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笑わぬでもなし

世相や世情について思いつくまま書き連ねてみました

ちりとてちん

2017-04-17 | 時事
 かれこれ数十年前に、パリとベルリンを訪れた時に、かの街の文化保存,歴史保存に驚嘆した。ベルリンでは、あの大空襲で焼かれたものがあった。壁面が煤けて真っ黒な建物が何棟もあった。尤も,保存のつもりか建替えするゆとりがなかったのか知らぬが。パリでは、有名な史跡をライトアップしていた。これも今と成っては我が国でもみかけるが。ニューヨークのラジオ博物館では、過去のテレビ番組が殆ど視聴できた。受付で名前と、リクエストを記入し、ヘッドホーンが渡されて、テレビ画面のあるブースを指定される。そのブースに入って暫時待つと、リクエストした番組が始まる。歴史のない国、正確には南北戦争以後、内戦のない国だからこそできる過去への、記録への固執かと軽蔑しつつも、その地道な努力に舌を巻いた。帰朝して思ったのは我が国の文化に対する認識,理解度の低さであった。どうしてこんなに文化遺産なり,芸術なりに冷淡なのだろうかと。そして且つ閉鎖的なのであろうかと。
 震災は仕方ないとして,戦災、その後の五輪とバブルで徹底的江戸、明治,大正,昭和を破壊尽くした。文化なんてものは,贅沢で,金持ちの道楽。古いものはダメで,新しいものがよい、過去よりも未来への発展、進歩をもてはやした挙げ句が「美しい国」「瑞穂の国」である。
 橋本治先生は,近著で「バブルは金持ちがいなくなった時代」と述べている。金持ちがいないから,金持ちが何を食べて,どこへ行き、何を来て、どんな作法をしているのかわからない。わからないから「料理の鉄人」、「お宅訪問」、「社長の暮らし」なんて番組が、出来たとも書いている。小生の周りでは、サザビーズの競売に出かけて、美術品を購入しているのがいたし、外車の他に「シーマ」なんて国産車に乗っているものがいた。小生にはそれらはまるで異国の出来事のようであった。
 そして時代は、あのバブルの時、「金を持っていて、体力もある」世代が「爺い」になった。その爺いが大臣という要職に就いている。当然、美術品なんてものの価値は金でしか理解できない。文化は有形、無形にあるなんてことも知らない。文化を決めるのは権威と金銭価値だと思い込んでいるに違い有るまい。
 学芸員がガンであるという無神経さは,無知を通り越して、お里が知れようと言うものである。小生が覗くつぶやきでは,一様にあの大臣の無知さに憤りや,慨嘆しているものばかりであるが、巷間はそうでないのかもしれない。聞けば、彼の発言は外電にて諸国に伝えられたという。時代が時代なら,彼の発言自体が国辱行為である。明らかに、数十年前よりも文化に対する認識は後退しているように小生には感じられる。確かに街のそちこちに「某の道」なり散策道路が出来て街谷村の由来がわかるようになってきている。古い建物にライトアップがされるようになった。一報で、文化は金儲けの手段、町おこし,村おこしの手段であるとなってきている。おらが村、おらが街の祭りが一番という気持ちよりも,その祭りでどれだけ人を呼べるかだけが焦眉の急になっている。怪しや、「世界遺産登録」やら「文化遺産」という言葉を目にする。今や大きな祭りは「世界遺産登録」が合い言葉になっている。
 かくいう小生とて,本当にもの価値がわかるかと言えば怪しい。博物館、美術館、郷土資料館の学芸員に勝る知識を持っていない。そのような小生に出来ることはと言えば、権威や金銭価値でしか「文化」なり「ものの真価」がわからない人に馳走することである。当然、出す品は世に二つとない珍味、関西で言うところの「ちりとてちん」である。
 

五輪終って

2016-08-22 | 時事
 すみませんと繰り返されても、返す言葉がない。どうしてそんなに謝るのと聞き返したくなるのは意地悪だろうか。柔道、槍投げ、レスリング、挙げれば切りがないのかもしれぬ。レスリングの吉田選手が、繰り返した謝罪は一体誰に謝っていたのだろうか。吉田選手の謝る相手を誰何すれば、彼女の活躍で、表舞台に立つことが出来なかった選手であろうか。吉田,伊調とレスリング時代は、続く選手の道を悉く潰した。階級を変えねば、選手権に大会に参加できなかった。為に、レスリングを諦めた選手はどれだけいたかは知らない。それとも、彼女の練習を支えた人々に対してであろうか。ならば、あのすみませんは、それだけ多くの人に対して向けられたものであろうか。にしても、彼女の「すみません」は過分である。一方で、吉田選手は、女子レスリングを世間に広め、更には、階級を細分化させ、出場の門戸を広げた。それは功罪相償うというよりも、功多くして、その姿は顕彰されるべきであろう。加えて、あの災害の後で被災地を慰問し、スポーツを通じて被災者を励ました。聞けば、後輩の育成にも力を入れていた。彼女がいるから階級を変えた,変えたからには一番にと奮起した選手がいた。姉のようにしたい技術を身につけた選手がいた。これだけ貢献した吉田選手はなんで謝るのか、小生にはわからない。それがメダルの色の違いなのか、彼女の謝罪の理由は奈辺にあるのか。
 かたや、卓球の水谷選手のブログが報道され、いかに自分達が惨めであるか,綿々と綴ってあった。先の五輪の帰国時の映像が,メダルの有無でマスコミの,世間の対応が冷酷であるか見事に語っていた。それを自分のブログに綴り、バネにして強くなろうと決意した。強くなれば、スポンサーがつく。道具に不自由しない。そう誓って精進した。彼の志には頭が下がる。が、小生は、女子ソフトボールを見ている。女子サッカーを見ている。あんなにもてはやしておいて、ソフトボールは廃部寸前のところがあると仄聞した。女子サッカーは,懸命に集客を呼びかけている。 
 山本七平氏は、「空気」と名付けて,戦時の日本、日本の軍部を看破した。曰く、空気に左右され物事が決められて行く過程、決められない過程を描いた。今回の選手達の言葉の裏に「空気」があるとすれば、個人主義、民族の祭典、参加することに、感動をありがとうと謳っても絵空事でしかない。
 山本翁は「ジャーナリズムは、常に何ものかに迎合せずにいられなくなっている。読者がそれを望むと予断して、よしんばそれが架空であっても、それに対して迎合せずには一日もいられないのである」と述べた。
 五輪終って、感動物語が雨後の筍である。安売りである。師弟愛、親子愛、兄弟愛、ならべて二束三文で感動の押し売りである。見事に予断は的中して、人は迎合する。それが空気を作って行く。空気はいつの間にか選手達に伝播していく。宴の後の侘しさを、我々は五輪の後に何度も見た。あんなにちやほやしておいて、半月足らずで、球一つ買うのに窮して、練習場確保に窮してと選手達は訴える。
 そんなに謝る必要はないのに。願わくば,五輪に参加した選手全員に、メダルよりも輝きをもった本物の金メダルが彼、彼女らにとって一番大切な人から送られんことを。
 とここまで書いて,今朝知ったが,,東京五輪は国威発揚であるらしい。空気を気にして,空気を読めぬのは相変わらずである。
 
 
 

因業大家

2016-05-26 | 時事
 沖縄の暴行事件に際して、沖縄に住む婦女子は幼少の頃から、武道の一つでも習得すべきと某が言っていた。武道を身につけていれば、相手を倒せないまでも逃げることが可能であろうと考えたのか知らん。暴漢はもやし男とは限らない、体一つで襲ってくる限らない。刃物やら凶器を持っているかも知れない。はたまた身をつくような巨漢かもしれない。格闘技の経験者かも知れない。それらを考慮し、沖縄の婦女子に武道なるものを教授するなら、それこそ一年、二年では済むまいに。武道,武芸に一生を捧げなくばなるまいにと小生は考えるが。どうも件の男性は、そこまで想像力が足りなかったらしい。ましてや、今回の事件を考えれば、相手は軍人である。日頃から鍛錬を怠らず、重火器をたやすく運ぶ力の持ち主かもしれない。そんな男をやっ、とうの一声で追い払うことが出来るのなら、世に軍人なんて職業はいらない。
 沖縄の米軍による暴行事件は,本土で報道されないだけで、数多あると仄聞した。あくまでも仄聞の限りであるから、実際は少ないのかもしれない。とはいえ、万,万が一に、沖縄の撫子が海兵隊をやっ、とうで傷を負わせてしまったら、我が国の政府、及び関係各所はどのように対処するのであろうか。正当防衛を認めた上で、暴漢を逮捕し、裁判にかけてそれ、相応の処罰なりを下すのであろうか。怪しや、件のことがあれば,過剰防衛なるものを持ち出して、婦女子に罪を被せて、米国に謝罪、米国からは遺憾の意とやらと戴いて、ちょんであると睨んでいる。
 地位協定とやらで、米国籍の罪人の身柄を確保し、日本の裁判を受けるのが可能だいうが、その後の結審と罪人の処遇について、後日報道されたのか知らない。白洲の場に立たせて、まさか江戸十里四方所払い宜しく、本国に強制送還なんてことはあるまいか。2011年の米軍による児童ひき逃げ事件をきっかけに地位協定が改定されたが、それがどこまで有効なのかわからない。昨今の風潮で,数字を、データーをという声があるのだから、どこかに数字なり,データーなりがあるのかもしれない。その数字をみれば、地位協定の有効性が検証できよう。ちなみに、今から20年程前、1995年の記録によれば、沖縄では復帰以後、米兵による刑法犯罪は四千五百件にのぼるとあった。その後どれだけ増えたのか、減ったのかはわからない。小生の不精をご寛恕願いたい。
 我が国は、米国に土地を貸している。大家が我が国で、店子は米国である。しかしながら、店子の思いのままに借家を改装できる。しかも家賃までも肩代わりしている、借家住まいの小生には羨ましいかぎりである。どこかにそんな大家はいないものかと鐘,太鼓を鳴らして歩いてみたくなる。
 噺にでてくる大家は、物知りか、因業のいずれかである。鷹揚に構えて、おやどうした熊さんと話すか、おい与太、と人を小馬鹿にした態度を取る。時は、近隣の頭や同類が集っている。ここで一つ、店子に対して、あたしゃ,今日から因業大家になりますなんて宣言した見たらどうだろう。集う同類が、尻押しするかもしれないし、まあそう短気にならずにと諌めてくれるかも知れないが。

夏の終わりにおもうこと

2015-09-01 | 時事
 金の切れ目が縁の切れ目か、縁の切れ目に金を切るのか。被災者救援金の縮小という方向に、本国会で決めた。四年経って、被災地が完全に復興したと言う話は聞かない。福島が収束したという話も聞かない。今日も、この陽気のもと、原発で放射能と闘っている人もあろうに。仮設住宅で、行く宛てもなく漫然と過ごしている人もあろうに。家族で暮らすことを目標に身を粉にして働いている人もあろうに。百円あれば、1000円あれば、1万円あればなんとか今日を凌げる、見通しが少しは立つ人もあろうに。
 私たちの払った税金とやらは一体どこに行くのだろうか。こつこつ、せっせと国債を買い漁るために使われているのだろうか、支援という聞こえのいい言葉で、ひも付き援助に使われているのだろうか。
朝のワイドショーは三面記事だから、三面ものを扱うのが相場である。相場と判っていても、ここ最近の番組内容は、まるで誰かに遠慮しているか、画面の向こう側にいる人をバカにしたようなものばかりである。以前から申している通り、女子供に政治はわからない。わからないから、泰平楽で彼らが過ごせるようにするのが男の勤めである。余計なことは言うな、お前は明日の米びつ心配だけしてればいいんだ、と言えばしまいであった。ところが、その女子供が騒いでる。
 セブンティーンなんて雑誌は、同級の女の子が読んでいるのを遠くで眺め、果てが女性誌に辿り着くのかと得心したものだ。芸能人の噂話に、年頃の子の興味ある話、流行に、身体の悩み、ついでに色恋と。尤も、男だって大して変わらない。少年誌から青年誌、ちょっと進んで文春、新潮のゴシップ記事。閑話休題して、その少女誌、女性誌で政治が取り上げられている。安保法制とは、政治に参加するとは、という題目である。戦時中の女学生だった人の話を読むと「箸が転がってもおかしい年頃に、旋盤を使っていた、工場で油を差していた」とある。今の世に、増産体制、八紘一宇はない。ないのにもかかわらず、おしゃれや恋に興味がある年頃に政治を語らせるのはいかがと思う。世が平和で、これから「市民」になるためとしての政治の勉強なら一向に構わない。しかしながら、どうも件の雑誌が特集を組んでいるのは、「世の中がきな臭いから」ではないかと小生は勝手に思っている。
一昨日、国会前でデモがあった。老若男女、いろいろな顔が画面に映っていた。安保法制に対してnoをつきつけたデモである。きな臭さを感じた若者が集い、それがきっかけになって大人も集ってきた。そこから先がどうなるのか、生意気な言い方をすれば、若者に政治意識が芽生えたならば、派遣法、復興法案の改悪、復興税と言う名の浪費にも眼を向けて欲しい。
 金を渡しておくから、上手くやっておくれ、金を払ったんだからこれくらいは当然だという発想からそろそろ抜け出したいものである。そのきっかけが件のデモであることを切に願う次第である。

わからない夏

2015-08-15 | 時事
毎日猛暑が続いて、観測史上初の言葉が画面に踊っている。広告せぬもの存在せずと山本翁は書いた。震災直後の夏は節電に、計画停電なんて騒いだ。翌年は、毎日テレビの画面に現在の消費電力量の表示があった。街の広告塔の横にもあった記憶がある。震災から四年経ち、原発は停止したままであるが、電力不足が生じて、企業が倒産した、停電のために交通機関が麻痺した、猛暑と停電のために死者が出たという文字を見たことがない。これも広告せぬもので、実は倒産が、交通機関の麻痺が起っているのを糊塗しているのか、それとも電力が足りているのを糊塗しているのか、どちらかしらん。知らぬが、連日、夜間でも冷房は止めるな、水分を摂取せよと言っている。テレビも、24時間なり、27時間なり電力を使い放題である。それでも原発は必要なのか、魯鈍な小生にはわからない。
 たった四年前の惨事も反省できない人間が、どうして、70年も前の惨事を反省できようかと思うが、言葉は委曲を尽くしてもわからぬ人には通じない。通じないから、蛙の面になんとやらか。
後の世代に責任を残さないというのは、耳朶に心地よい響きで、隣国との間には責任を残さないと言って、自国民には、借金に、ハコモノの競技場、更には廃炉にできない原発のツケを残すのは何故かも知らん。外面が良くて、内ではというのは、典型的な内弁慶で、日本の亭主関白の伝統なのかもしれない。もっとも、家では、女房の尻に敷かれていると仄聞した。だから、気の合う仲間とつるむのかしらん。
 談話を出す前に、某国へ見せたという話も聞いたが、昔からやっていたのか、昨今始めた習慣かもしらない。内容もさることながら、発表前に、某国へもっていくのは奴隷根性丸出しなのではないかしらん。
 今年の夏は、夏もか、わからないが、わからないことばかり。なんでこんなに暑いのか、なんで電気が足りないという騒ぎがなくなったのか、なんで東北、福島の復興が遅れているのか、なんでデザインが似ているのか、後世にツケを回さないといって、ツケがなくならないか、
恋に勉学に運動が主な仕事の学生が、デモをしなくちゃいけないのか。
 ブログの前に広告がでるのか、あ、これだけはわかります。更新しないと、広告になってしまうんですね。
まだまだ暑さが続きます、読者諸兄にはなにとぞお体をご自愛くださいませ。
 
 

機会が増えるのはいいことか

2015-05-30 | 時事
2ヶ月以上ブログを更新せなんだら、いつの間にか広告が出ている読者諸兄には誠に申し訳ない。気がつけば、集団的自衛権やら、自衛隊の海外での活動を広げるきな臭い話ばかりである。山本翁を読んで、橋本治氏は何度でも同じ事を言う努力に敬意を抱いている。山本翁曰く、同じ事を言っていると。ニュースに新しいも古いもない、人間の営みは万古と変わらない、変わらないなら戦争のニュースは十年前に、50年前に、百年、千年前にもあったろうと言った。だから、言う事は同じである。春秋に義戦なしであると。
 集団的自衛権で、自衛隊を海外に派兵する。米軍にとって好都合なことはこの上ない、米国民を犠牲にする事なく、戦争が出来る。幸い、この国には、この十年前くらいから「自己責任」なんて都合のいい言葉がある。自衛隊員に向かって、衆人は挙ってその言葉を投げつけるであろう。これは以前本欄にも書いた。
 今、大学改革と教育改革が進んでいる。国立大学の学費を私立大学並みに上げると言っている。大学に通える層は益々少なくなるであろう。現在でも、学費が払えず、奨学金を借りて、学業ほどほど、学費を稼ぐ事で精一杯の学生がいる。彼らは、無事、学校を卒業した時点で、負債者になっている。社会に出たら返済に勤しむ。大学教育に見合った給金が出れば幸いであるが、全員が全員、そうなるとは限らない。すると返済不能に陥る。このような状況を看過して、「独立行政法人」の名の下に、大学を企業にしていくのは何故かわからない。優秀な人材が出てくるのかわからない。わからないが、少なくとも小生は、この流れがこのまま米国での陸軍リクルーターにつながることはわかる。かの国では「軍役に就けば、給与が貰え、学資も蓄えられる」という耳朶に心地よい言葉をかけて貧困層の若者を軍隊に引っ張って行く。我が国も近い将来そうなるであろう。センター試験を廃止して、一年に複数回受験できる「資格試験」に変更し、大学受験層を分断して行く。なるほど、徒に夢を見せるよりも、はっきりと現実をつきつけて、進学先を特定できるのは悩める若人、教師、親にとって便利であろう。これが、本音で、建前は受験機会が増え、大学への門戸が広がると、八月の槍頭の親と子には伝える。良い就職口を求めて、大学へ何度も入り直す人が増えるであろう。現に、今でも大学を出て医学部へ再受験なんて層が増えている。
 かつて士農工商をもじって、普、商、工、農と高校を揶揄した、実業の名がつくのは生徒募集に影響があるからと、看板を付け替えた。高校が終わったが、大学の方は未完である。文科省は、L/Gと分けて、更には受験層を分断する事で、愈々、階層、階級化の完了を遂げようとしている。巷間伝わる偏差値ランキングでの「下層大学」にも入れない子らは、米国のリクルーター如き人物に「自衛隊」へ勧誘される。大学へ無事進学したのも束の間、今度は企業から弾かれる。弾かれて、再び資格試験とやらの「入試」を受け直して、更に「上位校」と呼ばれる大学に進む。そこで待ち受けているのは、借金と役に立つかわからない「実学」である。そして件の勧誘は「貧困層で優秀な学生」にも手を伸ばすであろう。気がつけば米国のブッシュ家のような体たらくである。その際、我が国には国力と呼べるだけの底力があるのだろうか小生にはわからない。小生が言えるのは、女、子供、若人に甘言を弄して夢を見せて、その実、五年、十年、百年後のことは知らないということだけである。
 
 今日も学校へ行けるのは、兵隊さんのおかげです、お国のために、お国のために戦った兵隊さんのおかげです。
 兵隊さんよありがとう、兵隊さんよありがとう

 これは、戦時下の甘言である。


「日本古来」の酢豆腐

2015-03-20 | 時事
「日本古来の」、「万葉のより」という枕詞が就いたら、眉に唾して聞くといい。日本は稲作だと言われて久しいが、田植えも今の姿でなく、昭和の30年頃まで、南方の米作のように、腰の上まで田に使って田植えをしていたなんて、今、どのくらいの人が知っているか怪しいものである。里山に代表されるような、千枚田のような風景は誰もが思い浮かべるかも知れない。その一つをとって日本古来の田植え風景というにはあまりにもものを知らなすぎはしまいか。「べにらぼうなかまる」の如く浅学非才を忘れて、小生は呟いてしまう。
 八紘一宇という言葉の出所も知らなければ、意味も恐らく後から調べて悦に浸っていたのではるまいか、巷間、揶揄されているように、「ヤンキー」の姿は、中学時代、「天上天下唯我独尊」と制服の裏地に大書して、肩で風を切っていた同級生を彷彿させる。今ある家族制もまた近代の産物であるし、ましてや夫婦のありかたも近代の産物である。それでも日本古来、伝統の枕詞を重ねれば、これまた不思議でいかなるものも権威を帯びてくる。
 日本には古来より「横断歩道」という言葉があります。横の繋がりを絶つことで、縦の繋がりを強め、親から子へ、子から孫へ、そして子々孫々、その道を歩むという意味であり、即ちその家にある伝統を絶やす事なく墨守するという意味であります。と書いて、気分は落語の竜田川を思い出した。
 ものを知らないということは、恥ずべき事であり、知っているからと言ってそれを誇示することも恥ずべき事である。古人は、これを青代通と呼んだ、噺の中では「酢豆腐」という演目にある。
  酢豆腐の面白い所は、食通ぶる若旦那に腐った豆腐を食べさせて「半可通」を嗤いものにするところである。周囲は腐った豆腐と知っている、若旦那一人だけが「知らない」ということになっている。今般の国会の姿は、全員若旦那になっているところが怖い。
 山本翁は「健康とは嫌なものだ」と書いた。自国の歴史を歪めて教える国がどこにあろう、国も人も自らを貶める事を厭う、だから健康が好きだ、健康とは嫌なものだという主旨である。先の戦さを讃えることがあっても悪くはない。なれど行き過ぎた賞賛は、健康に通じる。
健康が判らない、健康とは良いものだということを至上のものにしてしまう価値観を持った人間が増えた世の中は、違った意味で不健康である。
 そういえば、噺の枕に、昨今の健康ブームを揶揄して、「健康ならば死んでもいい」なんてのもありました。


自己責任

2015-01-26 | 時事
人質事件なら、南米ペルーの日本大使館の事件があった。テロには妥協しないと謳って、救出作戦はペルー政府に任せ、外務省のパイプやらは何の役にも立たなかったことが証明された事件であった。時の総理、𣘺本さんは、あんぱんの差し入れをして揶揄された。救出作戦は、米国、ペルー政府の間で練られ、日本は蚊帳の外に置かれていた。事後、実は云々と言っていたような気がするが、小生の記憶が曖昧なため誰とは特定できないが、その後もと外務官僚という輩が評論家として出てきた事だけは覚えている。
 時は流れ、イランだかイラクで日本人が人質になった時に、自己責任なんて言葉が出てきた。血税を同胞に払うのはいかがなものかと世論が喧しくなったのを覚えている。確か、この話を基に映画「相棒」が作られていた。
 今回は、一般の人だけでなくマスコミも「自己責任」という言葉を使っている。後藤さんは、かの地に行って、小生のような私的な文をものしていた訳ではない。大手のテレビ、新聞社は彼から情報を買って、さも自局の特派員のように扱い報道していた筈である。自局の社員を送る事は、流行のコストパフォーマンスに見合わないのか、その才のある人物がいないのかわからない。。おそらくは前者であろうが、自分たちは、安全な所にいて、ひとたび危険な事態が起きれば、自己責任という言葉を投げつける。
 ならば、自己責任という方々に小生は尋ねたい。今、福島第一で、懸命に事故の後始末に対応している人に、万一事故や疾病を起こした時に自己責任というのだろうか。被災地に住んでいる人たちに向かって自己責任というのだろうか。
 地震列島と云われる我が国である、いつなんどきに地震が起きてもおかしくない。そんな国に住んでいるのはやはり自己責任なのであろうか。自己責任という方がたは、災害の際は、政府からの援助、周りの援助なりを毅然と断るのでありましょう。海外で事故にあっても、日本大使館になぞあてにしないだろうし、ましてや邦人保護なんて云わないでありましょう。
 自己責任と唱えている人を見ると、小生は無責任の塊にしか見えないのであります。いうまでもなく、敬愛する植木等先生の「無責任」とは対局に位置する人であることは云うまでもありません。


親の心子知らず

2015-01-16 | 時事
 沖縄は土人の住む所かしらん。少なくとも、一部の政治家は沖縄は、土人の国なのだろう。沖縄県知事が、上京し陳情に臨んだ所、自民党の意向に添わぬ知事には会わないという態度を取ったと仄聞した。併せて、地方交付金も削減するという。先の県知事選では、基地移転の意見を尊重する知事が当選した。沖縄県民の意見は、いろいろあるが、とりあえずは基地移転でいこうという姿勢である。まさに選挙によって民意を問うたのである。どこぞの大臣や市長が一時期盛んに口にしていた、民意である。沖縄県は日本国である。ならば、かの県の民意は、日本人の民意であろう。なれど、このたび仕儀は、沖縄県は日本国ではないという態度である。ならば件の如く、沖縄は土人の国であろう。小生は、そこに米国の属国と言えば聞こえがいいが、換言すれば、米国から見れば、我が国は土人の国で、小金をもっている都合のよい存在であるという姿を見る。関東の空域は、米軍優先に作られている。御巣鷹山の事故の際、航空機の行方は米軍レーダーに頼ったと仄聞した。米国にとっては、日本国、日本州に暮らす人が騒音で苦しもうが、生活が疲弊しようが構う事はない。文句を言えば、政権を飛ばすぞ、貴殿の国で栄達は出来ぬぞと恫喝し、何事も云う事を聞くように操作してきた。米日の関係は、日本政府と沖縄のそれと同じである。伝統という名に胡座をかいた運動部の上下関係そっくりである。
 憲法改正と勇ましいが、改正して属国から独立国になるのであろうか。小生には、親から独立するといって、安アパートを借りたはいいが、時分時になると家に帰ってご飯を用意してもらうどら息子の態になるのではと思っている。部屋も片付けられない、金銭管理もできない、好きな事だけして、文句だけは一人前。その息子なり、娘がここに来て、自立するんだと騒いでいる。
 親の心子知らずではないが、千代田の大旦那は、この春だか、夏にはペリリュー島を訪れるという。先の大戦の痛み、この前の震災で苦しむ人の心に思いを馳せた。言葉ではなく、身を以て教えを説いているが、どうも子供は親の姿を見ていないようである。
 いまの議員様はみなエスカレーター式の学校の出身者であった。ならば面接時に親を誉めておけば万事足れりであろう。道理で親の心、親の有り難みがわからないはずである。
 沖縄戦の終わり、沖縄で自決した太田実少将は、「沖縄県民に後世高配を」と打電したが、太田小将も草葉の陰で泣いていよう。

選挙終わって

2014-12-16 | 時事
 選挙近くなる、票を売ろうかと書いたのは昔の事で、今の世の中、票が売れると知れば衆寡は挙って売るであろう。先般の選挙で、我が国は、復興、社会不安よりも、金を選んだ。人より物を選んだ。今時の週刊誌ではないが、所詮世の中、色と金である。産むにも金がかかるなら、死ぬにも金がかかる。だから、死に様を考えろと週刊誌は特集している。政府が手をつけていないのは、死に様だけである。尤も相続税という手は昔からあるが。
 年が明ければ、あの震災から4年である。4年経って片付いたのは瓦礫だけで、被災地は益々過疎化になり、避難所の住宅の劣化も激しくなっていると仄聞した。除染完了で、次々と避難場所を解除しているが、出たゴミはどうなっているのかわからない。これらは金さえあれば片付く事なのであろうかしらん。
 どなたか忘れたが、白票を投じる事は子供の甘えに過ぎないと書いていた。曰く、欲しい物がないから、買うのを止めてしまう子供の仕儀に等しいと。
 マスコミは、選挙関連の番組を一向にやらない。それどころか、既に結果は決まったかのように報じていた。その様は大本営発表の如くである。数回前に書いた、従軍慰安婦の問題も、いつの間にか慰安婦はいないという風に書き換えられている。
 事実、安倍内閣承認の見出しが数紙に踊っている。これにて国民の総意を得たとするであろう。
 政治が身近に感じられないというが、駐輪場の設置も、保育園の設置も、労働環境の改善もこれまた政治による改善が必要である筈だが、人は他人に思いを馳せないの好例かしらん。
 投票日に福島の被災者住宅で自死した老人の報道があったが、被災地もまた他人事であるか。
ひとたび、災害が起れば、人は口を尖らせて政治は、行政は、役所はというであろう。人を頼りにしても、と口にして、思い思いが勝手に行動するであろう。そしてそれが自分の蒔いた種だとは露ほどにも思わないであろう。
 知らない事が罪にならないと思うようになったのはいつの頃からしらない。試験に出ないからと言って、最低限の事しかしなかった。これを効率の良い学習と称して親も教師も子供も勇んで乗った。乗って、ここに愚民化政策が了とした。このたびの選挙結果は、自民でもなければ、安倍某でもない、愚民化政策を押し進めてきた官僚の勝利であると小生は見ている。蓋し、その官僚すらも、制度設計ができない愚民に毛が生えた者に如かずであることを当人達が気がついていない所に、喜劇が待っている。
 とはいえ、官僚の中にも、新聞記者の中にも、政治家の中にも、そして市井にもコツコツと来るべき時に備えて努力している人がいるであろう。小生の迂愚な頭と眼では見えないだけで。