ジーケン・オイラー 日々是プロデュース日記

音楽・CM業界に携わり20数年。現在、音楽以外にも多数日々プロデュース中。

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初洋行・・・良いこともあったさ。

2006-05-18 00:48:49 | Weblog
 さてと、再び25年前に戻ろう。
 サラ金会社兼マネージャー稼業の僕の毎日はそれなりにとてもスリリングだった。逆恨みした債務者が出刃包丁持って乗り込んで来た事もあった。毎日一度は恨み言、脅しの電話を受けたりもした。
 専務の木下さんは見た目無茶苦茶恐い人だったけれど、内実この人は優しい人だった。御自宅に招かれた事もあったが、可愛らしい普通の奥様に当時三歳になるお嬢さんがいて、普通に子煩悩なパパだった。木下さんはこのサラ金会社ともうひとつ、闇の探偵業を営んでいた。まあいわゆる事件屋。企業の不渡り手形の回収だの総会屋の手先となって、大手企業の重役のスキャンダルを探すといったお仕事。何故かこの木下さんに僕はいたく気に入られてしまい、何度もスカウトされたものだ。給料も破格。正直、金の多寡で心は動くものよ。なにせ80万円。当時の自分の給料の7倍近く。でもやっぱりね、音楽から離れる事は出来なかった。
 社長のSさん(今どーしてるか全く判らないので匿名とする)はとにかく芸能界好き。それも夜のクラブ遊びで自慢したい、ただそれだけの理由で。しょっちゅうお供をさせられた。ヤレもしない女とただ呑むだけの慣行の阿呆らしさに20歳で気付き、その後、接待以外でそんな場所に出入した事はない。ただでさえ周りにはピッチピチに若い娘たくさん居るしね。ただみんな恐いけど。
 S社長と同じく、事務所に詰める若い衆達も芸能界に憧れる輩が多かった。そんな連中を逆研修とばかりにNHKの「レッツゴーヤング」の収録に連れていった。NHKホールの楽屋口はステージ下手の入り口に向かって長い待合いロビーになっている。ステージの状況が見えるようにその通路の真ん中にモニターが置かれ、向い側に安手のソファーが並べられている。25年前も現在も殆どおんなじ。ったく番組のプロデューサーにポッポされる前に少しは設備に金掛けろよ、公共放送。(ついつい本音)
 その頃の「レッツゴーヤング」の司会は確か太川陽介と榊原郁江ちゃんだったと記憶する。その後、田原のトシちゃんと聖子ちゃんに変わったのかな。今は「ポップジャム」という名前でこの番組は継承されている。だ・か・ら、ロビーと楽屋、もすこし何とかしろよな。
 で、この日このロビーの一角に相当異色な連中が占拠した。でもね、いつもは肩そびやかして周囲を威圧している連中がまるで「借りてきた猫」状態。自分たちの前をいつもはブラウン管の中でしか見た事ないタレント達が闊歩している。松田聖子、小泉今日子、近藤真彦・・・。どういう顔していればいいのか判らず、ひたすら下を向くばかり。けっ、可愛いやつらだ。
 で、僕はたまたまその頃のピンクレディと、適当になんとなく顔見知りだった時代があって(この辺はもうあんまり覚えていない。土井ハジメさんという振付師との付き合いの延長だったと思う)この日、ミーちゃんとケイちゃんが通りかかった時に「御無沙汰してます」と声を掛けたのだ。すると二人もなんとなく顔だけは覚えていてくれたようで「ああ、どうも、お元気ですか?」と、むっちゃくちゃ業界系社交辞令を返してくれたのだ。当然名前なんざ覚えられちゃいない。しかーし、業界免疫の全く無い先輩社員さん達にはこれが相当「キチャった」らしい。
「すごいっすねーピンクレディと知りあいなんすか」
いきなり敬語。あんたさー、この前俺の事ぼこぼこにしたやんけ。
「いやぁ、ちょっとね」と僕。
なーにがちょっとね、だっちゅうに。でも、ちょいと「勝った」という気分を味わったな。暴中歓あり(ボウチュウカンアリ)・・・。
 その後、このサラ金会社も斜陽化していく。なんだかんだで社長も専務も悪人になりきれなかったのだ。何度も債務者に借金踏み倒され、上条ボスにバンバン金遣われ、裏ビデオ屋は摘発され、歌舞伎町のデート喫茶も時を待たずして日本のヤクザに乗っ取られた。で、ある日潰れてしまった。その後社長のS氏は映像制作会社を起ち上げるが失敗。今はどうしてるのかな。所詮は船橋でパチンコ屋や焼き肉屋を手掛ける家のボンボンだったのだ。
 専務の木下さんは数年後、京浜運河に刺殺死体で浮かんだ事を新聞で知る。・・・。家族の行方は知らない。この人にはかなり好意を持っていた事を自分の泪で知った。

 サラ金会社に所属中、アメリカでの録音話が持ち上がった。当時の日本ではまだ海外での録音は珍しかった。その数年前のプラザ合意後、円は変動制に移行したのだが当時のレートはそれでも充分に円安ドル高だった。確か1ドル240円くらいだったと思う。現在の倍以上だ。海外録音は日本での制作を遥かに上回る高値だったのだ。それでもボスは意地で敢行した。当時のボスの気持ちを諮るに今の自分に似ていると思う。アーティストの為ならばどんなにリスクが掛かっても構わないという気持ちが確かに僕にはある。なんだかんだで影響を色濃く受けているのだなと思うし、その事に何故か悄然としてしまう。
 さて、僕にとっても初の洋行だった。しかもミュージャンの殆どはその後グラミーを総なめしたTOTOのメンバーだった。ギターはスティーブ・ルカサー、キーボードはスティーブ・ポーカロ、コーラスがボビー・キンボール、ドラムスはジェフ・ポーカロではなく、オリビアニュートンジョンのオリジナルメンバー、マイク・ベアードであった。ベースはえーと、えーと、確かイスラム系の人だった。そう!!エイブラハム・ラボリエルだ、うん。
 確かに当時のTOTOメンバーはまだ、金さえ出せば演奏してくれるスタジオミュージシャンではあった。しかし僕にとっては夢の様な話だったし出来事だったのだ。
 初めてアメリカのL.Aに到着した時、既に現地は夕やみに包まれていた。訳も判らずイミグレーションを通過した。僕はテリーと一緒にL.A入りしたので、通訳には困らなかった。彼女がいなければひょっとしたらいまだに僕はイミグレーションの手前で暮らしているかも知れない・・・・んな事はないか。既に先乗りしていたボスとコーディネーターが出口で迎えてくれた。そして、そのまま荷物を解く間もなく我々はサンセットストリート沿いの「Whisky A GOGO」というクラブに連れていかれたのだ。
 夕闇の中でアメリカ初情陸の実感も無いまま、車に押し込まれ、いきなり当時最も流行っていたクラブに連れていかれた20歳の小僧の気持ちを慮ってみて欲しい。「うっわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」である。いきなり映画の世界にぶち込まれた気分だった。なにしろ周りは金髪だらけ。バーカウンターもステージも観客もなにもかもが徹底的にアメリカだったのだ。そして、間髪入れず「ヒューイルイス&ザ・ニュース」のギグである。もうアメリカンOFアメリカン。気分は完全に「アメリカングラフィティ」
 でね、ぼーっとしていると当時はまだクラブに来る東洋人が珍しかったのか、ひやかす意味だったと思うけれども、次々にマリファナを巻いたジョイントが僕の手に渡されるのだよ。最初はタバコだと思ったのだけれども吸うたびに頭がくんらくんらしてくる。ああ、これがグラスか、マリファナかと思い、くそー、負けてたまるかとばかりにガンガン吸いまくった。しかーし、時差ボケと長旅であえなく沈没。正直に言います。「ヒューイルイス&ザ・ニュース」のライブの真っ最中に「Whisky A GOGO」のフロアにわたし嘔吐しました。・・・情けない。その後大ヒットしたバンドのしかも最後のクラブ演奏だけに覚えている人がいるとしたら、わたしゃその人抹殺したいわ。その後はCMのレコーディングやらなんやらで何十回となくアメリカには行ったけれども、あの時のアメリカでの初洗礼は忘れられません。

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1 コメント

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バッド・トリップ! (ジンジム)
2006-05-18 06:31:27
引っ越しでなくしちゃったけど、Wisky A Gogoで録音されたライブ盤を持っていたなあ。Flashってバンドなんだけど、誰も知らないだろうなあ。

ところで、このとき録音されたアルバムについて調べようとしたら、そのものは発見できなかったのですが、テレサ野田と柴田恭平がデュエットしていたという新事実を発見(笑)。しかも、レーベルがフォーライフ!

http://www.kyohei.net/song/index3.html

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