goo blog サービス終了のお知らせ 

笑わぬでもなし

世相や世情について思いつくまま書き連ねてみました

父親達の星条旗

2007-05-15 | 映画 落語
「父親達の星条旗」を観ました。クリントイーストウッドならではでありますが、途中、スピルバーグの演出も入っております。にしてもであります。硫黄島から還ってきた三人が政府のプロパガンダに利用され、戦争の傷跡と心の荒廃で落ちていく姿を撮っているのには応えました。硫黄島に立てられた旗が、最初の旗ではなく、二番目の旗であったという事実を隠し、実際に立てた本人ではなく、そばにいた人間であったという事実、すべてが国威発揚の名の下に隠蔽され、利用されていくのは、洋の東西に関わらず同じものであります。日本で言えば、肉弾三勇士であります。
 さて、父親達の星条旗の中でもイーストウッド節は効いておりまして、三人の兵士の中でも、インディアン出身の兵士を中心に置き、偏見との戦い、人権闘争、さらには戦後の生活というものを淡々と描いております。マカロニウエスタンなんて名をつけられた彼の西部劇でありますが、西部劇の父ともいうべきジョンフォードの衣鉢を見事に継いでいることを、この映画でも証明しておりました。
 英雄と祭り上げられた重圧に耐え切れず、途中でプロパガンダの役目を自ら辞し、インディアンとして困窮極まる生活に堕ち、最後は家畜小屋の片隅で死んでいく。戦争に駆り出す時は、市民だ国民だと囃し、帰ってくれば一時の間、時の人として扱い、挙句戦争に行く前と変わらない扱いに戻ってしまう。わが国にもこのような経験なり体験をした方もいられたことでありましょう。まるで「サーチャー」を、二次大戦の記憶に焼きなおしたようであります。人を人として扱えとは、「許されざるもの」の中で主人公のウィニーが言った台詞であります。今回は語ることなく、見せることで観る者に、それを教えてくれています。
 遅ればせながら申し上げれば、物語の内容は、硫黄島に出征した父の軌跡を息子が辿るものであります。生前、戦争のことを語ることなく人生を歩んだ父の姿は、現在の日本の中で戦争について語ることなくひっそりと旅立っていく方々の姿と重なります。
 「父親達の星条旗」、「硫黄島からの手紙」では、戦争の悲惨さを語らない父の姿を描いております。それは子供を愛するがゆえに語らない意志の不屈さでもあります。イーストウッドは二本の映画で、戦争の愚かさだけでなく、父親達が私たちに残してくれた愛情の深さを私たちが忘れてしまったことを教えてくれています。
 読者の中には、そこまで言うかと思われる方もおるでしょうが、小生、ツメの先から頭のてっぺんまでイーストウッドファンでありますので、あしからず。

蜆売り

2007-05-01 | 映画 落語
アクセス頂いた皆様にはご迷惑をおかけしました。忙しさにかまけて、書き込むのがついつい遅くなりまして、光陰矢のごとし、あっという間に皐月であります。江戸っ子は皐月の鯉の吹流しということで、あっさりと流していただければ幸甚であります。
 お話変わりまして、ワウワウで志の輔落語の第2弾が、昨日放映されました。しっかりと録画して、その内容を見ました。徂徠豆腐と蜆売り、それに新作という三本立てであります。パルコでの演目は、他の古典芸能やら芸能とコラボレーションを一つの眼目にしている為、自然と演出過多になってしまうのが、ある意味難といえば、難でありますが、にしても家元譲りの世相を語る段で、お客さんの反応を見た師匠の慧眼には唸らされました。その上での、コラボレーションと考えれば、師匠の世界が一つ体系立てられたものとして十分満喫できるものであります。
 さて、三つの演目のうち、新作と銘打って「蜆売り」であります。天保?の義賊ねずみ小僧次郎吉が、箱根の宿で助けた二人連れ、助けた恩が却って仇となり、その仇が原因で、幼い子供が蜆を売らねばならないという人情話であり、講談物であります。噺の中の登場人物は、ねずみ小僧とその子分、そして蜆売りの少年の三人であります。志ん生師匠は、講談で磨いた語り口でしんみりと聴かせ、合間に落語のくすぐりをいれるという味のあるものに仕上げております。その大ネタともいうべき、噺に今回志の輔師匠は挑戦しております。勿論、志の輔師匠に講談の経験はありません。講談の語りの部分を、話法に代えて噺を進めていきます。先ほど述べた師匠の慧眼ともいうべき卒のなさでありますが、新作とした所以は、下げのない噺に下げをつけたところでありましょう。その下げが厭味のないものに仕上がっておりました。志ん生師匠の下げは、講談の如く、箱根の施しが仇となったのを知り、自ら自首して終わるものであります。今回、志の輔師匠は、自首までの過程をつけました。蜆売りの子供を帰し、次郎吉が事の真相を知ると、そういう訳ならお恐れながらと名乗って出ようと子分に漏らします。漏らした途端、帰した子供が忘れ物をしたといって再び登場します。その子供に、次郎吉は語ります。「もう少ししたら、いいことがあるよ」「いいことってなんだい」「蜆を売らなくても済むことだよ」「おじちゃん、うれしいけど、そんなの嫌だ、それじゃあ、おじちゃんが」・・・・・「ぼうや、おじちゃんのことがいうことがわかるのかい」「うん、おじちゃんが(伏字)」という具合であります。
 伏字の部分は皆様ご自由にお考えくださいませ。相変わらずのカット割りには腹が立ちましたが、まっ、パルコ劇場での公演ということで、こちらも大人になりましょう。

久しぶりの鬼平

2007-04-08 | 映画 落語
過日、久しぶりに鬼平が復活した。池波先生の名作である。改めて放映された番組をみて、原作の完成度の高さに驚嘆した。先日は「一本眉」という題名であったが、脚本はタイトルと同じ原作に、別の作品を織り交ぜたものになっていた。話は思い出せるが、題名が浮かんでこない。すみません。その浮かんでこない話の内容は、盗人の本分、犯さず殺めず貧しいものから奪わずの掟を守る盗人一味が、お上、火付け盗賊改めに代わって、急ぎ働き、殺戮して略奪する盗人一味を懲らしめるというものである。かたや、一本眉の話は、顔に特徴のある老盗が平蔵をいたく気に入り、盗みの助太刀を頼むが、盗みにかかろうとした、まさにその日、平蔵の眼前で、心臓発作に見舞われ死んでしまうという話である。
 どちらも、「おつとめ」の掟を守り、盗みを職人芸とする盗人が出てきて、かつまた、盗人にも義侠心がある姿が描かれている。この二つの話を重ねてみることは、想像力が膨らみ、盗人に変わる平蔵の姿、盗人ながらも正義を貫く姿と、人間の持つ矛盾を見せてくれる面白い作品になりそうである。だがしかし、時間枠がいけなかった。二時間という、正確には80分程度にまとめるには無理があった。いつもの仲間達、蟹江敬三を始めとする密偵たちの活躍が途中見事に抜けてしまった。盗賊の大親分に見込まれて、仲間になった平蔵の活躍も中途半端に終わってしまった。
 実験的に24の手法を用いて映像化したらどうなったのだろうかとも考えたが、現代劇ならともかく時代劇では白けてしまうかもしれない。
 いずれにしても、池波先生の物語の完成度を知るには、いい作品であった。テレビで見る吉衛門は、少し太ったのでしょうか。

志の輔師匠の「中村仲蔵」

2007-03-23 | 映画 落語
前回は、怒りに任せて、ばかにつける薬はないと言った。芸人殺すにゃ刃物は要らぬ、誉めてそやしておだてりゃいい。馬鹿な、ダメな客こそ、芸人をだめにしていく。噺家、漫才師の場合は変なところで笑えばいいだけである。笑わない、笑えない場所で声を立てて笑えば、すぐにだめになる。カメラワークの酷さに腹を立てたのも、こういう所以である。
 さて志の輔師匠の「中村仲蔵」である。中村仲蔵は、歌舞伎役者で名門の出ではなく、素人から名代になった名人で、この噺は、仲蔵の一代記であり、人情話の類である。出が出ゆえに周囲から白眼視され、理解者は師匠の団十郎のみ、芸にこだわるあまり、戯作者と衝突し、意趣返しに忠臣蔵五段目、斧定九郎という端役を押し付けられる。演じれば、名代にくせに端役をやって格が下がるとけなされる、断れば、調子に乗ってけなされる、どっちに転んでも仲蔵には部が悪い。それでも役を引き受けて、誰もが演じたことのない定九郎を創らんとする。これがお話の内容である。下げは二通り、死のうと思った仲蔵を前にして師匠団十郎が「役者の神様が仏になってはいけない」という。即ち、下げはあってもなくても構わない噺である。
 円生師匠は、この意趣返しの由来まで話してくれる。志の輔師匠はそこを省き、五段目はどういう話か、どんな舞台かを語り、効果音として、歌舞伎の音曲を取り入れる。さらに仲蔵が定九郎の衣装を思いつく場面。俄か雨に遭い、雨宿りに入った蕎麦屋、そこに後から駆け込んできた侍。その姿でひらめく。この場面を、侍と仲蔵のやり取りで場面を描く。侍が勘定を置く所。「親父、勘定はここに置くぞ」「有難うございます、そうしますと…」「数えんでもよい、もとから足りん」と笑いを入れてる。仲蔵がいよいよ舞台で披露する。客の反応がない。この場面、円生師匠は、客の視点と仲蔵の心理描写と交互にいれる。志の輔師匠は、仲蔵のみを中心にして、心理描写のみ。舞台をしくじったと思った仲蔵が町を歩く。客の声が自然と聞こえてくる場面。志の輔師匠は二人の登場人物を出しておしまい。円生師匠は、一人にたっぷり語らせて、客が出て行く情景描写になる。下げは円生師匠の下げを踏襲。
 歌舞伎を見ない、知らない客にも話の奥行きを出そうと、解説を避けて会話で話を運んでいこうとする志の輔師匠の配慮は頗る好意が持てる一席。
 しかし、子は親に似るではないが、弟子は師匠に似る。枕の語り口、噺の合間に見える口調が、家元そっくりである。これ誉めているんです。
 さて五段目、まっくろけ節の一節、与市兵衛、杖を頼りにとぼとぼと、おいおい定九郎、提灯ばっさり、まっくろけのけ、おやおやまっくろけのけ。
 小生、橋之助の定九郎がお気に入りであります。
 詳しくは、ネットなんて野暮は言わず、歌舞伎座、寄席に言って確かめて下さい。と書いて、ワウワウを見ている小生であります。

かわいそうな志の輔師匠

2007-03-21 | 映画 落語
余計なことをして人の気分を害したり、仕事を台無しにすることはままありますが、他人の足を踏んでいるのを知らないで、善意を行なっているということほど始末に負えないものはありません。以前ならば、犬畜生同様に、しっ、しっと追い払ったり、後ろから首根っこを掴んで引きずりだせばすんだのですが、今日日、文明の利器とやらを持ち出して闊歩しているから、殊更始末に終えません。物を知らないでいることが、こうも恥ずかしくないのかと呆れかえってしまいました。
 今年の正月、渋谷パルコ劇場で上演された立川志の輔師匠の独演会が、ワウワウで放映されました。謳い文句にカメラ八台を設置して、志の輔落語の世界をたっぷり見せます。ドキュメンタリー番組の類と思い小生は、チャンネルを合わせ、ブラウン管の前に鎮座すること暫時、志の輔師匠とナポレオンズが出てきて、今回の舞台について思いや、舞台裏の話を語りだしました。それから間もなく、画面はパルコ劇場の本番の舞台をまるまる流し始めたのであります。その映像を見て、小生言葉を失いました。馬鹿につける薬はないと俗に言いますが、本当にないのです。落語は話芸であると同時に空間芸術であります。噺家が首を左右に振って、上手と下手を作るのは、話の中に空間を作り出し、場面転換やら、語りの部分を聞き手に伝えようとするものであります。それをカメラ八台設置して、志の輔師匠の語りをずたずたにしてしまっておりました。舞台の真上、真正面、左下、右上とこれでもかと角度をつけて師匠の姿を映し出しますが、やればやるほど師匠が創出、演出した空間が、おしゃべりになっていきました。この問題は今に始ったことではなく、実は落語がテレビで放映された初期の頃にありました。昔ですから、カメラの数は知れてますが、真正面に一台、右に一台、左に一台と置いて、語りが進むにつれてカメラアングルを切り替えたのです。当初、舞台の上から見える風景、演者の熱演が目に飛び込んできて好評でありましたが、上下が視聴者に曖昧になり、登場人物の人間関係が不鮮明になるという事態になりました。噺家さんからも、噺が壊れるからという苦情が出て、今日「みなさまのNHK」で映しているような形態になったのです。
 志の輔師匠は「中村仲蔵」を演じるに際し、口頭で説明するのでは不足するから、客が話の深みがわかるようにと、歌舞伎の音曲を取り入れました。噺の立体感を出すためにであります。その心意気を知っていたのか、知らないのか、パルコ劇場に設置したカメラは見事に師匠の期待を裏切っておりました。冒頭に申したように、ドキュメンタリー番組ならば、様々な角度からの演者の切り取りは面白いし、演じる熱気、舞台への意気込みも伝わるでありましょう。なれど舞台中継であります。
 「みなさまのNHK」が毎週日曜日の舞台中継で、歌舞伎や能・狂言を中継する時、「渋谷寄席」で落語を中継する時、なぜカメラが舞台正面にあるか、考えてもらいたいものです。小生のような素人にもわかることが、プロにわからないとは。しつこいようですが、馬鹿につける薬はないようであります。件の番組の終盤に、「落語は歌舞伎と並んで古典芸能です」のナレーションが入っているのには笑えました。
 本来ならば志の輔師匠の舞台の凄さを書くところですが、本日は怒りが勝ってしまいました。あしからず。

星の王子様

2007-03-13 | 映画 落語
映像というものは、時に残酷で、本人にそのつもりがなくても、映像を見れば限界なり、老醜なりを見せてつけてしまうことがある。ましてや、技術がこれだけ進んだ世の中であるから、声の張り、皺の数までがはっきりとしてしまう。かつては、映像を見て視聴者なりが、判断した。今では、それに声をかぶせる。
 寅さんが、いつの間にか襟巻きをするようになったのも老醜を避けんがためで、寅さんは永遠に、寅さんでなくてはいけないという渥美清の一流の配慮であろう。
 話の枕が長くなったが、円楽師匠の引退である。長年「笑点」を務め、司会までになった縁からか、日テレが日曜夕方六時のニュース番組で特番を組んでいた。内容は、引退発表をする舞台までの稽古姿、楽屋での姿、本番、その後の発表、そしてインタビューであった。師匠が映像をチェックしたのかわからない。画面は国立劇場での師匠の舞台の映像。「芝浜」を演じる師匠である。師匠が一瞬どもる。それに合わせて、「言葉が出ない」のナレーション。さらに、話の中で夫婦のやり取りを語る。「ろれつが回らない」の声。ご丁寧に往時の映像の一部を見せて、比較までしてみせる。
 全体、テレビ局というのは何を考えているのだろうか。ろれつが回らないのは、映像を見て判断する視聴者であり、更に言えば、円楽ファン、落語ファン、舞台に足を運んだ客である。ろれつが回らないのを気にする客もいれば、気にしない客もいよう。今回の引退表明は本人の意向であり、ろれつが回らないといっているのも本人である。ゆえに周囲の人間、弟子や客がどんなにそんなことはないと言おうとも、本人の判断は覆らないと思われる。
 それでもである。テレビ局はわかりやすさ、親切のつもりであろうが、全く相手のことを考えていない自己中心的発想である。怒りついでに言えば、泣きの円楽なんて代名詞をつけて、女役をやらせたら右に出るものがいないなんて、まるでこの前の内閣みたいに、一点集中である。今回の出し物が「芝浜」だからといって、「芝浜」は円楽の看板であるか、よく考えてみろいである。
 芸人が芸人として舞台の上で死ねない世の中に、本物の芸が生まれてこようか。

七匹の猫 ・ クレージーキャッツ

2007-03-12 | 映画 落語
いやあ、書いてみるものです。言ってみるものです。05年からはじめた本ブログで、ハードばかりが進歩して、ソフトがない。くだらないソフトを作成する暇があるのなら、往年の名画をDVDにしてくれと、とりわけクレージーキャッツの無責任シリーズは、東宝は儲け主義か、はたまた不精か、ビデオにしたが、廉価版は作成せず、絶版扱いになっていたが、昨年からクレージー50周年ということで、DVDが発売されておりました。アマゾンで検索して、早速購入いたしました。一人ではしゃいでおりますが、小生の声よりも、なべプロの台所事情も遠因なのでしょう。
 猫たちですが、既に鬼籍に入られてしまい、残るは谷さん、植木さん、犬塚さんと寂しいかぎりであります。
 印象、もしくは思い込みとは怖いもので、「花のお江戸の無責任」では植木等扮する、助六の立ち回りが、実際にはあっけないものであることに驚きを隠せませんでした。「花のお江戸」は、歌舞伎や落語を下敷きにして作成しておりますので、助六とは、ご存知助六であります。ハナ肇が幡随院長兵衛に扮してます。さて思い込みというのは、ラストに助六が見事敵、意休と果たし合うのですが、小生の中では、かつて見たときには、「おろち」(阪妻)の立ち回りよろしく、十数名もの悪漢に囲まれ、右に左に、ばったばったとなぎ倒し、ここかとおもえばあちらに、あちらかと思えばこちらにと縦横無尽に動き回ったと思っていたのですが、存外あっさりであります。
 進藤英太郎扮する意休との一騎打ちでは、バックに、チャンバラの例の音楽が流れ、ちゃんちゃんと切り結び、暫時休憩という、チャンバラコントの一幕のような光景が幾度か繰り返されたと思っていたのが、これまたたった一回でありました。 全体どこで、そういう思い込みをしてしまったのかわからないのですが、何はともあれ、クレージー待ってました、日本一であります。
 先日、贔屓の作家、文筆家が鬼籍に入ったので、少々塞ぎ込んでおりましたが、クレージーで気分転換を図ってます。

堀の内

2007-03-09 | 映画 落語
お祖師さまで有名な堀の内の妙正寺にいってきましたが、「堀の内」同様、粗忽者の小生は、時間を間違えて中に入れぬというとんだしくじりであります。「堀の内」は粗忽者が、粗忽が治るようにと願掛けにいく話であります。神田に暮らして、朝早く、女房手作りの弁当を持って出かけますが、方向を間違え浅草の観音さまにいき、再び自分の家に戻ってきて、出直して、あっちで道をききこっちで方向を尋ねて辿り着きますが、賽銭箱にはがま口をそっくり投げ込んでしまい、弁当と思って肩にかけていたのが、枕で、それを包んでいた風呂敷が実はおかみさんの腰巻であるという笑い話であります。
 流石に、枕を抱えて、女性物の下着を袋代わりにして出かけませんでしたが、和田掘り公園から、大宮八幡、それから堀の内へという経路で散策しました。和田掘り公園の付近は高層建築が全くないので、まるで東京とは思えない光景が妙正字川沿いに広がります。川沿いの歩道は車の出入りが全くないので、犬の散歩やウォーキング、ジョギングに励む人が絶えません。高円寺の駅で降りて、南進すること十五分程度、それから東に向ってひたすら歩きました。ベンチもたくさんあり休憩にも困りません。小さな公園が所々にあり、野球に興じる小学生や、遊具で遊ぶ親子連れがおりました。
 大宮八幡に参詣してから、歩くこと三十分程度であります。無事、堀の内に着きましたが、既に日は暮れて山門は閉じております。山門の両脇には家綱公が寄進したという仁王像があり、ライトアップされておりました。
 山号寺号はどこの国の言葉でありましょうか、大宮八幡には、森がありまして都会の神社という風情はなく、霊験あらたかであります。一方のお祖師さまは、前にはスーパー、煙草やと俗世に塗れてまして、少々興ざめしてしまいました。
 山門の前には寺社内の地図が掲示されており、境内には有吉佐和子の碑があります。
 かつて、朝日新聞でしたか、落語の地名を歩くという本がありました。王子の狐、黄金餅、目黒の秋刀魚、道灌などの舞台を巡って往時を偲ぶという本であります。暇を見つけては、ほいほいと噺の舞台を散策しますが、流石に、お見立て、お直しの舞台は行きたくても行けません。今だに 葬式が山谷ときいて親父行く であります。
 仕方がないので権太楼師匠の幾代餅でも聞いてます。

アルトマンに毒されて

2007-03-06 | 映画 落語
タイトルもさることながら、ロバートアルトマンの遺作ということで、「今宵、フィツジェラルド劇場」(A PRAIRIE HOME COMPANION)を見てきました。話の中身は、長年親しまれていたラジオ番組が、買収によって最終回を迎えるという話であります。これ以上は書きませんので、見たい方は劇場まで足を運んでください。ロバートアルトマンといえば、カンヌ映画祭で「プレタポルテ」を発表した際、プレスインタビューで、「どうしてあなたの映画はわからない映画なのですか」と尋ねた記者に対して、「君がわからないだけで、私は難解な作品を作ってはいない」と名答した傑物であります。
 例によって、様々な物語が同時進行して一つに収斂される技法は見事なものであります。「ショートカッツ」や「クッキーフォーチュン」のような人生の一コマと人間を取り上げてパズルを組み立ていく楽しみさを感じさせます。この手法は、品が悪ければ24になります。ぎりぎりで上手くまとめたのが「パルプフィクション」でありましょうか。
 パンフレットにも書かれているように、AFN(かつてのFEN)で、現在も放送中の「プレイリーホームカンパニー」の実写であります。小生は見終わってからパンフを購入したのですが、映画を見ていて途中から果たしてこの状況を理解する観客はどこまでいるのだろうかと考えてしまいました。勿論、この番組自体を知らなくても映画は楽しめる仕上がりになっておりますが。小生にとっては、ギャリソンキラーご当人の動く姿を見られたのに感動し、なるほどこれがこれで、あれがあれだったのかと合点のいくことばかりでした。即ち、ラジオの向うはどうなっているのか、これほど熱心に聴いているにもかかわらず、公開生放送に行けない人のためのライブであります。日本で言えば、毒蝮の中継現場を映像にするということでしょうか。蝮師匠の、「元気で長生きしろよババア」の決まり文句がどんな場面で飛び出し、言われた本人がどのように反応しているかを映像化したといえばいいのでしょうか。
 プレイリーは最近は伊集院と被るために、あまり聞いていませんが、オルガンの効果音、ギターに乗せてジョークを言いまくる、それから訳のわからぬスポンサー提供とでたらめなコマーシャル。コマーシャルソングがどうして愛唱歌になりうるのか、更に言えば、デモリションマンの中で、未来の政府が許可する音楽が、ロックでもフォークでもなくコマーシャルソングであるかを教えてくれます。
 プレスビリアンの教会を紹介されて帰ってきてしまうなぞの女。下品な言葉を並べて歌いだすフォークシンガー。それに腹を立てる舞台監督。良質で毒の効いたユーモアが溢れる才気に最後まで圧倒されました。やはりマッシュを撮った監督であります。
 「わかりやすさ」を望むアメリカ人には少々きついのかもしれませんが、ユーモアには知性が伴うことを教えてくれた現代のモームに改めて合掌します。 
 
 

仮名手本モータウン

2007-02-22 | 映画 落語
ドリームガールズは、仮名手本忠臣蔵であります。塩谷判官、大星由良之介にして、忠臣蔵を書いたように、モータウンレコードの成り立ちと、テリーゴーディーJrの成功話を描いたものでした。ダイアナロス、シュープリームスと女性の方が目立っておりますが、その実は、最愛の女性を偶像化してしまい、地位と名声は手に入れたが愛を失った男の悲しい話です。勿論、その話の筋では受けません。一ひねりして、ダイアナロスを狂言回しに、彼の成功譚を描いてみせました。
 実在の人物が生きている限り、きわどいところは描けないのでしょう。モータウンの設立、その後ろにあったもの、また当時のアメリカの状況、黒人解放運動と盛り込めば切りがないのでしょう。上手く政治色を薄めたところに、この映画がなり、ミュージカルがヒットした理由なのかもしれません。
 ビリーホリディーの「奇妙な果実」のような隠喩もなく、ばっさり男と女の愛情物語、女性が成功への階段を登りつめていくところだけが強調されてます。
 しかし映画を見ながら思ったのですが、興行師の成功物語なら、吉本せいがあるでしょう。これもまた数年前にドラマ化されたのですが、やはり吉本の永遠のタブーは描かれてませんでした。小生がドリームガールに感じた違和感を述べれば、吉本のタブーに匹敵する話がドリームガールにもあるのでしょうが、まあそれを話に入れてしまえば、時間と設定に無理が出てしまいます。
 繰り返しになりますが、ジェイミーフォックスは、見事に最愛の女性を偶像崇拝してしまったために、ありのままの姿が見えなくなった男を演じております。それを後半部分に抑えて、小出しにしているところも見所であります。ステルス、マイアミバイスは今一つでありましたが、今回は好演してます。
 ついでにいっておきますと、黒人の歌が白人に盗作されて、パーシーフェイス張りに編曲されているところは苦笑を禁じえない場面があります。
 映画ならではの冒険を期待していたのですが、昨今のハリウッドではアクション、サスペンスとお決まりのパターンで、往年のミュージカル映画が作れないのも事実であります。
 近年はブラックムービーも入ってこないので、黒人俳優の名前がわからなくなっているのも小生には辛いところであります。