なんだかやたらと「花」という言葉を耳にする今日この頃。
家人が見ていた黒木メイサさんのTop Runnerを横目でちらちらと眺めてたら、倉本聰さんがメッセージVTRで出てらして、黒木さんに捧げた言葉、
「神秘性っていうのは、役者さんは持ってるべきだと思うんですよ。
分からない謎の部分があるから、みんなが憧れるんでね。
そういうものを、最近めずらしく、身につけてる女優さん。
今の彼女は"時の花"、世阿弥の言葉で言えば、"時の花"ていうのがある。
両親が作ってくれた美しさ、それがだんだん自分が作って行く"真(まこと)の花"に変わって行くんだけれども、今までのメイサは"時の花"の部分が大きいと思うんだよね。
これからそれを、こうやって評価されている時に、"真の花"にどうやって変えていくかという・・・・・。
それが最大の課題でしょうね。」
それから、『拝啓、父上さま』をやっていた時に倉本さんから貰った手紙には、「役者はインナーヴォイスを大切にしなければいけない」と書かれてあったそうです。
「セリフを発するまでの間に、どういうインナーヴォイスを持っているかで芝居が変わってくる」と。
倉本さんって、私個人としては、ちょうど先日の山田太一さんと同じで、正直最近の脚本はどうなのかな~…・と感じることもたびたびあります。
でも何十年もの長い間、その業界に居て、たくさんの俳優役者を見てきた人であることも事実だし、トップを極めた頃もあったことも事実なわけで。
その哲学には、やっぱ普遍なものもあるんだろうなー…・と。・・・・・
"真の花"そして"インナーヴォイス"、すごくすとんと腑に落ちる言葉でした。
役柄によって人格は違うから、当然インナーヴォイスも、役によって違う喋り方・声・ボキャブラリー・感情の動きになるわけで。・・・・・
確かに、その違いを感じさせる演技をする俳優さんって、いる。
ものすごい量のリサーチと、人生経験、感性感覚、知性知識、いろいろな豊かさが、それを支えているんだろーなー・・・と。
時の花、真の花、か・・・・・・。
なんて、ぼんやりつらつらと考えながら観に行ったのが、『花の生涯~梅蘭芳』。
チェン・カイコー監督の『覇王別姫』に衝撃を受けて、『PROMISE』まで観に行ってしまった私にしてみれば、当然チェックする作品だったんですけど、その内容のあまりのタイムリーさにはびっくり。
京劇史上伝説となっている女形、大輪の真の花、梅蘭芳のお話ですから…・。
マネージャー的立場で義兄弟でもある邱如白が梅蘭芳に言うセリフ、「お前の時代だ」というのを聞いた時にはちょっと鳥肌が立っちゃった。
年老いた師匠に引導を渡す"時の花"の残酷さ、望まないのに周囲の人間を狂わす"真の花"の苛烈さ。
でもみんな、圧倒的な大輪の花が見たいだけ。美しいものを見て至福に浸りたい、それだけなんだよね。
本人は、自分が花だなんて自意識はなくて。
ひたすら真摯に才能に誠実に、芸を貫いてる。その周辺でその稀有な花を高く掲げて狂喜乱舞する人々。
スターとそれを取り巻く人々って、どんな時代・どんな国でも、一緒なんだなー・・・・・とつくづく思っちゃった。
ハリウッドで一時期流行ってた、実在の偉人の伝記映画の流れを汲んでる作品だと思います。事実をベースにしているだけにストーリーの盛り上がりに欠けて、『覇王別姫』に比べるとデキは今一つだと思ってしまいましたが。(苦笑)
チェン・カイコー監督は、自分だったらもっと傑作の伝記映画を造れる、と思ったんでしょうけど。…・
しかし『Ray』でも『ビヨンド・ザ・シー』でも『シンデレラマン』でも、ダイアナ・ロスとシュープリームスをモデルにしたと言われてる『ドリームガールズ』でもそうだったけど、マネージャー的なポジションの人とスターの間に生まれる、嫉妬と盲執と羨望と強欲と愛憎入り混じる酷い泥沼は、絆とも枷とも腐れ縁とも言える関係には、ほんと、やりきれない気分に襲われる。・・・・・
「自分が育ててやったんだ!」「自分が全人生を捧げてやったからこそ、お前はスターになれたんだ!」「どれだけ金を賭けてやったと思ってんだ!」と思う気持ちはわからないでもないけど。…・実際、そういう部分があるのは否定しきれないと思うし。
でもそもそも、スターあってのことなんだよね。
星が生まれなければ、すべては生まれないわけで。
それへの尊重を忘れてしまうと、本末転倒。取り巻く人々の要らない自尊心をスターに押しつけるのはやっぱ筋違いでしょ。
誰でも"時の花"になれるわけじゃない。世の中は不平等なもの。
"真の花"になるためには、スター自身がそうなる以外は、どうしようもないし。周囲が何かできるわけじゃない。
しかしハリウッド製の偉人伝と少し違ったのは、そういう周囲の人たち、師匠やマネージャーや恋人が、ハリウッドよりはもっと達観していたというところかな。
意外と綺麗にわが身を引いたから、ちょっとびっくりした。
特に梅蘭芳の師匠の十三燕は、その見事な幕引きっぷりには感銘すら受けちゃった。あの人はかっこいいです。
すべて分かってて、あえて愛弟子に、自分への引導を渡させたような気すらしました。
十三燕が背負っている伝統の継承という重い責任、そして新しい風の必要性、彼はすべて分かっているけど、もういかんせん、若くない。いろいろな意味で思い切れない。時間がない。
世間的には「弟子に負けた師匠」というキャリアで終わってしまったけど、彼に後悔はまったくなかった感じがする。
マネージャーの邱如白も、もっと「お前をここまでにしたのは自分の助言があってこそだろ!?」と縋りついて詰るのかと思ったけど、ちゃんとわきまえてたところは、さすがの育ちの良さと知性だった。
ま・・・・邱の場合は、自分から引き下がらざろうを得ないことまでやっちゃってたから、どうしようもなくというのもあるけど。・・・・
梅が唯一本気で愛した人、孟小冬も、邱の言葉は痛いほどわかってるんだよね。…・
"スター梅蘭芳"のためには、自分が身を引くのがベストだから。たとえそれが、梅蘭芳自身の人生としては、地獄の孤独であったとしても。
アジアの人間の独特の達観なのかな・・・・・。
それが、花の生涯。
本人にとって幸せだったかとか、周りの人間は幸せだったかとか、それはその人たちの受け取り方次第。
自然っていうのは時として傑出して残酷なほど美しい花を一輪咲かせたりして、普通の人間たちは、その影響力にひたすら右往左往して狂乱したりする。
生き物だから、いつかは枯れてしまうし。
次にどういう花がいつ咲くか、なんて誰にもわからないし。
家人が見ていた黒木メイサさんのTop Runnerを横目でちらちらと眺めてたら、倉本聰さんがメッセージVTRで出てらして、黒木さんに捧げた言葉、
「神秘性っていうのは、役者さんは持ってるべきだと思うんですよ。
分からない謎の部分があるから、みんなが憧れるんでね。
そういうものを、最近めずらしく、身につけてる女優さん。
今の彼女は"時の花"、世阿弥の言葉で言えば、"時の花"ていうのがある。
両親が作ってくれた美しさ、それがだんだん自分が作って行く"真(まこと)の花"に変わって行くんだけれども、今までのメイサは"時の花"の部分が大きいと思うんだよね。
これからそれを、こうやって評価されている時に、"真の花"にどうやって変えていくかという・・・・・。
それが最大の課題でしょうね。」
それから、『拝啓、父上さま』をやっていた時に倉本さんから貰った手紙には、「役者はインナーヴォイスを大切にしなければいけない」と書かれてあったそうです。
「セリフを発するまでの間に、どういうインナーヴォイスを持っているかで芝居が変わってくる」と。
倉本さんって、私個人としては、ちょうど先日の山田太一さんと同じで、正直最近の脚本はどうなのかな~…・と感じることもたびたびあります。
でも何十年もの長い間、その業界に居て、たくさんの俳優役者を見てきた人であることも事実だし、トップを極めた頃もあったことも事実なわけで。
その哲学には、やっぱ普遍なものもあるんだろうなー…・と。・・・・・
"真の花"そして"インナーヴォイス"、すごくすとんと腑に落ちる言葉でした。
役柄によって人格は違うから、当然インナーヴォイスも、役によって違う喋り方・声・ボキャブラリー・感情の動きになるわけで。・・・・・
確かに、その違いを感じさせる演技をする俳優さんって、いる。
ものすごい量のリサーチと、人生経験、感性感覚、知性知識、いろいろな豊かさが、それを支えているんだろーなー・・・と。
時の花、真の花、か・・・・・・。
なんて、ぼんやりつらつらと考えながら観に行ったのが、『花の生涯~梅蘭芳』。
チェン・カイコー監督の『覇王別姫』に衝撃を受けて、『PROMISE』まで観に行ってしまった私にしてみれば、当然チェックする作品だったんですけど、その内容のあまりのタイムリーさにはびっくり。
京劇史上伝説となっている女形、大輪の真の花、梅蘭芳のお話ですから…・。
マネージャー的立場で義兄弟でもある邱如白が梅蘭芳に言うセリフ、「お前の時代だ」というのを聞いた時にはちょっと鳥肌が立っちゃった。
年老いた師匠に引導を渡す"時の花"の残酷さ、望まないのに周囲の人間を狂わす"真の花"の苛烈さ。
でもみんな、圧倒的な大輪の花が見たいだけ。美しいものを見て至福に浸りたい、それだけなんだよね。
本人は、自分が花だなんて自意識はなくて。
ひたすら真摯に才能に誠実に、芸を貫いてる。その周辺でその稀有な花を高く掲げて狂喜乱舞する人々。
スターとそれを取り巻く人々って、どんな時代・どんな国でも、一緒なんだなー・・・・・とつくづく思っちゃった。
ハリウッドで一時期流行ってた、実在の偉人の伝記映画の流れを汲んでる作品だと思います。事実をベースにしているだけにストーリーの盛り上がりに欠けて、『覇王別姫』に比べるとデキは今一つだと思ってしまいましたが。(苦笑)
チェン・カイコー監督は、自分だったらもっと傑作の伝記映画を造れる、と思ったんでしょうけど。…・
しかし『Ray』でも『ビヨンド・ザ・シー』でも『シンデレラマン』でも、ダイアナ・ロスとシュープリームスをモデルにしたと言われてる『ドリームガールズ』でもそうだったけど、マネージャー的なポジションの人とスターの間に生まれる、嫉妬と盲執と羨望と強欲と愛憎入り混じる酷い泥沼は、絆とも枷とも腐れ縁とも言える関係には、ほんと、やりきれない気分に襲われる。・・・・・
「自分が育ててやったんだ!」「自分が全人生を捧げてやったからこそ、お前はスターになれたんだ!」「どれだけ金を賭けてやったと思ってんだ!」と思う気持ちはわからないでもないけど。…・実際、そういう部分があるのは否定しきれないと思うし。
でもそもそも、スターあってのことなんだよね。
星が生まれなければ、すべては生まれないわけで。
それへの尊重を忘れてしまうと、本末転倒。取り巻く人々の要らない自尊心をスターに押しつけるのはやっぱ筋違いでしょ。
誰でも"時の花"になれるわけじゃない。世の中は不平等なもの。
"真の花"になるためには、スター自身がそうなる以外は、どうしようもないし。周囲が何かできるわけじゃない。
しかしハリウッド製の偉人伝と少し違ったのは、そういう周囲の人たち、師匠やマネージャーや恋人が、ハリウッドよりはもっと達観していたというところかな。
意外と綺麗にわが身を引いたから、ちょっとびっくりした。
特に梅蘭芳の師匠の十三燕は、その見事な幕引きっぷりには感銘すら受けちゃった。あの人はかっこいいです。
すべて分かってて、あえて愛弟子に、自分への引導を渡させたような気すらしました。
十三燕が背負っている伝統の継承という重い責任、そして新しい風の必要性、彼はすべて分かっているけど、もういかんせん、若くない。いろいろな意味で思い切れない。時間がない。
世間的には「弟子に負けた師匠」というキャリアで終わってしまったけど、彼に後悔はまったくなかった感じがする。
マネージャーの邱如白も、もっと「お前をここまでにしたのは自分の助言があってこそだろ!?」と縋りついて詰るのかと思ったけど、ちゃんとわきまえてたところは、さすがの育ちの良さと知性だった。
ま・・・・邱の場合は、自分から引き下がらざろうを得ないことまでやっちゃってたから、どうしようもなくというのもあるけど。・・・・
梅が唯一本気で愛した人、孟小冬も、邱の言葉は痛いほどわかってるんだよね。…・
"スター梅蘭芳"のためには、自分が身を引くのがベストだから。たとえそれが、梅蘭芳自身の人生としては、地獄の孤独であったとしても。
アジアの人間の独特の達観なのかな・・・・・。
それが、花の生涯。
本人にとって幸せだったかとか、周りの人間は幸せだったかとか、それはその人たちの受け取り方次第。
自然っていうのは時として傑出して残酷なほど美しい花を一輪咲かせたりして、普通の人間たちは、その影響力にひたすら右往左往して狂乱したりする。
生き物だから、いつかは枯れてしまうし。
次にどういう花がいつ咲くか、なんて誰にもわからないし。