マジックミラーの裏側に、病室の医師たちの表情から、香が覚醒したことが伝わった瞬間だった。
そして、待機していた医師群が香瑩に注意をめぐらす。香の覚醒で、彼女の心臓を持つ彼女に異変が起こらないか最大限の注意が払われているのだ。李堅強は、膝の上の両手のこぶしを爪が掌に食い込む程握りしめた。
冴羽獠、最愛の女、槇村香。
この女を蘇えさせる事は、同時に香瑩に未知のリスクが降りかかる可能性がある。
李堅強にとっても、香瑩は死んだと思っていた娘。冴羽の気持ちは、誰よりも理解でき、それが、また彼を苦しめた。一番前に座っている、獠と香瑩。李堅強はななめ後ろの席から、動かぬ二人の背中をじっと見つめる。
そして、またスピーカーから医師の声が聞こえてくる。
--『あらためて、こんにちは。僕は医師の松本です。』--
先ほどまでの呼びかけとは違い、明らかに、眼を開いた患者に会話している。
--『体、動かしづらいかな?もしかして、ふわふわして、夢を見ているような気持ちかもしれないね。』--
松本は、問答集にあらかじめあったウオーミングアップを始める。優しい声で香、ゆっくりとに語りかけ始めた。
傍らでは、セラピストのジェシカが、ガラスの水差しにレモンの皮をむきながら入れている。恐らく、柑橘の香が広がっているのだろう。その、水差しから、更に小さな経口用の水差しに、ゆっくりと水を注いでいった。
再び、そのまま二人の医師は少し間をおく。
そして、
--『声、でるかしら?少し、レモンの香がするお水はいかが?』--
スピーカーの声は、残酷なほどに穏やかだ。
獠は、生と死の狭間を行き交うような感覚の中で、固まって椅子に座ったまま、前を凝視している。香瑩は獠の片腕を抱くように寄り添った。
周囲の香瑩の医師たちは、その様子にほっと胸をなでおろし、互いにアイコンタクトで確認しあう。香の覚醒で心拍異常を起こしたり、取り乱したりする事を危惧していたが、香瑩はとても落ち着いている。“大丈夫そうだな”、と目を合わせては小さくうなずき合っていた。
病室では、女の医師が小さな水差しを香の顔近くにあてているようだ。小さなハンカチのようなもので、水を飲ませた後に拭っているような様子に見える。
香に水を飲ませた後の、病室は再び静かになった。二人の医師は、先ほどのように香を挟んで座っている。室内の音楽も流れたままだ。
そして、また松本医師が口を開き始める。
--『ここは、不思議な場所でしょう。ここは、新宿なんだよ。安心して。』--
松本医師は、香の瞳をしっかりとらえている。マジックミラー越しでも明らかに分かった。
--『槇村さんは、ここに入院していたんだよ。でも、良くなったから退院できるよ。』--
医師の独白のみが、スピーカーから聞こえる。
そして、いよいよ初めて香の会話を引き出す言葉をかける。
--『気分はどうですか?』--
«続»
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