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笑わぬでもなし

世相や世情について思いつくまま書き連ねてみました

サミュエルフラーとイーストウッド

2007-02-16 | 映画 落語
一応、公開日は確か明日までですから、これから先は、見ようと思っている方はご遠慮ください。
 
  「硫黄島からの手紙」をやっと見ることが出来ました。一体その間自分は何をしていただろうかと考えましたが。クリントイーストウッド監督作品で、日本側から見た硫黄島の激闘を描いたものであります。冒頭、現在の硫黄島とその島内の光景が映し出され、遠景から見た南洋の島が、打って変わって遠き日の現実を惹起させます。島内のトンネルを掘り起こす場面から、物語は昭和19年に飛んでいきます。中村獅童扮する威張りくさった軍人や兵卒をいびる軍曹なぞ、イーストウッドは軽妙に処理していきます。下手に暴力、横暴、横柄さをこれでもかと演出することなく、二つ、三つの場面で人物を把握させてしまう手腕は見事であります。バロン西も敬意を忘れずに描いております。渡辺謙も、演技を極力抑えておりました。 前作の父たちの星条旗が、ウィリアムワイラーへのオマージュならば、今回は、サミュエルフラーの最前線物語のオマージュになっておりました。サミュエルフラーは実際にDデイに参加し、パリ解放の目撃者でありました。彼は最前線物語を描いた時に、戦争が日常であり、非日常が今の平和の世であった。それでも人は、生きていたという旨のことをどこかで語っていたのを記憶しております。
 イーストウッドも、配給の食事、手紙での日常を描いております。また、兵士の日常とは、いかなるものかも描きます。二宮扮する西郷兵卒が、地下壕から糞便の詰まった缶を捨てに表に出ます。そこには敵艦隊で黒く染まった海が見えます。息つく間もなく、砲弾の雨が彼の頭上に響き渡り、缶を落としてしまいます。その缶を命も顧みずに必死に拾うのです。渡辺謙扮する栗林中将の日常も回想として合間、合間に挟まってきます。
 一昨日タイムズスクウェアで見た光景も私の人生の一こまなら、今日こうしてパソコンの前で仕事に励んでいるのも私の人生の一こまです。イーストウッドは、栗林で、平和の日常と戦時の日常を連続させます。西郷で戦時の日常と戦闘の日常を描きます。
  冒頭のクレジットで、スピルバーグのクレジットがあったのに、違和感を覚えたのですが、戦闘場面と自爆場面を見て得心しました。あの場面を極力抑えて描いたところに監督の手腕の差が見て取れます。
 サミュエルフラーが、かつてプライベートライアンを見た際に、戦争に行ったことのない奴の映画だと喝破しました。イーストウッドも恐らく、その辺りへの配慮なり、自らの年に対する矜持があるのでしょう。あれだけ控えめにした戦闘場面がそれを物語っております。
 気がつくと、左隣の一つはなれた席の女の子二人組みが洟をすすっております。二つ前の老夫婦の洟をすする音が聞こえます。衆寡は適しないであります。不覚にも暗闇をいいことに小生も涙ぐんでしまいました。もっとも小生は物語よりもイーストウッドに逢えた感涙でありますが。

爆笑問題

2007-02-03 | 映画 落語
訳のわからぬトラックバックがなくなったと思ったら、新手の広告トラックバックが入っておりました。読者諸兄にはご迷惑をおかけしました。コメントを利用した広告までも出てきました。初見の方々に申し上げておきますが、小生が駄文を綴り始めて一年余であります。固定の読者がおりまして、その方々は小生よりも検索能力が優れておりまして、今更下らぬ広告に惹かれるような輩ではありません。またトラックバック機能なるものを小生は利用しませんし、コメントなるものもこの欄で処理するように心がけております。アクセスポイントアップの目的で、数打ちや当たるのつもりならば、お生憎さまであります。
 さて、閑話休題して本日は、爆笑問題のDVDであります。上半期、下半期と06年の世相を斬る漫談であります。大田のボケと田中の説明する突込みがうまくかみ合い、程よく笑える出来になっております。蓋し、DVDという流通経路に乗るゆえに、往年のライブで見るようなブラックユーモアは薄められております。が、時事を活かした漫談には輝きがあります。哀しいかな現在のテレビでは、DVDのネタですらも、放送局とのしがらみで、カットされてしまうのでありましょう。あれがライブなら、もう少し自分たちを客体化し、更には自虐的な笑いへ進んでいくのでありましょう。
 大田のボケが、ある面で世代を代表する共通項になってしまう時、田中が絶妙に時代背景なり、短く観客全員がわかるわけないだろと突っ込みをいれます。DVDゆえに、突っ込みも穏便でありますが、あれがライブなら、誰が知ってんだよ、お前だけだろ、さらには罵詈讒謗の類を並べていく、田中が本当に怒っているのではないかと思わせるような突っ込みにと進化していくのでしょう。浜田の肉体を駆使した突っ込みに対抗する田中の「本気の怒り」は、東西演芸の中で秀逸なものを感じさせます。大田光が、知的好奇心を向上させながら進化しているのに対して、松本の方には、一向に進化を感じさせないのはなぜでしょうか。噂によるとメガホンを取ったいうのですが、小生にはフィルムの無駄であります。北野武を目指したのか、その亜流を目指しているのかわかりませんが、進化をやめた芸人には辛いものがあります。勿論、マンネリという芸の道もあるのでしょうが。
 よせばいいのに、若手の漫才師について雑感を述べてしまいました。

小三治の影

2007-01-21 | 映画 落語
今、独演会なりホール落語で安定した動員数がはじき出せるのは、恐らく談志、小三治が飛びぬけているだろう。小三治師匠には失礼だが、仕事の都合上、正月二席の楽日しかいけなかったが、あの末広の盛況振りと小三治ファンの数には少々驚かされた。小さん襲名ならば、三吾楼ではなく、小三治と目されていたが、実の息子が襲名したから仕方がない。小三治であるが、これで何度目かの高座姿である。何度目かというところが、半可通を窺わせる文句であるが、小三治を見ていて思うのは、絞まり過ぎというところである。小三治特有のまくらが、ある意味でふらを醸し出していると言えなくもないが、にしても仕込みに、いささかまどろっこしさを覚えてしまうのである。噺の持って行き方、そして自分の力を入れる登場人物の描写、ほんの少しの間の運び、どれをとっても卒がない。卒がない分、物足りなくなる。
 彼の多趣味、そして物へのこだわり。例えば塩にこだわって、世界中の塩を集め、旅してみるなんて道楽振りは、荒唐無稽で面白いのだが。その面白さと噺の間に、なにか物が挟まったような、今ひとつ抜け切れていないような感じを受けてしまうのだ。そこにはある意味で達観というべきもの、もしくは諦念というような薄い膜が張ってある。これは小生の好みの問題であって、小三治の芸の分析とはかけ離れているのかもしれないが、にしてもである。話の筋を覚えるには師匠の落語が一番のように思える。それこそ彼なりの登場人物への緻密な分析と誇張が含まれていて、ややもすると先代小さんの芸なりとは全く違ったものに変化していることを見逃してしまうような器用さがあるのだが。
 志ん朝師匠が鬼籍に入って、今年は七回忌、談志師匠が家元を作り、その後を追いかけるように力をつけてきて、円蔵のように出鱈目さを前に出すでなく、談志のように論理性を披見するでなく、志ん朝のように華と演技力を持つでなく、B型特有のマイペースで芸を作り上げてきた小三治の凄さは、ある意味認められるものである。まごう事なき大看板である。
 小三治師匠が枯淡の域に達した時に、あの薄い膜が取れて、教科書通りで教科書通りでない、かみそりの刃のような鋭さを持つ芸になるのではないか。
 薬師の伯父貴の芸は、いつものようによかった。志ん吾師匠の、阿弥陀池(東でなんという題名か失念)も冴えておりました。いい正月、そして今年も良い一年になります。有難うございました。

もりなが

2006-12-24 | 映画 落語
もう二十年近く昔になりますが、ドイツ人が小生の姿形を公にしてしまい、お菓子の包装にあるような格好ではなく、厳つい鎧を着ているということがばれてしまいました。ほとぼりも醒めたろうと安堵して矢先、今度はフランス人が、小生の仕事なり姿の一部を公にしましたが、幸いあまり話題にならずに済んだので、人々の記憶も薄れているだろうと安心しております。ただ、ベルを鳴らすと、小生がそばに来るなんて、迷信がはびこっていますが、冗談言っちゃあいけやせん。あたしゃ、犬じゃないんですから。
 東洋の神秘の国では、今日がどのように過されるのかわかりませんが、小生の手帳を開いてい見ると、ロサンゼルスでは、別居中の警官が、日系企業のビルでテロリスト相手に奮闘しております。ワシントンの空港でも同じ人物と思われる男が、これまた政治犯相手にハイジャックを阻止しようと頑張っております。シカゴでは、家族のいない独身の女性が、休日出勤を言い渡され、改札の窓口でトークンを売っておりまして、同じシカゴの救急病院では、レジデントを終了した若き医師が、臓器提供者を見つけるべく孤軍奮闘しております。ニューヨークでは、街角の本屋を経営するうら若き女性が閉店を決意しようか迷っておりまして、プラザホテルでは、クリスマスの旅行で家族と迷子になった少年が豪遊をしております。えー、それからこれは場所を記載し忘れたのですが、サンタークロースに扮した5人組の強盗がカジノを襲撃するなんて物騒な事件を企んでおります。そういえばこの主犯格は、明日、盗んだ金をそっくり寄付するはずであります。バーモントに休暇に出かけた二人が恩人の為に一肌脱いで、恩人の経営するホテルの経営難を救うなんてこともあります。えーと、それから、これもまたニューヨークになりますが、サンタクロースを名乗る老人が裁判にかけられます。34丁目辺りには、未確認飛行物体が飛来とあります。あ、これはロンドンだ。金貸しの因業親父が、今日を境に功徳を積むとあります。最近、ボケが進んで参りまして、ゴッサムシティーなんて街があるんでしょうか。ペンギンに育てられた男が一騒動起こしますが、被り物が好きな男にとっちめられるなんてのもあります。まあ、いろいろと今日はありまして、小生の身が持たないのであります。
 何よりも、ニュージャージで不動産を扱う男が、経営難から入水自殺を試みることになっておりまして、この男だけは何としても助けなければいけないのです。どうしてかって、なんたってあーた、小生の昇進がかかっております。ここら辺りで、営業成績を上げておかないと、来年の今頃は人間になっちまいますもの。物騒な話ばかりしてまいりましたが、ご心配なく、全て終わりよければ全てよしの話になっております。今日はクリスマスイブですから、はい。

邦画についてちょっと

2006-12-11 | 映画 落語
今年度といっても、また終わっていませんが、日本映画を並べてみると「変わりたい」と「変わらないでいて欲しい」であります。若者向けの映画は、恋に病に、友情に、それらをきっかけとして、成長していく物語ばかりでありまして、今昔を問わず、若者は成長していく物語は一般的なことですが、それが若年層だけでなくいい年をした大人まで話が伸びていることに小生は呆れもするのであります。変わらないでほしいというのは言わずものがなで、これまた熟年層、団塊世代向けの話であります。若い頃から、出会った頃から変わらずにというこれまたお目出度い話の連続でありまして、まあこちらの方は直裁に話を進めるわけには行かないので、病気がきっかけでと少しは話を捻っております。にしても、ぱらぱらと立ち読みするが如く、宣伝文句を見ていきますと、惻隠の情はどこへやら。
 日本映画が盛り返していると、ここ数年マスコミははしゃいでおります。銀幕のスターなど疾うに消えたのに、テレビドラマの発想で映画を論じております。一人の若手(女の子)が立て続けに様々なジャンルの映画に出てます。勿論、当たり外れがありますし、その子が出ればヒットするわけでもあるまいが、マスコミは、「主演作品が大コケ」と書きます。俗に月曜の九時なり、火曜の九時なりまあどちらでも構わないのですが、(しかし夜の九時にドラマを見ている人ってどんな人なんだろうかと思うのですが、夜の9時に仕事をしている人ってどんな人だろうかという言葉が返ってきそうなのでやめます)主人公を売れ筋タレントにすれば後は事足りるという制作者の発想と、件のマスコミの発想は変わらないのであります。挙句、監督、脚本の意向を無視して、俳優如きが演出に口を出すなんて馬鹿げた話を美談にします。高倉健さんが演出に口を出した話を小生は聞いた事がありません。
 ひばりの云々、クレージーの云々、渡り鳥、眠狂四郎、なんて輝かしい時代はもう来ません。松竹がキムタクを使った時点で、映画産業のある部分が終わったのではないでしょうかとも小生は考えるのであります。
 お話変わって、「バルトの楽園」という映画があります。久々に映画人の心意気を見せてもらいました。かつてはエンドクレジットが出て、館内の照明が戻されましたが、いつの頃からかスポンサー関係に気を使って、その後に出演者、製作者、提供一覧が出るようになりました。ために、最後まで見てから席を立つ人、絵インドクレジットで席を立つ人と二派に別れてしまいました。どちらがいいかなんて野暮なことはいいません。第一映画館で携帯鳴らすような民度であります。ならば、ここは一つ腰を折ろう、でも折ったことと思われると癪に障る、あらぬほうから矢も飛んでくる。監督出目昌伸氏は考えました。なるほど、これなら席は立つまいと、立った人間はある意味で映画、音楽に対して感性の鈍い人であると納得させる仕掛けであります。文化庁云々という文句がついているのが面白いところでありますが、映画も一面はプロパガンダでありますから、そこはやさしく目をつぶって、135分間、いや150分間画面と睨めっこしてください。
 小生は最後まで見るのが常ですが、時折、始まって3分で出てしまうこともあります。

クラッシュ

2006-10-30 | 映画 落語
本年度のアカデミー賞を獲ったクラッシュを遅ればせながら見ました。ロバートアルトマンほど洒脱ではないにしても、7組の家族が織り成すパズルに感心するとと同時に、日本も同じ状況になるのかもしれないし、既にそんな状況になっているのだと実感しました。舞台は、LAであります。差別主義者で父親の介護に疲れている警官、9.11以後誤解され、差別されているペルシャ人一家、ハイソと呼ばれる検事夫婦、貧しいながらも地道に働くメキシコ系アメリカ人一家、芸能界という華やか世界で暮らす「成功者」黒人とその妻、弟が犯罪に手を染めて行方知れずになっている刑事とその母、差別を憎む白人の新米警官。クラッシュという言葉が、『盗まれた手紙』(バルザック?)の手紙の如く、人の手から手へと渡って、物語を紡いでいきます。「交通事故がきっかけ」でという謳い文句で宣伝をしておりましたが、クラッシュとは、人間の感情が破裂する、今様の言葉で言えば「キレる」ことであります。そしてこの映画では、「キレる」ことでしか他人と真っ当に迎えあえない姿が描かれております。笑いは知力を要求します。私がおかしいことが他人がおかしいと思うことかありません。笑えば、何を笑っているのか、果てはあやしみます。しかし、怒りとは、一番明確で、わかりやすい意思伝達であります。差別と階級化社会の進んだアメリカでは、失語症から、ついに怒りでしか自分が伝えられない、そんなもどかしさをクラッシュはじわじわと見るものに教えてくれます。サンドラブロック扮する、検事の妻が「朝起きるとなぜか知らないがいらいらしてしまうの」と夫に涙ながら電話で告白します。
 ストレスと戦う社会とは、怒りでしか自己表現が出来ない幼稚な世界であり、そこで怒りを表現できない、もしくは少しばかり大人でいる人間は、自ら引き金を引いてしまうのかもしれません。クラッシュには、子供ですらしない言い訳をする大人は見かけませんでしたが、今般、マイクの前で「一般的な」とか、「意識が朦朧として」とか訳のわからぬ言辞を弄して、自らの管理責任さえわからぬ大人を見かけるようになりました。年恰好から察するに、あれもまた団塊の何とやらでした。

エニシングゴーズ

2006-10-19 | 映画 落語
伊東四郎さんと小松政夫さんの舞台、エニシングゴーズが発売されております。10年前の舞台でありますが、違和感を覚えないものであります。往年の小松さんのギャグが連発し、さり気なく伊東さんのギャグが合間に挟まるという流れに、名コンビの息のよさを感じました。伊藤さんのお得意の歌のコントがあまり見られないのが残念でありますが、三宅裕司さんとかぶることも考えての節制だったのでしょうか。確かに、三宅さんとでは、果てしなくボケが続くために終わりのない地獄となるのですが、小生はそこがまたたまらないのであります。
 片方が言った言葉尻から、歌へとつないでいくあれです。例えば、伊東さんが「ばかなこといってんじゃないの」と言うと、三宅さんが、馬鹿という言葉に触発されて、「わたしばかよねえ、おばかさんよねえ、後ろ指後ろ指さされても」、とうけると、「ても」の音で、伊東さんが「おてもやーん、あんたこの頃嫁入り間近じゃないかいな」という具合に延々と歌が続いていくわけであります。
 今回のエニシングには、ほんの数回しか登場しません。小松さんのボケを伊東さんが受けております。あえて、難を申し上げれば、脚本家のせいか、それとも設定のせいか、言葉の飛躍があまり見られなかったということです。
 「見ごろ食べごろ」でやっていたコントには、次か次へと言葉と仕草、物真似が連鎖して、元に戻るのにどれだけ苦労したか、いわゆる5秒の台詞を使ってどのくらい引っ張れるかのせめぎ合いがありましたが、今回は、小松さんの芸能オーデションのところでその芸が見られるだけでありまして、観客の若年層と、時代の移り変わりというものを感じさせました。
 ともあれ、一見の価値ありであります。
 「若手のお笑い」は安易にDVD化されますが、なかなか本物の笑いのDVD化されないのは残念でなりません。足腰が丈夫なうちはいいですが、立てない、出せない、しゃがめない日の楽しみがないのはいささか不安な老後です。年金よりも、芸のあるDVDを、松岡さん、どうですもう一回、文科省の大臣あたりに。

溝口の新平家物語

2006-09-01 | 映画 落語
BSで溝口健二特集をしております。昨日は雷蔵主演の「新平家物語」でありました。デジタルリマスター版というだけあって、色鮮やかでびっくりしましたが、とりわけ驚いたのが、木暮実千代の衣装でありました。いわゆるトップレスというもので、その上から着物を羽織っておるのですが、豊満な胸が顕わになっておりまして、あの衣装が、よく検閲なり、映倫に引っかからなかったものであると感心しました。衣装の斬新さは、どこからヒントを得たのでありましょうか、皆目見当がつきません。歌舞音曲の世界からかと想像してみますが、溝口監督の発想の柔軟さに、雷蔵の演技を忘れて、違うところに注目した作品でありました。思えば、黒澤監督も衣装にこだわりました。ワダエミ女史を迎えて、アカデミー賞の衣装部門を取りました。あの辺りのこだわりは、もしかしたら溝口監督辺りからの遺伝子があるのではないかと素人考えをしています。溝口作品は、勢い白黒を思いうかべて、その陰翳とショットの意味にばかり目が奪われてしまうのでありますが、いやいやどうして、色使いもさることながら、細かいところへの気配り、目配りは侮れないものがあります。そのような感想を「新平家物語」を観て抱きました。
 本日は、防災の日であります。天災は忘れた頃にやってくるとは寺田寅彦の言葉であります。昨日は、縦揺れがきてからのぐらっでありました。いつまでもあると思うな親とかねと書きましたが、その後は、ないと思うな運と天災が巷間伝わるものであります。小生は、当然、ないと思うな「かさ」と天災で覚えております。漢字で書けない所が残念であります。
 

小屋の思い出

2006-08-26 | 映画 落語
以前、本稿で紹介しましたリリーフランキー作の「おでんくん」がDVDになって発売されておりました。不覚にも仕事にかまけて確認し忘れておりました。慌てて購入して、楽しんでおります。「何でも知っているようで知らないことはたくさんある」という含蓄のある言葉で始まる「おでんくん」。教育テレビで放映しておりましたが、見損ねた方は、どうぞお買い求めください。ポニーキャニオンという発売元がなんとも不可解なのであります。
 大兄開高健先生は、その土地の人を、暮らしを知りたくば、市場と売春宿へ行けというフランスの諺を引用しておりましたが、小生は、映画館に行くことにしております。日本ならば、往時の一番館、二番館、更には三番館のなごりを留める古い映画館が見つけられます。二本立て、あるいは交代制で二本の映画を上映する形態は、かつて幼少のみぎり、地元の映画館でよく見かけたものであります。更には、上映期間と期間の隙間に当たるときには、成人映画をかけるなんてこともありました。
 今でも地方の映画館ではそのような興業形態をとっているかは知りません。日活のロマンポルノがなくなり、今ではかろうじて成人映画が都内の一部の小屋でかかっております。ビデオやDVDの普及、さらにはレンタルショップの普及で、もはや映画館で女体を眺めるのは限られてしまいました。重い扉の向うから、女性の喘ぎ声が大音量で漏れ聞こえてきた時は、興奮よりもなんだか笑いがこみ上げて来てしまった記憶があります。何事も度を越すと無粋になるとはこのことかひとり納得しました。しかしながら、ああ男の悲しい性か、一度扉をあけて闇の中へ足を踏み入れると、銀幕一杯に映し出される姿態に、つい身を乗り出してしまう有様でした。
 閑話休題しまして、地方の映画館でも、アメリカ資本の入っていない小屋には、郷愁と映画を楽しむ純粋なときめきがあります。音響設備の不備、トイレの古さもなんのその。売り場の窓口、売店に並ぶ菓子類。名作、駄作であろうと、大きなスクリーンで見ることの楽しみを伝えるには十分過ぎる舞台であります。出張ついでに、映画館に飛び込んだら、小生を含め、観客は三人。最終回のためか、宣伝の類も少なく、忽ち本編に突入であります。やはりパート2になるとたるむのジンクスは免れることが出来なかった、ジャック=スパロウでありますが、待ちに待った映画がやっと見られる、自分の町にやってくるという喜びを与えてくれた小屋でありました。映画館をでると、目の前のコンクリートの上に、人も構わじと大きな猫が二匹、夕涼みをしておりました。

桜井長一郎

2006-06-17 | 映画 落語
俗に声帯模写なら、松村邦浩、原口まさあき、コージー富田辺りが近頃の相場であろう。古くはロッパもいたし、小生の思い出に残っているのは桜井長一郎先生である。流行の駅中で、CDの廉価版が売られており、そこで桜井先生のものを見つけた。時間にして20分弱であるが、福田、三木、田中、と三角大福の声が聞こてくる。渡辺美智雄も入っていた。桜井先生で覚えたのは、大河内伝次郎、進藤英太郎、阪妻に、嵐寛である。森繁もやっていた。三船も出てきた。森繁、三船はリアルタイムで見ていたから、その声に驚かされたが、後年といっても、小学生の頃であるが、阪妻、大河内を見て、桜井先生の声を真似ていると思うほどであった。
 桜井先生で、政治家の声を真似る芸人はテレビでお目にかからない。最近では、松村が、鬘を被って小泉某の物真似をしているが、その他の政治家は出てこない。麻垣康三だか、安竹しょうだか、忘れたが、どれも小粒で強烈な個性氏がないからか、それとも真似でもすると腹を立てる小心者の集団なのか、はたまたマスコミ得意の自主なんとかか、ねたにならない。コントニュースペーパーだったと思うが、寸劇で政治風刺をやっているが、これもまたメディアに乗らない。
 数年前にブラウン管では芸をやらない、舞台芸人を下北沢まで足をはこんだが、角栄の物真似をやっているうちに、客があまりに引いているので、田中角栄について語りだしたのは笑えたが、あとでぞっとした。笑いは知性の証だと訳知り顔でいる観客の馬脚が見えて、これは遠からずこの芸人をダメにするだろうと暗澹たる思いで、小田急に乗った。かくいう小生も、ロッパの物真似には追いつけない。固有名詞はわかっても、その人物の声を聞いていない。その所作を見ていない。人の振り見て、我が振りである。
 議員の質、個性が落ちたのか、芸人の質が落ちたのか、杳として知れないが、国会答弁が堕した分だけ、笑いの種にならなくなったというのが真相だろうか。
 久しぶりに聞いた桜井先生のだみ声に、思わず口と顔を動かしている。