一応、公開日は確か明日までですから、これから先は、見ようと思っている方はご遠慮ください。
「硫黄島からの手紙」をやっと見ることが出来ました。一体その間自分は何をしていただろうかと考えましたが。クリントイーストウッド監督作品で、日本側から見た硫黄島の激闘を描いたものであります。冒頭、現在の硫黄島とその島内の光景が映し出され、遠景から見た南洋の島が、打って変わって遠き日の現実を惹起させます。島内のトンネルを掘り起こす場面から、物語は昭和19年に飛んでいきます。中村獅童扮する威張りくさった軍人や兵卒をいびる軍曹なぞ、イーストウッドは軽妙に処理していきます。下手に暴力、横暴、横柄さをこれでもかと演出することなく、二つ、三つの場面で人物を把握させてしまう手腕は見事であります。バロン西も敬意を忘れずに描いております。渡辺謙も、演技を極力抑えておりました。 前作の父たちの星条旗が、ウィリアムワイラーへのオマージュならば、今回は、サミュエルフラーの最前線物語のオマージュになっておりました。サミュエルフラーは実際にDデイに参加し、パリ解放の目撃者でありました。彼は最前線物語を描いた時に、戦争が日常であり、非日常が今の平和の世であった。それでも人は、生きていたという旨のことをどこかで語っていたのを記憶しております。
イーストウッドも、配給の食事、手紙での日常を描いております。また、兵士の日常とは、いかなるものかも描きます。二宮扮する西郷兵卒が、地下壕から糞便の詰まった缶を捨てに表に出ます。そこには敵艦隊で黒く染まった海が見えます。息つく間もなく、砲弾の雨が彼の頭上に響き渡り、缶を落としてしまいます。その缶を命も顧みずに必死に拾うのです。渡辺謙扮する栗林中将の日常も回想として合間、合間に挟まってきます。
一昨日タイムズスクウェアで見た光景も私の人生の一こまなら、今日こうしてパソコンの前で仕事に励んでいるのも私の人生の一こまです。イーストウッドは、栗林で、平和の日常と戦時の日常を連続させます。西郷で戦時の日常と戦闘の日常を描きます。
冒頭のクレジットで、スピルバーグのクレジットがあったのに、違和感を覚えたのですが、戦闘場面と自爆場面を見て得心しました。あの場面を極力抑えて描いたところに監督の手腕の差が見て取れます。
サミュエルフラーが、かつてプライベートライアンを見た際に、戦争に行ったことのない奴の映画だと喝破しました。イーストウッドも恐らく、その辺りへの配慮なり、自らの年に対する矜持があるのでしょう。あれだけ控えめにした戦闘場面がそれを物語っております。
気がつくと、左隣の一つはなれた席の女の子二人組みが洟をすすっております。二つ前の老夫婦の洟をすする音が聞こえます。衆寡は適しないであります。不覚にも暗闇をいいことに小生も涙ぐんでしまいました。もっとも小生は物語よりもイーストウッドに逢えた感涙でありますが。
「硫黄島からの手紙」をやっと見ることが出来ました。一体その間自分は何をしていただろうかと考えましたが。クリントイーストウッド監督作品で、日本側から見た硫黄島の激闘を描いたものであります。冒頭、現在の硫黄島とその島内の光景が映し出され、遠景から見た南洋の島が、打って変わって遠き日の現実を惹起させます。島内のトンネルを掘り起こす場面から、物語は昭和19年に飛んでいきます。中村獅童扮する威張りくさった軍人や兵卒をいびる軍曹なぞ、イーストウッドは軽妙に処理していきます。下手に暴力、横暴、横柄さをこれでもかと演出することなく、二つ、三つの場面で人物を把握させてしまう手腕は見事であります。バロン西も敬意を忘れずに描いております。渡辺謙も、演技を極力抑えておりました。 前作の父たちの星条旗が、ウィリアムワイラーへのオマージュならば、今回は、サミュエルフラーの最前線物語のオマージュになっておりました。サミュエルフラーは実際にDデイに参加し、パリ解放の目撃者でありました。彼は最前線物語を描いた時に、戦争が日常であり、非日常が今の平和の世であった。それでも人は、生きていたという旨のことをどこかで語っていたのを記憶しております。
イーストウッドも、配給の食事、手紙での日常を描いております。また、兵士の日常とは、いかなるものかも描きます。二宮扮する西郷兵卒が、地下壕から糞便の詰まった缶を捨てに表に出ます。そこには敵艦隊で黒く染まった海が見えます。息つく間もなく、砲弾の雨が彼の頭上に響き渡り、缶を落としてしまいます。その缶を命も顧みずに必死に拾うのです。渡辺謙扮する栗林中将の日常も回想として合間、合間に挟まってきます。
一昨日タイムズスクウェアで見た光景も私の人生の一こまなら、今日こうしてパソコンの前で仕事に励んでいるのも私の人生の一こまです。イーストウッドは、栗林で、平和の日常と戦時の日常を連続させます。西郷で戦時の日常と戦闘の日常を描きます。
冒頭のクレジットで、スピルバーグのクレジットがあったのに、違和感を覚えたのですが、戦闘場面と自爆場面を見て得心しました。あの場面を極力抑えて描いたところに監督の手腕の差が見て取れます。
サミュエルフラーが、かつてプライベートライアンを見た際に、戦争に行ったことのない奴の映画だと喝破しました。イーストウッドも恐らく、その辺りへの配慮なり、自らの年に対する矜持があるのでしょう。あれだけ控えめにした戦闘場面がそれを物語っております。
気がつくと、左隣の一つはなれた席の女の子二人組みが洟をすすっております。二つ前の老夫婦の洟をすする音が聞こえます。衆寡は適しないであります。不覚にも暗闇をいいことに小生も涙ぐんでしまいました。もっとも小生は物語よりもイーストウッドに逢えた感涙でありますが。