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至誠惻怛(しせいそくだつ)=真心と慈愛の精神

「伝説の美女・楊貴妃」

2010-11-14 | 日記
 ――「伝説の美女 ・ 楊貴妃~藤原紀香、西安1300年紀行」 (旅人=藤原紀香、瀬戸カトリーヌ) BS朝日 21:00~22:54
 
 
 
 古都・長安(現在の西安)は秦の始皇帝の時代から900年以上も中国の都として栄えた。なかでも712~765年は「盛唐」といわれ、世界最大の都市として、あらゆる文物、富が集まっていた。日本の平城京も、この都をモデルにしている。
 平城京時代、長安には日本でも広く知られ、今なお愛されている一人の女性がいた。それは世界三大美女の一人「楊貴妃」。中国の歴史で最も勢力のあった唐王朝の絶頂期を生きた第6代玄宗皇帝(在位712~756年)の寵愛を一身に受け、その情熱的なロマンスは、今も世界中で語り継がれている。
 玄宗は息子の妻であった楊貴妃を自分の妃とした。しかし、それは詩人、李白に歌われたほど類まれな美貌であっただけではなかった。後宮には3,000人といわれるほど多くの女性が、皇帝の寵愛を受けるためにいた。しかし、玄宗は楊貴妃と出会って以来、彼女が亡くなるまで愛を一心に注いだ。皇帝を独り占めにした楊貴妃とは、どんな女性だったのか。
 芸術を愛し機知にとんだといわれる実像にせまるのは藤原紀香。現在の西安に古都・長安の面影を探すのは瀬戸カトリーヌ。二人の女優が西安、すなわち古の長安を旅する。
 
 
 
 
 
 
 
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 【玄宗と楊貴妃が生きた都、長安】
 中国、西安市。今なお市内には明代の城壁が残っている。長安には宮殿だけで3つあった。1つは都の中心部にあった「太極宮」。3代皇帝・高宗(在位649~683年)以降、皇帝の住居であり、政治の中心であった「大明宮」。そして、楊貴妃を愛した玄宗皇帝は、城内の東に位置する「興慶宮」で政務を執っていた。
 興慶宮は現在、公園となり、楊貴妃と玄宗が過ごしたといわれる「沈香亭」や玄宗の執務室、勤政務本楼遺跡などが残されている。旅人の藤原紀香、瀬戸カトリーヌが宮殿跡を訪ねる。
 西安の周りには、多くの墳墓が残されている。そこから発掘されたものから、唐の長安のようすを知ることができる。例えば、中国の国宝、唐三彩のラクダの陶器、その上では多くの中国人が楽器を奏でている。ラクダは当時、西アジアなどに生息し、シルクロードの運送などで使われていた。その背に乗る中国人たちは、何千キロの旅を終えて長安にもどってきた喜びを表しているといわれている。
 また、黒人やアラブ人の陶器の人形やヨーロッパの金貨なども数多く発見されている。これらは当時、長安がいかに国際的な都市であったかを示している。今なお発掘が続けられる大明宮、唐の時代に使われたさまざまな美しい宝飾品などから楊貴妃の生きた時代や古都長安を探る。
 
 
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 【唐代の美人壁画】
 唐の皇帝が埋葬されている陵は、山をそのまま使った巨大なものが多い。何百体と並ぶ家臣らの石像、そして地下には、当時の生活の様子を表したものが数多く眠っている。
 壁画もその一つ。壁画は埋葬された人の生前の生活を表しているといわれる。狩りを楽しむようすやポロのようなスポーツをしているところ、また海外からの賓客をもてなす姿などが、生き生きと描かれている。これらの壁画を修復、研究を行っている中心的な機関が陝西省考古研究院。
 藤原紀香が取材で考古研を訪れた時は、隋代の壁画を修復中。失敗が許されない細かな作業を見守るうち、まだどこのテレビ局も映像にしたことがないある壁画の撮影が特別に許された。そこに描かれていたのは女性。しかも楊貴妃と同年代の、かなり身分の高い人だという。当時の美人とは、どのようなものなのか。
 
 
 
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 【楊貴妃はどんな女性か】
 2010年、中国で放送されたドラマ「楊貴妃秘史」。このドラマで楊貴妃を好演した女優が殷桃さん。藤原紀香が彼女と対談し、日中の女優が時代に翻弄された美女、楊貴妃について語り合った。
 藤原 「楊貴妃を演じたことで、彼女の印象は変わりましたか」
 殷桃 「大きく変わりました。楊貴妃は粘り強く、善良で、寛容な、可愛らしい女性だったと思います」
 藤原 「殷桃さんは楊貴妃のように男性を愛することができますか」
 殷桃「そんなふうに愛せるようになりたいです」
 女優の目線から見た唐代の女性とは。楊貴妃とは。そして、一人の女性として男性に深く愛されることまで。日本、中国を代表する女優の本音トーク。
 
 
 
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 【いにしえよりつづく西安の今とは】
 唐の時代、西域からの文化が流入すると、多くの外国人がこの地に移り住んだ。そのため、西安は中東や中央アジアの雰囲気が街の中に存在している。現在西安に5万人が生活しているという回族。彼らは回教(イスラム教)を信仰し、豚肉を忌避し、羊料理を食べる。顔のほりが深く、どこかエキゾチックな雰囲気を醸し出している。古都長安の時代から今につづいているものとは。
 また、経済発展がつづく中国で、西安も例外ではない。街は建設ラッシュに沸き、人々は活気に満ちている。古都長安から現代の西安の姿、これらを瀬戸カトリーヌがリポート。
 
 
 
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 【楊貴妃が食べた古代宮廷料理】
 唐の宮廷料理を再現した料理に、瀬戸と藤原が舌鼓を打つ。西安の高級レストラン「御宴宮」の総料理長・王紅彪さんが、地元の唐代の料理研究家・王子輝さんとともに、歴史書「旧唐書」「新唐書」などに書かれた宮廷料理を現代風にアレンジした。食材には、海の幸、山の幸はもちろん、ラクダの肉球も使われていたという。1回の食事で100品以上の料理が並んだという玄宗と楊貴妃の食卓。古代の奇想天外な美食を紹介する。
 
 
 
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 【楊貴妃、玄宗の真実とは】
 玄宗の忠臣と思われていた安禄山は、幽州(北京あたり)で挙兵し、破竹の勢いで長安に迫っていた。挙兵の原因といわれるのが、楊貴妃一族の出身である楊国忠だ。そのため、楊貴妃は玄宗に死を賜ったとされる。
 しかし、楊貴妃の墓は皇帝の妃にしてはあまりにも小さく、遺体が見つからなかったことなど多くの謎が残されている。また、日本で亡くなったという説もある。なぜ、楊貴妃は死ななければならなかったのか。多くの伝説が残っているのはなぜか。そして日本、中国で楊貴妃が愛される理由とは。
 中国を代表する、唐や楊貴妃の研究者の言葉とともに、西安を長期間旅し楊貴妃の足跡にふれた藤原紀香が解き明かす。

 
 


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