日々・ひび・ひひっ!

五行歌(一呼吸で読める長さを一行とした五行の歌)に関する話題を中心とした、稲田準子(いなだっち)の日々のこと。

金美羽さんに来てもらいました。

2009年07月23日 | 五行歌な日々
結局今回は実現しなかったけど、
次回は居酒屋さんでグダグダしたいと思った(笑)

金さんとお話しするときは、
お酒のあるシチュエーションがいい気がしました。

なかなか会う日にちや場所が決まらなかったので、
金さんは、私の自宅にご招待した。

基本、家の中を見られるのは嫌いだけど、
今はまだ、「自分の家だ」という実感が、
イマイチ足りてないので、
他人の家のように、お招きが出来た(今はもう無理かも……わはは)。

     ★

金さんとの話の話題は、多岐に渡った。

歌会のことはもちろん話をしたしたけど、
五行歌関係ばかりではなく、
このマンションを購入した決め手は何か、
とか、
金さんも疎遠になっている、
昨日お会いしてきた大西直子さんの話とか。

本当に、いろいろに。

一番印象に残ったのは、
『信仰』というディープな話だった。

『宗教』ではなく、『信仰』。

どちらかというと、
宗教を根源とした人間関係というか、
人間模様というか、そんなところ。

金さんの話の内容とは、
ズレているけれど、
自分にとっての『信仰』というものについて、
その後、ちらちらと、考えてみたりしている。

     ★

神さまなり仏さまなり、
なんでもいいんだけれど、
「神さま(仏さま) 対 自分(個人)」
というタテのつながりは、
アリだな、って思ったりすることがある。

生きていると、
不条理なことにぶつかる。
信じられないことが起こる。

それは、「奇跡」と呼ばれる、
素晴らしいものもあれば、
「悲劇」と呼ばれる、辛く苦しいものもある。

喜びでも悲しみでも、
なかなか胸に溶け込まず、
時間がかかったり、
場合によっては、苦痛を伴ったりする。

そこには今までの文脈では読みきれない、
自分ひとりの力では認識しきれない、
「矛盾」があるからだ。

「努力・才能」に理由を求めるには、
他と比較すればまだまだ足りないのに、
その幸運がやってきたり、

「犯罪・暴力」とは縁遠い生活をしてきたのに、
そういうものを被って、
やり場のない怒りとか、生きる力を失うとか、
そういうことが、あったりする。

で、人って、そういう矛盾を、
矛盾のまま抱えて生きるのは、できないものだ。

だから何らかで折り合いをつけて、
前に進もうとする。

風水だとか、星座だとか、
スピリチュアルなものだとか、
そんな原因追求から、

生きる場所を変えてみるだとか、
仕事を変えてみるだとか、
そんな能動的行動で獲得する方法など含め、

全ての選択肢の一つとして、
「神さま・仏さま」という、
宗教的な選択もアリだよな、って思っていたりする。

客観的には、
「え?それ信じるの?」って思うことでも、だ。
いわしの頭でも、だ。

おそらく私は、
「困ったときだけ神頼み」的信心は持っていると自覚する。

つまり、前に進めないほど、
「矛盾」を抱えていると、
「胸の中の神さま」みたいな、
漠然としたものには、
胸の中で手を合わせているんじゃないかと思う。

が、その「矛盾」から解き放たれると、
そのとたんに、
「神さま・仏さま」を意識する生活をしないし、
望まない。

そんな薄情さも自覚する。

「矛盾」の意識から開放されたら、
「神さま・仏さま」も胸の中で永続的に維持しない。

開放されたときの、言いようのない、
涙を流した、あの情動でさえも、
記憶の痕跡にはなって、身勝手に、忘却していく。

しかし、もしも、
その忘却していくのを惜しんだ場合、「信仰」として、
発展していくのかなって、思ったのだ。

     ★

ひとりでは忘却していく。
あんなに苦しんでいたのに。あんなに解放されたのに。

しかし、沢山の同じような経験をした人と、
出会い続け、語り続けていくことで、
そのありがたさを忘れないように機能するシステムが、
「信仰」の原型なのかな、と。

「信仰」は、宗教の膝元で、
ヨコに繋がっていくベクトルを持っている。

で、「信仰」がいいように機能すれば、
セーフティネットのように、
ひとつの胸の小さな綻びから、暴走を始めてしまう、
ちっぽけな人間を救う方へ導くだろう。

だが、悪いように機能すれば、
重い鎖のように、
人間を洗脳し、抑圧し、自由を奪う。

「神さま・仏さま」が名ばかりになる。

で、私は、
セーフティネットのように機能していても、
重い鎖の状態になっていても、
「信仰」の中にはいたくないな、と思ったりする。

自己都合での、
「神さま・仏さま」とのタテの関係性はいいんだけど、
その膝元のヨコの関係性は、
何か生臭さを感じて近づきたくない。

ヨコの関係は、ヤダ。
タテの関係は、まぁ持ってていいんじゃない?ぐらいの価値観。

で、これは私の特別な感覚かと言えば、
そうではなくて、
今の一般的な人っていうのは、
私と同じくらいの距離感で、
「宗教」や「信仰」を考えているんじゃないかな、
って思っているんだけれど。

もちろん、
昔も今も変わらずに、
ヨコの関係に、熱狂的になる人が存在するっていうのも、
理解はしているんだけれど。

あぁ、とすると、ひょっとして。

     ★

最近よく聞かれるようになった、
有名・無名の寺社仏閣で、
仏像などが盗まれるっていうのは、
「神さま・仏さま」とのタテの関係に、
熱狂的になってしまうことも、
原因のひとつなのかな、と今ふと思った。

いや、まぁね、
美術品としての、お金的な盗難もありますよ。
あるけれど、
仏像などを、
所有しようとした人も確かいましたよね。

あれなんて、
ヨコの関係……つまり人々の「信仰」というものが、
目に入っていないから、所有しようなんて発想が生まれ、
行動を起こすわけで。

例え、祠に鍵がかかっていなくても、
その地元で大切にされているのは、自明のことで。

そんなことが見えなくなるほど、盲目になる人がいるようになって。

仏像を盗むっていうのは、
ヨコへの意識って皆無でしょ?

「他人もまた、自分と同じように、その仏像を信仰している」
っていう認識が、皆無でしょ?

そういう、今いる人間に対してだけじゃなく、
歴史の重みとか、伝統とか、そういう見えないものが、
本当に見えてないからできることでしょ?

「教え(教義)」というものを、
受け取るかどうかは、別として、
宗教(仏像)は、そこにあって、
そこにあるだけで、
何かを与え続けるものであって、
決して、一個人には、奪えるものではなかったのに。

信仰にハマるのと、仏像を盗むのとでは、
後者の方が、なんだか、震撼する。

根っこには近いものがある気もするけれど、
後者の方が、ぞっとする。

歴史や時間の流れ、人々の想いが見えない人の出現を、
恐く思う。

奪い続けることで、安らぎを得るなんてこと、聞いたことない。
略奪は、略奪しか生まない。

集団による信仰も、対一個人における信心も、
どこかで「いい加減さ」を持たないと、
頂上のない螺旋階段を登るばかりなんじゃないか。

突き詰めた先にある「いい加減さ」は、
蓮の花を遊ばせているほどの、湖。
かえるなんかも集まり始め。

やがて、ひとつのものにとらわれない、
湖への道も忘れて、目の前のことに必死になって。

でも、存在だけは忘れられない、湖が胸にあれば、
いつだって「いい加減」なところで、
思いつめるのは、終わりを迎える。

と、いうことは、「いい加減さ」とは、「境地」のことか?
え?そんなオチでいいのかしら?

……この文章が、どこへ行きたがってるのか、
わからなくなってきました(笑)変なところへ飛躍しちゃった。えへへ。

という訳で(?)、
まさに、「いい加減」なところで、終わります。

金さんとのお話が、
有意義なもので、
私がとても潤ったとわかっていただけたら(わかりにくいぞ!)、
幸いです。

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