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笑わぬでもなし

世相や世情について思いつくまま書き連ねてみました

青い目をしたお人形 渋沢栄一

2013-08-18 | 

  渋沢栄一と言えば田園調布しか、小生は思い浮かばなかった。浅草の12階やら帝国劇場という文化遺産も彼の功績であると知ったのは、つい先日である。鹿島茂氏の渋沢栄一を読んで、初めて彼の足跡を知った。小生の不明を恥じつつ、頁を繰った。民間外交に奔走し、米国、中国、韓国との架け橋にならんとした。韓国における最初の紙幣、第一銀行券を発行し、渋沢翁の肖像が描かれたいた。彼は時の日本政府を説得して、韓国のインフラ整備に尽力する。また、第一次大戦後のワシントン条約における軍艦比率(英米日:5:5:3)に関しても、徒に軍国化して財政を圧迫させるよりも、この比率を遵守し、むしろ軍事以外の諸事に国の予算を回すべきと説いた。米国で排日運動が起れば、渡米し、親日家だけでなく、反日家にも会って誤解を解いた。蛇足だが、J.ロンドンが反日の急先鋒であったことも知った。孫文に対しては、政治家よりも実業家になれと説く。袁世凱の台頭で、孫文が実業家にならなかったのは歴史を見れば明らかであるが。対中外交強攻策を非難し、敬愛の念を持って望むことが肝要であるとも言っていた。

 青い目をしたお人形は、アメリカ生まれのセルロイドで始まる童謡、青い目の人形は、渋沢翁の努力よって渡来した民間外交の成果である。この人形が先の大戦で、殆ど葬られてしまったことは言を俟たない。

 渋沢翁は、日本が近代国家に生まれ変わる過程で、如何に外交と平和を用いてその道を拓いて行くかに腐心した人である。言い換えれば、軍国化と戦った実業家であり、怜悧な実務家であった。また商人(あきんど)を実業家の地位に、あきんど仲間を経済界に変えた人であった。

 その渋沢翁の道が頓挫した原因が、関東大震災だったというのは皮肉である。小生は彼の足跡を辿って、背筋に寒気を覚えた。大仰に言えば、今の日本が置かれている状況に酷似しているからだ。先を考えない政治家、他国を侮蔑する軍人、勿論、今の自衛官にそのような人物は少ないと思うが、自衛官出身で、元防衛大臣の評論家は、確かその程度の頭しか持ってないように思えたが。そして先の震災、税を上げて、軍事費に回し、国際感覚の麻痺した米国追従外交という姿。尤も、それらが、小生の被害妄想ならいいのだが。

 「はだしのゲン」の改悪といい、戦争体験者が少なくなっていること、更には渋沢翁のような実業家ではない、夜郎自大の実業家が、いっぱしの経済論やら政治の有り様を吐いていることに小生は愉快な気になれないのである。

  ともあれ、「渋沢栄一」鹿島茂 文春文庫から上下巻であります。宜しかったら一読くださいまし。

 先のブログでも申しましたが、節電はどこへ、こまめに冷房をつけましょうとはどの口で言っているのかわからない、炎暑です。みなさまお体をご自愛ください。

  

 


 しなが鳥猪名野を来れば有馬山

2013-03-06 | 

 宝塚なら、万葉に由来があると仄聞した。八千草薫、草笛光子、越路吹雪、そして有馬稲子。いずれも万葉の歌から引いた。挙げれば、八千草の花は移ろ常磐なる、恐しこみと告らずありしをみ越路の、しなが鳥猪名野を来れば有馬山、になるか。 この度、といっても既に数ヶ月出版から経っているが、有馬稲子さんの『喉元過ぎれば』自伝を読んだ。元は株屋の新聞の私の履歴書に掲載したものだから、社稷を憂える文面も散見するが、幼少の不幸な時期、宝塚入団、女優、舞台女優への軌跡が描かれている。文は軽やかながら、時折チクッと毒を効かせた所に読み応えがある。

 生まれすぐ養女に出され、満州で終戦を迎え、命からがら日本に着くと、頼るは実の親。ところが実の親は人で、父親は暴君で、女子供にすぐ手を出す。この辺りは価値が転倒した時代では如何に男が弱いかを行間から伝えてくれる。その暴君から逃げたい一心で宝塚を受験、見事に合格する。幸いだったのは養母が日本舞踊の名取で、稲子が幼少から踊りを仕込まれていたこと。これが後に名演技の一助になるとは本人も夢にも思っていなかったのだろう。本人曰く私の中で一番美しい映画と形容している「浪花の恋の物語」で見事なまでの踊り、しかも文楽人形の如き動きを見せている。映画女優になって恋の遍歴を開陳しているが、東京オリンピックを撮った監督が如何に男として情けないかを書いているのはご愛嬌である。元夫中村錦之助についても、役者としては最高、夫としては最低でしたとちと手厳しい。また今井正監督に「待った」の一言を一週間も言わされ続ける演出に閉口したこと、小津安二郎監督の「行くわ」の発音を徹底的に指導されることなぞ、いかに名画と呼ばれるものが名画たる所以かの一端を教えてくれている。また、往年の美人女優が、どうして今、きれいな日本語を喋るのかがわかる。

 その後銀幕から、舞台へと彼女は活動を移す。舞台女優として自分の十八番を持つことがどれだけ素晴らしいことか、そして大変なことか。「風と共に去りぬ」を演じたとき、名演は馬のみと書かれたという恨み節?も可笑しく書いている。この舞台では本物の馬を登場させたらしい。菊田一夫に、宇野重吉に師事し、民芸で一から勉強し直すところが有馬稲子の女優魂なのかもしれない。後半部分は、今の生活について書いている。高齢者向けのマンションに越したこと。そしてそこで朗読会を催した折に、近隣の方から、音楽の演出に関するさりげない助言を貰ったこと。赤の他人が集まり住んだマンションだが、それぞれの特技がいつまにか解け合って一つの共同体を形成していくことなどである。

 仕事と家庭をどう両立させるか、どちらを採るか、働く女性ならではの悩み、そして今の日本の有り様を語っている。あの戦火の嵐を越えたからこそ、満州から帰るという苦労をしたからこそにじみ出てくる言葉がそこには見えるような気が小生にはした。

  「喉元過ぎれば」有馬稲子 日本経済新聞出版社 刊 1800圓(税抜き)です。 

 

 


わかりあえないことから

2012-10-23 | 

 「戦後史の正体」 孫崎享 創元社を読むと、米対従型首相と対米自立型首相が見事に色分けしてある。長期政権は周知の通り米追従型首相である。長いものには巻かれろよろしくである。吉田茂から始まり、鳩山民主政権に至るまでいかに「上手に巻かれようとした」か、そして戦後六十年の間、日本のエスタブリッシュが米国により、また自主的に思考停止に陥っていくがが描かれている。それは、米国が日本を「植民地」扱いしかしていない姿を浮かび上がらせる。そして、マスコミが長きにわたって思考停止に国民を追い込んで行ったかもわかる。これは先の震災で、さらには今回のips細胞騒動でも明確になっているが。意外だったのは福田康夫の退陣であった。筆者は、官僚制度をシンクタンクと定義し、現在の官僚制度の瓦解、崩壊を危惧している。マスコミによる「官僚は悪なり」のキャンペーンで、官僚制度を否定していく姿勢に疑問を投げかけている。勿論、思考停止に陥った官僚は不要であると断りがある。単に「シロアリ」と形容する事で、官僚組織、もしくは優秀な人材を潰してしまっていいのだろうか、いつまで日本は対米追従、換言すれば、人任せで人生を考えて行くのだろうかという問いを読者に投げかけている。

 この本を読んで、併せてアーミーテージレポートを読むと今の日本の政治が立体的に浮かび上がってくるのが恐い。そして前々から一部の人々が唱えているように、一人一人がなんでもよく考えなければならない時代に突入してしまったのだと。小生のような無精者は、一生「与太郎」でいたいのだが、どうもそうは問屋が卸してくれないらしい。はてさてである。

 さらに小生を悩ませることは、「わかりあえないことから」 平田オリザ 講談社現代新書 である。コミュニケーション能力とは何かを、コミュニケーションとは何かをあらためて考えさせてくれる。立て板に水の如く言葉を繰り出すこと、そして堂々と意見を言う事だけが、正確には言葉をつかうことのみをコミュニケーションであると考えると陥穽に落ちる恐さ、そしてその恐さに気づかずに教育(学校教育、社員教育)が行われている現状を筆者は指摘している。「ダブルバインド」というのが、コミュニケーション教育の陥穽である。一例として、学生時代から意見をはっきり言うようにと教育しながら、一度企業に入ると軽々に意見を言うな、惻隠の情を知らないのかとやられる。また明治以来の国語教育が看過してきた「日本語教育」、即ち発音、発声教育も指摘している。本書は、コミュケーション教育の背景にあるものと実際の教育現場で筆者が行った授業の方法の二本立てである。教育者だけでなく、教育に無関係の人にも目をとおしてほしい一冊である。

 一見すると無関係な二冊を挙げたが、これがしっかりとつながっているのです。相変わらず支離滅裂な文になってしまいましたが、そばに大工頭領、政五郎さんが居らぬもので、しっかり伝えられないのが与太郎の性であります。

 

 


華氏451度

2012-10-08 | 

 レイブラッドベリーの「華氏451度」は焚書の未来を描いたサイエンスフィクションホラーである。書物を所有している家は、消防隊によって焼かれ、没収した本も彼らの手で焼かれる。毎日のように、戦争が行われ、人々は壁一面に映るテレビで現実逃避をし、ストレスの発散に車を飛ばし、世の中のことなどの無関心である。主人公は、仕事帰りに出会った謎の少女に魅了され、自分が焼いている書物について考え始める。書物には何が書かれて、書物を読むと何が起こるのか。ある日、主人公は、書物を最後まで守ろうとし、自ら焼身自殺を図る老婆に遭遇してしまう。その家から主人公は何冊かの書物を自宅に持ち帰ってしまう。そして書物を開く。

 本を持ち出した事が主人公の上司の知る所となる。上司は、書物は下らぬものといい、人を堕落させるものだと説く。そして世の中はなんでもスピード、スピードの世界だと。戦争も核爆弾を落としてすぐに終わる。悩みが生じても、テレビに映る様々な場面をみていれば、あっという間に忘れてしまう。車を猛スピードで走らせれば、運転に集中する事になるから、むしゃくしゃした気持ちもたちまちなくなってしまう。書物などじっくり読んで時間を使う事など、下らぬ考えを抱き人を不幸にするだけだと。書物に書かれているのは真理なぞというたいそうなものではなく、矛盾と欺瞞であると。

 ブラッドベリーがこの作品を書いたのは1953年である。原爆が実際に使用され、鉄のカーテンがひかれ、テレビに、車が、冷蔵庫が家庭に揃い、世界は生臭いかもしれないが、アメリカは輝いていた時代である。あらためてこの小説を読んで、ブラッドベリーの世界は今の私たちの世界ではないかと。スピードに酔いしれ、世の中とは自分とは離れた世界に存在し、娯楽ならぬニュース、ニュースで毎日をあっという間に終わらせる。テレビの代わりに、小さな手帳のような画面を人々は指先でいじっている。頁を繰って自分の求める一語、一文を探すのではなく、徒に目につくものはないかと画面をスクロールさせる。そして書物も、いつの間にか方法論と要約ものばかりになってしまい、爽快感なりをもたらすものばかりになってしまった。今、村上某なり、高橋某なりを読んで、じっくりとその世界観なり、物語をじっくり味わって読む読者はどれだけいるのだろうかしらん。十代は、乱読、多読と小生は上の世代から教わった。年を経て精読も覚えよと言われた。精読、熟読はどこへやら。眼光紙背を徹すも死語になり、一時、速読ブームで書物は消費された。

 あのくるくる変わる画面の電話機が普及し始めてからというもの、街のあちこちで、電車の中で、駅のホームで、果ては自転車にのりながら、周りのことなぞ気にせず、指を動かす輩が増えた。いくら画面をいじくっても、福島の放射能は減るまいに。汚染はなくなるまいに。恐いから、画面を見るのか、それともあんなことなぞなかったことにして画面を見ているのか。天災は忘れた頃にやってくると寺田先生のご宣託である。

 


開沼博 フクシマ原子力村を読んで

2012-04-06 | 

 山本翁と橋本治氏は、同じことを何度でも書くと言って憚らない。小生も、それを範にして、もう一度書きかます。ミュージックセキュリティー / 明日の希望 / 復興市場 / 希望の牧場 の四カ所であります。地道に募金なり寄付をお考え方、思いつきで寄付しようと思っている方、どれか一つ検索して訪問してみてください。なお希望の牧場はユーストリームで動画が閲覧できます。すみません、いつもの如くURLが抜けてしまいますが。

 『フクシマ原子力村は何故生まれたのか』開沼博 を読むと、原発を誘致していた場所がいかに戦前から困窮した土地であったかがわかる。開沼氏は、原子力村誕生の時代だけでなく明治の近代化まで射程に入れて考察している。日本が近代化していく上で「必要だった犠牲」と戦後復興する上で「必要だった犠牲」その二つが相俟って大きな化け物「原子力村」を作り出したと小生は読後の感想を抱いた。日本の近代化の陰と陽なら、教科書で、屯田兵に足尾鉱毒、そして八郎潟の干拓と相場が決まっている。江戸に遡れば、新田開発、養蚕、甘藷栽培か。人のすることなぞたかが知れてる。百年が指呼の距離なら二百も、三百も、いや千、二千も同じだろう。あきたこまちに、ささにしき、こしひかり、東北が米所というが、戦前、戦後と品種改良し、めでたく今日に至った。米は南洋の作物である。戦前の米作の写真をみると、腰、胸辺りまで体を泥に埋めて苗を植えている。膝までつかるぬかるみは現代の光景で、それこそ昔は米を作るのは重労働であった。農家の次男坊は、都会に出て職を探す。都会が人でいっぱいになるのは、近代からではなく、すでに江戸から生じていた。ハワイ、ブラジル移民はつとに有名だが、ニューギニアの島々にも移民はいた。平成の御代になって、その島々に移住した日本人が日本政府を相手取って訴訟を起こした。曰く、移民先の土地に関して偽りありと。海外移住が新手の新田開発かとその記事をみて悟った。満蒙開拓団も然り、生前小生の叔父は、できるなら満州で一旗揚げたかったと悔しそうに言うのを聞いた。満州からの引揚者はどうなったかといえば、戻る故郷もなく、新たな開拓団として日本各地に散っていった。長野の佐久に神津牧場がある、メイコの亭主神津善行の生家である。神津家も長野に移民してきた。嬬恋もまた移民によって開墾された土地である。農家と言えば代々と考えがちであるが、農機具の進歩を見れば、そうそうあちこち開墾できるものではないと想像に難くない。原発誘致の村もまた、忘れ去られる運命にあった農村である。奥田英朗の『オリンピックの身代金』はフィクションの形をとって、出稼ぎ労働者と出稼ぎを出さなければならない農村の実状が具に書いてある。

 仕事がある、若い者がいる、教育が十分に受けられる、原発だけではない、工場が地方に乱立し、そしてその工場が今や基幹工場として地方に存在している。今回の被災地で三ヶ月で復興した自動車工場がある。自動車の部品を扱っているその工場は、世界の車における、商品の占有率が90%だと仄聞した。工場が稼働しなければトヨタもフォードもメルセデスもない。すわ一大事と呉越同舟ならぬ各メーカーが挙って復旧に手を貸した。

 小生のような「都会暮らし」の人間は、いつの間にかその変貌と歴史を見て見ぬ振りをしてたのではないか。(正確には小生だけであるが)。今回のフクシマの事故で、考えたことの一つに、日本の近代を存外知らぬということである。戦後どれだけの土地が開墾するために移住者を受け入れたか、「日本全体が貧しかった」と口にするが、「口減らし」というような本当の貧困がいつまで続いていたのか。つらい作業であるかもしれぬが、誰かしっかりと解き明かしてくれまいか。才のある者ならフィクションという形でもいいから。

 

 


写真集

2008-05-04 | 
人並みに旅行をしているが、今の今まで写真というものを撮ったことがない。おいそれと行けぬ所にまで行かせて貰って、写真の一葉も撮ってこない。この春先、仕事を兼ねて異国に出かけ写真を撮る破目になった。デジタルカメラなんて高級なものなぞ生涯使うまいから、使い捨てカメラを一つ、後は現地で調達した。慣れぬ手でレンズを覗いてはパチリの始末である。もとより、写真音痴であるから、写っているかは神のみぞ知るわけである。出来上がった写真を見たら、自分が実際見た風景と違っているものがままあった。満足に映っていたのは野に咲く花一輪だけである。開き盲とは、このことなりけりである。
 ここに一冊の写真集がある。題名は、「キッズフォトグラファーズ 盲学校の23人が撮った」である。プロのカメラマンが盲学校の生徒に使い捨てカメラを渡して撮らせたものである。生まれた初めてカメラを持った子供たちにカメラの構え方、持ち方、シャッターの位置を教え27枚を大切に撮るようにと声をかけた。なせるかな、子供たちは見事に自分の日常を一つ一つ丁寧に切り取ってきた。肉親の表情、自分のペット、友達、先生、風景と、どれもがここしかないという瞬間を捉えたものばかりである。中でも通学路を取った一葉には、感動と同時に考えさせられてしまった。構図の中心に点字ブロックが写され、歩道がずっと彼方へと続いている。もう一葉は、ちいさな子という写真である。写真のしたには、近所の公園で撮りました。私が「写真を撮ってもいい?」と聞くと「いいよ」と、はずかしそうに言ってくれました。私はちいさい子がかわいいので、とても好きです。とある。子供は、じっとレンズを見つめ、半ば不思議そうな表情を浮かべている。その表情は写真機に初めて出会った表情にも似ている。幼子はそれまで恐らく何度も肉親に、身近な人にレンズを向けられているだろう。
 心眼というが、全体どうやったらこういう写真がとれるのであろうか、写真集を企画したカメラマンも書いているように全神経を集中して、他の器官を補って指先に、レンズの向うに意識を向けているのであろう。それでも言うは易し、行なうは難しである。
 かつて盲人宅を訪れた時に、暗い部屋でつまずいた。彼曰くこれだから目明きはしようがねえ。言われて互いに呵呵大笑した覚えがある。
 件の写真集、新潮社刊、定価1100円。大きさはA5サイズであるよし、掌に乗る大きさ、書架では見つけにくいかもしれないが、是非ともご購入されたし。

万理ちゃん

2007-09-18 | 
山本翁は「生きている人と死んでいる人」という文をものした。死んでいる人とは死んでいない人のことで、その著作、作品を通してその人と知己となり、当人の中では世に死んでいる人が生きている人に代わるという話である。なるほど巷間落語ブームとやらで、志ん生師匠に纏わる話や、倅の志ん朝師匠の話の本が新刊として演芸コーナーに並ぶ。ともに鬼籍に入っているが、これなぞは「生きている人」の証である。
 同時代を生きていることは誇りであるが、世に順番なるものがあるから、こちらに不都合がなくても、あちらに不都合があれば「お先に失礼します」の一言で「死んだ人に」なってしまう。死んだ子の齢を数えるではないが、好きな作家、著述家が鬼籍に入ってしまえば、その後の作品は存在しない。死んだ子の持ち物をいつまでも手放さぬよう、何度も、何度も著作物を繰り返して読む。縦令そのようにして生きた人になったといえども寂寥感が漂うのはなぜであろうか。死ねば単行本で最新の、最後の作品がまとめられ、幾年かして文庫化される。
 この度、米原万理女史の高校生向けの講演集が新書になって発売された。お懐かしゅう万理さんと言って二冊ばかり購入したが、彼女の知性とヒューモアに富んだ語り口調は健全なままであった。なれど、既に彼女は世に言う「死んだ人」である。もうあの口調を聴けぬし、新たに紡がれる文が読めぬ。それでも「フラレタリアートとフルジョアジィー」なんて文句に自然と笑みが浮かんでしまう。
 秋の夜長という気候ではないが、虫の音を効果音に書に目を通す夜を連日続けております。

哲学犬

2007-03-18 | 
余計なお世話で、お節介は百も承知だが、全体あの犬はどうなったのだろうか。恐らくは家族いるから、家族の下へと引き取られたのだろう。にしても親下であれば、既に、高齢である。老夫婦に大型犬の世話は大変だろう。散歩はどうしているのかしらん。環境が変わって戸惑っていやしまいか。亡くなった飼い主のことを思い、人のような素振りを見せることもあるだろうに。近頃、霊長類と呼ばれるものですら、禽獣にも劣る仕儀をするのだから、それを思うと忠犬というものが、いかに切なく思えることよ。
 新書の類を見渡せば、ビジネス関係の人が書いたもの、学者が書いたもの、タレントが書いたものとある。ビジネス書は、元リクルートなんて肩書きが目立つ。学者の方は、団塊の世代、もしくはその下の世代が花盛りである。学者の著作物を読んで思うのは、この二,三十年、頭の中が進歩していないということである。学問は日進月歩といえども、そう簡単に変わるわけがないから、十や二十の時間の単位で見るのは間違いなのかもしれない。それでも、思想書関係を覗いてみると、小生の学生時代に流行ったものの焼き直しばかりで、現実とあまりに乖離、遊離しているのに嗟嘆してしまう。内容はとりあえず目をつぶることにしても、岩波の影響か、はたまた学術論文の影響か、読む相手を全く無視した文体に閉口させることがままあるのが実状である。横文字をそのままカタカナにして、それでも横文字の意味合いと日本語の意味合いの差があると拘泥して、挙句、学術論文になる。
 考えるということは、誰でもいつでもお金をかけずにできることなのに、まるで考えることが一部の特権階級にしか許されないような文体である。そのような文体を極力拝して、下手な肩書きに縛られずに哲学について書いていた池田さんが、西国浄土へと旅立ってしまった。「死ぬの大好き」というほどまでは行かなかったにせよ、ある種の達観と境地に達していたことを面白く書いていた人物である。彼女は、小生の知る限り、飼い犬を一匹亡くしている。その後、自分の齢と相談して、死んだ犬と同じ名前をつけて、新たに大型犬を飼いだした。飼い始めたのは三年前になるか。
 池田さんは、最後まで仕事をやり抜いて彼岸に行ってしまった。残された愛犬はどうなっているのだろうか。禽獣は人智を超えた感覚があるという。池田さんの愛犬も、きっと彼女をどこかに感じているのだろう。

職場はなぜ壊れるのか

2007-02-23 | 
『職場はなぜ壊れるのか』荒井千暁 ちくま新書 を読むと、なぜこうもサラリーマンを筆頭に街ゆく人達のモラルの低下が著しくなったのか、そうして駅の構内がなぜ殺伐としているのかがよくわかる。著者は精神科医で産業医で、彼が会社という現場で出くわした能力主義、成果主義なるものの実態、実状がどんなものかを述べている。またいくつかの新聞記事から過労死、労災を拾い上げ、その背景に何があり、何が原因で自死に至ったかであるとか、女性特有?の新手の鬱病も示してくれている。
 何よりも怖かったのが成果主義の実態と職場である。成果主義の導入で、よい成績をあげようと目標を低く設定してしまう社員。後輩や同僚に仕事のやり方を伝授しないという風土の形成。更には、退社していく社員の「鼬の最後っ屁」ともいうべき暴挙。
 個人情報の大量漏洩事件の背後には、それを犯した社員もしくは元社員ではなく、むしろ会社にないに巣食う「成果主義」があるという指摘には、ぞっとさせられる。成果主義が、かつての小学校の「相対評価」にしか成りえないという馬鹿馬鹿しさ、それを操る管理職の愚かさなどが、紙背から感じ取れる。
 そのような職場から開放された人間が乗る通勤電車の風景がどのようなものになるか推測するまでもない。
 考えてみれば、年功序列で管理職になれたのは時代の安定した証拠で、かつ多少の事があっても会社に余裕があった時代のことである。こんなことはもうとうにわかったことであるが、ただ、つらづらと管理職なる存在について考えてみると、幼少期、青年期にかけて、どれだけリーダー職を経験してきたか、さらには、「議長、司会進行」の役目を経験してきたかが大きいのではないか。ここで思うのは、「議長、司会進行役」という位置である。田原何某、筑紫何某のようなものをぼ思い浮かべては困る。議長なり司会進行は、会議、催し物がいかに滞りなく行なわれるかに徹するのであって、出された意見の中に自分と同じ考え、全く異質のものがあっても、感情、私見を一切差し入れてはいけない。
 ところが戦後民主教育の成果か、それとも勘違い個人主義のためか、意見を表明することが徳であり、言わないことが不徳にされてしまってから、議長、司会という立場を離れてものを言う人間が増えたのではないか。俗に「ちょっといいですか」の一声があって「ここまでの議論をまとめますと」の続きである。文章が乱れるのを承知で書けば、「その続きは、朝顔の前で並んだ時でいいんですよ」と言いたくなる続きである。
 ここまでは会議の流れで話を述べてきたが、管理職とは、この議長のように下手に手や口を出さない存在ではないか。出すとしたら、金銭面と関連箇所との折衝だけである。勿論、成果主義とやらで今述べた二件の案件も自分の出世、査定に響くから投げ出す輩が増えているのも確かであるが。
 本の紹介から思わぬ方向へ話が転がってしまったが、『上司は思いつきでものを言う』橋本治も併せて読むと、すこしは思考停止人間に困っている人の役に立つと思うのだが。いっそのこと株式会社日本をやめてみますか。 

アマゾン

2007-02-12 | 
アマゾンで買い物をしてみました。すると、アフリエイトというのですか、ログインする度に、お勧めの作品がありますと出てきます。最初は何のことかわからず、商品の下にある、持っています・興味ないを適当に選択し、更新のボタンを押してみました。すると、新たにおすすめ商品の一覧が出てくるではありませんか、ちなみにDVDでXマンファイナルを、持っていますと押したところ、カーズ、ウルトラヴァイオレット、ナルニア国物語、スーパーマン、パイレーツカリビアンが出てきました。スーパーマン、ウルトラヴァイオレットはわかりますが、カーズ、パイレーツはわかりません。まあ新作の系譜を辿るとそうなるのでしょうが、でも、先の二つがあるのなら、残りは自ずと決まってくるのでしょうが、そうならないのが消費者動向の面白いところでありましょう。
 ちなみに書籍の方は、カフカ、ドストエフスキー、なぜかカラマーゾフの兄弟であります。カフカは変身であります。O嬢の物語なんてのも出てきました。吉本隆明なんてのも出てきました。
 書架にある本でその人物の人となりがわかりますが、アマゾンの更新でも人となりがわかるのではないかと思った次第であります。つむじ曲がりの小生でありますから、当然、答えは先にも述べたように出鱈目であります。ちょっとした退屈しのぎ、パズルでありまして、新しいおもちゃを手に入れた気分であります。難点は、アマゾンで買い物を適度にしなければならないということでしょうか。ふとこのように書いて思ったのですが、成人向けのDVDなり、書籍なりを購入したら、当然のごとくお勧め品が並ぶのでしょうなあ。
 そこで、周防監督の「変態家族、兄貴の嫁さん」なんて購入したらどのようになるのかしら。日活ロマンポルノ系に走るのでしょうか、周防監督作品に走るのでしょうか、それとも松竹、成瀬や内田に走るのでしょうか。まさか一足飛びにトリュフォーなんてことはないと思いますが。