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笑わぬでもなし

世相や世情について思いつくまま書き連ねてみました

権ちゃん

2006-05-26 | 映画 落語
敬愛する柳家権太楼師匠の落語論という本が出た。権太楼師匠、以下師匠で通します。は寄席に行かねば逢えない噺家である。池袋の演芸場で月に一回、練習会を開いておってが、最近は小生の不精が祟って、調べていないので今はどうなっているか知らない。が、月一回の稽古、発表会はよく足を運ばせてもらった。通常の出演では叶わない大ネタを師匠が披露し、その後に高座で一頻り出来を述べたり、芸談を語ったりしたのが小生にとっては大きな収穫であった。芝浜なら、三木助、可楽、志ん生、志ん朝、談志といろいろな人の話を聴いたり、見たりしたが、師匠の芝浜も、件の名人に劣らぬくらいものであった。とりわけ、女房とのやり取りに、ある意味での品のなさ、荒っぽさを取り入れたのは、もしかすると師匠の生い立ちによるものかもしれぬと感じたのだが、今回師匠の著作を読んで、得心した次第である。
 師匠の本の中で、小生が気を引いたのは「蹴られる」という言葉使いである。「蹴られる」とは客に受けない、相手にされないということである。「蹴られる」を説明する際に使った挿話が、枝雀師匠と志ん朝師匠の話である。二人がある女子大で落語を演じるために出かけたが、相手は名門の女子大で「落語の下世話な世界なぞ知らぬお嬢様」、おまけに古典の素養なり、古い文化なぞも見当つかないお育ちである。午前と午後の二部制であったが、午前の部が終了した時点で、枝雀師匠が逃げ出した。逃げ出したという表現は、失礼かもしれないが、要するに舞台を降りてしまったということである。うんともすんとも言わない客、自分が笑うなと思うところで反応しない客に嫌気がして大阪へ帰ってしまったと書いてあった。
 師匠は、この「蹴られる」という行為が、噺家を強くし、余裕を持たせるのだと述べている。今でも高座に上がって、客に蹴られることがあるという。でも師匠はそれを気にしない。蹴られる練習、話の練習と思えばなんともない。東京の噺家は寄席がまだ生き残っている限り、蹴られるのに慣れている。対して大阪の噺家は寄席がない分蹴られるのに慣れていないと。この辺りは小生、大阪の噺家さんの声も聴きたいと思うのだが、それはさておき「蹴られる」とは「バカの壁」に遭遇することではないかと。噺家と言う特殊な職業でないかぎり、蹴られることはないと多くの人は思うかもしれないが、実は生活を見渡せば、そこここで「蹴ったり」、「蹴られたり」しているのが常ではないか。大切なことは、自分がどこに、何を持っているかではないかと小生は感じた。
 師匠はその容貌から、与太郎話がかつては得意であったが、いつの間にか、といっても生意気を承知で言わせて貰えば、池袋演芸場で披露した噺の数々で、力をつけているのはわかったが、見事に時代を担う噺家になった。
 第一、距離のとり方が上手いんです。権太楼師匠は。ミーハーですが、師匠の直筆、小生の名前まで入ったCDに手ぬぐい、色紙、大事にしております。

映画 人に逢うもの

2006-05-05 | 映画 落語
映画に行って、外れだとものすごく憤りを覚えます。年を重なるにつれて、その憤りも弱まってくるのですが、にしても後悔先に立たずであります。ぼくを葬る(おくる) 原題 Le temp qui reste という映画を過日、魔が指したというべきでありましょうか、日比谷までのこのこ出かけて見てしまいました。がんを宣告され、余命いくばくもない青年が、祖母にだけ事実を告げて最後の日を迎えるという話です。話だけ読むと、感動作品のような気がしました。小生は内容ではなく、ジャンヌモローの姿を見に行ったわけでありまして、銀幕の上でもご尊顔の栄に浴したわけでありますから、それでよしとせねばならないのですが、思わず作品、脚本をお読みになってからと苦言を呈したくなりました。それとも遊び心で銀幕に登場したのでしょうか。この映画の話をしたら、私の周囲では、見に行くつもりだという人が数名表れて、思わず口にチャックをしてしまいました。小生の見識が狭いのか、つむじ曲がりが災いしているのか、「大人の見る映画」と題して単館上映しているもの、もしくは岩波ホール系のものを見る、見せられるたびに、いい大人が真剣に見るものかいと呟きが出てしまいます。けれども、今回の映画、ジャンヌモローに、ノーマジーンのような台詞を吐かせているのが小生の慰みでありました。そういえばシャーロットランブリングも久々に見られると聞いてます。映画は「人に逢うもの」と考えて期待せぬ方が、いい収穫があったりするものです。
 本日は端午の節句であります。菖蒲湯に、柏餅(関西ではちまき)を食べて、甍を眺むれば、泳ぐ鯉の姿も少なく。ああ少子化や、住宅難やのため息であります。「屋根より高いこいのぼり」、「甍の波と雲の波」、そんな歌声も聞こえないのでありますが、どこぞで声を張り上げ、元気に歌う姿が見つかりはしまいかと、表に出てみようと考えています。ゆめゆめ映画館には近づかないぞと覚悟を決めて。

満員札止め

2006-04-23 | 映画 落語
ようやく時間を見つけ、久しぶりに末広に行ってまいりました。昨今の落語ブームか、日本語ブームかしりませんが、二階席まで開くという大入り満員で、全体この入りはなんであろうかと首をかしげたのです。昼席の主任は橘家円蔵師匠、それに入船亭せん橋師匠でありました。師匠の「どうして」という歌は密かにブームであり、永六輔のラジオ番組でも取り上げられることもあります。ちなみに「どうして」とは「海はどうして青いの、お空を映しているからよ、雲はどうして白いの、」と問答形式で広がりをもつ浪漫溢れる詞であります。本日の円蔵師匠の演目は火焔太鼓であります。志ん生師匠の十八番であります。円蔵師匠の往年の遊び、そして切れが十二分に発揮されているとは思えませんでしたが、出来はまずまずでありました。
 さて、寄席に行くたびに、小生の愛すべき芸人が出会えます。ぺぺ桜井師匠は、ギター漫談で、客を半分無視してギターを爪弾きながらぼやくスタイル。照れ屋なのか、視線が斜になるところがなんともいえぬ味を出しております。ギターでクラッシックやフラメンコ、さんしんの音を奏でて、ちょっとした音楽講釈を交えながら、芸人の身の上に起こった悲劇やら世相を軽くきります。あくまでも軽くであり、深入りせずにさらっと流すところがいいのであります。
 海老一師匠で有名な、大神楽は、若手の方が出てきて、ある意味はっとさせられます。それは、芸が上手くいくかどうか不安にさせるところで、なんともいえない魅力になっているのです。(こういっては失礼かもしれませんが)小さな舞台の上でありますが、まるで空中ブランコを固唾を呑んで見るような錯覚に囚われるのであります。
 東京の漫才師が見られるのも、寄席ならではあります。テレビでは吉本一色で、しかも漫才よりも「バラエティー」ばかりで気が抜けますが、末広、池袋、浅草と、東京発の漫才師、ロケット団、大空はるか、たかし、昭和のいる、こいるなぞは、下品なしもねたに走らず語り口の上手さを感じさせてくれます。ある意味では古典芸能の域の話術かもしれません。しっかりと構成した話と間の取り方、つっこみの入れ方などが、漫才ブームの名残をとどめているところが、安心感を抱かせてくれるのです。
 色川たけひろ先生は、寄席の楽しみとは無名の芸人から有名芸人まで満遍なく楽しめるところだ、そして芸人の成長を確かめられる場所であるという内容のことを申しておりました。寄席に行くたびに思うのは、4時間半という長い時間も、口に含んだ炭酸水のような儚さに思える、それはそれで至福の時間であるということです。悔しいのは、毎日通えないわが身の世知がなさであります。

血は争えず、志ん生、馬生

2006-04-20 | 映画 落語
十代目金原亭馬生師匠のCDがここにきて、再び再編集されております。小生購入したのは二枚組み、演目は、替り目、お初都徳兵衛、うどん屋、文七元結、道具屋であります。文七とお初徳兵衛は、父志ん生、弟志ん朝の演じたCDも出ております。聞き比べてみるのも一興かと思われます。巷間よく言われることでありますが、志ん朝師匠は、父ではなく文楽師匠を目指したということですが、この度の馬生師匠のCDを聴いていると、なるほど父親の芸を受け継いだのは長兄であり、次兄は自分の道を切り開いたという感想を持ちました。
 よくよく聴いてみると、声の調子、出し方が父親譲りが兄の馬生師匠なのであります。お初徳兵衛の、船頭衆のやりとりの調子なぞ、父親そっくりであります。もう少し具体的に言えば、半音か一音か上げると、同じ声になるのではないかと感じました。
 うどん屋は、小さん師匠の得意とする演目でありましたが、これもまた小さん師匠と違って、酒飲みならのでは慈愛が聞こえてきます。小生が聴いた小さん師匠のうどん屋では、酔っ払いがうどん屋の主人に絡んで、何度も話が繰り返されるという面白いものでありましたが、馬生師匠は、あっさりと二回ほど絡みを繰り返すもので仕上げております。その代わりと言ってはなんですが、「うどん屋、おまえこの近所にいたのか」と三度、四度と繰り返し、酒飲みの記憶の覚束無さを演出しております。
 CDはコロンビアから出ており、3000円であります。

金馬のいななき

2006-03-26 | 映画 落語
現金馬といえば、冒険少年シンドバッドのオウムの声と言えば、年が解ってしまうかもしれない。お笑い三人組と書きたいが、残念である。でもあのテーマソングは歌えてしまうのは、どういうわけか。金馬師匠の本「金馬のいななき」が朝日新聞社から発売中である。先代金馬はあのだみ声と居酒屋、薮入りが巷間知られるところであるが、小生、金馬の道灌も捨てがたい。前座話をあそこまで膨らまして、想像力を働かせる技など、聴いていて唸ってしまう。
 話を戻して、現金馬師匠の本である。自らの生い立ちから始まり、師匠へ入門、前座時代、真打、テレビ出演と今に至るまでを書いた本で、昭和の芸談史の側面を補うものであります。小生が気になったのは、金馬師匠もまた、ポツダム昇進組であったということでした。
 ポツダム昇進とは、ポツダム宣言にかけて造られた言葉であるが、戦時中、主な噺家の弟子は、及び噺家は殆どが戦争に引っ張られてしまい。為に前座の若者がいなくなってしまった。戦争が終わったといえど、戦死や行方不明になった噺家もおり、急ごしらえで、前座を二つ目に、二つ目を真打にしてしまったのであります。有名なところ(このように書くと金馬師匠に失礼でありますが)では、志ん生師匠の長男、池波志乃の父、中尾彬の義父にあたる、先代金原亭馬生師匠であります。勿論、志ん生師匠は存命でありましたが、大陸へ慰問に行ったきり消息がつかめず、次代を担う噺家がいなくなっては困るということで、子息である馬生師匠は真打になってのであります。
 さて、このように噺家を生んだのはいいが、いざ戦争が終わり、寄席に活気が戻ってくると、ポツダム組は目の敵にされたのは言うまでもありません。曰く、稽古をまともにつけてもらってない。曰く、厳しい修行も半端で終わっている。曰く、急拵えの芸だから粗い、などであります。馬生師匠が生前苦しんだのも、ポツダムと親の七光りというレッテルであります。談志師匠が言っておりますが、もし馬生師匠が生きていたら、円生師匠に勝る噺の数と立派な語り部になっているだろうということであります。また弟である、志ん朝師匠は、噺の中で解らないところや、うっかり人名、地名を忘れた時は、父ではなく、兄馬生師匠に尋ねたと語っておりました。馬生師匠の音源は幸い何本か残っておりNHKからも出ております、興味のある方はお聞きください。
 金馬師匠は、お笑い三人組だけでなく、トニー谷とも組んで仕事をしております。その逸話の最後に、舞台芸人だけでなく同業からも恨まれて参ったと書いております。ポツダム組と陰で言われ、辛いこともあったのでは、ましてや師匠は金馬です。その衣鉢を継ぐべきものと思われたのが、ラジオ、テレビでの活躍ですから。ですが、小生はこの本を読んで、ポツダム組だからこそ、ここまで這い上がってきたのだという気概を感じました。噺家さんの本は大抵丁寧な話し言葉で綴られているので、うっかりすると読み飛ばしてしまうこともあります。それだけ重い言葉を軽く流せる技を語りだけでなく文字にも身につけているのであります。
 今月は仕事の都合などで、本ブログは、年寄りの口になっていますが、まだ3月はありますのでよろしくお願いします。

樹木希林 ジュリー

2006-03-17 | 映画 落語
昨日予告したように、本日は寺内貫太郎一家の二回目であります。久世ドラマの魅力とも言うべき、シリアスさの中に滑稽さをどれだけ取り入れるか、それが出演者の人選とも言えるでありましょう。由利徹さんに、伴淳三郎さん、左とん平さんと脇でこ芝居が出来る布陣を敷き、そしてそのこ芝居が変に目立たない。先日、TBSで追悼番組が放映されておりましたが、その中で樹木希林さんが、往時を語ってくれました。曰く、各人にお笑いを考えさせて、本番に臨む。本番終了後、久世さんが採点するということでありました。
 なるほど、ドラマを再見すれば、回毎に、三人で一つの場面をつくるものや単独で場面をつくるものと上手く使い分けております。あるときは由利先生のずっこけシーンであったり、あるときは伴淳さんの一人芝居であったりと。勿論、樹木さんを上手く使った場面もあります。前回も書きましたが、あのドラマでは、樹木さんが一番役者として成長したのではないか。演技の緩急として単に所作だけでなく、目で表す技術には、感心させられます。あることを突然思い出した場面や、こうしてはおられないという場面では、設定である七十の老婆から三十代の身軽さに、そして目をかっと見開き、顔に緊張感をみなぎらせる。それでいて、遊びを持たせる演技をする。いつもは腰を曲げて、喋り方も老婆になりきっていながらも、自分の部屋に行くと、三十代の女性の口調と「すべた」の態度をとる。そしてその緩急の使い分けには、卓が一役買っております。居間にある食卓、自分の部屋の座布団、そこに来ると樹木さんは、すぐに七十代の老婆になります。
 もう一つ、寺内一家を再見して気がついたのは、部屋が暗いということであります。それはセットの照明だけのことではないように思えます。端的に言えば電球、蛍光灯の明るさがいまほどなかったということでありましょう。が、確かにあの時代、照明はあの程度が普通だったのではと記憶しております。年の暮れや電球が切れた時なぞ、新しいものに交換すると、どれだけ部屋が明るくなり、活気づいたか。電球、蛍光灯の明るさ,有り難みがわかる一瞬でもありました。あの暗さの中に、家庭の明るさが、暗さが象徴されているようで、あれももしかしたら久世さん一流の計算だったのではと考えたりしました。
 TBSには久世さんのほかに、鴨下さんがおりました。ドラマの二大巨頭であります。久世さんは古き良き昭和の家庭を描き、鴨下さんは現代の家族、家庭を描きました。コインの裏表という表現があうかどうかわかりませんが、文明の利器、便利さ、経済効率という名でなくなっていく日本の家庭を描いたことは確かであります。

昼のテレビ、米国のテレビ

2006-03-16 | 映画 落語
 テレビ東京でお昼過ぎにCSIを放映しています。CSIのセカンドというか、舞台がラスベガスからマイアミに変わって、マイアミ版の鬼平というところであります。主人公のホレイショ捜査官が、悪はとことん追い詰める、罪を憎んで人を憎まずという粋な警部でありまして、黒人差別や職業差別に絡んだ誤認逮捕は、天網恢恢疎にして漏らさず、塵一つ、髪の毛一本から、証拠を積み上げ巨悪を眠らせないというお堅いドラマであります。ラスベガス版の方は、昆虫に知悉した捜査官で、感情を乱さず、博覧強記で、部下にも知らないところがたくさんあるという設定であります。
 どうも根がつむじ曲がりのせいか、人がいいといったものには見向きもせずに、人と違うもの、もしくは流行おくれになったものを好むのが小生の性分でありまして、24なぞは、ロバートアルトマンの日常をシンクロナイズして描いた作品に比べると、子供のみる漫画のように思えて(比べることが間違いかもしれません)。だからこそ昔ながらの定石どおりのドラマに夢中になってしまいます。
 先日、寺内貫太郎一家のDVDが欲しくて、矢も立てもいられなくなり、都内某所のDVD店を何軒か回ったのでですが入手できずに、だらだらと過しております。前回は向田邦子さん中心で貫太郎一家について書きましたが、次回は演出の久世さんを中心に述べてみたいと思っておる所存であります。

寺内貫太郎一家

2006-03-11 | 映画 落語
旧聞に属するが、脚本家、作家の久世光彦氏の名が墓碑銘に刻まれた。その日の夕方、TBSは久世氏のドラマと功績をニュース番組で特集を組んでいた。小生が思い起こす久世ドラマなら「時間ですよ」、「寺内貫太郎一家」、「ムー」である。幸い、寺内貫太郎はDVDになって発売された。雑用に忙殺されて、購入する暇がないので、近隣のレンタルビデオ屋から何巻か借りてきて、再見している。向田邦子原案・脚本、久世演出である。
 この作品を再見して、貫太郎は、向田邦子の理想の父の一つではないかと。向田作品のには実父を描いたものがある。膳は、家族と別にし、必ず一品多くおかずがつく。家父長としての威厳は、家のそこここにあり、暴君の如く振舞う。ある日、父の上司が家に来る。父は、玄関先で平蜘蛛のごとく平身低頭で迎える。その姿に向田邦子は、ほっとしたものを覚えたと書いている。
 小林亜星演じる、貫太郎は、4代続く下谷の石屋の主である。家の中でなく、外に畏怖堂々としていて、大きな矮躯を揺らして歩く。寺内家では、風呂の順番、新聞を読む順番が決まっている。風呂なら、主、長男、祖母、長女、母である。新聞は主が目を通してからである。加藤治子が演ずるのは貫太郎の妻、一家の母、里子である。里子は、貫太郎に甲斐甲斐しく、かつ女の強さをもって仕えている。寺内家では主が一番であるが、その実、母里子がいなければ、夜も明けない。貫太郎は無骨な明治の気風の残る親に育てられた男である。娘から、妻である里子に優しい言葉をかけてやれと言われるが文句が浮かばない。娘が一字一句優しい言葉を教えると、そのまま里子に言う。言葉に出せない不器用さは、態度に出る。何かといえば、「おい母さんはどうした」、「おい母さんは何やってんだ」と周囲のものに尋ねる。
 向田邦子は、隙のある男を描いた。男の馬鹿さ、間抜けさを書いた。それは男を軽蔑するのものではなく、愛おしさからでたものだ。実の父は、外では家人に見せられない、見せない隙があったのだろう。その隙を垣間見たのが、お辞儀をする父だと。貫太郎は家でも外でも男然としている。客あしらいもしっかりして卑屈にならない。それでいて、実は妻がいなければ、男然、主然としていられない。隙のある男である。
 向田が描いたのが貫太郎ならば、久世が描いたのは、祖母役の樹木希林であろうと思った。年寄りの仕草、僻み、言葉使いに運びを徹頭徹尾演じさせている。炬燵の上に頭を乗せ、入る姿。今晩の献立を気にする姿。何かあれば、私が口をきいてもと出張ってくる。食べ物を食べ方。
 第9回で、母役の里子と交わす会話が秀逸である。祖母役の樹木が言う「里子さん、どんな家も一皮むけば一つや二つため息が出るようなことが転がっているんだろうねえ」と。向田の脚本と久世の演技指導、役者の演技力が集まった結果である。シーンにして3分程度。
 出演者の何人か既に鬼籍に入っている。由利徹さん、伴淳三郎さん、このお二方を起用しているのも久世さんならではの計算だと思う。
 付記、当時は気がつかなったが、番組のイラストを描いている横尾忠則さんもでていました。第8回だと思うのですが、手相を診てもらう場面では遊び心があります。
  お知らせ:私用により14日までお休みします。毎回アクセスしていただける読者の皆様にはご迷惑をおかけします。

スタンダードとシナトラ

2006-02-22 | 映画 落語
Must love dog (ダイアンレイン・ジョンキューザック主演)という映画を見て、急にシナトラを聴きたくなりました。慌てて、レコード店に駆け込みました。シナトラ主演の映画ではなく、彼の歌声が使われている映画は、と思い浮かべてみましたが、曲目からいって、基本的にラブコメディであります。小生が一番気に入っているのは、いわずと知れた「スペースカウボーイ」クリントイーストウッド監督・主演の「爺いどもが宇宙へ行くという」話です。トミーリージョンズが最後に命を賭して事態解決に当たり、月面上で野垂れ死ぬ場面の後ろでシナトラの軽やかな歌声「Fly me to the moon」が流れておりました。これはラブコメディとは違う話でありますが、音楽好きのイーストウッド監督ならではのスタンダードの上手な使い方であります。
 シナトラと聞けば、ある年代の人はマイウェイのおじさん、もしくはこれが代表作のように思う人がおりますが、意外や意外ビートルズの歌もカバーしていたりするのであります。
 常々思うのでありますが、スタンダードの存在は映画に膨らみを持たせてくれます。プリティーリーグのなかでも「It had to be you」をわき目も振らず歌って目出度くゴールインした場面がありました。映画の性質上、必要不可欠ですが、邦画の「スウェングガールズ」のエンドロールでナタリーコールでナットキングコールの「LOVE」を流した時なぞ、映画館の闇の中で思わずステップを踏んでしまいました。Bewtchedのエンドロールではスティングを流しておりました。毎度聞かれる言葉でありますが、大人の聴く歌謡曲なり歌というものが、どうもないような気がしてなりません。もちろん「みなさまの」なり、オリコンなり様々な団体が「スタンダード」を確立しようとアンケートや「なになにで定番の歌」など作っておりますが、今ひとつ成果が出てないような気がします。それとも小生の音楽へのアンテナがあさってのほうを向いているだけで、巷間ではスタンダードなるものがあるのでしょうか。
 大手の映画業界の方は、タイアップでヒット曲ばかりに目が行って、往年の名曲なりを上手く劇中にいれるような作品を作ってないような気がします。往年の名曲、流行歌を上手く使って映画を作れる監督はいますよ。とシナトラのレコードならぬCDに耳を傾けてます。

三人の名付け親 ジョンフォード

2006-02-15 | 映画 落語
「三人の名づけ親」ジョンフォード監督、ジョンウェイン主演は、黒白をつけられない人間の性を描いた佳作であります。正義の味方であるはずのジョンウェインがこの映画では、強盗の頭を演じております。銀行強盗に失敗し、逃げる途中砂漠で出会った出産したばかりの女性と、ひょんなことから赤ん坊を託されてしまいます。母親との約束を律儀に果たそうと、強盗は拳銃の代わりに育児書を読み、赤ん坊を世話し、かつ保安官からの逃走と大忙しであります。
 スリーメンズアンドベイビーの元ネタはここにあったのではと推察しておりますがいかがでしょうか。乳児を抱いたロードムービーは他にも数ありますが、小生がまず思い浮かぶのは、サミュエルフラー監督、リーマービン主演、最前線物語であります。脇役としてルークを演じたマークハミルが出ております。舞台はDデイ作戦後のヨーロッパであります。大隊からはぐれた小隊が、合流ポイントを目指し、ヨーロッパの田舎を歩くというものでありますが、その途中、身重の女性を助け、戦車の中で出産を手伝うという場面がありました。
 ジョンフォードのものは、どちらかといえば人間には善悪の心があり、人は場合によってどちらにも転がるという、池波先生の作品で言えば鬼平の「明神の次郎吉」でありましょう。ひょっとしたら池波先生も、ジョンフォードに触発されて、件の作品を描いたのかもしれません。一方でサミュエルフラーの方は、戦争と言う極限の状態の中で日常が延々と続くという、これまた黒白つけがたいのが人生であり、物事であるということを描いたものであります。そこには通底するものは同じではないかとおもうのですが、いかがでありましょうか。
 愛媛の高校生が、地元の空襲を調査し、終には、その空襲を行った米兵にまで辿り着いたという話を聞きました。米兵は空襲の際に、今治は地図の一点であり、任務を終え無事帰還することしか考えていなかったと応えております。サミュエルフラーもまたDデイに参加した兵士でありました。それを描くにあたって、血に染まる時計を写すことが精一杯であったと述べております。戦争の実態は体験したものでしか語れませんが、知らないものが描くと、ああなるのだなあと実感するのはプライベートライアンであります。
 サミュエルフラーの言葉に「私は自分に真理があると思う人間は嫌いだ」とあります。ジョンフォードは、赤狩りの際に「私の名前はジョンフォード、映画監督だ、さあこんなことはやめて撮影に移ろう」といいました。
 「三人の名付け親」、「最前線物語」は共に、彼らの言葉を代弁するに足る佳作であります。