アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

炎の男、火麻呂 能登国風土記 Ⅳ

2016-12-10 01:12:32 | 物語

 雅は良く火麻呂の夢を見た。
「わたしはここにいます、あなたを待っています、あなたを待っています」
 小稚児の姿で火麻呂に語りかける雅。
 おさない頃の姿になっているのか、お腹の子の成長した姿を借りているの
か、良く分からなかった。
 火麻呂の背中めがけて征矢が一直線。
「火麻呂ーッ!」
 叫ぶ雅。

 気を失って深海に沈んでゆく火麻呂。
 白海豚となった雅が頭で突付いて海面へと誘い、悩める魂をこの世に呼び戻
した。

「さて、どうする火麻呂」
 悩む火麻呂を悪魔が唆した。
 水溜りに映る火麻呂の顔が苦渋に満ちて歪んでいる。
 小稚児の雅が背後に忍び寄った。
「さて、どうする火麻呂」
「ウオーッ!」
 傍らの大岩を抱えあげて水溜に向かって投げつける火麻呂。

 夢から覚めた後、必ず激しく後悔した。
 夢とはいえ、あの優しい真刀自の死を願うなど許される事では無い。
 雅は信心深いとは言えないが、幼い頃から霊感が強く、両親も一時は巫女に
しようと思った程だ。

「さて、どうする火麻呂」
 風に乗って雅が火麻呂を唆した。
 豪雨の中で鬼に豹変した火麻呂が太刀を翳して真刀自に迫って行く。
 菩薩のように穏やかな顔をした真刀自が奈落に落ちて行く。
 火麻呂の首を太刀が襲い、飛沫を上げる血潮。

 こんな夢の後、全く夢を見なくなった。
 葛麻呂から火麻呂と真刀自が死んだと聞かされ、諦めてしまったのかも知れ
ない。

 久しぶりに火麻呂の夢を見た。
 洞窟で銅鏡に向かって化粧をしている雅。
 ぼんやりと、酒を飲む火麻呂が映っていた。
 肩から上衣を滑らせて雅が立ち上がった。
 床を転げまわる獣。
 紅蓮の炎の中で不動明王が喜んでいる。
 胡坐をかいて見上げる火麻呂の腰に跨る雅、妖しく微笑みながら火麻呂の口
を啜った。
 火麻呂の手が乳房を掴んだ。
 快楽ではなく、激痛が走った。

 突然目が覚めた。
 葛麻呂のおぞましい手が乳房をまさぐってきたのだ。
「おやめください」
 心とは裏腹に身体が葛麻呂の執拗な愛撫に慣れて来るのが悲しかった。
 その手が次第に下腹部に下りてくる。
「おやめくださいませ、お腹の子に障ります」
 その言葉でようやく愛撫を止める葛麻呂。
 起き上がって素肌に単を纏う雅。

 井戸端に出て、火照る身体を冷まそうと水を被った、何度も何度も被った。

 桜満開の春、雅は観念して葛麻呂の元にあがった。紀氏のためにも、火麻呂
のためにも、お腹の子のためにも一番良いと判断したからだ。
 その時、雅は火麻呂の子を宿している事を確信していた。それを隠して葛麻
呂の元に来たのだ。
 生まれてくる子は大伴氏として養育され、平穏無事な一生を送って欲しい。
強く願う雅、その為には火麻呂の子である事を隠し通さなければならないの
だ。

 夜空を見上げる雅、横たわる天の川が見えた。
 火麻呂と出逢って早くも二年が過ぎたのだ。
 愛が憎悪に変わってしまったのかも知れないが、火麻呂の心の中を、まだこ
の私が支配しているに違いない。
 鎮まっていた雅の情念が燃え上がった。
 必ず来る、奪いに来るのか、それとも殺しに来るのか、この平城の葛麻呂邸
を襲うのか、道中を襲うのか、あるいは大胆にも能登の国衙を襲撃して来るか
も知れない。
 必ず来る、火麻呂は来る。
 火麻呂が心の中に雅を棲まわせている限り、この世にいる間は、必ず守る、
火麻呂と毛虫は我が身に変えても、この身が粉々に砕け散ったとしても、必ず
守る。
 雅の篤い情念が炎のように燃え上がった。
 再び水を被る雅。

 昼間の出来事に衝撃を受けた者があと二人いた。
 雅の妹千代と、能登守一行の護衛隊長熊来鹿人だ。
 千代が安部内親王付きの采女を辞して姉の侍女になったのは、両親の強い願
いからだった。
 両親がヨウと呼ばれる中国古代の言葉を知っていたかどうかは分からない。
 ヨウというのは、貴族や皇帝に輿入れする時、娘が万が一子を宿すことが出
来なかった時の為に、妹や一族の娘を侍女として付ける事を言う。
 葛麻呂が千代を気に入れば全てが丸く収まる。が、雅にべた惚れの葛麻呂に
蕾の中に隠されていた千代の美しさを見つける事が出来なかった。
 千代も雅に負けぬくらいに美しく魅力的だった。長く宮廷の女官をしていた
千代のほうが教養という面から見ればやや雅より優れていた。
 千代の美しさは磨きぬかれていく美しさと言えた。姉との年の差三年を経れ
ば、雅に負けぬ位に輝くに違いない。雅の美しさは素の美しさだ。存在そのも
のが美であり、例えようもない魅力を周囲に発散した。

 熊来鹿人はそんな雅の美しさに魅了された一人だ。こんなに美しい女性がこ
の世に存在している事そのものが奇跡だと思った。雅の美しさに心をときめか
さぬ男などいるものか! とも思った。
 鹿人は想像した。あの賊、雅に鏑矢を射掛けたあの男は、雅が葛麻呂に輿入
れする前の恋人に違いないと。鏑矢が雅ではなく柱を狙ったのは明らかだ、殺
す積もりだったら、鏑矢でなく征矢を使った筈だ。男は正々堂々と宣戦を布告
して来たのだ。もし、男が雅奪還を図るとしたら道中をおいて無いと思い、胸
をときめかした。道中であの男との戦いが待ちうけ、故郷の能登で鹿王が鹿人
を待ち受けている。鹿人は高まる胸の昂揚を抑える事等出来なかった。

 数日の間、何事も無く過ぎた。
 葛麻呂は火麻呂が生きている事も、あの日館で起きた出来事にも気が付いて
いない。
 雅と鹿人が口止めしたからだ。葛麻呂邸では、能登の兵士は鹿人を信頼し、
大伴の衛士も家人も雅を慕っており、葛麻呂など、ただえばり腐って踏ん反り
返っているだけの木偶の棒同然だったのだ。
 皇太子の重体で延び延びにしていた能登行きが決まった。

 まだ夜の開けきらぬうちに出発した。
 平城を離れる前に三条二坊の高梓邸に寄る葛麻呂、出廷する前の梓に毛虫を
見せ、約束事の確認をする為だ。
「これが毛虫で御座る」
 主殿の玄関で雅に抱かれた毛虫を梓夫妻に誇らしげに披露する葛麻呂。
「なんとも頼もしき面構え」
「美しき御子で御座いますこと」
「この子が十になったら、必ず上京させます故、少将殿の手元で文武を学ばせ
て下さい」
 葛麻呂は、毛虫がまだ生まれる前からしかるべき師を求めて奔走していた。
当時、文武両道に優れていると言えば、一に遣唐留学生として長安に追いやら
れていた吉備真備、その真備と双璧と賞されていたのが一介の新羅訳語だった
高梓だ。
 非役の梓を家人として雇おうとして断られた葛麻呂、執拗に交渉を重ね、毛
虫が成人した暁には教師となる約束を取り付けたのだ。
 一月前の八月、突然中衛府が新設され、梓が少将に任命された。中衛府の大
将は藤原朝臣房前だったが、実質上の指揮官は少将の高梓である。
 葛麻呂は己の慧眼に小躍りして喜んだ。美しく聡明で強い雅の血を受け継い
だ毛虫が、日の本一の将軍高梓の指導を受ければ、内乃兵大伴に相応しい大将
軍として華麗に羽ばたくに違いない。
 葛麻呂は己が果たす事が出来ようも無い夢を毛虫に託していた。
「この御子なら立派な御大将に成られましょう。その時が楽しみで御座いま
す」
 我が事のように喜ぶ梓。

「ところで、能登守殿」
 門前まで見送りに出た梓が声を潜めて言った。
「能登は難しい所と聞き及びます。短慮を起こしてはなりませぬぞ」
 言葉を選びながら葛麻呂に助言しようとする梓。
 本当はこう言いたかったのだ。
「藤原氏を見くびってはいけません。侮って罠にはまらぬように用心して下さ
い」
 藤原氏に引き立てられて中衛府の少将という異例の昇進を果たした以上、あ
からさまにこう言う訳にはいかなかったのだ。
「心得ています。先日はお見苦しい所をお見せして恐縮しております」
 尊大な葛麻呂が、梓の前では妙に素直になっていた。
 鹿人が恭しく梓に礼をした。
「左衛門府から能登軍団に所属変えになりました」
「聞いておりました。御父君、能登臣龍麻呂様にもよしなにお伝え下さい」
 葛麻呂は鹿人が能登臣の子であると初めて知った。養子として熊来氏を継い
でいたのだ。
 晴れやかな笑顔で葛麻呂を見る梓。
「鹿人殿のような良き将官に恵まれた能登守殿が羨ましい。御子が五歳程にな
ったら、鹿人殿に弓馬を習わせると良いでしょう」
「五歳で?」
「鹿人殿の弓と馬術は相当のものです。特に、水軍の指揮では、我が国で右に
出る者はおりません」
 この梓の言葉で、葛麻呂と雅は熊来鹿人に絶大な信頼を寄せた。

 熊来鹿人は節義の人である。能登臣龍麻呂の三人の息子の中で跳びぬけて優
秀なこの次男が能登臣の後継者に選ばれると、誰もが思っていたが、龍麻呂は
一番凡庸な長子壱智麻呂を後継者に指名した。揺るぎない地盤が築かれた能登
臣の領地よりも、熊来川の上流を荒木郷に取られてしまった熊来郷を立て直す
ために、男子のいなかった熊来へ養子として鹿人を与えたのだ。
 養子に行った鹿人は自分の役目を良く心得ていた。能登臣の次男としての自
分よりも熊来を継ぐ己を上に置いた。
 鹿人は密かに誓っている事が有った。熊来の幼い姫を妻に迎えるのは、仇と
言えば言えた、鹿王をこの手で倒してからだと思っていた。熊来の養父は鹿王
との戦いで負った傷が元で亡くなったのだ。

 葛麻呂一行は三条大路を西に向かった。
 家人とを含めて五十人の葛麻呂一行の護衛に、鹿人は能登軍団選り抜き
の騎兵二十を呼び寄せていたが、大事を取って大伴の衛士を三十人加えた。
 身重の雅は毛虫を抱いて牛車に揺られていた、本来幼児は乳母が世話をする
のが慣わしだったが、雅はこの道中、片時も毛虫を放さぬ積もりでいた。特に
葛麻呂の傍には決して近づけぬよう気を付けていた。
 梓邸を発った時から、一匹の美しい狐が後を付けて来た。
「火麻呂は狐まで手下にしているのかしら、それともあれが来寝麻呂なのかし
ら」
 雅は本気でそう考えてみた。
 辻の柳の陰で、築地塀の穴から、用心深く様子を伺う狐。
「食べ物を狙っているだけかも」
 緊張の余り頭が少し変になっているのだ。

 雅は恐ろしく正確に般若党の情報を掴んでいた。事件の翌日から、妹千代と
信頼できる侍女を走らせて調べたのだ。
 火麻呂の率いる般若党は総数五十人程で、恐ろしいのは、噂に聞く容貌から
あの時の乞食者と見当を付けていた残虐な鬼の三兄弟。そして、狐の腹から生
まれ、よく狐に化けると言われている悪賢い狐塚来寝麻呂。火麻呂と共に逃げ
ていったあのピョンピョンと跳ねていた男だと思った。
 般若党の隠れ家が生駒仙坊と呼ばれる行基の布施屋だという事まで知ってい
た。
 鹿人と十人程の騎兵が雅の牛車の左右を固めている。口にこそ出さなかった
が、鹿人はあの鏑矢が雅母子を狙っていたと思い、特に雅の牛車を警護の対象
としていた。
 毛虫を抱きしめ御簾から街道に目を走らせる雅、少しでも妖しい人影を見つ
けると、般若党では? と疑った。

 京師を抜けて暗越街道に入る一行。遠くに生駒山嶺が見えてきた。
 十人ほどの沙弥が京師に向かって行脚して来た。
「法華経を、我が得しことは、薪こり菜つみ、水汲み、仕えてぞ得し、仕えて
ぞ得し」
 近頃流行っている賛嘆を歌いながらすれ違う沙弥たち。行基教団の沙弥に違
いない。
 信心深い者たちが手を合わせたり、沙弥の椀に飯や銭を入れたりしている。
 背の高い沙弥が牛車を見た。
 蛇火裟麻呂だろうか? それにしては善良で優しい顔をしている。
 もし、火麻呂が襲ってきたら? 雅は自分でもその時どうするか分からなか
った。
 葛麻呂と共に逃げるのか、毛虫を置いて火麻呂に走るのか、毛虫を抱いて火
麻呂に従うのか、どうするのだろう? 逃げる事も従う事も出来ず、真っ先に
殺されてしまうのかも知れない。
 冷静に考えると、烏合の衆たる寄せ集めの盗賊が、鹿人に指揮された正規軍
に勝てるとはとうてい思えなかった。迂闊に襲えば火麻呂も雅も破滅するだけ
だ。あの賢い火麻呂が簡単に襲ってくるとはとても思えなかった。だが、獲物
を狙う狼のように隙を窺っているにに違いない。
 雅の牛車に近付き、馬上から屈むようにして千代に話しかける鹿人。
「先日の賊の事をご存知でしたら、話して頂けませんか」
 さっと頬を赤らめてうろたえる千代。それでも懸命に平静を装って答えた。
「いいえ、私は何も知りません」
 矢張り何か知っているのだ。千代の緊張からそれを聞き出すのは無理だと判
断した鹿人は、当の本人、雅に聞くことにした。
 馬から下りた鹿人が雅の傍にやって来た。
「もし賊が襲って来たら。私はどのようにすれば良いのか迷っております」
 首を傾げて暫く鹿人の真意を測っている雅、やさしく微笑みながら口を開い
た。
「確かに道中を襲って来ると思われます。私を殺しに来るのか? 奪いに来る
のかは分かりませんが、これはこの雅と火麻呂との問題です。鹿人様はご自分
のお役目を尽くしてくださいませ」
 毅然とした雅の言葉に恥じ入る鹿人、「火麻呂? 確か般若党の首領」、男
が近頃平城を騒がしている盗賊の首領と知り、改めて気持ちを引き締めた。
   2016年12月10日   Gorou


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