北岸にて 〜 シドニーの北郊・ノースショアから想う日本のこと、世界のこと。

〜シドニーの北郊・ノースショアから想う日本のこと、世界のこと。

異国情緒

2020-04-26 10:34:33 | 英語
イースターの休暇で思い出しました。

昔は日本の活字媒体で、イースターのことを(キリストの)復活祭と訳すのが普通だったんですね。それがいつの間にかカタカナでイースターと表記するのが多くなったような気がします。どう呼ぶかは好みの問題でどちらが良いというものではないです。ただ、不思議と漢字で訳した方がむしろ異国情緒のようなものを感じる気がします。

まだ小学生の頃だったと思いますが、アレクサンドル・デュマの「モンテクリスト伯」を読んでいたときに、

エドモン・ダンテスはその復活祭で賑わう群衆の中にまぎれていった。

という文章がありました。うろ覚えですのでどれくらい正確は分かりませんが、そのような文でした。それを読んだときに、僕の頭の中にその19世紀の南フランスの港町での人々の賑わいがありありと浮かんだんです。そのキリストの祭りというものがどんなものか、分からないながらに想像力を膨らませて、そのイメージをつくったのでしょう。そしてそのことを何十年たっても憶えているわけです。これが「イースターで賑わう」と訳されていたら、これほど想像力をかき立ててくれなかったと思うのですね。

現地のクイズ番組を観ていたときに、「マーガレット・ミッチェル原作の1939年製作の映画は?」というような問題がでて、解答者がGone with the windと答えました。とくにネイティブの人は早口ですからね、ゴン・ウィズウィンくらいにしか聞こえなかった(笑)。これを聞いて、なんか素っ気ないタイトルだな~と生意気ながら思ったわけです。こういうタイトルで、人はこの映画を観たいと思うのかな~と。「風と共に去りぬ」というタイトルを聞いて初めて、アメリカ南部を舞台にした壮大なストーリーを僕はイメージできるのですね。

こちらではあまりイメージを膨らませるような見栄えの良い名前をつけないように思いますね。アカデミー4部門を受賞した「明日に向かって撃て」なんかもオリジナルは’Butch Cassidy and the Sundance Kid’(ブッチキャシディーとサンダンスキッド)という主人公の名前をただ並べただけという(笑)。邦題が「ブッチとサンダンス」とかだったら、まずこの映画を観ようとは思わなかったでしょうね。そういう傾向があるので、原題をそのままカタカナで訳すと味気ない薄っぺらなものになってしまうかもしれません。

個人的には「パイレーツ・オブ・カリビアン」は「カリブの海賊」で良かったのではないかと思いますね。


新型コロナの現状 in シドニー

2020-04-25 11:33:23 | オーストラリア
現地では、イースターの休暇に入りました。

金曜日から週末をはさんで4連休ですが、政府から不要不急の外出が禁止との声明がだされ、違反と判断されると罰金が課せられる状況です。自粛ではなく禁止ですので、日本より厳しいですね。こういう状況ですので、毎年行われるロイヤルイースターショー(Royal Easter Show)などのイベントはすべてキャンセル。天気は快晴でイベントにはもってこいですが、街は異様に静かです。

上の写真はアーチャー・ストリートの交差点。ここを右折するとウェストフィールドのショッピングセンターがあり、普段はとても混んでいますが、もう昼間でもガラガラです。

比較するために、同じ場所でとった写真を下に載せました。撮った方向は逆ですが、普段はだいたいこのくらいの交通量があります。



ノースヘッド (North Head)

2020-04-25 10:50:04 | オーストラリア
久しぶりにマンリービーチのそばにある、ノースヘッド(North Head)という岬をドライブしてきました。

写真はノースヘッドからシドニー湾を隔てて、シドニーの都心を写したものです。天気の良い日だと、こうしてはるかシティの方まで見渡せるので、この場所はとても気に入っています。画面の左側に見える岬は、湾の対岸になりサウスヘッド(South Head)と呼ばれています。この写真の左側からはもう太平洋が広がっています。

写真では分かりにくいですが、このノースヘッドからサウスヘッドまで見たところ200~300メートルくらいしかありません。シドニー湾の中はマンリーから有名なオペラハウス、ハーバーブリッジを通りパラマッタ・リバーまでとても広いですが、入り口は結構狭いなぁという印象です。

日本ではあまり知られていませんが、太平洋戦争中にこの2つの岬の間から日本の小型潜航艇が3隻シドニー湾に入りまして、停泊していたオーストラリアの宿泊艦を魚雷で沈めたことがありました。この攻撃の後、潜航艇の方もすべて沈められ、沖合にいた母船に帰ることはできませんでした。

写真をとっているときに、ちょうどオーストラリア海軍の軍艦らしきものが出航していきましたので、そのようなことも思い出しました。