アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

華厳三稿 破の章

2017-03-27 21:01:02 | 物語
破の章

 阿倍内親王の生母光明子は、皇太子妃の時代から窮民救済や薬草等の採取と病気の治療に大きな関心を持ち、興福寺に悲田院(貧民や孤児を救うために作られた施設)と施薬院(民救済施設・薬園)を創り、皇后となった後には皇后宮にも創り、自ら病人の看護に当たられたりした。
 菩薩と称えられる行基も又、窮民救済に一生を捧げました。橋、路、貯水池を創り、貧民救済の寮施設布施屋を建てました。
 行基は、進んで野山で衆生の為に説教をしましたが。これを政庁が禁じた為に、お尋ね者になってしまいました。
 しかし、聖武天皇の大仏建立に行基の土木技術と動員力は欠かせず、朝廷は大仏建立を行基にゆだねました。大仏開眼供養の時には、行基は大僧正の位を贈られました。
 その時、行基は少しも喜はなかったと伝えられています。

 天平三年(734)年、二月一日。
 朱雀門が開かれ、聖武天皇が雄略天皇の和歌を読み上げた。
「籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この丘に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(なの)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(お)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも」
 鼓吹司が門外に整列して管楽を演奏しました。
 越天楽(黒田節などの元になった雅楽)の調べに誘われて、聖武天皇が家族と大臣達を従え、朱雀門に出御して歌垣をご覧になつたのです。
 五位以上の風流と恋の分かる男女、二百四十余名が参加していました。
 衆生の見学が許され、数万人の人々が門外の広場と朱雀大路に溢れていました。
 男女の求愛が公に許された歌垣は後世には風紀の乱れから禁止されてしまいますが、平安時代に復活し、現代の暗闇祭りに発展しました。

 二十余名の若者が列を成して登場して、
 ザッザッザツと勇ましく踏歌で足を踏みならして難波曲を歌いました。
「難波津(なにはづ)に 咲くやこの花 冬ごもり」
 若者達の一糸乱れぬ踏歌はまるで征戦する兵士の様に勇ましかった。
 次に、やはり二十余名の娘が男踏歌に続いて女踏歌を悩ましくもしなやかに舞って謡いました。
「今は春べと 咲くやこの花」
 娘達の裳が風にひらめいて、春の息吹を巻き上げ、平城は一気に春爛漫が如くになりました。
 鼓吹司達も春の喜びを管楽で奏し上げ。
 嫌が上でも聴衆は熱く燃え上がって行きます。

「難波津(なにはづ)に 咲くやこの花 冬ごもり」
 謡い、舞ながら若者達は女踏歌の方に乱入して、それぞれが目当ての娘に近づいていきます。
「今は春べと 咲くやこの花」
 娘達は、好ましくない若者からは逃げ、好きと思う若者には対の踊りを捧げます。
 娘達の中に阿部と井上がおりました。采女と女孺もいました。彼女たちの位階は精々七位ですが、高い位階の家の出身なので参加を黙認されていました。
 井上は男踏歌の中に白壁王の姿を必死に探しましたが、望むべきも有りません。
 白壁王は、若者達に混じるには少々お年を召していましたので遠慮したのです。それに、王は目立つような行為を、疎まれる天智系の皇族として禁じていました。
 井上はようやく白壁王を見つけました。勿論男踏歌の中では有りません。
 衆生の観衆の中に紛れ込んでいました。庶民のような出で立ちで井上を見守っていたのです。
 微笑みながら見つめ合う二人。

 踊り疲れた阿部と井上は、縁台で休んでいました。二人に采女と女孺が従っていました。
 一同が聖武天皇から賜った菓子を愉しんでいたとき、一人の若者、式家の藤原弘嗣が近づいてきました。
 采女達に緊張が走りました。
 弘嗣は何をするか分からぬ乱暴者と言われていたからです。
 弘嗣の前を遮るように、南家の豊成と仲麻呂か佇みむました。
「邪魔だ、どけ」
「恐れ多くも内親王方の席であるぞ」と、豊成。
「控えろ」と、一括する仲麻呂。
 この騒ぎに、護衛の衛士佐伯五郎を捜す由利。五郎が衛士を数人随えて駆けてきます。
 五郎の姿に胸を撫で下ろして安堵する由利。
「今日は無礼講だ、それに俺は姫様に用ではない、そこの采女だ」
 と、弘嗣は阿倍の横に控える由利の方を見た。
 それでも、遮る行く手を緩める気配を見せない南家の兄弟。
 弘嗣は二人を突き飛ばして近づいて来た。
 血相を変えて追う南家の二人。
 阿部は仲麻呂が懐に刀子を隠しているのに気が付いた。
「仲麻呂! 狼藉は成りませぬぞ! お控えなさい! なおも騒ぐなら、衛士に命じて捕らえさせますぞ」と言葉を投げつけ、豊成に視線を移した。
「豊成殿、落ち着きなされ」
「ははあ」
 豊成は阿倍の前に跪きましたが、仲麻呂はいまにも弘嗣に切りつけそうな殺気を漲らせています。

 阿倍の前に壁を創って身構える五郎と衛士達。
 ようやく仲麻呂は立ち止まりましたが、不服そうにあらぬ方を見ながら、横目で弘嗣を監視している。
 弘嗣は由利の前で跪いて、手折った梅の枝を捧げた。が、彼の視線は明らかに阿部に注がれていた。
 どうすれば良いのか躊躇って、由利は阿倍の顔を伺った。
 素知らぬ顔で空を眺めている阿部、視線だけを由利に向けて、微かに顎を動かした。受け取れと言っているのだ。
 渋々梅の枝を受け取る由利。
「この花の、一枝のうちに、百種の言そ籠もれる、おほろかにすな」
 阿部は可笑しかった、この乱暴者の弘嗣が恋の歌を、それも内親王のわたくしにらしい。どうせ家持にでも手ほどきを受けたのだろうとも思った。それにしても愚かにするな、とは大きく出たものだ。
 由利が又阿部の顔を伺っている。
 阿部は微笑み、顎をしゃくった。
 真備の娘、才色兼備と謳われる由利、忽ちの内に返歌を浮かべた。
「この花の、ひと枝のうちは、百種の言待ちかねて、折らえけらずや」
 弘嗣は小首を傾げて由利と阿部の顔を交互にみた。意味が図りかねたのだ。
 声を上げて笑う阿部、すっと手を差し出して、由利の持つ梅を折ってしまった。そして、阿倍の手に移った梅の一輪を髪にさした。
「わたくしは、そこに控える忠臣面をした豊成やしたり顔の仲麻呂より,無骨な弘嗣の方が好き」と、心で確かめる阿部であった。

 この有様は、乱暴者の弘嗣が采女・由利と阿倍内親王に軽くあしらわれた話として京師に伝わった。

 瓢箪池の水浴びから七年前の事でした。

 神亀六年(729)、八月五日、甲羅に「天王貴平知百年」と文字の書かれた瑞亀が見つかり、天平と改元された。
 天平とは、仏になる修行を華にたとえ、その華で仏の位を飾る華厳の世界を地上に築く事。それが聖武天皇と光明皇后の悲願で有った。
 しかし、百年の平和どころか、激動の時代の幕が上がった。

 養老の遣唐留学生、吉備真備と僧玄昉が帰朝した事で一気に幕が切り落とされた。

 天平七年(七三五)八月二十六日。帰朝留学生従八位下下道朝臣眞備が、唐礼百三十巻を始めとした暦から鎧をも貫き通す矢、儀礼用の矢に至るまで、唐から持ち帰った貴重な文献武具などを献上した。
 
 時の朝廷は人材不足に悩まされていた。期待をかけていた阿倍仲麻呂の帰朝が玄宗皇帝から許されず、遣唐大使藤原清河(北家)は台風のため遠く南の島に遭難し、結局この二人は生涯を唐で過ごした。

 聖武天皇は真備と玄昉を重用し、合わせて薬師寺の僧侶良弁を華厳の総本山・東大寺別当に任命した。この時、薬師寺からは、後の怪僧弓削の道鏡もまた東大寺に移ってきた。権勢を欲しいままにする藤原氏への牽制と対抗策だった。
 特に真備は、四書五経に精通していただけで無く、諸葛亮孔明の八陣をも極めていた、当に文武両道の俊英であった。

 野山に出て衆生に仏の道を教えていたお尋ね者の行基は薬師寺の僧侶で有る。薬師寺の義淵僧正と共に玄奘(三蔵法師)の直弟子道昭に教えを請うた兄弟弟子であったが、義援は薬師寺と法相宗を継ぎ、行基は土木技術と窮民救済を継いだ。
 光明子と藤原氏の氏寺興福寺、実は法相宗の総本山であった。
 筆者はこれらの因果関係に何かが潜んでいる可能性が高いと思っている。
 以下余談。奈良の薬師寺に取材した時、当時の管主が、筆者が行基の話を向けた途端に、好意的だった態度が硬化し、「行基大僧正は薬師寺の僧侶では有りません」と、言い切りました。
 歴史とは難解な物です、史実と事実と真実が万華鏡の様に広がって、とても筆者如きには見通せる物では有りません。

「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の国を治む」
 真備の礼記の読み下しに阿部内親王が復唱した。
「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の国を治む」
「其の国を治めんと欲する者は、先ず其の家を斉ととのふ。 其の家を斉えんと欲する者は、先ず其の身を修む」
 内親王は正座をして書見台の礼記を懸命に見詰めている。
 正座をしていたのは、真備を師として敬う為だ。
 真備の娘由利は内親王の後ろに控えていたが、声に出さずに復唱していた。
「由利、あなたも声に出して復唱するのです」
 阿倍の言葉で、真備が厳しい視線を浴びせた。私語を慎むように言い渡していたからだ。
 由利は父真備の顔色を伺うようにして見詰めた。
 真備が娘に微笑んだ。
「其の国を治めんと欲する者は、先ず其の家を斉ととのふ。 其の家を斉えんと欲する者は、先ず其の身を修む」
 今度は、二人声を合わせて復唱した。
「後は? 姫皇子、読んで下さい」
「はい、其の身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正す」
「はいは入りませぬ。続きを由利、あなたが読みなさい」
 由利は緊張で喉がカラカラになっていた。父真備は彼女が生まれて直ぐ唐に留学したので、なんとこの時が初対面だった。少し風変わりな父娘の対面であったが、由利は十分に満足していた。
 まさか父の講義を受けられようとは夢にも思わなかったからだ。
「其の心を正さんと欲する者は、先ず其の意を誠にす」
 
 聖武天皇は真備にやがて皇太子になる、阿部内親王の教育を任せ、この国の将来をも託した。
 真備にとってはやや不本意で有った。二十年にも及ぶ唐の留学で、儒教と軍略を極めたが、古代の中国政治家の多くが、昼は儒家や法家、夜は老荘の人だったように、彼も又老荘の徒で有った。
 真備は帰朝が適ったならば、故郷の吉備に隠棲する積もりだったが。この国の危機を知り、強く請われて内親王の教師となり、大学寮の講師をも務めていた。さらに、近衛兵と言える中衛府の軍師でも有った。

「真備先生にお願いが御座います」
 講義を終えた時、阿部内親王が真備に頭を下げている。
「何をしているのです。貴女様は内親王で御座います。臣下に頭など下げてはいけませぬ」
「この場には、わたくしと真備先生と由利しかおりませぬ故、師として尊敬の心をあらわしての事です」
 苦笑する真備、一体何を考えているのか計り知れないと思った。
「して、何でしょうか?」
「わたくしに文だけで無く武の教授もお願いしたいのです」
「姫皇子(ひめみこ)は、やがて皇太子となり、天皇となられお方。しかも女性であらせられる。武など必要に成りはしませぬ」
「いいえ、だからこそ一通りの武道、馬術、剣術、弓の道を身に付ける必要が有ると、わたくしはおもいます」
 真備はまたも苦笑為ざるを得なかった。
「内親王(ひめみこ)、それは屁理屈というもの」
「真備」
 阿部は今度は真備と呼び捨てにした。
「教えなさい。理屈抜きにわたくしは武術が好きなのです」
 真備は少し驚いた、正直な上に人間関係の機微を心得ている。
 真備は、この時から阿部内親王を好ましく思った。行く末立派な皇太子に、そして民の上に立つ、澄んだ心でお仕え出来る天皇(すめらみこと)にお育てしたいとも思った。

 教えてみると、意外に筋が良かった。特に馬術と弓は急速に進歩を遂げた。

 天平八年(736)、生駒郡司から訴えが有った。生駒山中の鹿が増えすぎ、木の若芽や、若木の皮を食い散らし、放っておけば禿げ山になりかねないと。

 政庁は急遽薬狩りをすることに決定した。
 鹿は神聖な生き物として保護されていて、衆生(民衆)が殺して食べたりしたら厳重に処罰された。悪くすると死罪になったりしたのだ。
 鹿の数を調整する事を薬狩りと呼んだ。
 鹿の肉は滋養に富み、爪の先からは毛、皮に至るまで役に立つので薬狩りと言われたのだ。
 また、鹿狩りは公家の特権で庶民には縁が無かった。
 この宮中行事には官女達も参加して紫草などの薬草を摘んだそうだ。

 東(ひむがし)の野に かざろひの立つ見えて かえり見すれば
 月傾きぬ    柿ノ本人麻呂

 天平八(736)年八月、薬狩りが生駒山中で慣行された。
 阿部内親王は小子(皇族)軍と中衛府軍を率いて意気揚々と狩りに挑んだ。
 この一隊には真備の娘由利、梓中将の娘愛菜を始め、十人程の采女と女孺が加わっていた。薬草を採取するためだ。

 藤原氏は、仲麻呂の指揮する南家と京家の一隊と、弘嗣が指揮する式家と北家の一隊が参加した。この二隊は、おなじ藤原氏ながら頗る仲が悪かった。狩りと戦の区別がついていなかった。

「兄じゃ、宮城を出れば、我ら藤原氏の天下じゃ」
 併走する南家の二人、仲麻呂と豊成。
「仲麻呂、不躾な公言を慎め」
「なんの、この隊の者達は藤原に忠を誓う者だけだ。皇族軍と弘嗣隊に一泡吹かせずにおく物か」
 五十騎程の狩衣の武者が二人の後を追っている。
 勢子も猟犬も追い付くのに躍起に成っている。

 弘嗣の率いる式家と北家の目的は単純明快で有った。
 沢山の獲物を狩り、阿部内親王隊に合流して、それを捧げる積もりだった。

 阿部は狩衣ではなく胴巻き等の武具を纏っていた。真備が万一に備えて、憤る内親王を宥めて付けさせたのだ。
 いやいや付けてみた物の、阿部は気に入ってしまった。念願の戦に出陣したが如くの気持ちに成って、いやが上にも身体も心も異様に昂揚していた。
「ソレッ!」とばかりに、一鞭、そしてもう一鞭くれて速駆けるが、真備と高梓と中衛府の隊正(五十人隊長)、礫の五郎の異名を持つ勇者・佐伯五郎の三人は余裕を持って併走していた。が、三騎は決して阿倍の前には出ない。
 阿部は扇形に矢を並べた平胡(ひらやな)ぐいから矢柄を取り出し、手綱を離し、矢を口に咥えて弓の弦を鳴らした。
「梓殿、わたくしの梓弓聞こえましたか?」
「確かに、厳かなる音に御座います。将兵は皆勇みに勇みましょうぞ」
 梓弓とは儀式などで使う飾弓の事だ。
 だが、高梓の弓は飾りでは無かった。
 梓は無造作に弓に矢を番えて、虚空に放った。
 日の本一の梓の放った矢は、上空に飛翔していた山鳥を射貫いていた。
「見事じゃ、流石に梓、見たぞ、鮮やかな手並み」
 阿部も将兵も、皆箙を叩いて梓の弓に賞賛を送った。

 阿倍の一隊は、草原に乗り入れた所で馬を止めた。
 前方に原始の森が聳えていた。
 その彼方から、勢子達の鳴り物と猟犬のけたたましい声が響いて来た。獲物を阿部へと追い立てているのだ。
 眞備と梓が鋭い目で前方に眼を凝らした。
 森から一頭の巨大な猪が姿を現した。
 生駒の主なのか、続々と猪達が続いて森から出て来た。
 森の中から、鹿の角が見え隠れしている、鹿の群れは猪に護られていたのだ。
 更に狼の群れも姿を現した。今は生駒の住人達は争いを止め、心を一つにして狩人達に立ち向かっているのだ。

「内親王、慌てては成りませぬ」
 眞備が阿部に心得を諭した。
「まずは敵の大将を射止めるのです」
「心得た!」
 阿部は矢柄を弓に番えて猪の大将に的を絞って、キリリと引き絞った。
 一斉に弓矢を構える狩衣の将兵達。
 佐伯五郎だけが弓を構えずに礫を握りしめた。

 その時、草原の左手から弘嗣隊が、右手から仲麻呂隊が雪崩れ込んできた。
 狼の群れは二手に分かれて、それぞれに弘嗣隊と仲麻呂隊に立ち向かい、襲いかかろうとしていた。
 更に、様子を伺っていた鹿達も狼の後を慕った。
「兄じゃ、見たか! 面白くなって来たぞ」と、仲麻呂は豊成に叫ぶが如くにして、雄叫びを上げた。
 実は、この森の勇者達を阿倍のいる草原に追い立てて来たのは、他ならぬ仲麻呂隊であった。

 由利と愛菜達の周りを護衛の衛士が固めた。
 幼い愛菜は恐怖に戦いて由利に縋り付いた。
「愛菜、案ずるでない。獣共はここまで辿り付けませぬ」
 由利は脅える愛菜を優しく抱きしめた。

 阿部は引き絞った鏑矢を大将猪に放った。
 ヒュルヒュルと音を立て、弧を描いて大将に向かって行く阿倍の矢は、将兵達を鼓舞した。
 一斉に、大将に続く猪達に矢を放つ狩人達。
 梓が弓で、五郎が礫を構えて大将猪に的を絞っていた。阿部がし損じた時の備えだ。
 バタバタと倒れる猪達。だが、大将に放たれた阿倍の鏑矢は尻を掠めて草原に落ちた。
 慌てて二の矢を番えようと、征矢を手に取る阿部。
 その阿部を眞備が諫めた。
「姫! 慌てては成りませぬ。矢よりは手綱を確りと持ち為され」
「承知した。後は任したぞ、眞備」
 騎馬を飛び降りた眞備は太刀を抜いて、阿倍の前に立ちはだかった。
 憤怒の形相で阿部に突進してくる大将猪。
 疾風のように弘嗣が駆け寄り、彼の背中に飛び乗って太刀を抜いて翳した。
 梓の矢と、五郎の礫が猪目指して飛んでいった。
 猪の心臓を刺し貫く弘嗣の太刀。
 ほぼ同時に、梓の矢と五郎の礫が眉間を襲った。
 ドドッとばかりに地響きを立てて倒れる大将猪、尚も阿部を目指していたが、立ちはだかっていた眞備の前で動きを止めた。
 流石の森の勇者も、太刀と矢と礫の前に、哀れ草むす屍と成り果てた。
 倒れた猪の背から立ち上がった弘嗣が、阿部に太刀を翳して叫んだ。
「我らは、内親王の前を阻むものは、何者で有っても必ずや打ち倒して見せまする」
 阿部も又、太刀を翳して弘嗣に応えた。
 仲麻呂と豊成も弘嗣の前に並んで太刀を翳した。
「我ら藤原の者どもは皆、内親王をお護りして行きまする」
 声を揃えて強張る二人。
 三人は腰を屈めて阿部に御礼を捧げた。
 仲麻呂が、チラッと阿部を盗み見た。
 この時、仲麻呂の脳裏では、こんな事が掠めていた。「基皇太子(阿倍の弟)が薨去しなければ、この娘は我妹となっていた筈」
 仲麻呂は暗寧で執念深かった。

 三人に馬を寄せる阿部。
「助成忝く承った。今後は、わたくしでは無く、天皇と朝廷に忠勤を励むが良い」と、馬上から声を掛けた。

 申の刻、夕七つを(午後三時)を回った時。一行は、臣籍に下った橘諸兄(葛城王)と白壁王が馳走して来た、昼食に舌鼓を打っていた。
 阿倍の周りには、獲物の獣と籠に盛られた紫草などの薬草が堆く摘まれていた。
 この頃昼食の習慣は無かったが、戦と狩りの時は別だった。
 菓子を頬張る阿部を弘嗣が見詰め、笑いかけていた。
 仲麻呂は睨むが如くに見据えていた。
 大きく溜息を付く阿部。自然と桜児が自殺した時の詩を詠んでいた。
「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」
 読み上げた後、愛菜を見詰めた。
 愛菜は思わず唾を飲み込んだ。内親王の望んでいる詩が浮かんで来ないのだ。
 見かねた由利が、愛菜の耳元でそっと囁いた。
「はるさらば」
 やっと愛菜の脳裏にその詩が蘇った。
「春さらば かざしにせむと 我が思ひし 桜の花は 散りにけるかも」
 続いて由利が、もう一人の桜児を偲んだ若者の詩を抑揚をかけ、歌うが如く詠み上げた。
「妹が名に 懸けたる桜花 咲かば常にや 恋ひむいや年のはに」
 こうして、桜児の恋の果ての如く、阿倍の恋も又、散りゆく花と成り果てた。

   2017年3月27日   Gorou


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