獠は、優しく香を覆うように抱きながら目を閉じていた。
香の匂い、呼吸、鼓動・・・、かけがえのない数々の現象が獠の動きを止めていた。
--獠爸爸・・・。--
マジックミラーごしに見える、獠と香の姿は香瑩の心を震えさせる。香瑩の心に、獠の心が注ぎ込まれてくようで。それは、温かい涙となって、香瑩の頬を伝って流れ落ちていくのだ。
そんな香瑩を、信宏がそっと肩を抱く。
そして、信宏は病室のドア付近で待機している父親分のファルコンの変わりに医師団に尋ねた。
『お尋ねしてもいいですか?』
信宏の声に、彼の隣に座っている白衣の医師が振り向く。
『その、・・・香さんは、退院できるんでしょうか?』
信宏に抱かれていた香瑩の肩がピクリと反応する。
香の容態は今朝のうちに獠に聞かされていた。
肋骨の未結合以外はほぼ完治の状態である事を。でも、香の症例も状況も、前代未聞のもので。今の心境は、安心とは程遠い。
信宏と一緒に、香瑩も医師の方を向いた。医師が返答する間が、やたら長く感じる。
だが、医師は穏やかに微笑んだ。
『今の状況で、特に心配な事はありません。むしろ、我々が心配していたのは、香さんの心臓移植を受けた香瑩様の体調だったのですから。でも、香さんが目覚めても、香瑩様に変化は見られなかった。香瑩様も、香さんも、・・・科学では証明できない事ですが、きっと、この新宿が守っておられるんでしょう。』
その医師は、信宏にというより、まずは後ろに控える彼ら医師団の大スポンサー・李堅強に語りかけるように話す。
李堅強は何も言わず、その医師の言葉を聞くと、少し顔をうつむかせた。
冴羽獠と同じ苦しみを、彼も今、乗り越えたのだ。
愛する一人娘、香瑩。
彼は、このプロジェクトで香が目覚めたら香瑩が消えてしまうような気がしてならなっかたのだから・・・。
信宏は少しだけ振り向き、そんな李堅強を切ない思いでチラと見た。自然、香瑩の肩を抱く手に力が籠る。
そんな微妙な空気を感じながら、また医師が話出す。
『外科的に取りあえずの問題は、日光だと思っています。8年間、香さんの目に光が届く事はなかった。いきなり、日の光のもとに彼女を連れ出せばひどく眩しがる可能性があります。そこで、我々も香さんの蘇生の時間を日没後に合わせたのですよ。』
医師の返答が信宏と香瑩には歯がゆい。でも、焦ってはいけないと医師の言葉を丁寧に記憶する。じっと耳を傾ける二人の若者に、医師は続ける。
『香さんは、元の場所に戻ってよいでしょう。ただし、夜が明ける前に移動になります。一応、夜明けの弱い朝日にも警戒して下さい。ここは香瑩様と香さんの為に、念の為、医療設備を維持したまま365日体制でずっと稼働させます。生活面については、既に選任された者が待機していますが、この様子なら冴羽さんや香瑩様の助けで、香さんは徐々に依然の暮らしを取り戻せるでしょう。』
思った以上の医師の返答だった。
注意深く手さぐりの新たな生活ではある。
けれど、
体中の血液が喜びに沸き立つ。
誰だって、その命の長さも儚さも、図ることはできない。
だから、今、この時を、愛する人とともに。
---『香瑩、ファルコンに香さんの事を伝えてくる。』---
信宏は香瑩にだけ聞こえよう小さな声で、そう言うと、その手を彼女の肩からそっと外し、廊下に出ていく。
そして、モニターから、聞こえる少し掠れた優しい声。
『『・・・獠、・・・連れて・・・行って。私を、・・・家へ。』』
マジックミラーの向こうでは、最上の喜びをたたえた獠の瞳が、香を見つめている。
そして・・・、
『『ああ、かえろうぜ、香。ただし、お前は、まだ病人。おとなしくしてろよ?』』
香の表情が急に豊になる。彼女の顔は、満面の微笑みだ。
獠は、ソファベッドの羽布団で香をそっと包むと抱き上げる。
獠には香の容態が手に取るように感じられた。まるで、自分と香が一身胴体のような感覚で。
どうやら、彼に、医師達の退院許可は必要もないようだ。
信宏から、医師による退院許可の件を聞いたファルコンが、香を抱き上げた獠が出やすいようにドアを大きく開く。
まだ、香瑩はマジックミラーの向こう側だ。ミラー越しに“両親”を祈るような気持ちで見つめている。
---“おめでとう、獠爸爸、香媽媽・・・!”---
だれもいなくなった白い病室は、香瑩には希望への待合室のように思えた。
«完»
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