RE;BIRTH~リバース

なぜリバースなんですかねw

普仏戦争のエピソード・その1

2013-11-24 15:42:36 | 普仏戦争


エムス電報事件

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 7月13日の朝9時10分過ぎ。ヴィルヘルム1世が朝の散歩を楽しんでいると、このエムスの散歩道の先に「今は見たくない」人物を認めました。一瞬立ち止まり掛けた国王でしたが気を取り直し、そのまま先へ進みます。ひょっとすると「謝罪」のひとつでも言いに来たのかもしれないではないか。そう思った国王は恭しく頭を下げて迎える人物に自ら声を掛けました。
「おはよう、ベネデッティ卿」
「おはようございます、陛下」

 ……拙作「プロシア参謀本部~モルトケの功罪」・
戦間期/エムス電報事件より

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ファン・プリム将軍(スペイン王国)

 スペインでは、ファン・プリムが政府を掌握し69年1月にスペイン初の男子普通選挙が行われ、同じく6月には憲法も発布され、急激に革命が進んで行きました。
 その憲法では新しいスペインの国家形態を「立憲君主制」とします。革命政府がまずなさなくてはならないのは、この立憲君主を頂くことでした。
 フランスにいるイザベルは70年6月、立憲君主制となったスペインに対し、息子であるアルフォンソ王太子に譲位することで和解を図りますが、革命を指導し権力奪取したフアン・プリム将軍は国民世論の後押しもあって反対、プリム将軍はお婿さん探しならぬ国王探しをすることに。
 ここで再びヨーロッパの王家を巡る諍いが勃発するのです。

 ……拙作「プロシア参謀本部~モルトケの功罪」・戦間期/メキシコの遺恨・スペインの風雲より

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Leopold Stephan Karl Anton Gustav Eduard Tassilo Fürst von Hohenzollern
レオポルト・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン公
  ファン・プリムからスペイン王位を求められた渦中の公子

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グラモン伯爵(フランス外相)
ベネデッティ大使にプロシア王ヴィルヘルム1世に強硬な抗議をするよう訓令しました。

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ベネデッティ駐普フランス大使
ドイツではすっかり悪役にされたかわいそうな外交官。

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オイレンブルク伯(プロシア内相)
国王が相談し、ビスマルクに知らせるよう進言しました。

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エムス電報。ビスマルクが改ざんした後に発表した原文。





あるヴュルテンブルク士官の偵察行(普仏戦争最初の戦死者)

 ロタ川(プファルツとフランス国境)のフランス側では宣戦布告当初、税関監視兵のみが目撃されていましたが、次第に増える敵の不気味な動きにより詳細な偵察行が必須となります。
 この事態を受け、バーデン大公国野戦師団長グスタフ・フリードリヒ・フォン・バイエル中将は、ヴュルテンブルク王国からバーデン軍に派遣されていた貴族の参謀大尉に対し「越境して敵の動向を偵察せよ」との命令を下しました。若い伯爵はバーデン軍士官3名と竜騎兵3名を引き連れ、7月24日にローターブール(独名ラウテルブルク)付近から越境、ゼルツバッハ川(ライン川支流)沿いに進みニーデルブロン=レ=バンでフランスの猟騎兵連隊が駐屯しているのを発見します。

……拙作「プロシア参謀本部~モルトケの功罪」・普仏戦争/開戦直前のドイツ軍(三)より


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 ローターブールから国境を超えニーデルブロンまでを48キロ走破、フランス猟騎兵第12連隊を発見したヴュルテンブルク偵察隊は翌25日、シルルノフ(ニーデルブロン南東8キロ)の旅館を接収し休憩、今後どうするか検討の最中、シャボ少尉率いる第12猟騎兵連隊のパトロールに発見され、攻撃を受けてしまいます。

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 突然の襲撃に偵察隊は驚き反撃しますが、竜騎兵のヴィンスロー少尉(戦死後中尉に昇進)が戦死、他は捕虜になります。隙を見て逃げた1名を除いて……この戦いでは、フランス側パトロール隊のパグニ軍曹も戦死しています。

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 逃げた貴族の参謀大尉は宿の裏を走り、

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 宿の納屋から愛馬を引き出し飛び乗ると一目散に国境へ逃げ去るのでした。

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フェルディナント・アドルフ・ハインリヒ・アウグスト・フォン・ツェッペリン伯爵
左・大尉時代(1870年頃) 右・1900年頃


 この若き参謀大尉の伯爵こそ後に飛行船で有名となるフェルディナント・アドルフ・ハインリヒ・アウグスト・フォン・ツェッペリン伯爵その人で、この時32歳でした。
 伯爵は由緒ある貴族の御曹司としてバーデン大公国コンスタンツで生まれます。父親がお隣のビュルテンブルク王国の国務大臣を務めていた関係からビュルテンブルク軍に参加、アメリカ南北戦争に観戦武官として派遣された後、普墺戦争では国王カール1世の副官として参加し勲章を得ています。この普仏戦争での敵中長距離偵察行はプロシア軍でも有名となり、後にドイツ帝国陸軍中将まで昇進した後に退役、飛行船の研究・製造へと移って行きました。

……拙作「プロシア参謀本部~モルトケの功罪」・普仏戦争/開戦直前のドイツ軍(三)より

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「フランス最初の戦死者」とされるマルシャル・デ・ロジ(直訳すれば補給担当士官ですが他国では軍曹に相当します)のパグニ軍曹を記念する絵ハガキ。

 パグニ軍曹はシルルノフの墓地に4mもの高さの立派な墓碑のある墓所に葬られました。同じく戦死した「ドイツ最初の戦死者」バーデン軍騎兵士官ヴィンスローも同所に葬られています。

 

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※これらの画像は全てパブリックドメインの状態にあります。

出典
「Wikimedia Commons」より引用
2,4,5,6,7,8,13,14
「La  guerre  de  1870-71  en  images」 より引用
1,3,9,10,11,12,15



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