『洞山三頓棒』の公案とは

2014-01-05 23:04:21 | 一休の禅
禅の公案に『洞山三頓棒』というのがあります。一休が 25歳の時、
師の華叟から与えられた公案は、この『洞山三頓棒』でした。

『洞山三頓棒』の公案とは。
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洞山(とうざん)という坊さんが、長い旅の末、ようよう雲門禅師の
所にたどり着き、入門を乞うた時のと。

雲門に「どこから来たのか」と問われて、洞山は「査渡(さと)より」と
答えた。すると「昨夏はどこで過ごしたか」と重ねて問われ、
「湖南の報慈(ほうず)です」と答えた。更に「そこを出立したのは
いつか」と問われて「8月25日」と答えた。すると、雲門は
「汝に三頓の棒を放(ゆる)す」 と。

「一頓」は20発なので「三頓」で 60発。「棒で殴ってやりたい
ところだが、今日はこらえておいてやろう」と 痛烈な言葉を
投げ掛けられたのだ。

正直に答えたのに「棒で殴られる」とはいったいどういうことか。
洞山は、何がなんだか、さっぱりわからない。一晩苦しみ悩み
考えても解けない。そこで翌日、また雲門の所へ行き、
「私のどこが間違っていたのでしょうか」と問うと、雲門は、
「(禅の盛んな)江西湖南を廻りながら、この無駄飯喰いが!」と
大喝した。そこで洞山は大悟した。
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というもの。

「洞山は正直に答えたのに、どうして雲門に殴られなければ
ならなかったか」というのが命題です。また洞山は「無駄飯
喰い」と云われて、何をどう悟ったのか。

一休もこの命題に取り組み、長い月日、悩み苦しんでいた。
そしてある時、平家琵琶の『祇王と仏御前』の条を聞き、
一晩 泣き明かして、ようやく解けたのだという。

さて一休は、何をどう悟ったのかは、どこにも書かれていません。
その答えが、私の「一休語り」のテーマなのです。


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「一休道歌・正月骸骨」

2014-01-05 23:02:12 | 一休の系譜
「一休」さんの話で、「この橋渡るべからず」「屏風の虎」と
ともに、よく知られているのが「正月骸骨」。

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皆が正月を祝っているのに、一休さんときたら、
こともあろうに、髑髏を竹の棒の先につけて
「ご用心、ご用心」と触れ歩く。
「まぁ、一休さん、よしてくださいよ。正月早々
縁起でもない」
「何、これは めでたい代物じゃ。ホレ、目が出て
るから“目出たい”じゃないか」。

(一休さんの「シャレこうべ」ですか)

一休は云う。
「見よ、骨になってしまえば、男か女か、尊いお方か
遊女かもわからんではないか。この皮肌一枚に、目を 
くらまされていませんかな。心の目でしっかり真実を
見なされ」と。

そして大音声に

「門松や、冥土の旅の一里塚、目でたくもあり、
  めでたくもなし。ご用心、ご用心」と。
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この有名な「一休とんち話」も、『一休年譜』には書かれて
いません。おそらく、一休作と伝えられる『一休骸骨』という
書から、後世、江戸時代の人が思いついた創り話でしょう。

薪村の「酬恩庵・一休寺」の宝物館には、「一休の髑髏」と
いうものが展示されています。茶褐色でこぶし大の 木の彫り物です。
後世の贋作と決め付けるのは 野暮というもの。

「一休とんち話」は、一休の真実を 実によく わかりやすく
示してくれているのです。

ところで、最近、若い女性の間で「髑髏」のデザインの入った
服やバッグ、小物が流行っているようです。背中やジーンズに大きく
刺繍したものもあります。これも一休さんに通じるではないですか。


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「一休道歌・正月骸骨」つづき

2014-01-05 23:01:11 | 一休の系譜
「正月髑髏」の話は、一休の作と伝えられる『 一休骸骨 』から
創られた話と思われる。内容は、骸骨たちが酒盛りして踊って
いたり、仲間の葬式を行っている絵に、道歌(どうか)が書かれ
ている「絵草子」。
『一休骸骨』の他、『一休和尚法語』『水鏡』『二人比丘尼』
など、一休作と伝えられる書はいくつかあるが、いずれも、
確証はない。そして江戸時代になって『一休咄・続一休咄・
一休諸国物語・一休関東咄・一休諸国物語図会・一休和尚
往生道歌百首。一休諸国物語』と、次々「一休話」が作られ、
一休さんは人気者になっていく。

それらに書かれた「一休道歌」は、それぞれ少しずつ違って
いて、中には“どうかな?”と思われるものもあるが、一休の
禅を明快に表しているのだ。

「釈迦といふ いたづら者が世にいでて 多くの人を迷はすかな」

一休は釈迦も達磨も切って捨てる。座禅などは人生の無駄だとも
いう。地獄も極楽も無いと言い切る。成仏も往生も無い。死ねば
ただ灰になり土に返るだけと。

「仏とて外に求むる心こそ 迷いの中の迷いなりけり」

「仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。父母に逢うては
父母を殺せ。始めて解脱を得ん」と、臨済宗の祖 臨済も云っている。

真意は、全ての権威を否定して初めて真実を発見するという意味か。
そのようなものにすがって生きるより「自灯明 ( 自ら火を灯せ )」。
「仏は 西にはいない、“みなみ”じゃ“ 皆身 ”」。つまり、
「己の心の内にある」というのだ。

釈迦も仏も達磨も座禅も経典もすべて“無用”という「一休の禅」は、
浪人者の集団「虚無僧」にとっては、まこと都合の良い教義だった。
その意味で「一休は虚無僧の元祖」と、私は考えるのです。



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細川頼之と「地蔵院」

2014-01-05 23:00:12 | 一休の系譜
JR東日本のポスターに目が止まりました。
鬱蒼とした木陰に佇む山門。「地蔵院」とのこと。

一休が15、6歳の時、安国寺を飛び出して 入った寺が
「地蔵院」です。私はずっと「地蔵院」を探していたのですが、
所在地が判らなかったのです。もう存在しないと思っていたら、
「ディスカバー(発見)ジャパン」。JRのポスターで
見つけたのであります。ネットで検索したらありました。 


「地蔵院」は、南北朝時代の貞治6年(1367)、室町管領の
細川頼之が夢窓国師を開山とし建立。その後、北朝系天皇
(崇光・後光厳・後円融)の御願寺に準ぜられて隆盛を
極めたが、応仁・文明の乱で焼失。細川頼之の像と墓がある
とのこと。

「細川頼之」は、なんと三河国(現愛知県岡崎市細川町)の
生まれ。その妻が三代将軍足利義満の乳母であり、頼之も
義満の後見人として重用されていました。

そして、楠木正儀に和睦を勧め、正儀を北朝方に引き入れて
摂津、河内の守護に任じたのです。

一休の母は、この楠木正儀の孫娘と思われ、一休が「地蔵院」に
移ったのも、細川頼之の縁と私は考えています。

「細川頼之」と言えば、詩吟をやる人は誰でも知っています。
いえ、彼のことは知らなくとも、彼の詩「海南行」は有名です。

「人生五十、功無きを愧ず
 花木春過ぎて 夏すでに中ばなり」


頼之は、幼少の義満の後見人として、南北朝合一に尽力したのですが、
義満が長ずるに及び 疎まれて都を追放され、本領の四国に隠遁する
のです。その時詠んだ詩が「海南行」です。

四国では義堂周信に帰依し、周信の吸江庵に出入りしていました。
その吸江庵が、後に宇治川の辺にもありました。
そしてその庵の主は、一休の尺八の友“一路”とも言われます。

私は、一路の庵の名、吸江庵から「吸江流尺八一路」を 勝手に
名乗らせていただいています。

昔は50歳で隠居、隠遁の身。私も65で「功無きを愧ず」。
陽暮れて道遠し。頼之はその後、許されて政界に復帰します。
私に再起はあるのでしょうか。


住吉神宮とヘブライの関係

2014-01-05 22:55:52 | 一休の系譜
日本古来の固有の宗教と思っていた「神社」が
ユダヤ教とほとんど同じとは驚き桃の木山椒の木。

手を洗い口を漱ぐ「手水(ちょうず)」、鳥居、
本殿と拝殿の区別、神官は白装束、賽銭箱、偶像が無い
など、そっくり同じだというのです。

たしかに、伊勢神宮や熱田神宮の社はテントの形です。
イスラエルの「幕屋」という移動式の神殿そのものです。

伊勢神宮の遷宮は、社は移動するもの、建替えられるもの
というイスラエルの「幕屋」につながるのでしょうか。

住吉大社も、かつて遷宮を行っていたそうです。
縦に三つ並んだ国宝の本殿は、オリオン座の三星を
さしているといわれます

「住吉大社」がある「摂津、陶津(せっつ)」の国名は、
エジプトの「スエズ」ではないか。

住吉大社が祀る神は「海人」。つまり海の彼方から渡って
きた渡来人。「底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命」の
「ツツ」はヘブライ語で「星」を意味し、オリオン座の
三星のことであると。

住吉大社に伝わる古地図「難波の八十嶋」は、大阪の
難波の地形とは全く符合せず、エジプトの地図だという。

そして「住吉大社」は古来「舞楽」も盛んであった。
「住吉大社」には「石舞台」があり、厳島神社、四天王寺とともに、
日本三大石舞台として国宝に指定されている。

一休が尺八を吹き、森女が鼓を打って「祭文」を歌うのも
「住吉大社」ゆえのことだったのです。


一休と住吉神宮の知られざる関係

2014-01-05 22:54:57 | 一休の系譜
大阪の「住吉神宮」と「一休」(1394~1481)とは
深い結びつきがあったことは、意外に知られていない。

『一休和尚行実及年譜』によれば、一休は文明元年
(1469年)75歳の時、京田辺の酬恩庵を出で、住吉に
移り住んだ。翌年、住吉神宮に参詣し、盲目の女性
「森女」に出会う。半年後にまた住吉で「森女」に
再会し、「森女」と同棲する。

文明6年(1474年)、80歳の時、後土御門天皇の
請願により、一休は大徳寺の住持となり、応仁の乱で
焼けた大徳寺の再建にとりかかる。

そして文明10年(1478)、86歳。「森女」を連れて
酬恩庵に戻り、三年後の文明13年(1481)。87歳
(かぞえ88歳)で往生する。

つまり、大徳寺の住持に任ぜられた時、一休は京都には
居なかったことになる。その後も、住吉から堺に出向いては、
堺の豪商「尾和宗臨」らに大徳寺再建の資金を工面して
もらったりしていたのだ。

そして、大徳寺の山門、本堂が完成した文明10年(1478)に
京都に戻っている。


その前に、一休はなぜ「住吉」に移り住んだのか。
この疑問が最近 ようやく解けた。

「住吉神宮」は、後醍醐天皇の皇子「後村上天皇」が、
正平6年(1351)から、正平23年(1368)年、41歳で
亡くなられるまで17年間「南朝の行在所」だった。

一休が生まれる前のことだが、一休の母は「後小松天皇」の
寵愛をうけて一休を身ごもったが、「南朝方の忠臣の娘」と
いうことで宮中を追われた。一休にしてみれば、北朝の
「後小松天皇」の子というより、「南朝」の母方に、より
恋慕の情があったと考えられる。

一休が「住吉神宮」に長く滞在していたことで、一休の
南朝びいきは明白となる。

そして、なんと「住吉神宮」は明治の廃仏毀釈まで「神仏
融合」で、神官の「津守」氏は「住吉寺」の住職も兼ねており、
なんとなんと「大徳寺」の住持にもなっていたのだ。

しかるべき肩書きも印可状も持たない「一休」は
大徳寺の住持になる資格が無かった。そもそも
そのようなものは毛嫌いして、生涯、一托鉢僧として
生きてきた「一休」だったが、80歳を過ぎた最晩年、
大徳寺の開祖「大燈国師」の遺鉢を継ぐものは我一人
との思いを強くする。しかし、その資質はあっても
資格(免許状)が無い。そこで、一休は「住吉神宮」の
神主兼大徳寺住持だった「津守」氏を頼り、その推挙を
得て、「大徳寺の住持」になったのである。

このことに気づくと、「森女」の存在が重要なものと
なってくる。小椋圭氏などは、住吉の境内に棲んでいた
盲目の乞食女のようにとらえているが、とんでもない。

住吉神宮は、古来「舞楽」を継承していた。「森女」は
住吉の神官「津守」氏の娘で、舞楽を務める巫女だった
と考えてよいのではないだろうか。

一休は、「森女」を娶ることで「津守」氏と深い関係を
築き、大徳寺の住持になれたのだ。

「狂雲集」には「大徳寺の住持」就任を前に「森女」
との出会いと赤裸々な愛の詩を書き連ねている。

「狂雲集」を「一休が長い放浪の末に「大徳寺の住持」に
なるまでの壮大な叙事詩と考えれば、「森女」の詩が
単なる一休の色事ではないことは明白である。

ところが、このことはほとんど知られていない。


虚無僧は「南朝方」?

2014-01-05 22:54:21 | 一休の系譜
『虚鐸伝記国字解』によると「虚無僧の祖は楠木正成の子
正勝」だという。正史では「楠木正勝」の実在すら不明の
人物である。

また、普化宗を中国から日本に伝えたのは、由良の興国寺の
開山「法燈国師覚心」としている。法燈国師の正史には
「普化宗」との関係を示すものは皆無なのだが、なぜ
「法燈国師」を普化宗の日本開祖に担ぎ出したのかが
謎なのである。

その答えは、由良の興国寺が南朝寄りだったからではないかと
私は推察している。「興国寺」は鎌倉時代に「法燈国師」に
よって開かれた時は、高野山真言密教系の寺で「西方寺」
だった。

それが「法燈」の弟子「孤峰覚明」(1271~1361)の時、
後醍醐帝、後村上帝の帰依を受けて、「興国寺」と改名される。
「興国」とは、後村上天皇の1340年から1346年までの南朝の
年号である。

つまり、「西方寺」が「興国寺」となったのは、二代目住職の
「孤峰覚明」の時、1271~1346年の間のことであった。禅宗に
宗旨替えしたのもこの時であろうか。

由良の興国寺が南朝方であったことから、一休も「法燈国師」
には関心をもっており、詩にも詠んでいる。

私の推測だが、虚無僧たちは、一休の詩から「由良の開山、
法燈国師覚心」を知り、興国寺が南朝方であったことから
「楠正勝」の名を担ぎだしてきたのではないだろうか。

そもそも、『虚鐸伝記国字解』は、江戸時代の後半、
出自の怪しげな虚無僧宗に対して、幕府の詮議が厳しくなり、
虚無僧の由緒を正しくするために、虚無僧の意を受けた者が
創作したものと私は考えている。

NHK「歴史ヒストリア」で「一休」が取り上げられる

2014-01-05 22:51:31 | 一休の系譜
2013年 4/21 NHK「歴史ヒストリア・一休さんのとんち人生」

【私の主張が取り上げられた点】

 ・一般に知られている「一休像」は、江戸時代以降創作された『一休話』。
  実像を記すのは、一休没後、弟子たちによって編纂された『一休和尚年譜』。
  NHKは、この『年譜』に書かれている“事実”のみを取り上げていた。

 ・一休の父は北朝の後小松天皇、母は“南朝方の臣の娘”だったため、
  (南朝方に担ぎ出されるのを)心配した足利幕府によって、安国寺に入れられた。

 ・一休は、茶道、能、連歌など、今日“日本文化”と云われるものの“すべて”に
  関与していた。その成立に影響を与えた。


【NHKが取り上げなかった点】

 ・一休が『臨済録』に登場する普化に心酔して、破戒僧として生きた。
  それが虚無僧の「普化宗」成立につながった。
 ・とんち話の『この橋渡るべかず』は「中道」の生き方を説いたもの
 ・骸骨は“心の眼で見よ”、“つまらぬ比較で悩むな”という意味があった。
 ・木刀は、“形(みせかけ)ばかりで中身はインチキ”の僧侶(=仏教界)を批判したもの。
 ・『狂雲集』に書かれた「森女」は、住吉神宮と大徳寺を結びつける“鍵”だった。


【参考になった点】
 
 ・一休は応仁の乱で荒廃した世の中で、形ある物より精神世界。華美な物より
  “侘び”の価値観を示した。能の『芭蕉』は、バショウという植物にも“魂”が
  あることを示した。

 (私見)一休の禅は、江戸期の俳聖「松尾芭蕉」にも影響を与えている。
    松尾芭蕉の「芭蕉」は、一休と親しかった禅竹の能『芭蕉』から付けたのでは。
    
   「侘び茶」は一休に始まると云っても過言ではない。「千利休」の名も
   「一休」から付けたのではないか。
 

ま、40分という制約の中で、一般向けには解りやすくまとまっていた。
これで、私の『一休語り』もはずみがついた。

宇治の「ウトロ地区」

2014-01-05 22:50:29 | 一休の系譜
宇治市の伊勢田町に「ウトロ」地区というのがあるらしい。
陸上自衛隊の基地の北側だ。ここに戦争中、飛行場を造るため
朝鮮半島から強制連行されてきた人達の住宅が建てられ、今日
まで住んでいる住民と、土地所有者の間で訴訟になっていると
いう記事を目にした。事件は韓国の支援団体の寄付もあって
5億円で買い取ることで決着しそうとか。

この「ウトロ」というカタカナ地名が気になった。朝鮮語なのだ
ろうか。ウトロといえば、北海道の知床半島が有名だ。こちらは
アイヌ語で「地の果て=岬」という意味だそうだ。

伊勢田という地名も気になる。伊勢神宮のある伊勢市の名鉄駅は
「宇治山田」。宇治と伊勢の関係が知りたい。

というのは、宇治は昔から中国、朝鮮からの渡来人が多く住む所
だったらしい。お茶の産地で有名なのも、お茶が渡来人によって
栽培されたからだ。尺八もまた中国から伝えられたという。
室町時代以前、ここに「富家の庄」があった。「フケ」は中国の
福建省につながる。虚無僧の宗派を「普化(フケ)宗」という。
関係はあるのだろうか。

宇治には、室町時代、一休と同時代に、異国の僧「朗庵」が住ん
でいた。朗庵は尺八をよくした。朗庵の墓というのもある。朗庵
は、一休の尺八の友「一路」だという説もある。

近くには黄檗山万福寺がある。江戸時代に白隠禅師によって、中国
からもたらされた禅宗で、中国風の寺院が建っている。その塔頭の
一つに「吸江庵」があった。朗庵または一路の棲家だったという
伝説もある。

宇治と伊勢は、「吸江流一路」を名乗る私にとって、深い関わりの
ある土地なのだ。

二人で寝ても一休み

2014-01-05 22:49:57 | 一休の系譜


■Facebookにこんな書き込みがありました。

「二人で寝ても一休みとはこれいかに」

これに対して別の人が

「子供が真ん中に寝てもオヤスミと言うが如し」と。

うまい!さっそく「一休語り」のネタに 使わせて
いただきましょうか。


■江戸時代の書には、次のような話があります。
(貞享元年(1684)刊の『堺鑑』、寛政8年(1796)刊『和泉名所図会』)

一休と同時代の人に「一路」という居士がいました。

ある時、一休が一路に「万法 道有り (たくさんの道が
あるというのに) 一路とはこれいかに」と問います。

すると一路は「万事休すと言うのに一休みと言うが如し」
と返した。

はて、判るような、判らぬような。謎解きです。


■「二休」で検索したら、江戸時代の初めに「山崎 二休」と
いう医師がいました。天文23年(1554年)-寛永8年(1631年)歿。
越前の出で琉球に渡り、琉球王国の王の侍医となった人です。
「二級」ではなく、琉球では「一級」の医師でした。

■「三休さん」もいました。
「志村 三休」 1701-1757 江戸時代中期の茶人。
元禄14年生まれ。旗本で、中井祐甫について三斎流をまなぶ。

やはり、二番、三番煎じではパッとしませんな。

■「三休」で検索したら、三重県の湯ノ山温泉の近くに、
「釈迦の隠し湯『三休の湯』でアナタのココロと身体と時間(の三つ)を
ヤスメテ下さい」と。はい「サンキュー」