この前の東大阪歌会でも、
この全国歌会の歌の冊子を持っていっていた。
その二次会で、
隣に座った須賀知子さんに、
「私、この歌に3点つけたんですよ」と、
こっそり見せる。
前にブログでも書いた、122番、
自ら命を絶った
友の棺の前で
杯を投げつけ泣き叫んでいた君よ
ありがとう
君がやらなきゃ俺がした 森山岩雄
須賀さんは、最初点数を入れようと思っていたのだそうだ。
だけど、繰り返し読んでいくうちに、点数を入れなかった、と。
簡単に言うと、
五行目「君がやらなきゃ俺がした」に疑問を持ったのだそうだ。
「君もやったけど、あなたはしなかったの?
あなただって、してもよかったんじゃない?」
そういう気持ちになったんだそうだ。
あぁ~でも確かにそうかもぉ~。
と、須賀さんの話を聞いて、自分のヨミの甘さを痛感したりして(笑)
私は逆に、最初この歌は気にならなかった。
だけど、だんだん、
この歌の中にこもっている「熱さ」のようなものに、
惹かれてしまっていた。
★
部屋割りの関係で、
樹、楽人さん、ほしかわさんが3人部屋になり、
私、純ちん、稲本英さんが、
隣の部屋になった。
ウラ歌会前に、お風呂に入ってしまいたかったけど、
純ちんに鍵を預けていたので、私は自分の部屋にいけない。
樹らが、お風呂へ行く準備をしている中、
私は「気づかないかもしれないけどなぁ」と思いながら、
純ちんに、鍵のことのメールを打つ。
幸いにも、純ちんはメールに気がついてくれた。
そして、部屋に戻って、お風呂の準備を整えて、
純ちんと樹らの部屋に行くと、
彼女ら3人に加えて、須賀さんが来られていて、
上記の歌について、ウラ歌会が展開されていた(笑)
須賀さんは、最後の最後で入れなかったこの歌一首だけでも、
じっくり話したかったようで。
須賀さんは何かとひっぱりだこになるだろうから、
ウラ歌会の参加は無理だろうと思っていた私にとって、
それはとても嬉しいことで(笑)
純ちんと再び部屋に戻って、歌の冊子を持ってくる。
風呂を気にしつつ、なだれ込み(笑)
★
森山岩雄さんという方は、
九州のある五行歌人さんの学校での先輩に当たる方なのだそうだ。
なので、まだ会員という訳でもなく、
自発的に五行歌をやっているわけではないのだそうだ。
懇親会にも、いなかったんじゃないかな、多分。
ほしかわさんが、グループ歌会で同席だったそうで、
作者さんのお話を教えてもらったところ、
自分が若い頃に、お友達が自殺して、
このことが、
ご自身が年を重ねてきた今でも、
ずっと心に残っているとのことで。
だから、歌の完成度がどうのこうのと、
本来は触れてはいけない歌なんだろうな、と思う。
言葉的には、
「なんで四行目は『ありがとう』?」というのが出たけど、
例えそれを、
他者が「なんで?」と思ったとしても、
そう作者が思ったのだから、それが事実なのだから、
それで受け入れるしかないのだろう。
その作者の気持ちに正誤をつけるつもりは全くないが、
その心情を慮りながら、
展開していった話だと思っているので、
願わくば、
ここに以下の様々な意見を書くことを、お許しいただきたい。
★
最初、須賀さんは、
「『ありがとう』ではなく『ごめんな』だったら、まだわかるのよ」
と、言った。
大きな世間一般的なところに立脚すれば、
杯を投げた友というのは死者を冒涜した逸脱行動だ。
つまり、杯を投げた友というのは、
非難されるべき行動をとったのだ。
その非難されるべき行動をした友に対して、
『ありがとう』という感謝の意に値する、言葉を差し出した作者。
同じ気持ちでありながら、
非難されようが行動した「君」。行動しなかった作者。
「君」がやらなければ、「俺」がしたんだろうけど、
「君」がやったから、「俺」はしなかった。
本当に?
「君」がやらなかったら「俺」は本当に杯を投げた?
『ありがとう』という言葉が、
フェイクのようにこだまする。
★
ただ私は、単純に『ありがとう』の意に共感した。
この作者は、「君」に対しての言葉(ありがとう)を使いながら、
感情は暴走してて、
気持ちは「自ら命を絶った友」に向いているのではないか。
この「ありがとう」は、
一見落ち着いているように見えるが、
とても暴走している感情の表れなのではないか。
……まぁこれは、言葉の意そのものからは全く離れた、
「そう感じた」としか言いようがない私の感覚なんだけど、
(ウラ歌会でも上手く言えなかったなぁ)
須賀さんに『ごめんな』という言葉を提示されたとき、
正直言ってあまりぴんと来なかったけど、
不思議なもので、同じ意なのに、
『悪かったな』だったら、わかると言った(なんでかねぇ~・笑)。
杯を投げた「君」に対して、感謝の言葉ではなく、
労いの、いたわりの言葉なら。
確かにそのほうが、
歌の中に一本の流れが出来上がるのかもしれない。
が……なんだろう?と胸の中でまだモヤモヤとする。
そうこう、そうこう、とこの一首に潜っているうちに、
なんのきっかけだか、
「もうとにかく、お風呂に入りに行かなくっちゃ!!」
ということで、一旦区切りをつけた。
お風呂から戻って、また仕切りなおしということで。
★
お風呂に入りにいって。
いや、お風呂に入ったからこそ。
私はますます、この歌のことについて考えていた。
作者はどうして、この歌を歌ったのだろう。
いや、もっと厳密に言えば、
どうして、この出来事が、ずっと心に残っていたのだろう。
そう思うと、結局、
「君」と同じように、
友の棺に、杯を投げることを、
しなかった(あるいはできなかった)からなんじゃないかな、と思った。
「ありがとう」という言葉には、
虚勢も混じっているのではないだろうか。
虚勢。
「感謝」という意の言葉。
ハリボテで防御しているような感覚。見栄。
そのそこはかと漂うズルさの匂い。
その弱さをも、私は直感的に共感したんじゃないだろうか。
だが、作者はずっと、その弱さも受け入れられずに。
「君」と同じように感情を真っ直ぐ
その時にぶつけられなかったから、
ずっと、パンドラの箱のように、
胸の中に残ってしまったんじゃないか。
だからこそ、歌にしたのか(できたのか)。
この歌は、いわゆる「吐露」の歌だ。
受け手がどう思うかというよりも、
作者にとっては、詠うことそのものが、
何よりも先ず、小さな大一歩(←わざと間違えた漢字にしてます)
だったのではないか。
だとしても。
リアクションなど、何も求めていなかったとしても。
あえて。
吐いたこの歌を、
いや、吐いたこの気持ちを、
どう受け止めてもらったら、
作者にとっての「癒し」になるのかな、と想像した。
「癒し」という言葉が適切でなければ、「中和」とでもいうか。
そう思ったとき、
共感性の高い私の感想より、
「あなたも投げたらよかったのよ」という思い方の、
須賀さんのほうが、この人は救われるのかもしれない、と思った。
この歌はノンフィクションだと思うけど、
作者にとって、この自殺した友にまつわることの中で、
この出来事は、象徴的な事実だったんじゃないか。
「自ら命を絶った友」のことで、
この作者はとても苦しんだのではないか。
自責色を濃くして。
噴出しきれなかった感情として。
マグマのように蠢いて。
共感されるより、人から責められるほうが、
ひょっとしたら(気持ち的に)救われるんじゃないだろうか。
そんなことを、
洗面器に、
シャンプーで泡だらけの髪を漂わせて、
洗い流そうとしていたつもりが、
洗面器に、
シャンプーで泡だらけの髪を漂わせているのに、
顔を洗顔しようとして、
「あ、あぶねぇ~!!」とハッとするほど、
考えていた(笑)
ま、いくら考えても所詮、人の心はわからないのだが。
奥底に見えるのは、どこまでいっても、
常に自分の思いの景色。
お風呂上り後のウラ歌会は、またにします。
この全国歌会の歌の冊子を持っていっていた。
その二次会で、
隣に座った須賀知子さんに、
「私、この歌に3点つけたんですよ」と、
こっそり見せる。
前にブログでも書いた、122番、
自ら命を絶った
友の棺の前で
杯を投げつけ泣き叫んでいた君よ
ありがとう
君がやらなきゃ俺がした 森山岩雄
須賀さんは、最初点数を入れようと思っていたのだそうだ。
だけど、繰り返し読んでいくうちに、点数を入れなかった、と。
簡単に言うと、
五行目「君がやらなきゃ俺がした」に疑問を持ったのだそうだ。
「君もやったけど、あなたはしなかったの?
あなただって、してもよかったんじゃない?」
そういう気持ちになったんだそうだ。
あぁ~でも確かにそうかもぉ~。
と、須賀さんの話を聞いて、自分のヨミの甘さを痛感したりして(笑)
私は逆に、最初この歌は気にならなかった。
だけど、だんだん、
この歌の中にこもっている「熱さ」のようなものに、
惹かれてしまっていた。
★
部屋割りの関係で、
樹、楽人さん、ほしかわさんが3人部屋になり、
私、純ちん、稲本英さんが、
隣の部屋になった。
ウラ歌会前に、お風呂に入ってしまいたかったけど、
純ちんに鍵を預けていたので、私は自分の部屋にいけない。
樹らが、お風呂へ行く準備をしている中、
私は「気づかないかもしれないけどなぁ」と思いながら、
純ちんに、鍵のことのメールを打つ。
幸いにも、純ちんはメールに気がついてくれた。
そして、部屋に戻って、お風呂の準備を整えて、
純ちんと樹らの部屋に行くと、
彼女ら3人に加えて、須賀さんが来られていて、
上記の歌について、ウラ歌会が展開されていた(笑)
須賀さんは、最後の最後で入れなかったこの歌一首だけでも、
じっくり話したかったようで。
須賀さんは何かとひっぱりだこになるだろうから、
ウラ歌会の参加は無理だろうと思っていた私にとって、
それはとても嬉しいことで(笑)
純ちんと再び部屋に戻って、歌の冊子を持ってくる。
風呂を気にしつつ、なだれ込み(笑)
★
森山岩雄さんという方は、
九州のある五行歌人さんの学校での先輩に当たる方なのだそうだ。
なので、まだ会員という訳でもなく、
自発的に五行歌をやっているわけではないのだそうだ。
懇親会にも、いなかったんじゃないかな、多分。
ほしかわさんが、グループ歌会で同席だったそうで、
作者さんのお話を教えてもらったところ、
自分が若い頃に、お友達が自殺して、
このことが、
ご自身が年を重ねてきた今でも、
ずっと心に残っているとのことで。
だから、歌の完成度がどうのこうのと、
本来は触れてはいけない歌なんだろうな、と思う。
言葉的には、
「なんで四行目は『ありがとう』?」というのが出たけど、
例えそれを、
他者が「なんで?」と思ったとしても、
そう作者が思ったのだから、それが事実なのだから、
それで受け入れるしかないのだろう。
その作者の気持ちに正誤をつけるつもりは全くないが、
その心情を慮りながら、
展開していった話だと思っているので、
願わくば、
ここに以下の様々な意見を書くことを、お許しいただきたい。
★
最初、須賀さんは、
「『ありがとう』ではなく『ごめんな』だったら、まだわかるのよ」
と、言った。
大きな世間一般的なところに立脚すれば、
杯を投げた友というのは死者を冒涜した逸脱行動だ。
つまり、杯を投げた友というのは、
非難されるべき行動をとったのだ。
その非難されるべき行動をした友に対して、
『ありがとう』という感謝の意に値する、言葉を差し出した作者。
同じ気持ちでありながら、
非難されようが行動した「君」。行動しなかった作者。
「君」がやらなければ、「俺」がしたんだろうけど、
「君」がやったから、「俺」はしなかった。
本当に?
「君」がやらなかったら「俺」は本当に杯を投げた?
『ありがとう』という言葉が、
フェイクのようにこだまする。
★
ただ私は、単純に『ありがとう』の意に共感した。
この作者は、「君」に対しての言葉(ありがとう)を使いながら、
感情は暴走してて、
気持ちは「自ら命を絶った友」に向いているのではないか。
この「ありがとう」は、
一見落ち着いているように見えるが、
とても暴走している感情の表れなのではないか。
……まぁこれは、言葉の意そのものからは全く離れた、
「そう感じた」としか言いようがない私の感覚なんだけど、
(ウラ歌会でも上手く言えなかったなぁ)
須賀さんに『ごめんな』という言葉を提示されたとき、
正直言ってあまりぴんと来なかったけど、
不思議なもので、同じ意なのに、
『悪かったな』だったら、わかると言った(なんでかねぇ~・笑)。
杯を投げた「君」に対して、感謝の言葉ではなく、
労いの、いたわりの言葉なら。
確かにそのほうが、
歌の中に一本の流れが出来上がるのかもしれない。
が……なんだろう?と胸の中でまだモヤモヤとする。
そうこう、そうこう、とこの一首に潜っているうちに、
なんのきっかけだか、
「もうとにかく、お風呂に入りに行かなくっちゃ!!」
ということで、一旦区切りをつけた。
お風呂から戻って、また仕切りなおしということで。
★
お風呂に入りにいって。
いや、お風呂に入ったからこそ。
私はますます、この歌のことについて考えていた。
作者はどうして、この歌を歌ったのだろう。
いや、もっと厳密に言えば、
どうして、この出来事が、ずっと心に残っていたのだろう。
そう思うと、結局、
「君」と同じように、
友の棺に、杯を投げることを、
しなかった(あるいはできなかった)からなんじゃないかな、と思った。
「ありがとう」という言葉には、
虚勢も混じっているのではないだろうか。
虚勢。
「感謝」という意の言葉。
ハリボテで防御しているような感覚。見栄。
そのそこはかと漂うズルさの匂い。
その弱さをも、私は直感的に共感したんじゃないだろうか。
だが、作者はずっと、その弱さも受け入れられずに。
「君」と同じように感情を真っ直ぐ
その時にぶつけられなかったから、
ずっと、パンドラの箱のように、
胸の中に残ってしまったんじゃないか。
だからこそ、歌にしたのか(できたのか)。
この歌は、いわゆる「吐露」の歌だ。
受け手がどう思うかというよりも、
作者にとっては、詠うことそのものが、
何よりも先ず、小さな大一歩(←わざと間違えた漢字にしてます)
だったのではないか。
だとしても。
リアクションなど、何も求めていなかったとしても。
あえて。
吐いたこの歌を、
いや、吐いたこの気持ちを、
どう受け止めてもらったら、
作者にとっての「癒し」になるのかな、と想像した。
「癒し」という言葉が適切でなければ、「中和」とでもいうか。
そう思ったとき、
共感性の高い私の感想より、
「あなたも投げたらよかったのよ」という思い方の、
須賀さんのほうが、この人は救われるのかもしれない、と思った。
この歌はノンフィクションだと思うけど、
作者にとって、この自殺した友にまつわることの中で、
この出来事は、象徴的な事実だったんじゃないか。
「自ら命を絶った友」のことで、
この作者はとても苦しんだのではないか。
自責色を濃くして。
噴出しきれなかった感情として。
マグマのように蠢いて。
共感されるより、人から責められるほうが、
ひょっとしたら(気持ち的に)救われるんじゃないだろうか。
そんなことを、
洗面器に、
シャンプーで泡だらけの髪を漂わせて、
洗い流そうとしていたつもりが、
洗面器に、
シャンプーで泡だらけの髪を漂わせているのに、
顔を洗顔しようとして、
「あ、あぶねぇ~!!」とハッとするほど、
考えていた(笑)
ま、いくら考えても所詮、人の心はわからないのだが。
奥底に見えるのは、どこまでいっても、
常に自分の思いの景色。
お風呂上り後のウラ歌会は、またにします。
上記に書いてあるように、
「ありがとう」という言葉の方向は、
杯を投げた「君」に向かっているけれど、
気持ちの向いてる方向は、
自殺した友達に対する「馬鹿野郎」
だったかと思われます。
私も最初、
水野さんと同じような解釈(いや、感覚ぐらいだな)
で3点だったんですけどね。
でも、いろんな見方があるもので。
あくまで「歌だけで」考えて、ですが、
言葉と気持ちの向きが違うことで、
「ねじれ」を感じる人もいるということです。
ただ、内面だけをその歌の中で見るのではなく、
「行動」という表面を見た場合。
その場に居たのは友達だけではないと思うんですね。
おそらく、ですけど、
その杯を投げた友達は、
投げっぱなしの行動では済まされなかったたでしょう。
行動をいさめられたり、羽交い絞めされたり、
引きずられて退場(?)させられたり、
したかもしれない(想像ですけど)。
ひとり、そういう風になった「君」に対して、
「ありがとう」と、言っているのだとしたら……。
違和感を持つ読み手はいると理解しました。
その理解に至るまでに、
私はうーんうーんと時間がかかったんですけどね(笑)。
そして、その上で、
思うのは。
友達ではなくてね、
作者自身は、
自らの行動で、
今まで、自殺した友達に向かって、
感情をぶつけたことはあるんだろうか、
って思ったりしたんです。
人がしたことで、というのではなく、
一対一に向き合って。
そういう向き合うことについて、
未消化な部分があるから、
詠ったのかな、と思ったりして。
何にも知らない私がいうのは、
お門違いなのかもしれませんが、
歌を書く行為が、
死んだ相手や、深い悲しみに、
向き合うことに繋がっていれば、
いいな、と思いました。