全国歌会の初日、さぁこれから始まりますという、宣言的ごあいさつの直前、ある方が、私の座席のところまで来て下さった。
私のブログを読んでくださっていて、
全国歌会の歌でいいと思った歌の二首の中に、
自分の歌があったので、驚いたという。
私も驚いた。
いや、ブログを読んでくださっているのは、
聞いていたけれど、
その歌と作者が結びつかなかったからだ。
しかも、草壁焔太賞に選ばれたという。
これも、驚いたけれど、
やっぱりな、とも思ったりして、
自分のことのように、嬉しかった。
その方の名は、小沢史さん。
激流の記憶
そのままの
鰭をたたんで (鰭:ひれ)
眠る
二尾
★
懇親会のとき、
主宰が壇上でこの歌について講評した時、
周囲がうるさくて、あまりよく聞こえなかった。
(↑ま、これは仕方がないです)
今回の歌の中で、主宰もこれが一番いいと言った時は、
「でしょ?でしょ?」と心の底からうなづいた。
ただ、講評の途中で、
「官能歌」がどうのこうのと聞こえて、
「何故にこの歌で、『官能歌』っちゅー言葉が出るんだべ?
史さんと知って、『官能歌』ではないから意外だったと、
言ってるんだべか?史さんは何を頷いているんだべか??」
と思っていた。
★
で、「全国歌会 in 福井①」でも書いてあるとおり、
今回の「裏・全国歌会夜の部」で、
関東の方三人ともお話が出来たのだが、
その中に、
小沢史さんもいて、
一室でこの歌についてのお話ができた。
この機会がなかったら、
私は、
作者がこの歌を「官能歌」として詠っただなんて、
知らないまま終わっていただろう。
史さんもまた、
「官能歌」と読まないで、
どんな風に私が読んで、
共感を得たのかなんて、
知らないまま終わっていたと思う。
そうなんです。官能歌なんです。作者の意図は。
私とIは、官能歌と思わずに加点していたので、
驚きまくりました。
★
誰かが、
「だって、『二尾』って書いてあるんだよ」
だから官能じゃないか、というニュアンスで、
言っていたが、
それを聞いたときですら、
「コトが終わった後に寝ている二人って、
二『尾』って単位で数えるのか??????」
と内心意味がわかんなくって混乱したほど。
私は「尾」ということを強調して言われたのかと思っていたが、
どうやら、「一尾」ではなく「二尾」だから、
官能を連想するじゃないか、という意味で言ったのだと、
かなり後になって、わかった。
★
私は、この歌の魚たちとは、
ベットの上で巡りあわなかった。
スーパーのパックに詰め合わせられた、
二尾として巡りあった。
(ちなみにIは、お皿の上だったらしいけど)
具体的には、季節柄、サンマだったのだが。
そういうナマの新鮮な魚の鰭の中に、
激流の記憶を見た、作者の洞察力に感服つかまつりました、
という気持ちになっていた。
てらてらと光った、フォルムではなく、
そこにちょこんとついている鰭が、
その魚の生きていた記憶を刻んでいる。
いや、作者がその洞察力で記憶を刻ませてあげたのだと思った。
焼き魚にすれば、
その鰭は真っ先に焼け焦げるだろう。
それは、その魚の記憶を、
その魚だけのものにしてあげる火葬の行為。
魚の思いが消えた肉体を、
私と家族の細胞の一部として刻みつけるのが、食すという行為。
命を受け継ぐということ、
しかし、
永遠に葬り去るものもあるということ、
死と再生のセパレートがとても鮮烈に胸を駆け巡ったのだ。
売られている魚のただの叙景歌としても、
とてもシブクて、十分に好きなのだが、
そう連想していったので、
私にはひどく深い歌に思えたのだ。
が、全然、そういう方向ではないそうで。でへへ(笑)
まぁ、でも、コトが終わった後も、
ある意味、
「死と再生」の状況だから、
すんごい大回りだけれど、
作者の意図しているところにも引っかかっているかもしれない。
してないか(笑)
★
史さんは、
どのように読まれてもいいというスタンスが、
おありのようなので、
今でもこう解釈した気持ちが、全然消えないし、消す気が起きない。
今でも自由に思わせてもらっている。
「裏・全国歌会夜の部」で、
大雑把にこの話をしたとき、
「だんだん、魚に見えてきた~」って言われて、
気持ちよかったです(笑)
ただ、焔太賞は、
「官能」だという解釈で与えたらしいので、
とって欲しいと思ってたけれど、
なんだか、複雑な気持ちがします(笑)でへへ。
明日は、自分の歌についてです。
私のブログを読んでくださっていて、
全国歌会の歌でいいと思った歌の二首の中に、
自分の歌があったので、驚いたという。
私も驚いた。
いや、ブログを読んでくださっているのは、
聞いていたけれど、
その歌と作者が結びつかなかったからだ。
しかも、草壁焔太賞に選ばれたという。
これも、驚いたけれど、
やっぱりな、とも思ったりして、
自分のことのように、嬉しかった。
その方の名は、小沢史さん。
激流の記憶
そのままの
鰭をたたんで (鰭:ひれ)
眠る
二尾
★
懇親会のとき、
主宰が壇上でこの歌について講評した時、
周囲がうるさくて、あまりよく聞こえなかった。
(↑ま、これは仕方がないです)
今回の歌の中で、主宰もこれが一番いいと言った時は、
「でしょ?でしょ?」と心の底からうなづいた。
ただ、講評の途中で、
「官能歌」がどうのこうのと聞こえて、
「何故にこの歌で、『官能歌』っちゅー言葉が出るんだべ?
史さんと知って、『官能歌』ではないから意外だったと、
言ってるんだべか?史さんは何を頷いているんだべか??」
と思っていた。
★
で、「全国歌会 in 福井①」でも書いてあるとおり、
今回の「裏・全国歌会夜の部」で、
関東の方三人ともお話が出来たのだが、
その中に、
小沢史さんもいて、
一室でこの歌についてのお話ができた。
この機会がなかったら、
私は、
作者がこの歌を「官能歌」として詠っただなんて、
知らないまま終わっていただろう。
史さんもまた、
「官能歌」と読まないで、
どんな風に私が読んで、
共感を得たのかなんて、
知らないまま終わっていたと思う。
そうなんです。官能歌なんです。作者の意図は。
私とIは、官能歌と思わずに加点していたので、
驚きまくりました。
★
誰かが、
「だって、『二尾』って書いてあるんだよ」
だから官能じゃないか、というニュアンスで、
言っていたが、
それを聞いたときですら、
「コトが終わった後に寝ている二人って、
二『尾』って単位で数えるのか??????」
と内心意味がわかんなくって混乱したほど。
私は「尾」ということを強調して言われたのかと思っていたが、
どうやら、「一尾」ではなく「二尾」だから、
官能を連想するじゃないか、という意味で言ったのだと、
かなり後になって、わかった。
★
私は、この歌の魚たちとは、
ベットの上で巡りあわなかった。
スーパーのパックに詰め合わせられた、
二尾として巡りあった。
(ちなみにIは、お皿の上だったらしいけど)
具体的には、季節柄、サンマだったのだが。
そういうナマの新鮮な魚の鰭の中に、
激流の記憶を見た、作者の洞察力に感服つかまつりました、
という気持ちになっていた。
てらてらと光った、フォルムではなく、
そこにちょこんとついている鰭が、
その魚の生きていた記憶を刻んでいる。
いや、作者がその洞察力で記憶を刻ませてあげたのだと思った。
焼き魚にすれば、
その鰭は真っ先に焼け焦げるだろう。
それは、その魚の記憶を、
その魚だけのものにしてあげる火葬の行為。
魚の思いが消えた肉体を、
私と家族の細胞の一部として刻みつけるのが、食すという行為。
命を受け継ぐということ、
しかし、
永遠に葬り去るものもあるということ、
死と再生のセパレートがとても鮮烈に胸を駆け巡ったのだ。
売られている魚のただの叙景歌としても、
とてもシブクて、十分に好きなのだが、
そう連想していったので、
私にはひどく深い歌に思えたのだ。
が、全然、そういう方向ではないそうで。でへへ(笑)
まぁ、でも、コトが終わった後も、
ある意味、
「死と再生」の状況だから、
すんごい大回りだけれど、
作者の意図しているところにも引っかかっているかもしれない。
してないか(笑)
★
史さんは、
どのように読まれてもいいというスタンスが、
おありのようなので、
今でもこう解釈した気持ちが、全然消えないし、消す気が起きない。
今でも自由に思わせてもらっている。
「裏・全国歌会夜の部」で、
大雑把にこの話をしたとき、
「だんだん、魚に見えてきた~」って言われて、
気持ちよかったです(笑)
ただ、焔太賞は、
「官能」だという解釈で与えたらしいので、
とって欲しいと思ってたけれど、
なんだか、複雑な気持ちがします(笑)でへへ。
明日は、自分の歌についてです。
なんだか、笑ってしまいました。
何にも知らない人が聞いたら、
ちょっと強烈な気がします。
すごいですね。作者がわかると言うのが。
今回も、私は、
多少の予測は、反射的にしましたが、
すべて間違えてました。
★
先生はスキでしょう。
スキというか、
「生きる・生存したい」という執念が強い人は、
そういうものに、拘って生きている気がします。
命を増やす行為ですからね。
執着心を消すことに、そのエネルギーを費やすか、
執着心を肯定することで、費やすか、
使い方は違いますけど。
そういうエネルギーの流れ方に則って、
歌を解釈しがちになるのも、
わかる気がするのです。
でも、
作者がわかってから、
アノ後だと思ったんなら、
「一粒で二度美味しい」解釈を、
胸の中で得たのだから、
ちょっといいなぁと思ったりもして。
私は驚いただけで、
官能的解釈を、取り入れられませんでしたから(笑)
どういう解釈の道筋であったって、
例えそれが、作者の意図と、
かけ離れてたとしても、
「この歌のいいところはどこか」ってことが、
わかりやすい体質になりたいです。
そういう体質を、おちょくらない人達しかいないと、
おバカなくらい、五行歌を好きな人達を信じて。
先生の場合は、
その解釈の道筋のベースが、
官能ベースなんだろうなぁ、と思っています。
そのおかげで、
人に見せようと決心がつく歌もありますし。
歌のことに関して、
先生は一貫している。そして私も一貫している。
十数年も早いセリフを先取りして言いますが、
力説されたことに、譲れないものを感じたならば、
節度を持って、
力説し返せればいいのです。
譲れる時は、拍手を送ればいい。
もし、先生とこの歌のことに関して、
お話しする機会があったら、
私は多分、
「先生のその解釈って、ちょっと複雑だなぁ」って、
言ってしまうと思います。
あぁ、
自分の歌でもないのに、こんなに惚れこんじゃって、
いいのかしら……と、戸惑いながら(笑)
草壁賞とは、いざ知らず。先生が「いやぁ~、作者が判ったら、ああ、アノ後の歌かって思っちゃったよ」と嬉しそうにおっしゃるものだから。
いわゆる「官能三姉妹」は他の二人の歌は匂いで判るところがあって。
最初から史さん、恵さんの歌は判ったし、官能チックに解釈してました<(_ _)>
先生には、私のそーでもない歌を官能だと力説されたこともあり…
まあ、お好きなのね、と思ってます。
わかるような気がします。
いや、微妙に認識の差異はあるでしょうけれど、
そういうことって、ありますよね~。
失礼な言い方だったら、いけないですが、
歌に作者が引っ張られるってこと、あると思うのです。
で、この歌なら、そうだろうと、すごく納得したりもして。
>講評の時にはやっぱりそうおっしゃってはいなかったのが心残り…。
だはははは~!!!
作者にとっては、そうですよね~!!
で、同時に、センセの気持ちも、わからなくもなくて。
自分が感じたものにハマってしまって、
抜け出せない。
せめて、言わなきゃいいのに、言いたくなっちゃう(笑)
それに、他の人は別にいいけど、
先生、さっき、言ったのになぁ~!
と、先生特別バージョンで思うところも、微かにあったりしてね~。
先生が言うということは、
拡声器になる場合だってあるからね~。
>五行歌は、基本が親切と思うし。
この言葉はハッとさせられました。
いいこと聞けて、嬉しい。
私は、史さんのその「不親切さ」が、
ちょっとうらやましくもあります。
私は親切に説明しなければ、
気が治まらない「おせっかい派」なんです。
結果、稲田の歌は「難解だ」と言われた事もあります。
これはいわゆる「センス」の領域で、
治しようもないけれど、
読み手が、
辿り着かなくても文句は言えない(笑)
ただ、
寛大になることと、ゆるゆるになることは違うから、
譲れない部分はなるべくわかりやすく相手に提示できるようにしておきたいです。
なかなか難しいのですが。
歌って、本来、言葉では言い表しにくいところを詠っているわけだしね。
でも私は曲げれない。
たとえ他人と、
深い溝が鮮明になるだけでも、
言える機会があるなら、
ベストを尽くして、言うだけ言ってしまう。
その誤差もまた次の歌への滋養にして。
ま、現実は、へなちょこなんで、
滋養にまで持っていけないときもありますが。
わはは。
だから、この歌に関することで、
私の歌の解釈が、
史さんの寛大さの範疇だったことに、
胸をなでおろします。
へんなお礼の言葉かもしれないけれど、
感謝の気持ちでいっぱいです。
また、これからも、
コドモさんたちの回収の合間にでも、
ロムしてくださいまし~
本誌での作品も、楽しみにしています。
裏歌会で、いなだっちさんとIさんが語り合ってるのを聞いて、こいつはウタ冥利に尽きる、と思ったものでした。
このウタ、〆切間際のネタ皆無の状態の時のもの。
スルスル創れたんだけど、創って眺めてるうちに、もっと視界が拡がってきたのですよ。
もちろん、出だしは官能だというのは否めません。
この二尾は、妙齢の二人でなく、ジジババでも可。
グループ歌会でもいろいろ出ましてね。ありがたい事に。
人生を詠ったものだろう、とか、鮭の遡上が浮かんだ、とか。もちろん官能チックも。
(遡上はあっても、魚売り場ののトレーは出なかったが…^^;)
会が始まる前に、先生にも言ったんだけどね。「官能というよりも、もっと広い視野で味わって下さいっ!」って。
かなりその辺強調したんだけど、講評の時にはやっぱりそうおっしゃってはいなかったのが心残り…。
周りがうるさかったし、いちいち「そ~じゃないのよ~」という気力が無かったので(寝不足だ)、そのままにしましたが…。
話変わっちゃうけど、前に「史のウタは不親切」とおっしゃって下さった方がいるのですが、その通りです。五行歌は、基本が親切と思うし。
今回も「不親切さ」が成し得たことだろうと思っています。
ウタは手を離れたら、読み手に委ねるしかないので
如何様に読まれても受けとめます。
だから、今後も自由に思っていて下さいまし。
あと、言い訳になりますが、
前に本誌で「官能ウタ書き続けますっ」とか力入れて言っちゃったけど、言った後はそうでもなくなってます^^;。普通の不親切ウタを書いてます。
しかしながら、前の文章を読んだとき、本当に嬉しくて嬉しくて。PCの前で「いなだっち、あたしよ、あたし(はあと)」とか呟いてたし。
あの日の分は印刷して、持ち歩いてました←マジで。
うまくまとまってない文章、読みづらいところ、お詫び申し上げます。
では、コドモ達を回収に行って参ります