ジーケン・オイラー 日々是プロデュース日記

音楽・CM業界に携わり20数年。現在、音楽以外にも多数日々プロデュース中。

L.Aの熱い風・・・なんじゃそりゃ。

2006-06-01 21:29:48 | Weblog
 今回の渡米の目的はレコーディングともうひとつ、キヨミのギターを中心に他メンバー全員アメリカ人のヤンキーバンドを結成しようというもくろみがあったのだ。メンバーの人選はキヨミと僕に一任されていたので(ボスはとにかく見た目ヤンキーなら良い、という実に乱暴な選択肢)僕らは毎晩のように市内のクラブを見て周り、ブックマネージャーと親しくなり情報を集めた。Rock a GOGO! Roxy トゥルバドール、マダムウォンイースト&ウエスト、他さまざまなクラブに出入した。しかしこの時気付いたのだが、本場だからと言ってみんながみんな巧いという訳じゃないのね。確かに当時の日本人ミュージシャンに比べればパワフルではあるけれども、テクニシャンはなかなかいない。結構難航した。
 さて、どのクラブでも僕らはもてはやされた。それは何故か、コスチュームに凝ってみたのだ。ジーンズにTシャツ、その上に日本から持ってきた甚兵衛の上着を羽織り、頭には日の丸のバンダナ。そんな奇妙な格好したヤツは誰もいなかったから、どのクラブに行っても「サムライ」とか「ニンジャ」とか実にベタな声を掛けられ、とりあえず目立つことには成功した。当時のL.Aだから通用したが今じゃかる~く無視されるだろう。
 
 最初に声を掛けたのはベースの「ジェフ」だった。長身で長髪金髪カール。なかなかの美男子。ベースプレイはどちらかというと当時のハードロック寄りだったが、グルーブ(当時はビートと言った)が抜群に良かった。人懐っこく僕らともすぐに打ち解け、初めて行くことになるであろう日本にとてつもなくデカイ夢を描いていて、正直僕らは「?」だった。なにせジェフに言わせれば「ジャパンのガールはみんなジーンズなど履かず、スカートかキモノなんだろ?そして、家に帰ると床に手をついて挨拶するそうじゃないか・・・」そんな女性を僕らは見たことなかった。相変わらず戦前のイメージが根強く残っている街なのだ、ここは。今思うとL.Aはお洒落でもなく洗練もされていず、アメリカの殆どの地区と同じ用に単なる田舎町である。メキシコが近いせいかメキ文化が街やストリートの名前にも多く見られ、他の街よりも人種の数は多い。映画の街だから一見華やかだが、国際意識はあまりない。首都を問えばソニーかパナソニック。僕らの名前がホンダとスズキだったので二人ともバイクメーカーの御曹司だと思われていたが、めんどくさいのでそれで通した。帰国したらみんなにバイクをプレゼントする事を約束した。いまだに果たされていない・・・当たり前だが。それと首都をトウキョウと言える人が少ない事、同時に日本の地図上の位置はハワイのすぐ近くか、もしくは中国大陸の端っこで自国の属国だと思っている人が沢山いた。大日本国防尊王青年同士会(そんな団体知らん)が聞いたら日本刀振りかざしそうな事を皆平気でおっしゃる。コーリアンは当時は殆ど進出していない。東洋人は中国華僑か、リトルトーキョーの二世三世が多かった。まあ、僕もヨーロッパのはじっこの方はいまだによく判らん。ポルトガルってどこよ?
 そんな状態だから僕らは散々みんなに嘘の情報を植え付けたものだ。例えば女の子を口説くときは「look me yourパイパン」とか「はめさせてください」とか「ヘイ!おま○こ落としたよ」とかもうシモネタ無茶苦茶乱発。大体はキヨミが教えた。あと、SEXは日本語で「ずっぽん」といい、別れたい時には「かっぽん」と言いながらハラキリの真似をする。
 ジェフは我々の馬鹿な言葉を真剣に信じ、メモに取っていた。その後日本でヤツは何度も激怒していた。六本木では一度ももてなかったらしい。
 次に見つけたのがキーボードのリチャード。歯並びがやたらと奇麗な赤毛のアイリッシュ系。格好はスリムの短いパンツに、アロハシャツ。いつも男物のキャノチェ帽を被っていた。L.Aでは珍しいなかなかの洒落者だった。しかしこいつは我が儘で気分屋でいやはや大変だった。キーボードのチューニングも毎回気まぐれでその都度リハとは全く違うことをやりやがってハラハラしどうしだった。女性に対しては奥手で女問題は殆どなかった。しかし、根っからのクスリ好き。日本では絶対に手を出すなと言っていたので時々禁断症状になっていた。
 最後のドラマーがなかなか見つからなかった。パワフル馬鹿が多すぎなのだ。
 ある日、マダム・ウォンというクラブに、ドラマー探しの事は忘れて単純に遊びに行った。キヨミとテリーと三人で。ステージの上ではガールズロックンロールバンドが演奏していた。当時の女性ロックシーンは、AORが主流でパワフルなロックシンガーは少なかった。それから間もなくランナウェイズを解散後のジョーンジェットが「I LOVE ROCK'NROLL」を大ヒットさせた。パットベネターはようやく世の中に知られ始めたころだったと思う。
 ジンソーダをガンガン呑みながらバンドも見ずに三人で盛り上がっていた。その時演奏していたガールズバンドはその後・・・・イギリスで火がつき大ヒットした・・・・名前が出てこない。思いだしたら又書く。でもなんか稚拙なバンドだなと思ったのが正直な気持ち。考えてみるとあの頃L.Aのクラブで演奏していた連中で後にブレイクしたアーティストは結構いた。ジョージマイケル、Heart、ケニー・ロギンス、等々。黄金の80年代ポップスの幕開けの時代だったのだ。
 さて、ガールズバンドのギグが終わり、次に出て来たバンドも女性ボーカルだった。演奏が始まりすぐにキヨミと眼が合った。ドラムのキレがいい。エイトビートなのだがシックスティーンのビートが強い。見ると白人だ。黒人並のビート感だ。(今ではグルーブというのね)しかし、何かしら違和感がある。ハイハットとキックの絡みが妙に変則的なのだ。しかし、それが実にテクニカルに聞こえた。キヨミと二人でひたすらドラムスのプレイに集中していた。ボーカルの印象ゼロ。
 ステージが終わり、そのドラマーは自分のスネアドラムを持ち上げ退場するのだが、その時彼は全く動かない左足を引きずっていた。
 その頃には既に顔なじみになっていたマダム・ウォンのブックマネージャーの「ヤン」に、そのドラマーとの面会をお願いした。僕らは気のなさそうなテリーをテーブルに残し、ヤンに従いバックステージに向った。階段の下の控室の前で、ヤンが相手のマネージャーとなにやら話をしていた。言葉の端はしに「ジャップ」だの「イエローキッズ」だのと聞こえたが無視。相手のマネージャーは端から僕らを軽く見ていたようだ。イエロージャップごときが何をのたまっておるのだ、という調子。いきなり僕が切れた。何故かキレテみた。「シャーラップ!ユーアーシュアファッキングレートマネージャー、ザッツアイノウ!バット ウイアーノットジャストファッキンキッズ、ノットモンキー、ウィアージャパニーズ!!」とかなんとか。言いたい事の十分の一も言えない。しかし、マネージャーは僕らの剣幕にちょっとたじたじしたようだ。そして、扉をガンと叩くと中にいるミュージシャンに声を投げた。「ヘイ!!ビル(日本語にさせてね)日本人がお前に興味を持ったんだと。ここにいるが会うか?」しばらくしてからドアが開いた。マイケル・J・フォックスを一回り大きくしたような風貌で度のきつそうな眼鏡を掛けた金髪の男が僕らの顔を交互に見た。そして、多分こんな事を言ったのだと思う。
「日本人には片足のドラマーがそんなに珍しいか」
ビルはそう言いながら左足のズボンの裾をめくり上げた。肌色の義足だった。
僕らはそれを見て唖然としてしまった。言葉を失った。片足が無いことの哀れみなどではない。なぜ片足で、最前見たばかりのあのドラムプレイが出来るのか。
「あなたが片足だというのは今初めて知りました。失礼しました。だけれどもそんな事はどうでもよくて・・・えーと・・・」気持ちが伝わらない。テリーを連れてくれば良かった。すぐに僕はキヨミをその場に残してテリーの待つテーブルに向かった。そして、彼女の手を取ると再びバックステージに向かった。テリーは通訳として使われることをとても嫌うのだ。まあ、アーティストなのだから当然といえば当然だ。しかし、今回は違う。テリーのオリジナルメンバーを探しているのだから。階段を下りながらテリーに説明した。どうしても僕らの気持ちをカレ、ドラマーのビルに伝えたいのだと。
 テリーに言いたいことを伝えた。彼女がビルに向かって話す。
「彼らはあなたのプレイにとても興味を持ったようよ。片足があるとか無いとか関係ないわ。だってスティービーワンダーもレイチャールズも目が見えないから素晴らしいのではないでしょ。あなたも同じよ」後半はテリーの気持ちだろう。
「私たちは日本でプレイしてくれるミュージシャンを探しているの。あなたをドラマーとして日本に連れていきたいのだけれど、どうかしらって話なんだけど」
ビルはしばし無言だった。そして、退屈そうに様子を窺っていたマネージャーの胸ポケットからボールペンを引き抜くと扉に乱暴に数字を書きなぐった。そして、ぽんっ、とボールペンを放り投げ、再び扉を閉めてしまった。それを見ていたマネージャーが一言。
「やる気みたいだな。週給500ドルは約束してやってくれ」そして僕の肩をぽんと叩くと床に転がったボールペンを拾い上げ僕に手渡した。僕はポケットの中からライブチケットの半券を取りだし扉に書きなぐられたビルの電話番号を書き写した。
 こうして、片足のドラマー「ビル」の加入が決まり、新たなテリーバンドが誕生した。
 
 さて、レコーディングは順調に進み、後はトラックダウンを残すのみとなった。
「ケンジ、悪いが至急帰国してくれ」
 ある日の朝、国際電話を掛けた直後、ボスが言った。なんとレコーディングの資金が底をついてしまったのだ。何とか追加の資金を投入してくれるようにサラ金会社の社長に掛け合っていたようなのだが、社長は相当渋っているようだ。既にこの時点で3000万円近い金額が霧消してしまったらしい。要は今まで出来上がっている音源を社長及び当時の契約メーカーであるポリドールレコードの連中に直接聴かせ、なんとか残りの金をふんだくってこい、と言うのだ。僕この時21歳です。交渉の使者としてこんなに役不足な者はいないでしょう。もう少しL.Aに残ってトラックダウンのテクニックとか学びたかったのだが・・・嘘、ロンダと別れるのがやはり辛かったのだ。それだけだったと思う。
 そんな訳でしぶしぶ一人帰国の途についたわけである。L.A滞在2ヶ月半。この後CMのレコーディングやらなんやらで何十回となくL.Aには来たが、この時の印象が一番鮮烈に残っている。
 さて、東京ではとんでもない事が起きていた。ボスが3ヶ月も日本を離れていた理由が帰ってすぐに判明した。いやはや・・・。続く