日々・ひび・ひひっ!

五行歌(一呼吸で読める長さを一行とした五行の歌)に関する話題を中心とした、稲田準子(いなだっち)の日々のこと。

2007年全国大会in阿蘇⑤~気にかかった歌編~

2007年10月27日 | 五行歌な日々
この前の東大阪歌会でも、
この全国歌会の歌の冊子を持っていっていた。

その二次会で、
隣に座った須賀知子さんに、
「私、この歌に3点つけたんですよ」と、
こっそり見せる。

前にブログでも書いた、122番、

       自ら命を絶った
       友の棺の前で
       杯を投げつけ泣き叫んでいた君よ
       ありがとう
       君がやらなきゃ俺がした  森山岩雄


須賀さんは、最初点数を入れようと思っていたのだそうだ。
だけど、繰り返し読んでいくうちに、点数を入れなかった、と。

簡単に言うと、
五行目「君がやらなきゃ俺がした」に疑問を持ったのだそうだ。
「君もやったけど、あなたはしなかったの?
あなただって、してもよかったんじゃない?」
そういう気持ちになったんだそうだ。

あぁ~でも確かにそうかもぉ~。
と、須賀さんの話を聞いて、自分のヨミの甘さを痛感したりして(笑)

私は逆に、最初この歌は気にならなかった。

だけど、だんだん、
この歌の中にこもっている「熱さ」のようなものに、
惹かれてしまっていた。

     ★

部屋割りの関係で、
樹、楽人さん、ほしかわさんが3人部屋になり、
私、純ちん、稲本英さんが、
隣の部屋になった。

ウラ歌会前に、お風呂に入ってしまいたかったけど、
純ちんに鍵を預けていたので、私は自分の部屋にいけない。

樹らが、お風呂へ行く準備をしている中、
私は「気づかないかもしれないけどなぁ」と思いながら、
純ちんに、鍵のことのメールを打つ。

幸いにも、純ちんはメールに気がついてくれた。

そして、部屋に戻って、お風呂の準備を整えて、
純ちんと樹らの部屋に行くと、
彼女ら3人に加えて、須賀さんが来られていて、
上記の歌について、ウラ歌会が展開されていた(笑)

須賀さんは、最後の最後で入れなかったこの歌一首だけでも、
じっくり話したかったようで。

須賀さんは何かとひっぱりだこになるだろうから、
ウラ歌会の参加は無理だろうと思っていた私にとって、
それはとても嬉しいことで(笑)

純ちんと再び部屋に戻って、歌の冊子を持ってくる。
風呂を気にしつつ、なだれ込み(笑)

     ★

森山岩雄さんという方は、
九州のある五行歌人さんの学校での先輩に当たる方なのだそうだ。

なので、まだ会員という訳でもなく、
自発的に五行歌をやっているわけではないのだそうだ。

懇親会にも、いなかったんじゃないかな、多分。

ほしかわさんが、グループ歌会で同席だったそうで、
作者さんのお話を教えてもらったところ、

自分が若い頃に、お友達が自殺して、
このことが、
ご自身が年を重ねてきた今でも、
ずっと心に残っているとのことで。

だから、歌の完成度がどうのこうのと、
本来は触れてはいけない歌なんだろうな、と思う。

言葉的には、
「なんで四行目は『ありがとう』?」というのが出たけど、
例えそれを、
他者が「なんで?」と思ったとしても、
そう作者が思ったのだから、それが事実なのだから、
それで受け入れるしかないのだろう。

その作者の気持ちに正誤をつけるつもりは全くないが、
その心情を慮りながら、
展開していった話だと思っているので、
願わくば、
ここに以下の様々な意見を書くことを、お許しいただきたい。

     ★

最初、須賀さんは、
「『ありがとう』ではなく『ごめんな』だったら、まだわかるのよ」
と、言った。

大きな世間一般的なところに立脚すれば、
杯を投げた友というのは死者を冒涜した逸脱行動だ。

つまり、杯を投げた友というのは、
非難されるべき行動をとったのだ。

その非難されるべき行動をした友に対して、
『ありがとう』という感謝の意に値する、言葉を差し出した作者。

同じ気持ちでありながら、
非難されようが行動した「君」。行動しなかった作者。

「君」がやらなければ、「俺」がしたんだろうけど、
「君」がやったから、「俺」はしなかった。

本当に?

「君」がやらなかったら「俺」は本当に杯を投げた?

『ありがとう』という言葉が、
フェイクのようにこだまする。

     ★

ただ私は、単純に『ありがとう』の意に共感した。

この作者は、「君」に対しての言葉(ありがとう)を使いながら、
感情は暴走してて、
気持ちは「自ら命を絶った友」に向いているのではないか。

この「ありがとう」は、
一見落ち着いているように見えるが、
とても暴走している感情の表れなのではないか。

……まぁこれは、言葉の意そのものからは全く離れた、
「そう感じた」としか言いようがない私の感覚なんだけど、
(ウラ歌会でも上手く言えなかったなぁ)

須賀さんに『ごめんな』という言葉を提示されたとき、
正直言ってあまりぴんと来なかったけど、
不思議なもので、同じ意なのに、
『悪かったな』だったら、わかると言った(なんでかねぇ~・笑)。

杯を投げた「君」に対して、感謝の言葉ではなく、
労いの、いたわりの言葉なら。

確かにそのほうが、
歌の中に一本の流れが出来上がるのかもしれない。

が……なんだろう?と胸の中でまだモヤモヤとする。

そうこう、そうこう、とこの一首に潜っているうちに、
なんのきっかけだか、
「もうとにかく、お風呂に入りに行かなくっちゃ!!」
ということで、一旦区切りをつけた。

お風呂から戻って、また仕切りなおしということで。

     ★

お風呂に入りにいって。
いや、お風呂に入ったからこそ。

私はますます、この歌のことについて考えていた。

作者はどうして、この歌を歌ったのだろう。
いや、もっと厳密に言えば、
どうして、この出来事が、ずっと心に残っていたのだろう。

そう思うと、結局、
「君」と同じように、
友の棺に、杯を投げることを、
しなかった(あるいはできなかった)からなんじゃないかな、と思った。

「ありがとう」という言葉には、
虚勢も混じっているのではないだろうか。

虚勢。
「感謝」という意の言葉。
ハリボテで防御しているような感覚。見栄。
そのそこはかと漂うズルさの匂い。

その弱さをも、私は直感的に共感したんじゃないだろうか。

だが、作者はずっと、その弱さも受け入れられずに。

「君」と同じように感情を真っ直ぐ
その時にぶつけられなかったから、
ずっと、パンドラの箱のように、
胸の中に残ってしまったんじゃないか。

だからこそ、歌にしたのか(できたのか)。

この歌は、いわゆる「吐露」の歌だ。

受け手がどう思うかというよりも、
作者にとっては、詠うことそのものが、
何よりも先ず、小さな大一歩(←わざと間違えた漢字にしてます)
だったのではないか。

だとしても。
リアクションなど、何も求めていなかったとしても。
あえて。

吐いたこの歌を、
いや、吐いたこの気持ちを、
どう受け止めてもらったら、
作者にとっての「癒し」になるのかな、と想像した。

「癒し」という言葉が適切でなければ、「中和」とでもいうか。

そう思ったとき、
共感性の高い私の感想より、
「あなたも投げたらよかったのよ」という思い方の、
須賀さんのほうが、この人は救われるのかもしれない、と思った。

この歌はノンフィクションだと思うけど、
作者にとって、この自殺した友にまつわることの中で、
この出来事は、象徴的な事実だったんじゃないか。

「自ら命を絶った友」のことで、
この作者はとても苦しんだのではないか。
自責色を濃くして。

噴出しきれなかった感情として。
マグマのように蠢いて。

共感されるより、人から責められるほうが、
ひょっとしたら(気持ち的に)救われるんじゃないだろうか。

そんなことを、
洗面器に、
シャンプーで泡だらけの髪を漂わせて、
洗い流そうとしていたつもりが、
洗面器に、
シャンプーで泡だらけの髪を漂わせているのに、
顔を洗顔しようとして、
「あ、あぶねぇ~!!」とハッとするほど、
考えていた(笑)

ま、いくら考えても所詮、人の心はわからないのだが。

奥底に見えるのは、どこまでいっても、
常に自分の思いの景色。

お風呂上り後のウラ歌会は、またにします。

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんばんは~ (水野沙羅)
2007-11-02 18:26:46
杯を投げたのは、自殺しやがって、馬鹿野郎!!という思いではないでしょうか。作者を含む、その場に居た友達は皆そう思っていて、だから、杯を投げた友達に、「ありがとう」なのでは!?
返信する
向き合う。 (いなだっち)
2007-11-04 09:47:37
そうですね。
上記に書いてあるように、
「ありがとう」という言葉の方向は、
杯を投げた「君」に向かっているけれど、
気持ちの向いてる方向は、
自殺した友達に対する「馬鹿野郎」
だったかと思われます。

私も最初、
水野さんと同じような解釈(いや、感覚ぐらいだな)
で3点だったんですけどね。

でも、いろんな見方があるもので。

あくまで「歌だけで」考えて、ですが、
言葉と気持ちの向きが違うことで、
「ねじれ」を感じる人もいるということです。

ただ、内面だけをその歌の中で見るのではなく、
「行動」という表面を見た場合。

その場に居たのは友達だけではないと思うんですね。

おそらく、ですけど、
その杯を投げた友達は、
投げっぱなしの行動では済まされなかったたでしょう。

行動をいさめられたり、羽交い絞めされたり、
引きずられて退場(?)させられたり、
したかもしれない(想像ですけど)。

ひとり、そういう風になった「君」に対して、
「ありがとう」と、言っているのだとしたら……。

違和感を持つ読み手はいると理解しました。

その理解に至るまでに、
私はうーんうーんと時間がかかったんですけどね(笑)。

そして、その上で、
思うのは。

友達ではなくてね、
作者自身は、
自らの行動で、
今まで、自殺した友達に向かって、
感情をぶつけたことはあるんだろうか、
って思ったりしたんです。

人がしたことで、というのではなく、
一対一に向き合って。

そういう向き合うことについて、
未消化な部分があるから、
詠ったのかな、と思ったりして。

何にも知らない私がいうのは、
お門違いなのかもしれませんが、
歌を書く行為が、
死んだ相手や、深い悲しみに、
向き合うことに繋がっていれば、
いいな、と思いました。
返信する