真のお父様は、実体的天一国、つまり神の国がどのように実現されるかについて、次のように語っておられます。
「神の国の基準がなければなりません。実際に、神の国はどこで見出せるでしょうか。私達の内で、心と体の二つのうち、どちらがその基準を定めたり、基準を見出したりするのでしょうか。私達は既に、それが肉体からではなく、心から出発できるという結論に到達しました。神は決して変わらず、永遠なる究極的な実体であり、神の国もそのような性質のものであります。私達の体は、それに適合できるでしょうか。それは不変で永遠なるものではありません。
私達の心は、そのゴールを得ようという傾向を持っていますが、今のところその基準よりはるかに下です。しかし、神おひとりで、神の国を建てることができるでしょうか。できません。神は神と似た、あるいは神と一つになった人と一緒に、その仕事を成し遂げようとされます。神の国の建設は、そのような一人の人間から出発しなければなりませんが、このような人間を、どこで捜し出せるでしょうか。その人は、ただ道徳的な価値を持った人間であるだけでしょうか。道徳的価値を言う時、それは、心に根ざしていることを意味します。私達は、そのような人を道徳的な人々の間だけでなく、宗教的な人々の間に捜さねばなりません」( 神と神の国 1975年8月11日)
すなわち、
① 神の国は、肉体ではなく、不変で永遠である心を基準に創られる、
② 神おひとりでは神の国を建てることができない、
③ 神は神と似た神と一つとなった人と一緒に、神の国を成し遂げようとされる、
④ そのような人を道徳的な人々、宗教的な人々の間に探さなければいけない
と述べておられます。
イエス様も、パリサイ人に「神の国はいつ来るのか」と問われ、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカによる福音書17:20~21)と述べておられます。
真のお父様は、メシヤとしてのイエス様の使命を最終的に成就するために降臨されました。それゆえ、イエス様が成そうとされた神の国と、再臨主が成そうとされた天一国は、根本的に同じ国であるはずなのです。(‥‥続く)
YouTube版はこちらをクリック⇒ 原理に帰りましょう24「神の国である実体的天一国はどこにできるのだろうか」
「神の国の基準がなければなりません。実際に、神の国はどこで見出せるでしょうか。私達の内で、心と体の二つのうち、どちらがその基準を定めたり、基準を見出したりするのでしょうか。私達は既に、それが肉体からではなく、心から出発できるという結論に到達しました。神は決して変わらず、永遠なる究極的な実体であり、神の国もそのような性質のものであります。私達の体は、それに適合できるでしょうか。それは不変で永遠なるものではありません。
私達の心は、そのゴールを得ようという傾向を持っていますが、今のところその基準よりはるかに下です。しかし、神おひとりで、神の国を建てることができるでしょうか。できません。神は神と似た、あるいは神と一つになった人と一緒に、その仕事を成し遂げようとされます。神の国の建設は、そのような一人の人間から出発しなければなりませんが、このような人間を、どこで捜し出せるでしょうか。その人は、ただ道徳的な価値を持った人間であるだけでしょうか。道徳的価値を言う時、それは、心に根ざしていることを意味します。私達は、そのような人を道徳的な人々の間だけでなく、宗教的な人々の間に捜さねばなりません」( 神と神の国 1975年8月11日)
すなわち、
① 神の国は、肉体ではなく、不変で永遠である心を基準に創られる、
② 神おひとりでは神の国を建てることができない、
③ 神は神と似た神と一つとなった人と一緒に、神の国を成し遂げようとされる、
④ そのような人を道徳的な人々、宗教的な人々の間に探さなければいけない
と述べておられます。
イエス様も、パリサイ人に「神の国はいつ来るのか」と問われ、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカによる福音書17:20~21)と述べておられます。
真のお父様は、メシヤとしてのイエス様の使命を最終的に成就するために降臨されました。それゆえ、イエス様が成そうとされた神の国と、再臨主が成そうとされた天一国は、根本的に同じ国であるはずなのです。(‥‥続く)
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