで「大きな志」と詠うと、
「きゃ~!恥ずかしい~!」と身の縮む思いがするし、
客観的な距離を持って「大きな志」と詠むと、
そんなに不自然とは自分の中では感じない。
読み手からの、「具体的に」という指摘は、
ある意味的確かだな、と思うけれど、
この言葉で作者の思いを突き止めていくという行為よりは、
「自分にとっての『大きな志』ってなんだろう……
綻びが出来たときって、どんなんだっただろう」とか、
そっちのほうへ、
気持ちを引き寄せて、読んでもらったほうが、
作者としてはありがたかったけど、
私と読み手の間の「大きな志」という言葉のイメージが、
かけ離れすぎてて、
私が思うように多義的に機能してくれなかったようだった。
そっちの方向へ持って行けれなかったのは、
この歌の力不足なところだったかもしれないと、
思っている。
読まれた歌は、
読まれたまんまに拡がっていくこともあれば、
留まってしまうこともある。
せめて、
今の私自身にフィットしていない「大きな志」という言葉が、
「大風呂敷」に変貌しないように、
私は
地道に、日々こつこつと、
綻びを縫い合わせながら、
言葉に追いつくように、拡げていきたいです。チクチク。
★
芦屋歌会は、全国歌会の歌の締切日の前日だった。
二次会では、参加するのかしないのか。
歌は送ったか、まだなのか。
そんな話が飛び交った。
そして、誰からともなく、
「飛行機のチケットはもう取った?」
という話が出てきた。
その時私は、いや、私たちは、
何にも動いちゃいなかった。
という話は、また後日。
構成上の小さい大きいだとは解ったんだけどね。形容詞を( )でくくって、ついつい口を滑らした/漏れた本音は/志の綻び/と大掴みに解釈すれば良かったと思ったけれど、実際に言葉があるって凄いこと!!大きく漏れることって?小さな志って?なんて、小さい大きいという形容詞にに引っ張られて勝手に言葉が迷走してました。浮んでくる妄想を「モグラたたき」よろしく退治してはいたんだけど、頭の中は消化不良を起こしてました(笑)レポートも消化不良で、お許しあれ。
ブログの画面、文字も大きくなって見やすくなっていいわぁ~明後日の歌も出揃って、ほっとティータイムお邪魔しました~
はやいもので、もう、
この時の歌会から、一ヶ月が経つんですね~
……うん、でもまぁ、
この歌は、まだなんか足りないですよ。
多分、言葉そのものではないんですけど、
「自分」より先に歌のほうがあっちへ行っちゃったなぁという感じ。
あまり置いてきぼりを食らわないように、
気をつけたいです。