日々・ひび・ひひっ!

五行歌(一呼吸で読める長さを一行とした五行の歌)に関する話題を中心とした、稲田準子(いなだっち)の日々のこと。

歌会で作者を見抜いたときは②

2007年04月04日 | 五行歌な日々
作者がわかってしまった意を、
コメントの段階で口にするということ。
作者前提で、
歌の解釈をしがちになるということ。

     ★

それは、AQ歌会の中での、
水源氏に対する親密感が、
年に一度、彼女と会うか会わないかの、
私らとでは、
違うからとも言える。

それは、それ故に、
作者の気持ちをおもんばかろうという
心情的な、温度差があるとも言える。

だから、一概には、
悪い現象だとは、決して言えない。

何人かの人が、固定して、
その歌会をとても親しみ深く、愛着を持って、
積極的に参加をし、
歌や参加された方々に対して、
心をリラックスさせている証かと思う。

だけど私は、
自分の作品を、
特に歌会という無記名で歌を提出する場では、
「稲田準子の作品」だという前提で、
可能な限り読まれたくないという
希望を持っているため、
やはり、
あまりにも作者前提で歌を読まれるのは、
複雑な気持ちになる。

それに、
作者が違う人だった場合、
「作者がわかる」という
枕詞をつけてから
コメントした人のコメントは、
前提が崩れてしまい、
おかしくなってしまうこともあるだろう。

だから、
歌会で作者前提で発言するのは、
慎重に胸の中で吟味した上で、
しなければならない、
あるいは、言わないまでも、
思わなければならないことかと思う。

     ★

二次会の席に戻ろう。

私の問題定義に対して、
楽人さんは、
以前、ある歌会の人々が、
団体さんで東大阪歌会にやってきたときにも、
私と似たような違和感をもった、
という話をし始めた。

歌会のコメントをするときに、
一番に言う事が、
「この作品は誰なのか(わかるorわからない)」
と言うことを冒頭に言っていたらしい。
その時は、ものすごく、違和感があったと。

そこの楽人さんの言うことに対しては、
ふむふむと、うなづきながら、聞いていた。

が、その次の話を聞いたとき、
「それを言ってしまうと、作者さんが歌を出しにくくなるんじゃないかえ……?」
と、思って、言い返したりした。

で、ここで彼女が何を言ったのか、
書けるほど、
思い出せないという状態で、
楽人さんにヒジョーに申し訳ない(笑)

あぁ、都合の悪いことは、忘れちゃうのね、私って(笑)

ただ、
彼女が言っていたことを、思い出そうとすればするほど、

「なぜ歌会参加者は、
作者を見抜けるようになるんだろう?」

と素朴に、疑問が湧いてきた。

考えてみた。

     ★

さて、
あなたが作者を見抜くのは(見抜けるのは)、何故?

①歌会のプリントを見ると、
 歌の内容より、
 作者が誰なのかを当てることに命を懸けるから(誇張してます許してね)。

②知っている作者の今の状況を詠われているから、
 わかりたくなくても、わかってしまうから(白紙で読みたくても読めないのよ)。

③作風に独自性があって、
 歌会に参加すればするほど、
 わかってくるようになったから(しかもなんかそれって、嬉しいし)。


では、あなたが、作品の講評をするとき、
「作者がわかってしまった」と、口走るのは何故?

A.だって、わかったから、得意な気分になっちゃったんだもーん!

B.作者が誰であるかを前提にしないと、
  自分がこの歌で思ったことを言えないからやむを得ず。

……もっとあるかもしれないけれど、とりあえず、このくらいにして。

     ★

人の気持ちというのは、
そう簡単に区画可能なものではない。

なので、いくつか挙げてみたけれど、
どれもすべて入り混じっていると、
答える人もいるかもしれない。

が、どの部分が一番色濃いか、ということはあると思う。

で、これらの大別で、
さらにもう一度、思い返したとき、
楽人さんがうちに来た、
ある歌会の団体さんは、
あくまで印象なんだけど、
①とA.が色濃く出てたかなぁと思う。
(歌そのもののコメントも、ちゃんと伺っていますけどね)

そして、私が見たAQでの
水源氏の歌に対しての反応って、
②と③の印象があるかな。

でも、②のほうが強いかも。

歌誌でもそうだし、
歌会のほうでも、その系統の(息子さんとの日々のこと)歌を、
水源氏は、
よく出されていているのではないかと思う。

だから、歌会の参加者は、
一ヶ月に一回だけの「歌会」だろうけれど、
積み重ねは、
一年に一度ぐらいぶらりとくる私とは、
差が出てくるのは当然で。

ピンっ!ときやすいのは当然で。

「この作品は水源氏と思わないほうが不自然だ」

という風になっても、それはそれで仕方のないことかもしれない。

逆にいうと、それだけ、
水源氏が、
息子さんとの日々のなんでもないことを、
詠うことによって、
人々になんらかの感動を、
呼び起こしてきた積み重ねの結果とも言えよう。

私が作者なら、
本音を言えば、ものすごく複雑なところなんだけどね(笑)

でも、その時のベストな歌を出した結果、
ある種の系統ばかりが出てしまう
(今の水源氏の歌で言うなら、息子さんの歌)
のだから仕方ない。

読み手のこと気にしすぎて、
一番人に聞いてほしい歌を避けて、
ウラをかいてやろうなんて
たくらみを持つほうが、
もっとよくない、と私は思う。

きっと水源氏は、
そういう選択も、
今まで、してこなかったのだろうと思う。

だけど、本当に、
白紙の状態で読んだ人には、
「中学生の女の子のちょっとした嫉妬心からの歌?」
という人がいたということを伝えたかったし、
なので発言したし、
(残念ながら、作者の想定範囲内でのヨミで、
意表をつくことはできませんでしたが・笑)

さらに地理的距離も、人間関係も、
離れている、
ほしかわさんの、
「双子の子どものうちの死んだほうの子の歌?」
という解釈は、
水源氏にとっては、どうだろう(縁起が悪いとは思うけどね・笑)。
作者の意は汲み取っていないかもしれないけれど。

私なら、かなり嬉しいユニークな読みだけれども。

私は読み手として、
作者にすら縛られることなく
読みたいと思っている価値観を持っているし、

書き手としても、
読み手には自由でいてほしいと願っているから、
こう思うんだろうけれどね。

いろんな価値感があるから、
この考え方を押し付けるつもりはないが、
これをきっかけにして、
それぞれに、自分を省みてほしいと願う。

歌を読むとはどういうことだろう。
伝わってほしいことはなんなんだろう。

     ★

ここまで書いて。

人のところばかりで、このことを考えるなよ、
と自分に突っ込みを入れたくなってきた(笑)

東大阪歌会では、
本当に、
作者前提の発言、
あるいは、作者前提の思い方を、
しないようになっているだろうか、と振り返りたくなってきた。

というわけで、
舞台を自分の歌会にして、つづけます。

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