これまでも、世間並な生活とはかけ離れた日常のおかげで、忍耐力と我慢強さだけは人の三倍あると自負していた私だったが、長女のメンタルケアについては、何をもって回復とみなすのか、目に見えた成果というものも出にくく、完了形なるものもなく、じっくり長期的な見通しでもって取り組まなければならない。
これは想像以上に忍耐を要し、頭ではそうとわかっていても、なかなか厳しいものがある。
そう感じる理由は、もう数年で社会人として独立するのに、このままではより混沌とした社会の中で生きづらくて挫けてしまうのでは、立ち直る術を見出だす力がどれだけなのかと親目線から危惧しているからで、手入れがまだ可能ならば・・・と考えている。
当の本人は、自発的に己に問うことを拒み、相も変わらず主観的行動のまま、合理的に必要最小限に、仕方なく生きている風である。
この落差に加え、世間は家庭の対処を急いてくるから、親としても「どう取り組んだか」という親側の活動報告を用意したくなってしまう。
どうしたって先生方との面談で家庭内での状況報告をしなければ話し合いにならないし、先生方は親の対応をデータ取りして、学校での対応方法を確認しておきたいのだろう。
「あなたはいったいどうしたいの」と、「何故考えようとしないの」と、つい言ってしまうが、本人が気がつかない限りこれは脅迫しているのと同じで、本人は益々殻にとじ込もって己を傷つけ始めてしまう。
きにしながらも時には放ってもおくし、どうしても言いたくなってワッと言っては(言うタイミングだったのか)と振り返ってみたり、そんなことを手探りで波のように寄せてかえして、心もとない様を肯定してほしくて専門分野の先生に相談してみたり。
すると、予想外のアドバイスが返ってくる。
一様に口を揃えて「話をもっと聞いてあげてください」と言う。
それもアドバイスも意見も挟まず、ただひたすら聞け、と。
思春期を迎えた子供を親はああだこうだ指図せずに見守る、そう教育論でさんざん聞いてきたマニュアルだけれど、この「見守る」とは実際、親がモヤモヤを抱えたまま、結論を出さず急がずに、何がしたいのかわからないその子のお喋りを止めず遮らず、いずれ出尽くして動き出すのを待つことを示している。
ちょっと待て、と私は思う。
とことん考えて、完璧をやりつくして病んでしまったならわかるが、考えなしに投げやりに毒を吐く娘を「うんうん」なんて聞いてられるか。違うものは違う、私は娘が泣き叫ぼうが言ってきたし、何故そう言えるかも伝えてきたし、これからもそうだ。
先日も、娘は出先で「自転車を撤去された」と憤慨して私に電話をかけてきたが、私にしてみれば駐輪禁止場所に「友達が大丈夫だと言ったから」「みんな置いているから」で置くと判断したのは自分なんだから、然るべき結果でしょ、と思う。
しかし娘は怒りの収めどころが見つからず、「なんで私は不運なの」「もう人の言うことは信じない」と言って、自分が選択したことのは棚に上げて、自分以外の何かのせいにしたくてたまらない。
あぁ、なんてちっちゃい。生きていくうえでとるに足りない。
こういうのも「ああそうかそうか」とただ聞いてやれってか。
喚いている娘を横目に、自分でしょーお馬鹿だねーと相変わらず笑ってしまう私である。
これは想像以上に忍耐を要し、頭ではそうとわかっていても、なかなか厳しいものがある。
そう感じる理由は、もう数年で社会人として独立するのに、このままではより混沌とした社会の中で生きづらくて挫けてしまうのでは、立ち直る術を見出だす力がどれだけなのかと親目線から危惧しているからで、手入れがまだ可能ならば・・・と考えている。
当の本人は、自発的に己に問うことを拒み、相も変わらず主観的行動のまま、合理的に必要最小限に、仕方なく生きている風である。
この落差に加え、世間は家庭の対処を急いてくるから、親としても「どう取り組んだか」という親側の活動報告を用意したくなってしまう。
どうしたって先生方との面談で家庭内での状況報告をしなければ話し合いにならないし、先生方は親の対応をデータ取りして、学校での対応方法を確認しておきたいのだろう。
「あなたはいったいどうしたいの」と、「何故考えようとしないの」と、つい言ってしまうが、本人が気がつかない限りこれは脅迫しているのと同じで、本人は益々殻にとじ込もって己を傷つけ始めてしまう。
きにしながらも時には放ってもおくし、どうしても言いたくなってワッと言っては(言うタイミングだったのか)と振り返ってみたり、そんなことを手探りで波のように寄せてかえして、心もとない様を肯定してほしくて専門分野の先生に相談してみたり。
すると、予想外のアドバイスが返ってくる。
一様に口を揃えて「話をもっと聞いてあげてください」と言う。
それもアドバイスも意見も挟まず、ただひたすら聞け、と。
思春期を迎えた子供を親はああだこうだ指図せずに見守る、そう教育論でさんざん聞いてきたマニュアルだけれど、この「見守る」とは実際、親がモヤモヤを抱えたまま、結論を出さず急がずに、何がしたいのかわからないその子のお喋りを止めず遮らず、いずれ出尽くして動き出すのを待つことを示している。
ちょっと待て、と私は思う。
とことん考えて、完璧をやりつくして病んでしまったならわかるが、考えなしに投げやりに毒を吐く娘を「うんうん」なんて聞いてられるか。違うものは違う、私は娘が泣き叫ぼうが言ってきたし、何故そう言えるかも伝えてきたし、これからもそうだ。
先日も、娘は出先で「自転車を撤去された」と憤慨して私に電話をかけてきたが、私にしてみれば駐輪禁止場所に「友達が大丈夫だと言ったから」「みんな置いているから」で置くと判断したのは自分なんだから、然るべき結果でしょ、と思う。
しかし娘は怒りの収めどころが見つからず、「なんで私は不運なの」「もう人の言うことは信じない」と言って、自分が選択したことのは棚に上げて、自分以外の何かのせいにしたくてたまらない。
あぁ、なんてちっちゃい。生きていくうえでとるに足りない。
こういうのも「ああそうかそうか」とただ聞いてやれってか。
喚いている娘を横目に、自分でしょーお馬鹿だねーと相変わらず笑ってしまう私である。