日々・ひび・ひひっ!

五行歌(一呼吸で読める長さを一行とした五行の歌)に関する話題を中心とした、稲田準子(いなだっち)の日々のこと。

役者を感じました。

2006年03月14日 | TV・映画などの日々
朝5時半に起きたら、まだ雪が降っていた。

この家の前の写真でわかるだろうか。

結構暗かったんだけれど、
デジカメで撮ったら調節してくれて、
ついでに降っている雪もわかりにくくなってしまった
(ちなみに家の前の原っぱは、田んぼです。今の時期は、夕方、子供たちが元気よく遊んでいます)。

霧(きり)・霞(かすみ)・靄(もや)どころではない。
さぶい!さぶい!

と、いうわけで、図書館に行くこともなく。
村上春樹氏の本を探しに行ったわけでもなく。

やっぱり、興味は薄れていく。意地にもなりゃしなかった。

またリアルに興味が湧く日まで、さようならぁ~。

(おまけ:3月11日の画像と見比べると、その日がいかに霞が立ち込めていたかわかります。よろしければ、お楽しみくださいませ)

     ★

なのに今日の話は、昨日のこと。

お昼のフジTVの番組『いただきます』を、
偶然見ていた時のこと。

ゲストは、きたろうさん、小沢真珠さん、
あともうひとり誰か(ごめんなさい。忘れた……)だった。

で、小沢さんのとき、
今やっている連ドラの役どころが、
よく泣く女性らしく、
すぐ泣けるようになった、という話をしていた。

すると流れで、「今、泣いて下さい」ということになり、
小堺一機さんが、急に怒り出して、
小沢さんを責めだした。
それに続いて、きたろうさんと、もう一人の方が、
小沢さんにひどいことを言う。

小沢さん、ぐっと耐えている。
耐えているけれど、泣いていない。

すると、きたろうさんが、
今度は、小沢さんを許し始めた。
許して、やさしい言葉をかけはじめた。

程なく、小沢さんのあの大きな瞳が、
潤んできて、
やがて、一筋の涙がこぼれ落ちていった。

すごい。

小沢さん、ではなくて、きたろうさんが。

     ★

そうなのだ。

人って、
持続的に苦しめられたり、責められたりしている時って、
そのことだけでは、案外泣かないのだ。

泣けないのだ。

その一点に向かって、
全神経を尖らせて、対抗する、
心構えになるからだ。

威嚇はできても、泣くことはできない。

だが、逆に言うと、
その一点以外は、脆くなっている。

そしてその一点以外のところの中でも、
ものすごく脆くなっているピンポイントがあって、
それは、
本人も気がついていないところに、
いつの間にか出来ていて、

そのツボにはまれば、
いつもなら、なんでもない一言だとしても、
(しかも相手の動機がどうであっても)
泣けてしまう。

こういう、
『ひざかっくん』的構造で、
涙が出てくるのは、
性格とか、そういう問題ではなく、
動物的にすべての人間に備わってると思うのだけど。

ただ、いろんな要素がいくつも絡んでいるから、
ツボは常に動くし、
微妙なところにあるから、
容易に突くことができないだけで。

     ★

ただ、昨日の「いただきます」は、
ドラマですらない、特殊な状況だ。

人為的に、
「泣かせる」と課題を与えられ、
普段は友達でもなんでもない人の感情を
揺さぶらせたきたろうさんに、
ものすごい奥深さを感じてしまった。

役柄設定も、状況設定もなく、
バラエティ番組の明るい照明の中で、
「コレで泣かないなら、アレ!」と、
小沢さんの感受性を(本能的に)信じて
ものすごくグットなタイミングで、
やさしい言葉で、切り替えして泣かせた、
その役者のプロの技術に感動してしまった。

     ★

もちろん、小沢さんのような方も、
プロだなとは思う。

思うけど、「女優(俳優)」のプロだな、という印象で、
「役者」のプロという感じではなかった。

私の「女優(俳優)」さんというもののイメージって、
与えられたものに、敏感に反応し、
様々な豊かな表現ができる、というものだ。

だが、こういう特徴って、
すごく受け身で、
本人が持って生まれた資質とか才能のようなものが、
大半を決定付けているような気がするし、

「自分のことのように」さえ思えたらOK的な訓練で、
磨くことが出来る気がする。

例えば、
演劇・映画を見たり、読書をしたりするなどの、
擬似的なものでも、きっとそれは可能で、
本人さえその気なら、修得できたりする気がする。

そういう持って生まれた資質のようなものを、
伸ばす努力を怠らないのが「女優(俳優)」さんの、
プロのイメージであるのに対して、

資質よりも、
様々な人生経験の積み重ねを、
与えられた情報(役どころ)の中で、
瞬時に活かすことができるのが、
プロの「役者」さんのイメージだ。

本能的な表現力というよりも、
経験的な技術力を感じる。

役者でなければ、
こういうのは、
自分の人生を、
豊かに生きていくためだけに使われる
隠し持つ武器だ。

それを、赤の他人に駆使して、
メシの種にするということは、
他人には一見わからなくても(隠し持つ武器だからね)、
自分をさらすことだから、
ものすごく、
人として強くなくっちゃいけない気がする。

心がしなやかで、柔軟な強さが必要な気がする。

また、こういうのは、
演劇・映画鑑賞などの擬似的経験では、
養えない。

人生の中での様々な出来事の中で露呈した
自分の中の美しさや醜さを
かみ締めなければ、滋養にならない気がする。

そして、
「自分のことのように」思えなくても、
ある程度のところまで頭で理解して、
役どころのために、
自然に振舞うことが出来なくてはならなくて。

受け身だけでなく、思考的に、
感情に行動に、
自分に向かって、
働きかける力が必要な気がする。

感受性の豊かさだけでは、
あのきたろうさんの切り替えしというか、
機転はないと思う。

     ★

おそらく、TVであれ、舞台であれ、
人を演じることで、
食べていけてる人っていうのは、
実際には多分、
ここでいう「女優(俳優)的要素」と
「役者的要素」の
両方を持ち合わせている人が、
生き残っているんだろうな、という気がする。
(性格により偏り・バランスは違うと思うけどね)

どちらかにしか、目を向けることが出来ない人は、
途中でリタイアするしかないんじゃないか、
という気がする。

子役から大人の役者になるのは、
難しかったり、
自分の人生を切り売りして、磨耗して、
疲れて去るしかなくなるのは、
そういうことなんだと思う。

でも、普通に見ていて目立つのは、
どちらかというと、
「女優(俳優)的要素」だ。

今回でいうと、小沢真珠さんのほうだ。

だけど、何故か、
このきたろうさんの
切り返しは、
私に取っては、本当に鮮明だった。

おそらく、その機転の中に、
きたろうさんの人生の積み重ねが、
バラエティ番組という、
似つかわしくないところで、
駆使され、キラッと光ったから、
驚いたのだろう。

なんだか、敬意を表したい気持ちになった。

きたろうさん、
これからもご活躍を楽しみにしています。

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1 コメント

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TVタイトル (いなだっち)
2006-03-16 11:32:11
小堺さんのこの番組って、

ひょっとすると、

『いただきます』ではないのかも……。



『ごきげんよう』でしたっけ?



それとも、

『ごちそうさま』?



未だに、覚えられない。

覚えようともしていない(笑)
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