日々・ひび・ひひっ!

五行歌(一呼吸で読める長さを一行とした五行の歌)に関する話題を中心とした、稲田準子(いなだっち)の日々のこと。

歌会で作者を見抜いたときは③

2007年04月05日 | 五行歌な日々
比較的、稲田作の歌は、
名前が書いていなくても、
何か、クセがあるのか、
結構見抜かれる。

だけれど、自分の歌会の場で、
見抜かれたことを主張されたことは、
あまりない。

思い出せるのは、はるか昔に、
私の歌で、
コメントの一番目に樹実を当てた際、
発言の途中に、
「ごめん……。作者がどうしてもわかるんだけど……」
と、言ってから、
続きを言われたことがあるくらいで。

あとは、
もともと、点数を入れても入れなくても、
コメントを求めるので、
自動的に、
「当てられない人が、作者」ということが、
わかりたくなくても、わかってきて、
途中から、
モロに言わないにしても、
親密感がドバっとアップして、
作者前提での発言に、
切り替わっていくということは、よくある。

つまり、
どうしても、作者前提に考えずにはいられなくなる、
状況に陥ることは、よくある。

が、「作者がわかったんですけれど」という、
「作者当て」の発言に、
あまり重要性を持たせていない気がする。

むしろ、自分が歌と向き合ったときの解釈に、
弊害を起こすから、
そんなことは、ご近所に迷惑だから(?)
コメントのときに、
強調しないでほしいという空気がある。

作者がわかっていても、
自分がどのくらい、
その歌を読んで飛べるのか

自分にとって、この歌はどうなのか
そういうことに、
歌会中は、集中しているように思える。

書き手側の思惑とは別に、
作者前提で歌について思うことは、
どうしようもなく自由だ。

だけど、あえて
それを手がかりにして読むか読まないかも、
また自由。

だが、作者前提で解釈を発言する行為は、
自由なことは自由だけれど、
それによって、
他の人々の想像に、
「作者」という制約を与えるという、
その不自由さは、
自覚しておいてほしいと、希望したくなる(あくまで希望です)。

どうせ言うなら、
その不自由さが、親密の共有や共感になるタイミングで、
言ってほしいと願いたくなる(あくまで、願いです)。

     ★

なので、思い出すと、
「今回の歌、稲田さんの歌だって、すぐにわかった」
というような発言は、
二次会でよく聞く発言だった。

私は、二次会でのこういう発言は、
結構嬉しかったりする。

ちなみに、
今回の歌会では、
(やはり二次会の席で)
まず、
「稲ちゃんの歌、今回はわからなかった」
と須賀さんが仰っていた。

……外れても、結構嬉しいのは、何故だろう(笑)

あと、三次会だったか、
楽人さんが、
「今回全体的にわからなくて、
稲田氏のもわからなかったけど(増田さんの歌かと思ってたそうです)
特に、ほしかわさんの歌が、須賀さんの歌だと思ってて、
意外だった」

というのもあったりした。

というわけで、
クドクドと、繰り返して書くけれど、
作者について、思うことは思うのだ。

そして、一番主張したいことではないにせよ、
言ってみたいぐらいの興味はあるのだ。

歌を読むという厳しさの中にいても、
徹底的に、シビアというわけでもないのだ。

どの作品が、どの作者なのか、
という予想は、
歌会という「公的な場所」ではせずに、
二次会という「私的な場所」でする傾向があるんだと、
思い出しているうちに気がついた。

代表である私がそれを強いたわけでもなく、
暗黙の了解で。

ありがたいなぁ、と思う。
そういうことが、成立していたのかぁ~と、ちょっとしみじみ。

すいません。手前味噌で(笑)

     ★

AQ歌会のときのことに、少し話を戻す。

私の歌の解釈の時、
おにとさん(←嬉しかったことなのでお名前出しますね)が、

「ミヤコ蝶々の舞台でね、
子どもからお金をもらった親がいて、
でもそれが、
親にしてみれば金額が少なくて、
『なんやこのはした金。もっとよこせ!!』と、
そのまま突っ返したっていう、
場面があるんだけれど、
それを思い出して、笑ってしまった」
(これって字面では、『えー!』と思うことだけど、
パンチの効いたユーモアな場面のことのようです)

というコメントを頂いた。
(私の歌は、ここを見てください)

はっきり言って、これはもう、
「そんな解釈があったのか!」と意表をつかれた。

それ以外の方々は、
多少の誤差はあれど、
作者の意を歌だけでかなり汲み取っていただいていた。
(↑これはこれでとても嬉しかったです)

おにとさんは、
作者の意を聞いて、
あまりにも解釈が違うということで、
謝罪されていたけれど、
私はとんでもないと思っている。

むしろ、この歌に、
別の命の輝きを、
与えてくださったと思っている。

歌を読むとは、どういうことだろう。
伝えたいことはなんなんだろう。

尽きることのない欲望と、出会いの連続です。

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6 コメント

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Unknown (悠木すみれ)
2007-04-09 00:23:15
うむ~。
何をどう書こうかと、頭の中グルグルしてますが、とりあえず3日間分全部読んだよ。と、お伝えしたくて足跡つけます。ペタ、ペタ。
返信する
足跡 (いなだっち)
2007-04-09 11:22:55
長々とした文章をお読みくださって、
ありがとうございましたm(_゛_)m

私の「違和感」をほどいていけば、
誰かに「違和感」(←ニュアンスが適切かわかりませんが)を与えていくのも当然で。

頭の中のグルグルは、
歌会の二次会のような、
いろんなところで、
人と会話をすれば、
きっとほぐされていきます。

ていうか、こういう話を、
私が二次会とかでするのが好きなので、
つい、そう思っちゃうんですけどね。

その上で、何かがすっきりし、
かつ、私に「教えちゃお!」となれば、
こちらでもかまいませんし、
個人メールでもかまいませんので、
送付してください。
(言うほどでもないや、も、もちろんアリですよ・笑)

この文章もまた「足跡」です。

私自身、
「なにを言ってんだかなぁ」と呆れ返ったり、
「やっぱこうだよな」と改めて確信したりしながら、
先へ先へと急ぎます。
返信する
ありがとうございました (しづく)
2007-04-10 09:36:59
ときどきは、稲田さんのような方がゲストにいらしてくれることの大切さを教えられました。
稲田さんがすくいあげてくれたことは、わたしもたぶんみんなも心のどこかで感じていてひっかかっていることなんだと思います。
わかっているけど、片付けられない部屋の隅のごちゃごちゃしたもののように。

わたしなんかいつもプリント係りなので、毎月がその葛藤にあります。作者が判っている上で、どう歌を読むか。作者の、歌の、伝えたい、訴えたいものってなんだろうか。その耳の澄ませる先に、ちろちろと「この作者」というささやきが、どこかで影響を及ぼしてるわけです。(きっと)

また、プリント係りでなくても、「わかった!」という気持ちは自然と発生してしまう。だってわかっちゃうんだもん。
その上で、歌会という場でどうふるまうか、どう解釈するかはそれぞれの自由裁量になっている。

歌会が無記名の投稿という意味をもう一度かみしめたい。作者のバックグランドまでわかったうえでの評しかでてこないのは、歌会として魅力に欠ける。いわゆる「まんねり」につながる
誰にどうというのではなく、自分へです。
返信する
万華鏡タイプ (いなだっち)
2007-04-10 14:29:19
東大阪歌会での話のメインは、
ここで書いてあるとおり、
私の「違和感」でしたけれど、
ブログ上で書くつもりでいたのは、
本当は、純ちゃんの歌の
ほしかわさんの解釈をメインに、
一日だけにして書くつもりでいました。

ところが、ほしかわさんの解釈を、
忘れはじめだしてて、
もっと言ってたような気がするけれど、
あぁ不安……と思っているうちに、
結局避けようと思っていた部分も、
掘り返さずにはいられなくなってしまいました。

AQの方々を非難した文章になっていないか、
それだけが、とても不安でした。

「ありがとうございました」なんて、
私こそが、しづくさんをはじめ、
他の方々に、頭を下げなければなりません。

AQの方々の寛大さを信じて、
記述させていただきました。ありがとうございました。

     ★

歌会で、人に見せる歌は、
鏡のようです。

作者の人物像をくっきりと写した、
姿見のようなものもあれば、

読んだ方々の経験や思慮深さ、
作者に対する親密な気持ち、思いやり、
そして、角度によっては、
「おごり」のようなものまで
奥のほうから写してくる
三面鏡のようなものもあります。

ミラーボールのように、
言葉ひとつひとつが、
めちゃくちゃな方向に光を放って、
意味がバラバラになって難解になるものもあれば、
意味は人々の中で一本化されるのだけど、
その解釈は多岐にわたっていて、
万華鏡のように
いくつもの模様を織り成すものもあったりして。

純ちゃんの歌は、
と、いうか、
作者を離れてあの歌の気質が、
私にはどうしても
「万華鏡タイプ」にしか思えなくて、
ところがすでに、
そんなことを思う私が、
もうすでに作者に気づき、その文脈にはまって、
心が揺れなくなったので、
実際のところわからなくなったのが惜しくって。

「万華鏡タイプ」でありながら、
かつ、
作者の意の元へも辿り付かせる歌というのが、
理想的な歌だと仮定した場合、

今回のこの歌が、
そこまで力ある歌であったかと聞かれれば、
そこまでは、行ってなかっただろうな、という、
正直な感想は持っていましたが
(ごめんね純ちん・笑)、

「姿見タイプ」として、成仏(?)させるには、
言葉をとても練ったような
響き?作者の手垢?を感じたので、
どうしても、旅をさせてあげたかった。
(の、割には、2月に持っていくのを忘れましたが・笑)

私よりもっと白い人に、会わせてあげたかった。

そして、その歌の可能性を、
純ちゃんに伝え返してあげたかった。

     ★

しづくさんのコメントに返す、
コメントになっていませんね。ごめんなさい(笑)

私にとって、
新幹線に乗って、宿泊先を探して、
AQ歌会へ伺うことは、
「消費」というより、
自分に対する「投資」です。
今回は特にそういう結果になったと思っています。

初心に立ち変えって。

自分の歌会に、この経験を、
活かしていきたいと思います。
返信する
心より… ()
2007-04-14 21:04:41
「ありがとう」がいいたくて、書きます。
ここに三回シリーズで書いてくださったこと、
なんていうか、ほんとうに嬉しかったです。
で、なぜすぐコメントできなかったか…というと、

>そこまで力ある歌であったかと聞かれれば、
>そこまでは、行ってなかっただろうな、

これに尽きます。
コメント欄のこの言葉を読んでようやく、
私もコエを発することができる!と思いました。
で、今書いているわけですが。

自作をどう解釈されても構わない、そう思って出しているにも関らず、
ほしかわさんの解釈はへえー!!とまるで他人事みたいに感動しちゃって、
嬉しさみたいなものを超えていました。
その原因は、そう、ちからのない歌だと自覚があるからです。

適確に、自作の難点を指摘されると、
極上に誉め殺される!のと同じくらい嬉しいものですね。
もっと言えば、ヘタに誉められるより嬉しい。
引用のご指摘はそれでした。
ありがとです。

適確に難点を指摘することのむずかしさは、
この上ないと思っています。
それができちゃういなださんを、尊敬します。
返信する
感謝! (いなだっち)
2007-04-15 06:57:29
この歌にまつわることに、
触れようと思ったら、
まず、私自身が一番強く
ひっかかったところから、
「書く(伝える)」という行為で、
感情を浄化させないと、
思った以上に書くのが、難しかったです。

ですから、
もともと純ちんにOKをもらった文脈とは、
大幅にずれ込んだ文章になっていたので、
「何あたしの歌を踏み台にして言うてるねん」
と、
大阪弁ではないにせよ(笑)、
思われているんではないかと、心配でした。

コメントをいただけたことだけで、
ほっとしました。ありがとうです。

また、
別の角度の思いを、
記述するステップを下さった、
しづくさんのコメントにも、
改めて感謝です。

あぁ、そうやって、だんだんと考えていくと、
きっかけとなった
ほしかわさん独自の解釈のつぶやきにも、
感謝だし、
熱く語ってくれた、楽人さんにも、
感謝だわ(笑)

もう、ついでだから、
地球にも感謝しとこおっと(笑)

     ★

歌会で人に見せる歌は、
鏡のようです。
……というのは、前のコメントにも書きましたが(笑)

私が純ちんの歌を「万華鏡タイプ」と思ったのに対して、
私がAQ歌会で出したお年玉の歌は、
「姿見タイプ」だと考えていました。

「稲田」という個人がわかりやすい歌、
という意味ではなくて、
「誰かわからないけれど、固有の出来事」という前提で
解釈される歌だろうな、と。

そういう予想を覆してくれたのが、
おにとさんの解釈でした。

こうやって、
作者を
爽快に打ち破ぶり、
破られるのが、
歌会の醍醐味だと思います。

力ない歌も、
また、
自分を、他人を、映しだす鏡。

反映されて、その次へ。

五行歌人のインタビューも、
読ませていただきました。

更なる水源純氏の展開を、
歌誌、歌会などを通じて、
楽しみにしていますし、応援しています。
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