日々の吐露を綴って。。

私が生きてここにいる現実と向き合う、日々のつぶやきのブログです。
時折お気に入りの曲も紹介しています。

忍の一字

2015年09月23日 18時55分15秒 | 日記
これまでも、世間並な生活とはかけ離れた日常のおかげで、忍耐力と我慢強さだけは人の三倍あると自負していた私だったが、長女のメンタルケアについては、何をもって回復とみなすのか、目に見えた成果というものも出にくく、完了形なるものもなく、じっくり長期的な見通しでもって取り組まなければならない。


これは想像以上に忍耐を要し、頭ではそうとわかっていても、なかなか厳しいものがある。


そう感じる理由は、もう数年で社会人として独立するのに、このままではより混沌とした社会の中で生きづらくて挫けてしまうのでは、立ち直る術を見出だす力がどれだけなのかと親目線から危惧しているからで、手入れがまだ可能ならば・・・と考えている。


当の本人は、自発的に己に問うことを拒み、相も変わらず主観的行動のまま、合理的に必要最小限に、仕方なく生きている風である。


この落差に加え、世間は家庭の対処を急いてくるから、親としても「どう取り組んだか」という親側の活動報告を用意したくなってしまう。


どうしたって先生方との面談で家庭内での状況報告をしなければ話し合いにならないし、先生方は親の対応をデータ取りして、学校での対応方法を確認しておきたいのだろう。


「あなたはいったいどうしたいの」と、「何故考えようとしないの」と、つい言ってしまうが、本人が気がつかない限りこれは脅迫しているのと同じで、本人は益々殻にとじ込もって己を傷つけ始めてしまう。


きにしながらも時には放ってもおくし、どうしても言いたくなってワッと言っては(言うタイミングだったのか)と振り返ってみたり、そんなことを手探りで波のように寄せてかえして、心もとない様を肯定してほしくて専門分野の先生に相談してみたり。


すると、予想外のアドバイスが返ってくる。


一様に口を揃えて「話をもっと聞いてあげてください」と言う。


それもアドバイスも意見も挟まず、ただひたすら聞け、と。


思春期を迎えた子供を親はああだこうだ指図せずに見守る、そう教育論でさんざん聞いてきたマニュアルだけれど、この「見守る」とは実際、親がモヤモヤを抱えたまま、結論を出さず急がずに、何がしたいのかわからないその子のお喋りを止めず遮らず、いずれ出尽くして動き出すのを待つことを示している。


ちょっと待て、と私は思う。


とことん考えて、完璧をやりつくして病んでしまったならわかるが、考えなしに投げやりに毒を吐く娘を「うんうん」なんて聞いてられるか。違うものは違う、私は娘が泣き叫ぼうが言ってきたし、何故そう言えるかも伝えてきたし、これからもそうだ。


先日も、娘は出先で「自転車を撤去された」と憤慨して私に電話をかけてきたが、私にしてみれば駐輪禁止場所に「友達が大丈夫だと言ったから」「みんな置いているから」で置くと判断したのは自分なんだから、然るべき結果でしょ、と思う。


しかし娘は怒りの収めどころが見つからず、「なんで私は不運なの」「もう人の言うことは信じない」と言って、自分が選択したことのは棚に上げて、自分以外の何かのせいにしたくてたまらない。


あぁ、なんてちっちゃい。生きていくうえでとるに足りない。


こういうのも「ああそうかそうか」とただ聞いてやれってか。


喚いている娘を横目に、自分でしょーお馬鹿だねーと相変わらず笑ってしまう私である。

評価は誰がするの?

2015年09月17日 10時40分40秒 | 日記
評価は他人がするものだ。


自分で自分の行動を「見る」ことはできないから、例えば人に親切にしようとしていたとして、気持ちが急いて押し付けるような行動をしていたら、本人は「親切にした」と自身を評価するも、他人の誰かが「あれは親切の押し売り」と感じればそれが評価だし、親切云々ではなく「気持ちの表現が下手な人」と評価する人もいたり、また「でも良くしていた」と思ってくれる人もいたり、それもまた様々。


自身の評価はひとりだから1つなのに対して、他人の評価は人数分。


圧倒的多数ならぐうの音もでない。


でも。


他人の評価がすべてじゃない。


何故なら、他人自身が計っている、その物差しの基準が、各々まちまちだから。


それに一喜一憂しているよりも、普遍の常識とは何かを追究することに時間を活かしたらいい。


どの人間にも共通の、どんな環境でも境遇でも立場でも、時代にも左右されない普遍の常識。


ある頃までは「苦しい生き方をしないですむ方法」を追い求めて、生きるバイブルの頂点がどこかに存在するはずだ、と、全世界全人類誰もが間違いないと太鼓判を押すであろう鉄板の指針とやらを探し、これだと思うものを捕まえ握っては、何か違うかもと放ち、また探し求めて握っては放つ、その繰り返しだった。


そして何故見つからなかったのか、それは人間が物事に対してつける価値観のほとんどは、見る角度と解釈で異なってしまうから、唯一の正解など決めようがない、というより正解そのものなどなく、何がより良いのかを決めるにも自分の価値観次第だというだけで。


個々がもつ色眼鏡を通して「見たいもの」を見ているわけで、間違っているわけではないのだけど、色眼鏡を通した評価が自分の本当のすがたとして評価されていると思うことのほうが不思議だ。


でも、だからといって人の評価を突っぱねるのは「独善」「盲進」、自他を比較しなけりゃ自分の行動を客観的に捉えられない。


評価に呑まれず、評価を活かすには、やはり自分の考えるところを掘り下げていくしかない。


さて、普遍の常識とは何だろうか。