ジーケン・オイラー 日々是プロデュース日記

音楽・CM業界に携わり20数年。現在、音楽以外にも多数日々プロデュース中。

L.A失恋話

2006-05-30 12:41:28 | Weblog
 朝7時に起床する事からL.Aでの毎日は始まる。ジンコと共にみんなの分の朝食を拵え(多分この時期の経験によって僕の料理欲が高まったのだと思う)その後、テリーはプールで肺活量を養うトレーニング。キヨミは寝巻きのまま朝からギター抱えて運指のトレーニング、僕は再びカズさんとロケハン。・・・ボスはTVで大リーグ観戦。のどかな午前中を過ごし午後からスタジオ入り。深夜までセッション。真夜中アパートメントに帰り、それからキヨミと僕は酒盛り。歩いてすぐの所に深夜まで営業している寿司屋があった。そこのおかみさんがいかにも在米二世的な美人で、キヨミと僕はとてもやさしくしてもらった。今なら殆ど食べないが、初めてカリフォルニアロールなるものを食べた時には正直美味さに感動してしまった。そんな平穏でルーティンな日々がしばらく続いた。
 レコーディングの第一段階が終了した隙間のある日、ボスに命じられた。
「ケンジ、『パツキン』の『パイオツ』ドッカーンとした女買ってこい」
 当時のサンセットストリートは日が沈むころ、ハリウッドドライブと交差するあたりの両側200メートル程にずらっずらっとコールガールが並ぶのだ。これ以上ないほどタイトなワンピースミニに身体を押し込んだ「黒白抹茶小豆コーヒー柚子桜」のプレイボーイから抜け出たようなグラビア娘がわんさか。今は規制で禁止になり久しいが、当時のハリウッドではひとつの観光名所みたいなもので、それはそれは壮観だった。よくキヨミとボスと三人でゆっくりと車を走らせながら品定めしたものだ。
「ボス、本気です?」
「あたりまえだよ、早くしろ」
 その日テリーとジンコはサウンドエンジニアのレナードの家のパーティに招かれ、おそらく深更まで帰ってこないだろう。確かに今日この日しか楽しみはないな。
「ボス、後で好みで文句言わないでくださいよね」
 そう言いつつキヨミとハリウッドに繰り出した。時間も早くお茶挽いてるアメリカン娘達がしきりに色目を仕掛けてくる。しかし、まだまだ円安の日本、東洋人相手にしてくれるコールガールなんかいやしない。しかもショート(一時間)で200ドル・・・当時の日本円では48000円!チップを入れると一人頭55000円。三人で・・・おいおい165000円也だ。そんなお金持ってないし。ボスに言い訳したいが当然携帯電話なんてない。確認も出来ずすごすごと帰ってきた。しかしボスは既に臨戦態勢だったらしく、手ぶらで帰ってきた僕らにめちゃくちゃ当たりだしたのだ。ただしギターのキヨミはアーティストなので例外。僕だけプールに投げ込まれ、 なんと、L.Aに来てすぐに買い求めたモノホンの拳銃「ワルサーPPK」で乱射し始めたのだよ。・・・まあもちろん当たらないようにだけど、単なるおふざけなんだろうけどね。そうは言ってもびびりまくったわ。

 アパートメントの2階にはユダヤ系の女の子、ロンダが暮らしていた。やせ形で顔が小さく、瞳の色は薄い茶色で、鼻筋が奇麗で唇は薄かった。バストの形も素敵だった。しかし彼女は生まれつき足が悪く、車椅子に乗って生活していた。エレベーターに乗るときなど、我々紳士な日本男児はなにくれとなく親切に接したものだ。彼女は毎日プールサイドにやってきては足を使わずに水泳をしていた。障害者の水泳大会にもたくさん出場し優勝したこともあると言っていた。だから上半身の筋肉は素晴らしかった。やがて我々は彼女と親しくなり、レコーディングがない日や早く終わった日はしょっちゅう夕食を共にした。そして僕は彼女に惚れた。プールサイドで慣れない英語を操ってはたくさん会話を交した。部屋にも遊びに行った。彼女は当時カリフォルニア州や支援団体からの障害者に対する補助金で生活していた。しかし、それだけでは最低の生活しかできないので、副業として「マリファナ」「コカイン」の売人をしていた。部屋の半分に栽培用のプランターがあり、1.5メートル近くに育った大麻が生い茂っていた。当然これは犯罪である。が、しかし今もだが、カリフォルニア州は大麻の個人栽培には寛容で、外で売買でもしないかぎり捕まることはないらしい。これは今では更に緩くシスコでは不眠症の患者や鬱病の患者には医者が処方する事が最近許可されている。まあ、大統領が就寝前に吸引している国だからね。ただし、コカインは御法度だ。勿論所持しているだけで即逮捕。結局はコロムビアやブラジルなどにドルが流出することが許せないのだろう。だから誰にでも栽培できちゃうような大麻にはめくじら立てていないのだろう。
 さて、25年も昔の、それも外国の話だから書いちゃうけれども、ロンダが扱うマリファナはおそらくとても上質なものだった。彼女の家にいると頻繁に顧客がやってきた。殆どがアパートメントの住人達だ。若い女の子も男の子もいれば初老の夫婦も買い求めにくる。まるで、田舎から送られてきた無農薬野菜を個人販売しているがごとくに。
 当然、僕も何度もロンダの御相伴にあずかった。しかも毎回御馳走してくれた。特に食事の前は必ず何服か回し飲みする。すると、舌の味覚がとても鋭敏になって、何を食べても素晴らしく美味しいのだ。ロンダはユダヤ系ではあるがユダヤ教徒ではないらしく、禁忌の食物は無いらしい。牛でも豚でも料理してくれた。特にシーフードが得意で巨大なロブスターや、エビ、イカ、ムール貝、ハマグリなどをたっぷりと買い込んでくる。味付けは簡単で、オリーブオイルにニンニクで全部何もかも白ワインで蒸すだけ。食べる前にしこたまライムを絞るのだ。しかし、これが馬鹿にウマイ。マリファナのせいもあるのだろうが、物も言わずに食べ続け、残った汁まで啜ったものだ。
 ロンダはキスがとても上手だった。キスだけで・・・ちゃうくらいに。
 僕はてっきりロンダと付き合っていたつもりだったのが、それは子供の勘違いというものだった。
 ある晩、全員が寝静まった頃、そっとベッドルームから脱けだす影一つ。ボスだ。部屋着から外出用に着替え、帽子も被り、そっと玄関の扉を開け外に出ていった。こんな時間に一体ボスはどこに行くのだろうか・・・気になり、静かに玄関を少しだけ開き、外を窺ってみた。すると、エレベーターホールにボスが佇んでいた。そして、昇りの箱に消えた。ここは1階だ。アパートの外に出るのにエレベーターは必要ない。地下にはコインランドリーがあるだけだ。エレベーターの回数表示の灯を見つめていると二階に止まった。間違いなくロンダの部屋に行ったのだ。確かに僕は彼女とキスは交した。が、それ以上の行為には進む事が出来ずにいた。下半身が動かなくても行為は出来るのだろうか、それは相手に対して失礼な事ではないのだろうかと。そう思っていた、と言いたいところだが、若干20歳、そんな細やかな心遣いなどあるわけもない。拒絶され、ロンダとの幸せな時間が失われる事が恐かったのだ。寝られない僕は窓の外が明るくなるまで何度も寝返りをうちながらボスのベッドを見つめていた。そして、朝方出ていった時と同様にそっとボスは帰ってきて、寝床にくるまった。僕はその時嫉妬の嵐だった。ボスのベッドのサイドボードの引き出しの中には「ワルサーPPK」が入っている。ボスが寝静まったのを窺い、僕はそっとベッドから抜け出し、サイドテーブルの抽き出しを開けた。そこにはシルバーに光る拳銃が。そっと取りだしグリップを握りしめる。第二次世界大戦当時、ドイツのゲシュタポが使用していた名銃だ。弾倉には7発の弾が込められているはずだ。僕は安全装置を外し、静かにスライドし初弾をチェンバーに送り込む。そしてボスの頭に向けて「ドンッ!」
 そんな夢を見ていたらキヨミに起こされた。いやはや寝取られた、っつーかボスにはどうしたってかなわん。その後もロンダとはうまくやっていたが、二度とキスはしなかった。ウブだったのだ。今なら考えられんな。
 キヨミもやたらともてていた。プールサイドで寝ていると、超美形スタイル抜群がにじり寄ってくる。そしてキヨミの胸を触りながら懇願するように言うのだ「キヨーミ、あなたの乳首にこのピアスを刺させて欲しいのよ」しかし、キヨミにとって残念だったのは相手がゲイだった事だ。最初は判らなかったがプールサイドに
男性二人でやってくる光景を見る事が多かった。このウエストサイドはゲイがやたらと多い地区だったのだ。手を繋ぎながら歩く男性カップルがやたらと眼についた。しかしそういう連中に限ってメチャクチャ美形なのだ。この頃、まだエイズは発見されていない。西海岸はゲイのパラダイスだった。

渡米レコーディング編

2006-05-19 20:14:05 | Weblog
 翌日目覚めると紛れもなくここはL.Aだった。昨夜の記憶が曖昧だ。おそらく朝方みんなと一緒にここに帰ってきたのだろう。住居はホテルではなくアパートメントだった。滞在三ヶ月だからね。ボスとテリーと、渡米前にバンドに引っ張り込んだ高校時代の同級生だったギタリストの本田清巳、それからテリーの付き人として入ったジンコ(本名忘れたが、この娘はテリーの熱烈なファンだったのを釣り上げた)以上五人の共同生活。アパートメントは2ベッドルーム2バスルームと20畳近いリビングにキッチン。建物の1階に位置し(アメリカでは1階は安い。セキュリティが不安だからだろう)リビングの窓を開けると、目の前はプール。そのままどぷーんと飛び込めるようなシチュエーション。アパートメントの場所はビバリーヒルズの近くでウエストハリウッドのラ・ブレアアベニュー沿いというまあ中級の上の街。サンセットストリートから1ブロック北に上がった所でサンセットストリートの角にはタワーレコードがありラ・ブレアアベニュー挟んで反対側に「Whisky a go!go!」があった。L.Aで当時一番大きなライブハウス「ROXY」もサンセットストリートを五分ほど歩いた所にある。とにかく音楽生活従事者には最高の環境だった。プールサイドにはブーゲンビリアが咲き乱れ、初めて見るハチドリが羽ばたきながらハイビスカスの花弁に口吻を差し込む。・・・嗚呼まさにここはウエストコースト・・・らららー。頭の中では「カリフォルニアの青い空」が大パワープッシュ状態。何もかもが輝いて見えた。巨大スーパーマーケットに行くと生鮮売り場には巨大なステーキ肉や丸ごとのターキーや豚の塊肉、サーモンの輪切り、ナマズのような魚、山に積まれたオレンジ、葡萄、スイカにメロンにトマト・・・それとピザやラザニアなどの冷凍食品の数々。ウエルチの巨大ボトルに数種類のジンジャーエール。初めて味わう濃縮果汁還元ではない100パーセントオレンジジュースのフレッシュさ。今じゃカルフールだの紀伊国屋だのコストコだのがあるからこの国でも普通の情景だけれども、その当時の日本の寄り合いスーパーマーケットとは大違いだった(個人的にはその頃の昔の日本の商店街が好きだけれども)
 街中を走っているのは、ついさっき爆撃でも受けたようなボロボロのアメ車(フロントガラスがないだとか、助手席側の扉が無いのは当たり前)ストリートの両側に聳えるFM局やタバコの巨大ビルボード、どこを向いてもアメリカ人(今思えばメキシコ人もたくさん居たはず)そして暑いのにさらさら乾燥している風。何と言ってもイーグルス「ホテルカリフォルニア」のジャケットに使われた「ピンク・パレス」を見たときは「おーい、グレン・フライ、ドン・ヘンリー、ジョー・ウォルシュ他、みんな元気かー、風邪ひいてねーかー」友達でもないし、会った事もないし、身体気遣われても知らないふりされるだけなのに、なんかこの同じ時間に同じ空気を吸っているんじゃないか、と想像するだけで興奮してしまったものよ。
 いやはや、この頃が一番楽しかったね。その後にまたもやとんでもなく翻弄されちゃうドラマが待ち受けていることも知らずにただただ僕ははしゃぎまくっていた。つかの間の娯楽だ。まっそれはおいおい書き連ねるとして。
 すぐに親しくなったのは現地在住のカメラマンのカズさん。「デビッド・リンドレイ」の「Win This Record」のジャケを撮影した人。「デビッド・リンドレイ」は知る人ぞ知る。知らない興味ない関係ないうざいきもい人には全く縁のないアーティスト。なにせ日本ではこのアルバムタイトル「化け物」だったし。当時のカズさんはまだ20代後半。テリーのジャケ写もこの人が担当する事になっていたので、ロケハンと称して色々な所に連れて行ってもらった。L.Aからベガス方面に北上すると一面砂漠地帯。フリーウエイを2時間も突っ走ると乾燥したジョシュアトゥリーが鞠(まり)状になって風に転がる荒涼とした大地。地平線が見えるこんな場所で日没に車を止めて枯れ草集めて燃やし、沸かしたコーヒーにバーボン入れて飲んだりしちゃったら、んもう気分はもはやカウボーイ、訳して「牛少年」・・・なんじゃそりゃ。そんなこんなも初めてのアメリカだった。いずれ慣れると味気なくなるんだけどね。

 到着して数日後にレコーディングが開始した。スタジオシティ・・・ユニバーサルスタジオがある辺りの「スタジオ・ダンブリン」アイリッシュ系のエンジニアがオーナーのスタジオだった。・・・しかしよく覚えているものだ。多分これ書く前は25年間封印していたくらいに懐かしい名前。自分で自分の書く言葉に酔ってしまうよ。
 レコーディング初日。リズム録りの為に続々とミュージシャン達が集まってくる。
「おおおおおおお、き、清巳!!ル、ル、ルカサーだよ、ポ、ポーカロだよ!!!あいつら本物か?」みたいな驚嘆の中、彼らは黙々とセッティング。ドラムの音はセッション開始3時間前にドラムスのトレーナーが楽器を運びセッティングし、基本的なサウンド作りだけで2時間近く掛けていた。この時の音作りの光景は今でも僕の中に活きている。専門的な話になるが、日本のエンジニアの殆どが25年前から今に至るまでサウンド作りの多くをハードやソフトのプラグインに頼っている。イコライジングもアンビエントもだ。(反論は聞かねえ。そうでないとしてもおまいらの殆どは海外に通用しない所詮まがい物だよ)しかし、アメリカでもイギリスでも基本のサウンドはスタジオや板の反響を考慮し、マイクの角度、距離をもとに作り上げていく。この両者の態度は今でも変わらない。だから日本の音はどうしたって薄っぺらい。アメリカのサウンドはどうしようもなくパワフルだ。電圧の加減だとか、コンプの使い方だとか揚げ句は空気の乾燥だのしまいには食い物の違いだのと抜かす馬鹿エンジニアが日本にはまだまだ沢山いるっつーかほぼ全員。太平洋挟んで対岸から馬鹿にする材料探す前に、現地のレコーディングを一度で良いから経験出来る環境を、スタジオはエンジニア志望の人達に提供して欲しい。1曲のトラックダウンに7時間さえも愚か、10時間も掛けるのは単なる制作費の無駄遣い、愚の骨頂だ。伎倆があればな1曲2時間で仕上がるんだよ。
 ついつい興奮してしまった。・・・。しかし、アメリカのスタジオではたまにコカインのやり過ぎでプレイ中に壊れたミュージシャンが暴れだす事もあるようで、エンジニアが座る卓前の下の引き出しにはなにげに拳銃が置かれているし、スタジオとコントロールルームを仕切るガラスは防弾仕様だ。こんな事は学ばなくてもよろしい。その辺については欧米のミュージシャンは確実に相変わらずいまだに牛並に馬鹿だと思う。いやはや。
 しかし、今回はカタカナが多い。読みにくいね。すまん。
 そして、渡米編はもすこし続く。本日はこれまで。酔ったわい。

初洋行・・・良いこともあったさ。

2006-05-18 00:48:49 | Weblog
 さてと、再び25年前に戻ろう。
 サラ金会社兼マネージャー稼業の僕の毎日はそれなりにとてもスリリングだった。逆恨みした債務者が出刃包丁持って乗り込んで来た事もあった。毎日一度は恨み言、脅しの電話を受けたりもした。
 専務の木下さんは見た目無茶苦茶恐い人だったけれど、内実この人は優しい人だった。御自宅に招かれた事もあったが、可愛らしい普通の奥様に当時三歳になるお嬢さんがいて、普通に子煩悩なパパだった。木下さんはこのサラ金会社ともうひとつ、闇の探偵業を営んでいた。まあいわゆる事件屋。企業の不渡り手形の回収だの総会屋の手先となって、大手企業の重役のスキャンダルを探すといったお仕事。何故かこの木下さんに僕はいたく気に入られてしまい、何度もスカウトされたものだ。給料も破格。正直、金の多寡で心は動くものよ。なにせ80万円。当時の自分の給料の7倍近く。でもやっぱりね、音楽から離れる事は出来なかった。
 社長のSさん(今どーしてるか全く判らないので匿名とする)はとにかく芸能界好き。それも夜のクラブ遊びで自慢したい、ただそれだけの理由で。しょっちゅうお供をさせられた。ヤレもしない女とただ呑むだけの慣行の阿呆らしさに20歳で気付き、その後、接待以外でそんな場所に出入した事はない。ただでさえ周りにはピッチピチに若い娘たくさん居るしね。ただみんな恐いけど。
 S社長と同じく、事務所に詰める若い衆達も芸能界に憧れる輩が多かった。そんな連中を逆研修とばかりにNHKの「レッツゴーヤング」の収録に連れていった。NHKホールの楽屋口はステージ下手の入り口に向かって長い待合いロビーになっている。ステージの状況が見えるようにその通路の真ん中にモニターが置かれ、向い側に安手のソファーが並べられている。25年前も現在も殆どおんなじ。ったく番組のプロデューサーにポッポされる前に少しは設備に金掛けろよ、公共放送。(ついつい本音)
 その頃の「レッツゴーヤング」の司会は確か太川陽介と榊原郁江ちゃんだったと記憶する。その後、田原のトシちゃんと聖子ちゃんに変わったのかな。今は「ポップジャム」という名前でこの番組は継承されている。だ・か・ら、ロビーと楽屋、もすこし何とかしろよな。
 で、この日このロビーの一角に相当異色な連中が占拠した。でもね、いつもは肩そびやかして周囲を威圧している連中がまるで「借りてきた猫」状態。自分たちの前をいつもはブラウン管の中でしか見た事ないタレント達が闊歩している。松田聖子、小泉今日子、近藤真彦・・・。どういう顔していればいいのか判らず、ひたすら下を向くばかり。けっ、可愛いやつらだ。
 で、僕はたまたまその頃のピンクレディと、適当になんとなく顔見知りだった時代があって(この辺はもうあんまり覚えていない。土井ハジメさんという振付師との付き合いの延長だったと思う)この日、ミーちゃんとケイちゃんが通りかかった時に「御無沙汰してます」と声を掛けたのだ。すると二人もなんとなく顔だけは覚えていてくれたようで「ああ、どうも、お元気ですか?」と、むっちゃくちゃ業界系社交辞令を返してくれたのだ。当然名前なんざ覚えられちゃいない。しかーし、業界免疫の全く無い先輩社員さん達にはこれが相当「キチャった」らしい。
「すごいっすねーピンクレディと知りあいなんすか」
いきなり敬語。あんたさー、この前俺の事ぼこぼこにしたやんけ。
「いやぁ、ちょっとね」と僕。
なーにがちょっとね、だっちゅうに。でも、ちょいと「勝った」という気分を味わったな。暴中歓あり(ボウチュウカンアリ)・・・。
 その後、このサラ金会社も斜陽化していく。なんだかんだで社長も専務も悪人になりきれなかったのだ。何度も債務者に借金踏み倒され、上条ボスにバンバン金遣われ、裏ビデオ屋は摘発され、歌舞伎町のデート喫茶も時を待たずして日本のヤクザに乗っ取られた。で、ある日潰れてしまった。その後社長のS氏は映像制作会社を起ち上げるが失敗。今はどうしてるのかな。所詮は船橋でパチンコ屋や焼き肉屋を手掛ける家のボンボンだったのだ。
 専務の木下さんは数年後、京浜運河に刺殺死体で浮かんだ事を新聞で知る。・・・。家族の行方は知らない。この人にはかなり好意を持っていた事を自分の泪で知った。

 サラ金会社に所属中、アメリカでの録音話が持ち上がった。当時の日本ではまだ海外での録音は珍しかった。その数年前のプラザ合意後、円は変動制に移行したのだが当時のレートはそれでも充分に円安ドル高だった。確か1ドル240円くらいだったと思う。現在の倍以上だ。海外録音は日本での制作を遥かに上回る高値だったのだ。それでもボスは意地で敢行した。当時のボスの気持ちを諮るに今の自分に似ていると思う。アーティストの為ならばどんなにリスクが掛かっても構わないという気持ちが確かに僕にはある。なんだかんだで影響を色濃く受けているのだなと思うし、その事に何故か悄然としてしまう。
 さて、僕にとっても初の洋行だった。しかもミュージャンの殆どはその後グラミーを総なめしたTOTOのメンバーだった。ギターはスティーブ・ルカサー、キーボードはスティーブ・ポーカロ、コーラスがボビー・キンボール、ドラムスはジェフ・ポーカロではなく、オリビアニュートンジョンのオリジナルメンバー、マイク・ベアードであった。ベースはえーと、えーと、確かイスラム系の人だった。そう!!エイブラハム・ラボリエルだ、うん。
 確かに当時のTOTOメンバーはまだ、金さえ出せば演奏してくれるスタジオミュージシャンではあった。しかし僕にとっては夢の様な話だったし出来事だったのだ。
 初めてアメリカのL.Aに到着した時、既に現地は夕やみに包まれていた。訳も判らずイミグレーションを通過した。僕はテリーと一緒にL.A入りしたので、通訳には困らなかった。彼女がいなければひょっとしたらいまだに僕はイミグレーションの手前で暮らしているかも知れない・・・・んな事はないか。既に先乗りしていたボスとコーディネーターが出口で迎えてくれた。そして、そのまま荷物を解く間もなく我々はサンセットストリート沿いの「Whisky A GOGO」というクラブに連れていかれたのだ。
 夕闇の中でアメリカ初情陸の実感も無いまま、車に押し込まれ、いきなり当時最も流行っていたクラブに連れていかれた20歳の小僧の気持ちを慮ってみて欲しい。「うっわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」である。いきなり映画の世界にぶち込まれた気分だった。なにしろ周りは金髪だらけ。バーカウンターもステージも観客もなにもかもが徹底的にアメリカだったのだ。そして、間髪入れず「ヒューイルイス&ザ・ニュース」のギグである。もうアメリカンOFアメリカン。気分は完全に「アメリカングラフィティ」
 でね、ぼーっとしていると当時はまだクラブに来る東洋人が珍しかったのか、ひやかす意味だったと思うけれども、次々にマリファナを巻いたジョイントが僕の手に渡されるのだよ。最初はタバコだと思ったのだけれども吸うたびに頭がくんらくんらしてくる。ああ、これがグラスか、マリファナかと思い、くそー、負けてたまるかとばかりにガンガン吸いまくった。しかーし、時差ボケと長旅であえなく沈没。正直に言います。「ヒューイルイス&ザ・ニュース」のライブの真っ最中に「Whisky A GOGO」のフロアにわたし嘔吐しました。・・・情けない。その後大ヒットしたバンドのしかも最後のクラブ演奏だけに覚えている人がいるとしたら、わたしゃその人抹殺したいわ。その後はCMのレコーディングやらなんやらで何十回となくアメリカには行ったけれども、あの時のアメリカでの初洗礼は忘れられません。


番外・・・ボコボコ現代編

2006-05-15 20:18:34 | Weblog
 ここまで一気にずらずらと書き連ね、気分までもが一気に過去に戻ってしまい、自分が今まで突っ走ってきた事が本当に正しかったのか、この道選んで良かったのだろうかと、ふと考え込んじゃいました。まあ今更悔やんでも仕方無いし、意味無いし、時間の無駄だし、取りあえず禁酒中ではあるけれども、へばっているのは肝臓だけじゃないし、今更健康に配慮したって明日何が起きるか判らないこの世の中で1リットル程の酒を我慢したからって多分なんの支障もないだろうしお医者の吉田先生に見張られているわけじゃないし看護士の佐藤さんはそりゃ可愛いけれどもだからって何が出来るってもんじゃないし毎週2回2本づつ注射も打ってるし天気はぐずついてるしそう言えば何となくさみしいしそう言えば何となく虚しいしだから呑んじゃえ呑んじゃえじゃんじゃん呑んじゃえ、って呑んじゃったら止まらなくなって結局三日間も呑み続け何が禁酒なんだか誰が禁酒なんだか判らなくなってしまった。今日は呑まない。明日も呑まない。明後日はわからん。

 さて、ぼこぼこ人生の続きです。さすがにこの年齢になるとぼこぼこにされる事はなくなったと思うでしょ。ところがどっこい、ぼこぼこついでに40歳過ぎてからの悲劇「麻布警察署で朝を迎える」番外編のはじまり。
 3年前のある夏の日、スタッフの水村と断酒中のウツリ(山移高寛氏、当時は社員だったが現在はフリーの作曲家サウンドプロデューサー)と六本木に呑みに出掛けた。水村というヤツ、筋肉を鍛えることが趣味のナルちゃん野郎で、二の腕もぶっとく胸筋をムキムキさせるのが特技というヤツ。普段酒呑まないとどちらかといえば石橋を叩いても渡らないという、良く言えば思慮深く、悪く言えば優柔不断なヤツ。しかし一旦呑み始めると、呑んだ分だけ脳みそが溶け出してしまうのか、いきなり限りなくお馬鹿に変身する。体格ゴリラ並、頭サル並の凶器に変貌するのだ。この日も三軒目を出た頃には完全に自分の世界に埋没してしまい、深夜の六本木の街を「ごふっごふっ」と鼻息荒く闊歩し始めた。そして惨劇は勃発した。何をどう勘違いしたのか目の前3メートル先にいる身なり業界風の若者が「自分に眼飛ばした」と言い張る。その人明らかに反対側見てんのに。全然目合ってないのに。止める間もなくゴリ男突進。いきなり「バキっ!!」顔面横殴り。どちらかといえば華奢な体格のその若者は「シューッ」と吹っ飛んで閉店後の店のシャッターに激突。慌てて僕は後ろから水村を羽交い締め「こらっ馬鹿タレが、やめろ!!」水村の両脇の下に手を突っ込んでも止まらず、ゴリ男は更に突進し2発目を放とうとしている。こりゃあかん、僕は続いて両足を水村の腰に巻き付け転ばそうとしたのだが、馬鹿ゴリ野郎は既に操縦不能ブルドーザーと化していた。僕を背中におぶったまんま手足をぶるんぶるん振り回し、倒れた若者に乗りかかろうとする。その時振り回したヤツの肘が僕のわき腹を直撃。「ぐふっ」力が抜けてその場にへたり込む。更に凶器の腕はやじ馬の一人にも当たったらしい。そして、当たった相手はチンピラヤクザ。事態はわずか10秒の間に最悪の状況に変化してきた。警察沙汰にしない限り別の収束を考えなければならない様相。現実が判らずなにやら喚き散らすゴリ男。この時叫んだ言葉がチンピラヤクザの導火線に火をつけたようだ。「てめえ、こら、今なんつった。○○組だあー?てめっどーゆー意味だこのやろ」いきなりこの夜の関係者となり凄むチンピラ。水村は某大手広域指定暴力組織の名前を出したらしい。「いや、関係ないから。全然関係ないから」釈明する僕。でも全然収まらないヤクザ君。六本木の派出所が近かったので、不幸にもゴリ男に殴られた若者をウツリと担ぎ、喚き散らすゴリ男とヤクザ君を引き連れて派出所に向かう。そして更にのっぴきならない事実が判明する。いわゆる血の気が「さあーーーー」と退く類い。歩道を歩いているのにダンプカーに撥ね飛ばされてしまったような不幸な若者は、なんと当社のお得意様会社の社員だったのだ。最大手芸能プロダクション系のCM映像制作会社の制作マンだった。派出所で仰天し恐縮しシオタレテ名刺を渡す。「すんません、いつもお○○さんにはお世話になってます」ひたすら謝り続ける僕。相手は当然の事ながら憮然としている。相当やばい。ヤクザ君の問題など吹き飛んでしまった。ゴリ男はいきなり暴れて酔いが回ったのか呂律もへろへろ。もうただの粗大ごみと化している。メンドくさいからそのままヤクザ君に差しあげちゃっても良かったのだが、そういう訳にも行かない。今度はぞろぞろと麻布警察まで移動。水村は取り調べ室へ連れていかれる。ヤクザ君は刑事さんに囲まれても相変わらず強気満々。今度は僕に脅しをかけてくる。「あいつよー、いつも○○のジムに通ってんだろ。見たことあんだよ」語尾がやたらと粘り着くような頭悪そうな喋り方で凄む。刑事さんの一人が僕に囁く。「なんでまたこんな面倒なヤツに喧嘩売ったんだよ」「はあ・・・」実際の所なんでこのヤクザ君が怒っているのかよく判らない。殴ったわけでもなくただちょっと肘が触った程度。単なる言いがかり。収拾がつかなくなりそうな所に更にもう一人ヤクザさんが登場。と思ったらマル暴係の刑事さんだった。刑事さんはヤクザ君に一言「おまえ、この人達に後でなんかやろうとしたらしょっぴくからな」その一言でヤクザくんはシュンとしてしまった。この問題はこれで終了。めでたしめでたし。というわけにもいかない。今度は手当てを受けているお得意様の制作マンの所に行き、土下座。酔いが醒めたら必ず水村にも謝罪させることを約束した。彼は相変わらず憮然としながらも(当たり前だ)ようやくなんとか許してくれた。一応は社長が土下座してる訳だしね。起ち上がろうとしたら脇腹に激痛が走って僕はその場にうずくまってしまった。一応事件が解決に向かったのを見届けた瞬間、身体が信号を発したのだろう。刑事さんが僕のシャツをめくって脇腹を触った。「ぐげっ」顔をしかめた僕を見て一言。
「ありゃ、こりゃ肋骨イっちゃってっかもしれないよ」
すぐさま救急車が呼ばれ僕はそのまま救急病院に直行。レントゲンの結果折れてはいなかったが2本の肋骨にヒビが入っていた。

治療を受けコルセットでガシガシに胸を押さえつけられ、朝方再び麻布警察に戻る。水村の身元引受人として。ウツリは寝ないで待っててくれた。水村は「ぐわーぐわー」イビキかいて寝てやがった。けっ飛ばして水村を起こし、すっかりと明けた六本木の街を三人、西麻布方面に向けてよたよたと歩き出した。とんでもない一日の始まりだった。
ったくなんでこの歳でこんな目に会わにゃならんのかね。もうそういう類いの荒事からは卒業させて欲しいわ。
思い掛けないところでウツリを登場させてしまったが、いずれ過去編でもう一度きちんと紹介する。
 そして、僕の肋骨はいまもしくしくと痛むのだ。でも酒を呑むと痛みは薄れる。
んな訳で今日も呑んじゃおうかな。

芸能界編・・・またもやぼこぼこ

2006-05-10 20:17:04 | Weblog
 テリーは14歳の時にテレサ野田という名前で映画デビューした。西園寺たまきという名前は本名である。小学校からアメリカンスクールに通っていたので、英語はネイティブに喋ることが出来た。そのかわり日本語の読み書きが苦手で、デビュー時の映画台本は全てローマ字に変換しなければならなかったらしい。僕がマネージャーについた時も相変わらず日本語は苦手で、特に漢字は簡単なものは読めたが、ちょっと難しくなるとダメだった。毎日のように歌詞やTV番組の台本をローマ字変換した事を思いだす。その割に僕はPCのローマ字変換が苦手でいまだに日本語入力である。頭の中で考えている日本語の漢字をローマ字に変換して再び日本語に直す事が理解できない。どうしてみんなそんな複雑な事が出来るのだろう。そんな事はどうでもいい。
 さて、テリーは当時の音楽業界では類い稀な歌唱力を持っていた。加えてリズム感、英語の発音は群を抜いていた。とにかく日本の歌謡曲など聴かない。聴くものは全て洋楽のみ。ボスのプロデュースも日本人初の本格派ロック歌手としてのプライオリティに照準を置いていた。
 しかし、当時1981年、正統派ロックは今のように主流ではなかった。ヒットチャートはアイドル、ニューミュージックが全てだった。ちなみにこの年のオリコントップ1獲得アーティストの中では、シャネルズ、もんた&ブラザーズ、クリスタルキングといった所がかろうじてバンド系ではあったが、果たしてロックといえるかと言えば言えないだろう。オルタナティブとして人気があったのはARBやRCサクセション、白竜、アナーキーなどであった。女性シンガーではアンルイス、桑名晴子らがいた。まあ、この頃のロックはみんな不良だったからね。何かと捕まる人多かったし。テレビとしても使いにくかったのだろう。視点を転じ、洋楽はこの年から黄金の80年代ポップス時代を迎える。
 さてこの頃、ロック界の最大のイベントと言えば「ニューイヤーロックフェスティバル」だった。内田裕也さんが呼びかけ人となり、浅草国際劇場で毎年12月31日に開催されていた。1981年のこの年は9回目だった。なんといまだに続いているらしい。その当時の出演者のアーカイブをネットで見つけた。錚々たる顔触れである。西園寺たまき&ヒップスの当時のチラシも掲載されていた。いやあ、懐かしいわ。バンドメンバー結構みんな年喰ってたんだな。
それにしてもこの年の顔触れは超豪華だった。
http://www.nyrf.net/php/stage.php?nyrf_no=nyrf09
松田優作がむっちゃくちゃカッコよかった。楽屋でもあのまんまの顔と表情だったのを思いだす。ジュリーやたけしさんが出ていたのは忘れていたな。カルメンマキは見たような気がする。

1981年12月31日朝、浅草国際劇場にボスとテリーと一緒に出掛けた。この日の為にボスはなんとリムジンを借りた。そのリムジンに乗り、浅草国際劇場裏手の楽屋口に到着した。
この日のボスのいでたちは、黒皮のトレンチコート、お馴染の皮パンツにブーツ、上は皮のベスト、そして皮の野球帽にサングラス。ボスは帽子を手放さなかった。理由は簡単だ。薄いからである。テリーは豹柄の毛皮のコートに真っ赤な皮パンツと真っ白なウエスタンブーツ。僕は・・・まあいいか。
 リムジンから降りると、オールバックの髪をてかてかにした馬鹿でかいプロレスラーのような男が出迎えた。その男がボスに最敬礼した。
「ボス、おつかれさまっす。今、祐也さん呼んできますんで」
「おう」
大男は側に従う若者に顎で促した。
苦虫を噛みつぶしたような表情で鷹揚(おうよう)に応えるボス。ハイライトを銜える(くわえる)。すかさずライターで火を付ける大男。
その大男は・・・安岡力也さんだった。
しばらくしてモスグリーンの戦闘服姿の祐也さん登場。
「ボス、元気そうで」
そう言って祐也さんは一礼を返す。
「おう、祐也ちゃんも元気そうだな」
「楽屋にご案内します」
祐也さんが先頭に立って我々を楽屋に案内する。
・・・やばい。カッコよすぎだよ、ボス。まるで自分まで強くなったような気がして若干二十歳の洟垂れ馬鹿小僧っ子の僕までひょこひょこと偉そうに一行の後をついて行ったものだ。
しかし、祐也さんが頭を下げられる人は少ないだろうな・・・。
この時、僕のボスへの忠誠心、敬慕は頂点だった。

 ボスの人間としての弱点はギャンブルだった。人生がギャンブルそのものだというのにそれでもギャンブルが好きだった。毎晩賭け麻雀。僕らへの給料も殆どは賭け麻雀で稼いでいたんじゃないかな。だから、給料日が近づくと二三日行方不明になる。そして、給料日の朝、札束を持って現れるのだ。負けた時はしばらく行方不明になる。借金もハンパじゃなかった。田辺エージェンシーをはじめバーニング、ボンド、ホリプロにサンミュージック。主立ったプロダクションの殆どに借金をこさえていた。しかし、どこの会社もなぜか上条さんには金を出すのだ。田辺の川村副社長も「しょうがねーな」と言いながらなにかとボスを助けていたように感ずる。
 そして、ある日のこと。借金はついに闇金融にまで及んでいたことを知ることになる。
 ボスから一言。
「ケンジ、明日からはここの会社に出社してくれ」
そう言って地図を渡された。当時社員は僕とデスクの女性の二人になっていた。ちなみにデスクの女性は交際していたカズエちゃん。
 なんの事やらさっぱり判らず、翌日指定された場所にカズエちゃんと二人出社すると、そこは・・・サラ金会社だった。しかもいわゆる早い話が暴力金融である。早速社長と専務に呼ばれ、会ったが・・・二人ともパンチパーマのどこから見てもどんなにひいき目に見ても100メートル離れて見ても御立派なヤクザにしか見えなかった。そして、そこに働く人達もみーんな筋者だった。デスクが並ぶ中に三角形のプレートが置いてある。「芸能部」そこが僕とカズエちゃんの新しい職場になった。つまり、借金のかたに会社とテリーのマネージメント権が売り飛ばされてしまったのだ。ボスは引き続きプロデューサーを務める事になったが、いわゆる雇われプロデューサーである。まだ30代の前半くらいの社長と専務にボスがぺこぺこと頭を下げているのを見るのが忍びなかった。
 彼女のカズエちゃんをそんな所に引っ張り込んでしまった事が申し訳なくて「辞めたほうがいいよ」と促したが、当の本人は「おほー」と笑いながらこの状況を楽しんでいたようである。そういえばちょっと変なヤツだった。
 この会社の主業務は勿論金貸し。しかも重複債務者を狙って顧客にしていた。金主は大手のパチンコメーカーだった。社長と専務、社員の殆どは韓国人で、僕らに聞かれたくない話は全て韓国語で交されていた。そして、もう一つのシノギ、じゃなくて業務が新宿歌舞伎町で経営するデート喫茶と裏ビデオの制作・・・。もう厭。
 翌日から研修と称して僕はこれらの事業部を転々と回された。やらされた仕事を列挙すると、デート喫茶で客と揉めたときの仲裁業(しつこい客をぼこぼこにすること)縄張りを荒らす同業者とのお話し合い(出入り・・・まあこれは枯れ木も山の賑わいで後ろにそっと立っていただけ要は数合わせ)裏ビデオのスカウト(当時は主に上野駅)と、現場の照明係。・・・もうこの辺でこれを読んでくれている若い人達は相当退いていると思う。僕も初めて明かす真実。でもね、でもね、その内僕にも明るい未来がやって来るのでもう少し辛抱して読んで頂戴ね。
 そして、極め付けは債務者への取り立て。この頃はまだサラ金に対する規制が緩かったのでなんでもありだった。夜中だろうが早朝だろうがお構いなしに債務者の家に押しかけた。出て来るまで一時間でも二時間でも扉を叩きまくる。そしておきまりの誹謗中傷なんでもありのビラ貼り。
 忘れられない取り立て話が一つある。先輩社員とある家に出掛けたときの事。家には小学生の男の子と、妹なのだろうか女の子だけがいた。両親は子供たちを置いたまま行方をくらましていた。その家を三日間張った。家には食べるものは何も無かった。冷蔵庫の中にはマヨネーズが一つのみ。そのマヨネーズが行くたびに減っているのだ。空腹に堪え兼ねた子供たちは交互にマヨネーズを吸っていたらしい。可哀想で見ていられなかった。先輩社員の目を盗んで僕は二人に菓子パンを買ってあげた。そして、それが先輩にばれた。僕はぼこぼこに殴られた。
「ばかやろー!!てめえのちんけな情けのせいで、こいつらの親共はまたしばらく姿見せなくなるんだよ!!ガキは可愛いんだよ。かならずどっかで様子うかがっているに決まってんだろ!!学校の給食が無けりゃ、とっくに姿現してんだよ!!」
僕がかけた情けは結局子供たちにとっても裏目にしか出なかったのだ。その時僕はこの世界も奥が深いなと思ったものだ。しかし、僕の黎明期はなんでこんなにしょっちゅうぼこぼこに殴られてんだろう。なんかあるとすぐにぼこぼこ。

芸能界・・・ますます過激編

2006-05-09 13:43:10 | Weblog
 少し話は現代に戻る。今まで林明日香以外にも数人の女性アーティストのプロデュースに関わってきた。アーティストにとって恋愛はなかなかに厄介なもので、プラスに転じる時もあれば、思いっきりマイナスに向かうこともある。男の場合はいわゆる芸の肥やしというか、暴行事件でも起こさないかぎりうっちゃっといても大した事はない。
 女性アーティストの場合、誰にも増して恋愛相手が一番大きな存在になりうる場合がある。プロデューサーよりも恋愛相手の考えを優先させてしまう事が生じる。本人合意のうえで出来上がった作品を発表前にたまたま恋愛相手に聴かせてしまったとする。男性の方に女性の仕事に対する理解が無かったり薄かったりすると、どんな作品であれ「こんなのださいよ」みたいな意見をぶつけたりするのだ。これはめんどくさい。恋は盲目だ。その一言で一度OKになった作品が没になったケースが過去無数にあった。だから、女性アーティストの場合、プロデューサーは恋愛相手と必ず会い、暗黙のうちにお互い不可侵の領域を作り上げる事が必要だ。会わないままにするとプロデューサーが嫉妬の対象になることが起こる。女性アーティストとプロデューサーとは疑似恋愛に似た関係を構築する事だと思う。本当に恋愛してしまったら仕事は絶対に出来ない。プロデューサーは24時間どんな時でもアーティストの事を考えている。だから、ほんの少しの変化も見過ごさないのだ。肉体関係など及ばないくらいの信頼関係が必要となる。セックスで人間の心まで支配することなど絶対に出来はしない。肉体の関係は結局男にとっては支配欲を満足させる行為なのだと思うし、女性にとっては相手の心を繋ぎ止める行為なのだ。しかしこれほど曖昧なものもない。なぜならば女性は実に気まぐれだからだ。喧嘩をした後にセックスをすると男は何故か安心してしまうものだ。あたかも自分の元に戻ってきたように思って。しかしそんなものは錯覚なのだ。女性にとっては肉体の繋がりなど些事でしかない。これは45年間の経験からそう思う。いやはや何度傷ついたことか・・・。そんな事はどうでもいい。
 しかしながらアーティストに対し、異性との交際禁止は必ず逆目に出る。年頃の女性にそれは無理だ。良い恋愛は女性を内面から輝かせる。巧く恋愛相手と連繋が取れればアーティスト活動に大きな戦力にもなりうるのだ。僕は大いに奨励している。そして彼氏が出来た場合は必ず相手と会うことにしている。そして相手を安心させもするが、無言の圧力もかけるのだ。お前の女が真剣に打ち込んでやっている事に余計な口は出すなよ・・・と。まっ一種の儀式みたいなもの。でもね、大体僕の場合は相手に会うとみんな例外なく安心してくれる。・・・このおっさんは大丈夫だと・・・よもや自分の彼女が惚れる要素はかけらもないなと・・・。どうゆう意味?
 明日香の場合は恋愛といっても実に可愛いものだったので、こんな事に悩まされる必要はなかった。それに、明日香はどんな作品であれ、発売に至るまで家族以外絶対に他人に聴かせる事はしなかった。模範的なアーティストだったと今更ながらに思う。
 さて、それでは今一度過去に戻ろう。これまでの話は「枕」である。

 右手の小指が無い理由をある日ボスは話してくれた。このおっさんの厄介な所は仕事を離れるといきなり優しくなる事だった。アメとムチ。まさにそれがこの人の人材育成の礎(いしずえ)だったようだ。なにせ、時に「ケンジー!!」が「ケンちゃん」に変化したりするのだ。厄介極まりない。いつがジキルで今がハイドなのか、状況を探るだけで頭がおかしくなりそうだった。そうそう、小指が無い理由。
「俺がな、初めてプロデュースしたのは491というグループサウンズなんだ。今ジュリーのバックでギター弾いてる沢健一っているだろ(後に井上尭之バンドに所属)あいつとかな、ジョー山中がいたバンドだ・・・」
ボスがマネージャー兼プロデュースをしていた「491(フォー・ナイン・エース)」というバンドが仙台のクラブで演奏していた時、地元のヤクザが妨害しに来たらしい。今と違って興行を取り仕切るイベンターなんざ存在しなかった時代。興行のたんびに地元の顔役に仁義を切らなければならなかったらしい。ボスはそれを強気ではねのけた。
結果、コンサートが荒らされた。アンプやドラムをぼこぼこに壊された。怒り狂ったボスは日本刀片手に(ギターケースに入れて各地を移動してた所が上条英男だな)ヤクザの事務所に殴り込んだ。ところが殺される事を案じたメンバーだったか当時の彼女だったかがそのヤクザの事務所に事前に連絡を入れ、命だけは助けて欲しいと懇願した。ボスが日本刀片手に事務所を襲撃する事を知った組員達はてぐすね引いてボスの到着を待っていた。
真っ暗に照明が消された事務所に勇躍乗り込んだボスはすぐに全身を押さえられた。そして、利き手の右指の小指をレンガで潰された。確かにボスの小指は刃物でスパッと斬られたのではなく、なんか妙にぐちゃっ、としていた。
「楽器が出来ないようにと利き腕の指潰したつもりが、音楽もしらねえ馬鹿共だからな、ギター弾く時は右手はあんまり関係ないんだよ。はっはー馬鹿だね、見ろよ、ちょびっとだけど爪も生えてくるんだぜ」
そう言って小指を目の前に突きだした。確かに潰れた指先になんか透明なものが付着していた。おえっ・・・・。自慢すんなよな。
ボスに誘われてサウナに行った。全身を見た。んもう、小さな身体は古傷だらけ。斬られた後だの刺された後だのがたっくさんあった。それよりなによりびっくりしたのが一物・・・。身体は小さいが・・・超弩弓だった。思わず自分の前を隠したね。一体何人泣かしたんだ?このおっさんは。そう言えば毎月命じられていた事のひとつに3ヶ所くらいの口座に決まった金額を振り込むという事があった。全部名義は女性名。別れた奥さんと子供たちへの養育費だった。

 テリーのディスコ巡りは相変わらず続いていた。毎晩僕は付き合わされていた。というか、お目付け役として僕が付くことをボスが命じたのだった。しかし、自分が気に入った男に口説かれるとテリーはタクシー代を僕に渡し、さっさと僕を追い返した。そして、そんなテリーの行状を知ったボスがある日ついに切れた。その時付き合っていた男をボスは自宅に連れてくるようにテリーに命じた。妙に強気な今で言えばヤンキーな男がテリーのその時のボーイフレンドだった。当然のごとく僕もその場に立ち会わされた。
 目黒のホリプロの隣にあるマンション。その一室で腕を組み正座し、じっと眼を瞑りテリーと男の到着を待つボス。僕は所在なくもじもじしながら体育座りしていた。そして、二人がやってきた。
 テリーは切れた時のボスを知っているから事態の行く末を真剣に恐がっていた。僕も恐かった。ボスの前にあぐらをかくヤンキー馬鹿あんちゃん。三白眼でボスに眼くれながらガムをくちゃくちゃ噛んでいる。そして、その男を黙って睨みつけていたボスが一言。
「ケンジ、包丁持ってこい。出刃な」
な、ななな何?
「早くしろ!!」
慌てて僕はキッチンの開きから出刃包丁を取り出し、ボスの前に置いた。たじろぐ男。口に手を当てパニック寸前のテリー。震える僕。やにわに出刃包丁を握ったボスはその手を振り上げ・・・自分の太股にぶっさした!!!
ひょ、ひょえーーーーーっ。皮パンツから血しぶきが上がる。そしてボスは男に一喝した。
「お前に出来るかー!!」
普通出来ないっつーかやんないってばボス。
完全に腰を抜かした男はバッグを置いたまま一目散に部屋を飛びだしていった。後を追うテリー。
「ボ、ボス、大丈夫ですか・・・」
狼狽える僕に、初めてボスは顔をしかめて見せた。
「い、いてえよ」
・・・あたりまえだっちゅうに。
力を込めて包丁を抜くとボスは僕に言った。
「ケンジ、包丁刺すときはな、筋に添って刺すんだ。そうしないと筋肉断ち斬っちまうからな・・・」
そんな事一生絶対にしないし、教えてほしくねーよ!!
 ボスのやる事はとにかく極端だった。しかしアーティストを溺愛もしていた。こんなやり方でしか愛情を示すことが出来なかったボスを今考えても淒い男だと思う。僕には出来ない。しかし結果的にはテリーのディスコ遊びは止まないまでも控えられ、個人練習の時間が増えたことも事実だった。だから僕が竹刀で殴られることも減っていった。
 愛情の確認がどーにも過激だったのだこのおっさんは。こんな事もあった。
 ボスの部屋で打ち合わせをしていた時の事。優しい時はこっちもついつい気を抜いてしまう。ボスのやり方に何かしら意見めいた事を言った時の事だったと記憶する。そしてその意見がボスの逆鱗ではない、心のどこかの琴線に触れてしまったようだ。ボスはちょっと泣きそうな顔をして起ち上がるとベッドルームから紙包みを持ってきた。そしてがさがさと包装を解いた。油紙に包まれた中から黒光りする回転式拳銃が現れた。S&W357マグナム・・・。ボスは別に包まれていた革袋から弾丸を取りだし、回転ホルダーに二発差し込みホルダーを戻すといきなり銃口を僕に向けた。
・・・えっ・・・本物???・・・・撃たれる????えっ?
あまりにも非現実的な出来事に恐怖よりも僕は呆然としてしまった。もちろん銃口を向けられたのは初めての事だった。しかし、ボスはくるりと銃身をひっくり返すとグリップを僕に差し出した。
「撃てよ」
「俺を信じられられないなら撃てよ」
なんで?そんな展開?
「俺に意見したいなら俺を殺せよ!!」
そして、いきなり壁に向かって一発。パンッ!!
弾は書棚に幾重にも並べられた漫画本(ボスはとにかく劇画漫画が好きだった。蔵書はおそらく一万冊を軽く越えていただろう)の一角に突き刺さり、赤いくすぶりと共に白い煙を上げていた。まぎれもなく本物。なんでそんなもの持ってんだよ、このおっさんは。法治国家日本だよ。そんな事を考える余裕もなく、僕は確か泣きだしてしまった。恐怖もあったが、展開についていけなかったのだろう。そして命のやり取りという行為にやるせなくなってしまったのだ。
「お前が信用して俺についてきてくれなければ、俺はもうひとりぼっちになっちまうんだよ。わかってんのかー!!」
 ヤクザです。もう間違いなくこの世界はヤクザです。二度と普通の世界には戻れない抜け出せない、そんな事を改めて実感いたしましたね。その後僕はぼこぼこに殴られた。ボスも何故か泣いていた。しかし、この時絶対にこの人を裏切らないと堅く決心したのも事実である。今思うとこれもボスの手段だったのだと思う。過激ではあるが人身掌握術でもあったのだ。
ちなみにこの拳銃はいずれ他の人間の手に渡りその人は摘発された。ニュースにもなったほど有名人だった。この件に関しては口をつぐむ。まあ既に時効だろうとは思うけれども。この拳銃には数々の歴史が有り、こいつを振り回しながらUさんというロックの神様を追い掛け回し、泣いて謝らせた逸話は芸能界では有名らしい。

 これを読んでくださっている方々はおそらく半信半疑でいると思う。でも、全部紛れもない実話だ。いやあ、あの頃に比べると今はなんて平穏なのだろう。もう二度と戻りたくはないが、当時の一日一日が原色のように輝いていたのは否めない。生き抜いているという実感は今よりも数倍あったかもしれない。
 その当時、同じくマネージャーとしてボスの下で働いていたKさんという人とつい数日前に偶然あった。今や、大プロダクションの社長である。ただ、福島訛りの本当の社長は壁の向こう側にいる・・・。上条さんの名前が出るとお互いに触れたくない話題のように苦笑したものだ。

芸能界の現実編

2006-05-08 19:14:18 | Weblog
僕が入ったころの田辺音楽出版の状況はと言えば、吉田拓郎のバックでスーパーの紙袋を被っていた謎の三人組「アルフィー」が深夜放送から火が付き大ブレイクの兆しを見せていた頃だった。又、研ナオコさんが中島みゆきの作品「カモメはカモメ」で大ヒットし、他にも新人の中原理恵、高見知佳、倉橋ルイ子らが次々にヒットを飛ばしていた。会社にはこれらの人達がひっきりなしに訪れていた。その度に新入社員見習いとして紹介され、華やかな芸能界に自分が存在していると錯覚し、正直ポーっとなっていた。実際の僕は単なるバイト、パシリに過ぎなかった。仕事は相変わらずエジソン先生のローディだった。
 上条英男氏は前述の元テレサ野田、改名後「西園寺たまき」を田辺エージェンシーと共同マネージメントしていた。田辺エージェンシーの担当マネージャーは、アルフィーのマネージャーも兼任していた松浦さんという人だった。そして、僕は修業のためにこの松浦さんの元にアシスタントとして出向を命じられたのだ。
 さすが田辺エージェンシー生え抜きのマネージャー、松浦氏はただ者ではなかった。厳しい細かいうるさいしつこい。仕事振りもとにかくプロだった。一度出掛ければ必ずTV、ラジオの出演、雑誌の取材、グラビアをもぎとってきた。アルフィーが今現在でもトップアーティストとして君臨している陰には、松浦氏という敏腕マネージャーの存在抜きには語れないだろう。しかーし・・・僕はこの松浦さんが嫌いでならなかった。毎日うんざりしていた。何度もぶちころしてやろうか、このヤローと思っていた。そして、そんな僕の気持ちを見透かしたかのように上条英男氏の「魔の手」が忍び寄ってきたのだ。
 西園寺たまきは愛称「テリー」と呼ばれていた。
当然の事ながら松浦さんにくっついて回っているうちに上条氏ともテリーとも仲良くなっていた。上条氏は当時「シティワンミュージック」というマネージメントオフィスを経営していた。この会社にも何度も足を運んだ。
 当時、この「シティワンミュージック」にはとても可愛いデスクの女性が二人いた。可愛いデスクの女性に魅かれた訳ではなかったが、いや、そうかも知れない、うーんどうだろう、まっ多少はあったかな。
 徐々に僕は田辺にいる時間よりもこの会社に滞空する時間が多くなった。松浦さんから逃げたい気持ちも強かったかな。デスクの女性二人は休み時間になると屋上に上り、毎日発声練習を行なっていた。多分タレント志望なんだろうなとは思っていた。それからすぐに一人は「ゴーイングバックトゥチャイナ」という曲でデビューした。名前を鹿取 洋子といった。もう一人はミスキャンパスと呼ばれ大ブレイクした川嶋なおみだった。今やワインで出来た血液を持つ変な女として有名だ。 川嶋さんは三上さんというマネージャーと「スリーアッププロモーション」という実に安直な名前の事務所を起ち上げ一緒に独立した。鹿取さんもデビューは何故か「シティワンミュージック」ではなかった。なぜだったかはさすがに忘れてしまった。まあ、なにかとさすがに言えないことも多くある。かんべん。
 上条氏からなぜか僕はとても目を掛けられ、しょっちゅうなんやかやとご馳走になっていた。業界では普通晩に「飯でも・・・」と誘われた時は大体酒呑みにが含まれる。しかし、上条さんは酒が飲めず「飯を食いに行こう」という時はホントに飯を食うのだった。だから、ステーキだの焼き肉だの豚カツだのをよくご馳走になったものだった。そのうち、上条氏から僕は「シティワンミュージック」への入社を勧められた。しかもテリーのマネージャー待遇としてである。迷った。大いに迷った。エジソン先生への義理もある。田辺音楽出版の人達はとても優しかった。 しかし、この上条氏、実に危ない魅力を持っていたのだ。未来の事なんて全く現実として捉えられないほどに僕は若かった。いずれ事情を知るが、上条氏の右手の小指は・・・第一関節から先が無かった。その頃は恐くて聞けなかったが、なんというかそんな所までが魅力に写ったのだ。極め付けはある日のTV朝日での事。
 テリーのTVの収録が済み、車に乗り込んだときだった。いきなり車が地震にでも遭遇したかのように大きく揺れ、天井に岩でも落ちてきたのかと思うような衝撃に襲われた。「な、なんじゃー」と思う間もなくフロントガラスに逆さまにサングラスを掛けたリーゼントへアーの男がぬっと顔を出した。そして、その男は叫んだ。
「ボスー!!」
上条氏がその男の顔を認めるや破顔一笑。
「おお、ひろし!!」
車から飛び出た上条氏はそのひろしと呼ばれた男と抱き合った。
「ひろし!!お前元気にやってるかー!!」
「ボスこそどうしてんすか、つめてーじゃないっすか。連絡くらいしてくださいよ」
そのひろし君は・・・元クールスの「館ひろし」だった。上条英男、館ひろしがボスと呼ぶ男。
 いやあ、上条さん・・・カッコよすぎだわ。この出来事は決定的だったね。その瞬間上条さんあなたに追いていきます!!と僕は決心した。
単純だったのだ。
 そして、その日から上条さんは僕の「ボス」になったのである。
田辺を去る事になった日、みんなが歓送会をしてくれた。乾杯の後エジソン先生は大ジョッキに入ったビールを僕の頭からどぼどぼと降り注ぎ、僕の頭を思いっきりひっぱたいた。そして一言。
「二度と戻ってくんなよ」
・・・人生はじめて人を裏切った。

「シティワンミュージック」に入社後、初仕事。
目黒のマッドスタジオでテリーのリハーサルが行われていた。僕は今までのようにワクワクウキウキしながらスタジオに入った。
そして、リハーサルが開始ししてしばらく経ってからの事。スタジオにボスの怒声が響き渡った。
「テリー!!お前はこの間俺が言ったことをどうして練習してこなかったんだ!!」
ボスの手には竹刀。ピーンと張りつめるスタジオ内。ミュージシャン達も微動だにしない。その瞬間。ボスの持つ竹刀が思いっきり・・・しなるほどに・・・僕の顔面を叩いた。思わずよろける僕に竹刀は何度も何度も振り下ろされた。何が起きたのか全く理解できなかった。
「お前はなぜ約束を破った!!」
「真剣にやる気があるのかー!!」
怒声の度に僕に容赦なく打ち降ろされる竹刀。手で頭を抱えるとウエスタンブーツが横っ腹に食い込んだ。
「ケンジ!!よけるな!!」
いや、よけるなって言われても・・・。
「テリー!!お前がさぼればマネージャーのケンジが痛い目に会うんだ!!わかったかー!!」無茶苦茶わやくちゃ問答無用。
テリーはしゃくりあげながら、その場にうずくまり泣き出した。おーい泣きたいのはこっちだってば。それまでの優しいボスは一瞬にして消えた。芸能界の現実が僕を手痛く歓迎してくれた。竹刀が折れるまで僕は叩きのめされた。ただただ叩きのめされた。理不尽という言葉の意味を初めて体感した。薄れゆく意識の中で田辺音楽出版の人達の優しい笑顔がよぎる。エジソンさんの顔が浮かぶ。
ボスは竹刀を放り投げるとスタジオから出ていった。テリーが泣きながら僕に近寄り、
「ケンジ、ごめんね。ごめんね。もう二度とこんな目に合わせないから。ゆるして・・・」
その一言に僕もほろっときた。しかーし、甘かった。この日は最初でしかなかったのだという事をこの後何度も味わう事になるのだ。いきなり話は飛ぶが現在我が家の次男と三男は剣道を習っている。数十年ぶりに竹刀を見たときにあの頃の痛みが蘇ったものだ。トラウマと言うやつだな。閑話休題
 テリーは当時六本木のディスコクイーンと呼ばれていた。確実に正確に正しく毎晩何件もハシゴするのだ。どの店でもテリーは無料、女王様待遇だった。レキシントンクィーン、キサナドゥ、赤坂の「ムゲン」ボスに言われた練習などする閑はなかった。そして、ディスコクイーンとしての勲章が増える度に僕の身体の生傷も確実に増えていった。マネージャーとはかくも辛いものなのかと若干20歳の僕はとほほと泣いたものだった。まだまだ序の口・・・。

芸能界への第一歩

2006-05-07 16:53:27 | Weblog
渋谷道玄坂のYAMAHAは閑さえ有れば通っていた。楽器売り場にね、名前忘れちゃったけれどもサーファーカットでジーンズのお尻が色っぽいおねえちゃん店員がいてね。抜いたなー・・・。いやいや。じゃなくてよく商品のベースを弾かせて貰っていた。その時どうしても欲しいベースがあってね、Fenderのプレジションベースのオールド。当時の価格で24万円。毎週通っては「ああまだ売れてない、良かった」なんて思いながら弾かせて貰っていた。で、一念発起してかなりきついバイトを始めたのだ。彩美工芸という、デパートやブランドショップにマネキンやディスプレイ用の棚やらショーケースを貸し出す会社。朝9時から夜の10時頃まで働いた。昼間は田町の倉庫、センターと呼ばれる所で注文の入ったマネキンやらボディと呼ばれる上半身の型などを4階のフロアから一階の集積所まで下ろす。エレベーター無し。ひたすら階段を昇り降りして両手に4体ずつ抱えておろす。そして、それを4トントラックに積み込み、夕方デパートに向かう。東急百貨店が主な取引先だったのだけれど、閉店した後に搬入エレベーターでマネキンを100体近く運び込む。基本的にマネキンは売り場で服着せて貰う前は全裸だ。出る所は出てくびれは・・くびれてる。それをね、会社帰りやらなんやらでごった返した人込みの中運ぶわけなんだけれど、運び方が妙にエロいんだな。マネキンのまたぐらに掌を突っ込んで抱え上げるのよ。両手に一体ずつ。全裸の人形を。「あんっ」なんて声は出さないけど、いや出したら怖いけど。衆人環視の中、両手に全裸の女を二人、またぐらに手突っ込んで・・・。他人の視線が恥ずかしかったわ。で、このバイトがきついけれども一日1万円近く貰えたのだ。二三日は腕がパンパンになって挙がらなくなるんだけれども、毎日とにかく通った。そして一ヶ月後に25万円稼いで念願のベースを買ったわけだ。余談だがこのバイト先で実はギタリストのナリさんと出会ったのだ。高校時代から存在は知っていたけれども初めて会ったのはこの時だった。当時から「うひょひょひょー」とか笑いながら全裸のマネキン担いでたね。ナリさん以外にもこのバイト先には沢山のミュージシャン予備軍がいた。レベッカの是永氏とかね。みんなどうしてるんだろ。
さて、その時買ったベースはいまだに手元にある。現在は当社の宮本まーが自分の物のように使っている。このベースの値段いまや45万近くになっているらしい。閑話休題。
しかし話が飛ぶな。なかなか芸能界篇に突入できないが、実はこのYAMAHA道玄坂店に通っていた時にある人に出会ったのである。その当時セッションバンドとして組んでいたバンドのデモテープをYAMAHAで録音させて貰ったのだが、その時たまたまスタジオの機材を見に来ていた人がいて、ついでに僕らのレコーディング風景を見ていたのだった。その人の名前は渡辺敬之さん通称エジソンという人で、作編曲家兼キーボード奏者だった。なぜエジソンかというと実家が電気屋だったからだと、後に聞いてコケた。当時エジソンさんは井上陽水さんや海援隊のサポートミュージシャンをやっていた。で、録音に立会ってくれていたYAMAHAのエロ尻ねえちゃんがエジソンさんを紹介してくれたのだ。彼は「今度遊びにくればー」という軽い社交辞令と共に僕に名刺を呉れた。僕はその言葉を鵜呑みにして翌週電話もせずに六本木の仕事場を訪ねていったのである。アポ無し突撃!!
ピンポーン・・・ガチャッ。ドアが開いてエジソンさんが僕を見つめる。
「はい」
「あの・・・えーと・・・先週YAMAHAで・・・」
「・・・・・」エジソンさん呆気にとられてしばし無言。
「いや、あの、名刺もらったんで」
「ああ、ああ、ああ、ああ」
「ええ、ええ、ええ、ええ」
会話になっとらんね。
「なんだ、電話くらいしてよー」とエジソンさん。おもいっきりしかめ面。
「すみません、えっと近くまで来たもんだから・・・」
嘘でーす。この日生まれて初めて六本木という街に来たのだった。
「まあいいや、じゃお入りよ」
勿論僕はベースを担いでいた。買ったばかりのFenderを。
初めてプロのミュージシャンの仕事場を見た。どーんとJBLのスピーカーがあり、キーボードがうじゃうじゃ。YAMAHAのCPというグランドタイプのエレピが真ん中に鎮座し、4トラックのオープンリールレコーダー、APIというアナログコンソール、そしてmoogシンセサイザーの巨大なモジュールの壁。それ以外にもJupiterというシンセサイザーだのなんだの、まるでサンダーバードのコックピットのよう。当時はアナログキーボードしかなかったのでサウンドを追及すると莫大な機材が必要だったのだ。今やそれがサンプリング音源一台で全てまかなえる。隔世の感ありや。
ひょえーっと部屋を見回していたら、お茶を淹れてくれた。
「で、君は何したいの?」
「えっとー・・・音楽の仕事に就ければ良いなあと思っているんですが」
「ふぅーん・・・。あっそ。楽器持ってきたんだったらちょっと出してごらん」
「えっ・・・あ、はい」で、ベースを出した。
「いいベース持ってるじゃん」ちょっと誇らしかったりして。
「じゃあさ、適当になんか合わせてみようか」
エジソンさんはそう言うと僕にシールドを渡しミキサーのフェーダーを上げた。ベースの音がJBLのスピーカーから出る。適当にチューニングかなんかしつつ音を出す。そしてエジソンさんはおもむろにCPピアノに向かった。
・・・やばい・・・。実際かなり焦ったね。
いきなりエジソンさんはロックンロールリズムでピアノを弾きだした。
しばらく見つめるだけの僕。目で促すエジソンさん。ええい、ままよとばかりに僕も弾きだした。もっとも簡単なロックンロール。スリーコードの回し。しばらくこわごわとジャムっていたがいきなりピアノの音が止む。
「ぜーんぜんダメだね。リズム悪すぎるよ。話になんないよ」
・・・やっぱり?・・・
「来週までにさ、これをマスターしておいで」
そう言いながらエジソンさんはメトロノームを取り出した。そして一番遅い所に重りを合わせた。カチッ・・・・・・・・・・・・・・・・・カチッ・・・・・・・・・・・・・
「このテンポの中で16音同じ音を正確に弾けるようにしておいで」
えーと・・・それはそれとして、勿論頑張ってやるんだけれども・・・?なんか先に繋がってる?来週また来てええのかな?エジソンさんの気が変わらないうちにさっさとベースをしまい込んで
「ありがとうございます。頑張って来ます!!」そそくさと部屋を出た。
で、結局何がどう気に入られたのか今だによく分からんのだけれども、ともかくその翌週から僕はエジソンさんの弟子となったのだ。月5万円の給料+交通費。
それからは何もかもがコペ転的にガラッと変わり、毎日が実に刺激的かつ新鮮な驚きの日々だった。初めて行ったレコーディングスタジオ。今でも忘れない飯倉のサウンドシティスタジオ。巨大なコンソールに巨大なスピーカー。馬鹿みたいにぶっとい16chテープとレコーダー。スタジオの中にがやがやと居るミュージシャン達。当時のメンバーも覚えている。ギターが土方隆行さん、ドラムが渡嘉敷祐一さん、ベースが岡沢章さん、パーカッションがペッカーさん、そしてキーボード、アレンジがエジソン先生。その時のレコーディングは当時流行りのフュージョン系物だった。いやはや全てがキラキラと輝いていたね。で、僕の仕事は莫大なシンセサイザーの数々を台車に乗せて仕事場からスタジオに運んでセッティングする事。当時は車の免許は無いし(今もないけどね、一昨年まであったのに公安が持っていきやがった)運転も出来なかったので楽器の運搬はインペッグ屋さん、いわゆるミュージシャンや楽器の手配をする人達がやってくれた。
 しかしながら今書きながら改めて実感したが、このエジソンさんとの出会いが無ければ今の僕は無い。まさに僕にとっての運命的な出会いだったんだな。つい先日久し振りに会いに行った。一回り上だから57歳か。いまだにバリバリ現役。仕事場の場所は当時と変わらず。部屋の中は最新の機材に変わっていたけれどもホントこの人はスゴイ。今はミクスチャーのクラブサウンドをトーキョー、ニューヨーク、ベルリン間をネットで繋いでそれぞれの国のクリエイター達と共同プロデュースしている。頭下がります。
 当時、エジソン先生(弟子入り後はこう呼んでいた)は礼儀に対して厳しい方で、靴の脱ぎ方からお茶の淹れ方、スタジオでの態度まで事細かに指導された。この時の事が後々とても役に立った。
 約一年ほど下働き雑用をこなし、その後にエジソン先生がマネージメントを預けていた田辺音楽出版に紹介され、とりあえずバイト扱いで在席する事を許された。当時、田辺グループは飯倉にあり、音楽出版の部長は鈴木さんという方で、物腰柔らかく何かと可愛がっていただいた。これが芸能界にどっぷりとはまる第一歩となった。
 ある日、エジソン先生がプロデュースを担当する女性シンガーの歌録音の現場に立会うためにやはり前述のサウンドシティスタジオに出掛けた時の事だった。一階のエレベーターホールでダブルスーツをびしっと決め、短髪でガタイの良いおじさんに出会った。エジソン先生が深々とお辞儀をし、挨拶をした。
「副社長、ご無沙汰しております」
「おお、エジソン、元気か」
見かけによらず、声が高かった。
「副社長、今度出版の方でお世話になる事になりました鈴木です」
いきなり紹介され、多分とてもエライ人なのだろうと思い、僕も深々とお辞儀をした。
「エジソン先生にお世話になっております鈴木です」
「おお、そっか、がんばれや」ぽんと肩を叩かれた。
エレベーターを降りてからエジソン先生が小声で言った。
「あの人が田辺エージェンシーの川村副社長だ。ケンジお前絶対に失礼の無いようにな」
川村副社長は笑顔だったが、眼が・・・笑っていなかった。額には深い皴が寄り、はっきり言って無茶苦茶恐そうな人だった。現在、俳優の渡辺謙、坂口憲二を擁し、格闘技K-1の生みの親でも有る「Kダッシュグループ」を統帥する芸能界のドン、川村龍男氏との初めての出会いだった。
スタジオのコントロールルームには大勢の人達が居た。一言で言うならばとても怪しい雰囲気だった。着飾った中年の女性、ホストのような若い男性、直立不動の若者、全身くろずくめに黒いサングラスを掛けたイケイケ風の美人、どっから見てもタレント顔の女の子、その他見るからに業界人風の人達がわんさか。
ディレクターチェアには田辺音楽出版の現社長の奥野さんが座っていた。そして、コントロールルームには一際異彩を放つ人がいた。身長は低く155センチくらい、皮のパンツにウエスタンブーツ、野球帽を目深に被り、黒いサングラス、鼻の下に口ひげ。年齢は50歳前か。このおっさんが大声で我々を出迎えた。
「おお、エジソン!!待ってたよ。いいね、エジソン!アレンジグンバツよ、しびれるねぇぇぇ、ヒップだよヒップヒップ!!」
???
なんじゃこのおっさんは・・・。かなり度肝を抜かれて僕は立ちすくんでいた。そして、エジソン先生が僕をその小男のおっさんに紹介した。すると・・・
「おお、少年!!タバコ買ってこい」
いきなり命令。しかも少年。
この男がその後僕をどっぷりと芸能界に漬けてくれた「上条英男」その人だった。
古くは小山ルミ、安西マリア、吉沢京子、浅田美代子、五十嵐淳子、ゴールデンハーフ、西城秀樹、クールス他多数。これらのタレントを街中でスカウトし育て上げたとして、昔の芸能界を知る人ならば誰もが知っている超有名芸能プロデューサーだった。西城秀樹の名前はこの上条英男から二文字とって名付けられたらしい。
そして、みんなから「ボス」と呼ばれていた。
この日、スタジオにいた人達。歌い手は藤田敏八監督の「八月の濡れた砂」でデビューしたテレサ野田、この時は名前を「西園寺たまき」と変えていた。中年の女性は彼女の母親、ホストっぽいのはデビュー前の新人男性アイドル、黒ずくめのイケイケ美人は、作詞家の「三浦徳子」さん。当時大ヒット連発の超売れっ子、カッチョ良かったね、あの頃から。今もカッチョいいけどね。その他諸々の業界人はレコード会社やスポーツ紙の記者達だった。いわゆる華やかな芸能界に触れた最初の日だった。

芸能界修業篇・・・序章

2006-05-01 12:53:27 | Weblog
男というもの、過去を語る様になっちゃあ、おしまいでしょ。というのが僕の口癖だった。なので僕の黎明期を知る人は少ない。それがなぜ今こんな駄文をあからさまに残そうと考えたかと言うと、まあね、ずっと走り続けて来てちょいと疲れたのかな。今は小休止。一度今までの四半世紀を振り返ってみて、過去の自分からパワーを貰おうかと、そう考えた次第。ここからの話はかなり恥ずかし人生でもある。

高校卒業後、音楽の道を志したのはバンドで僕一人だった。つまりバンドは卒業と共に解散。ただ卒業後に一度だけYAMAHAの主催する「EastWest 東京大会地区予選」に参加した。無論本選には行けなかったが、とりあえずベストボーカリスト賞なる賞を頂戴した。その時の審査員はベーシストの鳴瀬喜博氏、ギタリストの山岸潤二氏。その寸評「フロントのボーカルとバンドのイメージの統一感のなさは一体なんなんや!!」思いっきり呆れられた。今でも思いだすが、無茶苦茶なステージ衣装だった。フロントのボーカル二人はえせサーファールック。当時の流行り。サーフィンなんてしたことないのに花柄のシャツにすその広がったサーフパンツにビーチサンダルという格好。通称陸(おか)サーファーと呼ばれていた。ギターはリーゼントにダボダボヨーロピアンコンチパンツ、ドラムスのマサシはパンチパーマに斜めサングラスに黒のシャツ、しかも足下は網サンダル、ベースの僕は上下カーキー色の作業服に腰になぜか手拭い。もうわけわからん。しかもバンド名が「紫陽花」演ってる音楽はフォークデュオ。解散して正解だったわ。
さて、僕は卒業後一人やることもなく、それでもなんとか音楽関係にぶら下がっていたいと考えていた。なんの保証もないし、当然コネもない。専門学校に行く気も無かった。それでも何とかなると思っていたようだ。とにかく気持ちだけはミュージシャンでいたかったので、どこに出掛ける時も必ずベースをかついでいた。バイトに行く時もデートの時も単なる買い物に行く時でさえ。単に無駄に重かったわ。その当時やっていたバイトは第三京浜のサービスエリアの立ち食い蕎麦屋、石油の配達、戸塚駅前の場末のピンサロのバーテン、沖仲仕・・・。とにかくなんでもやってた。そして最初の冬、人生初の音楽業界関係のバイトが舞い込んできた!!「寺内タケシとブルージーンズ」ローディ募集。事務所が伊勢佐木町にあった。相変わらず意味無くベース担いで面接に行くと即日採用。後で聞いたら前日にローディが一人逃げ出したからだった。
いやはや、初めて接した音楽業界はハンパではなかったよ。なにせ自分も2ヶ月で逃げましたもの。しかし良く2ヶ月も持ったもんだわ。何がローディだっちゅうねん。いわゆる当時で言うボーヤ。バンドメンバーの使いッパシリが中心&叩かれ役。寺内タケシという人はバンドメンバーを徒弟制度で雇っていくので次々にメンバーが入れ替わる。メンバーとは言え、寺内大将の子分だから無茶苦茶な扱いを受ける。少しでもとちると演奏中でもけっ飛ばされるし、普段から厳しい順列が存在する。そして、ミュージシャンですらないローディは当然一番の下っ端の人間以下。バンドさん達が大将から受けたストレスは更に増幅されて津波の如く僕に押し寄せる。一日中座ることは一切許されず、タバコ銜えたらすかさずライター、タバコが切れる前に買いに行かないとパーンチ!一日ほぼ20時間労働。そしてバイト代は一日3000円。しかも不定期。中でも強烈だったのは真冬のド真夜中に大将のキャデラックを洗わされたこと。車の下に潜って下も洗わされる。寒いなんてもんじゃない。濡れた所がパリパリに凍るんだわ。翌日の朝までにピッカピカにしておかないとまたもやパーンチ! 洗車後に雨が降ってきて再びパーンチ! 雨はオレのせいじゃないっちゅうに・・・。そして最も強烈だったのがやっぱり真夜中の事。関東地方台風上陸の日。「おう、寿司買ってこいや」の一言。そりゃむりっしょ・・・。でも否は許されない。土砂降り横殴りの雨ん中、伊勢佐木町の商店街走り回った。もちろん開いてる店なんてあるわけがない。コンビニなんてものが登場したのはそれから十年も後のこと。仕方なく閉店していた一軒の寿司屋のシャッターを叩いて土下座して一人前握ってもらった。ご主人は僕の事を完璧にヤクザの下っ端と勘違いしてくれたみたい。当時の伊勢佐木町は何かとヤクザのみかじめが厳しかった頃だったので、おかみさんが勘違いついでに同情してお茶まで出してくれた。しかーし・・・寿司折りぶら下げて帰ってみりゃ・・・「遅えんだばかやろー!!」とまたもやパーンチ!! もう殆どヤクザの見習いとおんなじ。それでもなんでも音楽関係にぶら下がっているという事だけでなんとか希望を見いだしてた。ごくごくまれにベースを教えてくれた事もあったし。その時も言われたね。「おめえリズム感わりいな」
そして、2ヶ月目の朝方大みそかの前日に逃げた。その月のバイト代はもういいやと思って諦めた。伊勢佐木町から戸塚までとぼとぼと歩いて帰ったね。まだまだ社会の厳しさも知らない18歳の冬の事。履歴書に自宅の電話番号も書いたから電話掛かってくると思ったけど音沙汰無しだった。ボーヤが逃げ出すのは日常茶飯事だったんだろうな。10年近く経ってからかな、CMの仕事で当時僕をぶん殴ってくれたギターリストに出会ってしまった。向こうは完全に忘れていた。こっちは既にディレクターだったから意趣返しに・・・なんて事はしないさね。名前は出せないが今でもたまにギターお願いしている。
しかし、まだまだこんなのは序の口だった。それから一年後本格的に芸能界に突入した・・・。つづく