前回はお盆の番外編。
しかし相変わらず毎日暑いね。いつも千代田線の乃木坂から青山墓地を横に見ながら西麻布の交差点を右折して会社まで歩くんだけれど、最近この道を通るとね、耳鳴りするんだわ。で、夕方まで目眩とこの耳鳴りが続いて仕事にならんのよ。日比谷で乗り換えて六本木に出てから会社に向かうと大丈夫なんだな、これが。
最近感じるのだけれど、やっぱりこの世には「霊」という言葉では言い表せない何か解明されていないエネルギー物質があるのではないかね。今住んでいる町屋というところは、すぐ近くに斎場があって、毎日我が家の前を黒服の集団が通り過ぎる。この街に住んでからこの家の通りを歩いて駅に向う訳だけれどもその度に身体が物凄く重くなる、というかね。落ちるんだわ、気分が。地下鉄に乗ってしまえば大丈夫なのだけれどもね。しかし、乃木坂で降りて西麻布の交差点過ぎると再びダメなんだわ・・・。出社拒否症なんかな。しかしオイラ社長だしね。誰にも虐められないし。この仕事が厭なのかな。
さてと、ではまたまた時間を遡ろう。25年前へとバビューン。
しばらく実家でぼうっとする日々を過ごしていた。激動の芸能界からほうほうの態で逃げ出し、さてこれから何をすべえかな、と考えていた。当時は特に自分が背負うべき借金も無く養うべき家族も存在していなかったので、気は楽っちゃあ楽だった。とは言っても金は無い。芸能界で様々な人に出会い人脈はそこそこ築けたが、あれだけ騒動を起してしまったので、当分合わせる顔がない。どこかのレコード会社に潜り込む事も考えてみたが、いずれにしても上条さんの知り合いばかりだ。しばらくこのラインからは遠ざかるべきだと心と頭が警鐘を鳴らしていた。とは言うものの、この業界に入るきっかけを作ってくれたエジソン先生には、事の顛末を報告する必要がある。そんな訳で久しぶりに我が師を訪ねた。ちなみに、つい最近我が師エジソン氏(渡辺敬之氏)は秋川雅史のプロデュースをしている。「千の風に乗って」も氏の手による作品だ。儲かってるんだろうな・・・。
「今さら合わせる顔も無いのですが、まあかくかくしかじかで、職を失いまして・・・でへへへ」
「ばかやろ、だから上条さんはなにかと危ないからやめとけって言ったじゃないか。自業自得だな」
「まったくです。返す言葉もありやせん」
「ふむ・・・ところでケンジ、CM音楽やる気はないか」
「いやはや、今さらより好みしている状態じゃございませんので、とにかくなんでもやります」
「実はミュージックハウスゼロという会社から誰か根性のある若いヤツいないかと言われていたのだよ」
「根性っすか・・・まあ、かなり叩かれまくりましたからね」
「うん、じゃっ今から電話してみる」
そんな訳でまたしても師の世話になり、翌週からこの会社に勤める事とあいなった。実は以前エジソンさんのアシスタントをしていた頃からこの会社とは馴染みであつた。なので、面接もなしのいきなりの採用。もちろん三ヶ月間の試用期間は設けられたが。
しかし、上条ボスの元で相当しごかれたので、この頃既に処世術には長けていた。21才の夏。
出社初日は30分前に行き、鍵を貰っていないのでポストに入っていた読売新聞を勝手に取り出し会社の前で座り込んで読んでいた。間もなくデスクの女性が出社してきた。すかさず90度の角度で挨拶。
「この度お世話になる事にあいなりました、鈴木です。よろしくお願い致します」
相手の方が恐縮していたね。
会社に入るとすかさず自分から「掃除機はどこでしょう」と尋ね、いきなり会社中を掃除し始めた。とにかく最初から・・・こやつはただものではない・・・と思わせる事が大事だと計画を練っていた。続々出社してくる先輩スタッフ達に完璧な挨拶をし、事前にデスクの女性から各先輩達、社長のコーヒー及びお茶の好みを聞き出していたので、まずはお茶汲み。その翌日から毎朝30分前に出社し、掃除をし、各デスクを綺麗に拭き、コーヒーを準備する。これを一年間続けた。煙草の銘柄も覚え、それぞれを常に何箱か常備し、相手の様子を窺いながら無くなるとすかさず目の前に差し出す。もうこの頃は楽しくて仕方なかった。こんな事はお茶の子さいさい。嫌味なヤツだったね。
で、二ヶ月で試用期間終了。晴れて正社員となりました。利点は厚生年金、社会保険に加入出来た事かな。ボーナスもあれば給料もきちんきちんと支払われて、それまでの世界とは違ってもうぬるま湯生活。
あるプロデューサーのアシスタントに付いたのだけれども、この人は結構ガタイもでかくて押し出しも強い人で、僕に対しても何かと偉ぶるタイプの人だったのだけれども、ふん、今までの人達に較べればもう仏様のように思えたものだった。
しかし、この高慢さがいけなかった。後々僕はCM業界で散々苦労する。
CM業界は芸能界と違い、相手は一般企業のホワイトカラーさん達である。普通のサラリーマン相手の商売だ。芸能界の常識は通じない。広告代理店は確かにカタカナ職業で、業界人ではあるが、当時の芸能界のような海千山千はいない。皆一流の大学を卒業したエリートばかり。当時から(まあ今もだけれど)僕はかなり短気だった。しかも負けず嫌い。特に上からモノを言われるとすぐにカチンとくる性質。本来、仕事とは頂くもの、頭を下げてナンボの世界。しかもCMは受注業。スポンサー様の大事なお金を預かって販売促進の為にクリエイティブを発揮する。今ではさすがに理解出来るようになってはきたが、当時の僕には全然全くかけらも理解出来なかった。もう喧嘩しまくり。相手が理不尽な事(スポンサーは日本語で書くと「理不尽人」となる)言うと、たかだか21才のアシスタントに過ぎない僕はいきなり暴言吐きまくり。暴れまくり。
入社半年頃の事。あるアパレルメーカーの打ち合わせ。
事前に貰った絵コンテを元にデモテープを制作し持参した。本番前のラフな音楽スケッチ。しかしながら徹夜で創り上げた作品だ。この日のミーティングはオールスタッフミーティングと言って、CM制作に関わる全てのスタッフが顔を揃える。代理店のクリエイター、ディレクター、プロデューサー、制作アシスタント、カメラマン、ライトマン、スタイリスト、ヘアメイク、大道具、音効さん・・・当時CM音楽制作屋の立場は低かった。現在はプロダクションのPM(制作)さんが時間をずらして我々が待たされる事は少なくなったが、当時は違った。彼等から見ればたかだか音楽屋風情。この時の打ち合わせでも散々待たされた。同じテーブルに座ったまま2時間。我々には全く関係の無い撮影の段取りを延々聞かされる。
ようやく音楽の話になったかと思うとすぐにディレクターは撮影部との話を蒸し返す。徐々に撮影スタッフ達が帰り始め、我々だけが残された。するとディレクターはいそいそと鞄にコンテを詰め込み、映像プロダクションの制作に言った。
「次あるから、オレ行くわ」
むっ。
「あの・・・」
ディレクターはゴミでも眺めるような眼を僕に向けた。
「こっちは2時間以上待たされてるんですが、デモテープ聞いていただけないですか?」
既に僕の眼は座っていた。下からすくい上げるようにディレクターを睨んだ。
すると、そいつはこうのたまった。
「音楽は取りあえず鳴ってりゃいいんだよ。制作に渡しとけ」
ぶちっ!!
僕はすかさず持っていたカセットテープをおもいっきりディレクターの顔に投げ付けた。
「てめえ、この場で絞められてーのか!!」一喝。それでも怒りは静まらない。僕は4m×2mの会議室テーブルの端を掴んでその場でひっくり返した。そしてそのまま立ち去った。上司置き去り。
その時のディレクターは当時超が付く売れっ子だった。つい最近癌で死んだと聞いた。その時から今に至るまで一度も仕事はしていない。一度夜の六本木で見かけたので「てめえ、このやろう!!」と追いかけ回した事がある。そいつの名前は関口某という。
そして、その時の代理店からは当然出入り禁止となり、その時のスタッフは誰一人居なくなったであろうつい最近25年振りになんと仕事をした。もちろん当時の事は言わないっつーか、言えない。
もちろん上司からは散々叱られた。でもね、殴られる訳でも拳銃向けられる訳でも無いので馬耳東風。こうして僕は仕事をナメ始めた。今考えると顔から火が出る。
しかし相変わらず毎日暑いね。いつも千代田線の乃木坂から青山墓地を横に見ながら西麻布の交差点を右折して会社まで歩くんだけれど、最近この道を通るとね、耳鳴りするんだわ。で、夕方まで目眩とこの耳鳴りが続いて仕事にならんのよ。日比谷で乗り換えて六本木に出てから会社に向かうと大丈夫なんだな、これが。
最近感じるのだけれど、やっぱりこの世には「霊」という言葉では言い表せない何か解明されていないエネルギー物質があるのではないかね。今住んでいる町屋というところは、すぐ近くに斎場があって、毎日我が家の前を黒服の集団が通り過ぎる。この街に住んでからこの家の通りを歩いて駅に向う訳だけれどもその度に身体が物凄く重くなる、というかね。落ちるんだわ、気分が。地下鉄に乗ってしまえば大丈夫なのだけれどもね。しかし、乃木坂で降りて西麻布の交差点過ぎると再びダメなんだわ・・・。出社拒否症なんかな。しかしオイラ社長だしね。誰にも虐められないし。この仕事が厭なのかな。
さてと、ではまたまた時間を遡ろう。25年前へとバビューン。
しばらく実家でぼうっとする日々を過ごしていた。激動の芸能界からほうほうの態で逃げ出し、さてこれから何をすべえかな、と考えていた。当時は特に自分が背負うべき借金も無く養うべき家族も存在していなかったので、気は楽っちゃあ楽だった。とは言っても金は無い。芸能界で様々な人に出会い人脈はそこそこ築けたが、あれだけ騒動を起してしまったので、当分合わせる顔がない。どこかのレコード会社に潜り込む事も考えてみたが、いずれにしても上条さんの知り合いばかりだ。しばらくこのラインからは遠ざかるべきだと心と頭が警鐘を鳴らしていた。とは言うものの、この業界に入るきっかけを作ってくれたエジソン先生には、事の顛末を報告する必要がある。そんな訳で久しぶりに我が師を訪ねた。ちなみに、つい最近我が師エジソン氏(渡辺敬之氏)は秋川雅史のプロデュースをしている。「千の風に乗って」も氏の手による作品だ。儲かってるんだろうな・・・。
「今さら合わせる顔も無いのですが、まあかくかくしかじかで、職を失いまして・・・でへへへ」
「ばかやろ、だから上条さんはなにかと危ないからやめとけって言ったじゃないか。自業自得だな」
「まったくです。返す言葉もありやせん」
「ふむ・・・ところでケンジ、CM音楽やる気はないか」
「いやはや、今さらより好みしている状態じゃございませんので、とにかくなんでもやります」
「実はミュージックハウスゼロという会社から誰か根性のある若いヤツいないかと言われていたのだよ」
「根性っすか・・・まあ、かなり叩かれまくりましたからね」
「うん、じゃっ今から電話してみる」
そんな訳でまたしても師の世話になり、翌週からこの会社に勤める事とあいなった。実は以前エジソンさんのアシスタントをしていた頃からこの会社とは馴染みであつた。なので、面接もなしのいきなりの採用。もちろん三ヶ月間の試用期間は設けられたが。
しかし、上条ボスの元で相当しごかれたので、この頃既に処世術には長けていた。21才の夏。
出社初日は30分前に行き、鍵を貰っていないのでポストに入っていた読売新聞を勝手に取り出し会社の前で座り込んで読んでいた。間もなくデスクの女性が出社してきた。すかさず90度の角度で挨拶。
「この度お世話になる事にあいなりました、鈴木です。よろしくお願い致します」
相手の方が恐縮していたね。
会社に入るとすかさず自分から「掃除機はどこでしょう」と尋ね、いきなり会社中を掃除し始めた。とにかく最初から・・・こやつはただものではない・・・と思わせる事が大事だと計画を練っていた。続々出社してくる先輩スタッフ達に完璧な挨拶をし、事前にデスクの女性から各先輩達、社長のコーヒー及びお茶の好みを聞き出していたので、まずはお茶汲み。その翌日から毎朝30分前に出社し、掃除をし、各デスクを綺麗に拭き、コーヒーを準備する。これを一年間続けた。煙草の銘柄も覚え、それぞれを常に何箱か常備し、相手の様子を窺いながら無くなるとすかさず目の前に差し出す。もうこの頃は楽しくて仕方なかった。こんな事はお茶の子さいさい。嫌味なヤツだったね。
で、二ヶ月で試用期間終了。晴れて正社員となりました。利点は厚生年金、社会保険に加入出来た事かな。ボーナスもあれば給料もきちんきちんと支払われて、それまでの世界とは違ってもうぬるま湯生活。
あるプロデューサーのアシスタントに付いたのだけれども、この人は結構ガタイもでかくて押し出しも強い人で、僕に対しても何かと偉ぶるタイプの人だったのだけれども、ふん、今までの人達に較べればもう仏様のように思えたものだった。
しかし、この高慢さがいけなかった。後々僕はCM業界で散々苦労する。
CM業界は芸能界と違い、相手は一般企業のホワイトカラーさん達である。普通のサラリーマン相手の商売だ。芸能界の常識は通じない。広告代理店は確かにカタカナ職業で、業界人ではあるが、当時の芸能界のような海千山千はいない。皆一流の大学を卒業したエリートばかり。当時から(まあ今もだけれど)僕はかなり短気だった。しかも負けず嫌い。特に上からモノを言われるとすぐにカチンとくる性質。本来、仕事とは頂くもの、頭を下げてナンボの世界。しかもCMは受注業。スポンサー様の大事なお金を預かって販売促進の為にクリエイティブを発揮する。今ではさすがに理解出来るようになってはきたが、当時の僕には全然全くかけらも理解出来なかった。もう喧嘩しまくり。相手が理不尽な事(スポンサーは日本語で書くと「理不尽人」となる)言うと、たかだか21才のアシスタントに過ぎない僕はいきなり暴言吐きまくり。暴れまくり。
入社半年頃の事。あるアパレルメーカーの打ち合わせ。
事前に貰った絵コンテを元にデモテープを制作し持参した。本番前のラフな音楽スケッチ。しかしながら徹夜で創り上げた作品だ。この日のミーティングはオールスタッフミーティングと言って、CM制作に関わる全てのスタッフが顔を揃える。代理店のクリエイター、ディレクター、プロデューサー、制作アシスタント、カメラマン、ライトマン、スタイリスト、ヘアメイク、大道具、音効さん・・・当時CM音楽制作屋の立場は低かった。現在はプロダクションのPM(制作)さんが時間をずらして我々が待たされる事は少なくなったが、当時は違った。彼等から見ればたかだか音楽屋風情。この時の打ち合わせでも散々待たされた。同じテーブルに座ったまま2時間。我々には全く関係の無い撮影の段取りを延々聞かされる。
ようやく音楽の話になったかと思うとすぐにディレクターは撮影部との話を蒸し返す。徐々に撮影スタッフ達が帰り始め、我々だけが残された。するとディレクターはいそいそと鞄にコンテを詰め込み、映像プロダクションの制作に言った。
「次あるから、オレ行くわ」
むっ。
「あの・・・」
ディレクターはゴミでも眺めるような眼を僕に向けた。
「こっちは2時間以上待たされてるんですが、デモテープ聞いていただけないですか?」
既に僕の眼は座っていた。下からすくい上げるようにディレクターを睨んだ。
すると、そいつはこうのたまった。
「音楽は取りあえず鳴ってりゃいいんだよ。制作に渡しとけ」
ぶちっ!!
僕はすかさず持っていたカセットテープをおもいっきりディレクターの顔に投げ付けた。
「てめえ、この場で絞められてーのか!!」一喝。それでも怒りは静まらない。僕は4m×2mの会議室テーブルの端を掴んでその場でひっくり返した。そしてそのまま立ち去った。上司置き去り。
その時のディレクターは当時超が付く売れっ子だった。つい最近癌で死んだと聞いた。その時から今に至るまで一度も仕事はしていない。一度夜の六本木で見かけたので「てめえ、このやろう!!」と追いかけ回した事がある。そいつの名前は関口某という。
そして、その時の代理店からは当然出入り禁止となり、その時のスタッフは誰一人居なくなったであろうつい最近25年振りになんと仕事をした。もちろん当時の事は言わないっつーか、言えない。
もちろん上司からは散々叱られた。でもね、殴られる訳でも拳銃向けられる訳でも無いので馬耳東風。こうして僕は仕事をナメ始めた。今考えると顔から火が出る。