原理に帰りましょう

真のお父様の御聖和以降、混迷する統一教会(家庭連合)。
もう一度我々は、原理とお父様のみ言に立ち返ろうではないか。

「訓読」とはみ言の意味を探すこと

2016-01-21 15:23:48 | 真の救いの道をたどっていますか?
 前回の記事で、原理講論の再臨論「同時性からみたイエス当時と今日」の内容を確認しました。

 摂理歴史を見れば、いつの時も真なるものは組織の上から来ることはなかったのです。
イエス様もお父様も、当時としては社会的に地位が低く、みすぼらしいところから訪ねて来られたので、祭祀長や律法学者など、当時の社会的に地位や立場のある人たちは
受け入れる事が難しかったのです。

 今の時代は、真の終末の時代を迎えています。

 ただ教会の責任者やアベルの言うことだけを信じて行うだけで、自動的に天国へ行けると思うのは間違いで、私たちは、原理講論にあるように謙遜な心で祈り、天の御心がどこにあるかを真剣に訪ね求める信仰生活をしなければならないし、また、過去の因習的な観念に執着してはならず、真の天的な喜びが自分の心の奥深くに感ずるかを確認しなければならないのです。

 お父様は、ご生涯を通じて、「訓読」生活の重要性を強調してゆかれました。韓国では漢字を読むときは「音読」が普通であるにもかかわらず、み言を声に出して読むことを「訓読」と言われたのは、なぜでしょうか?「訓読」とはみ言の意味を探すことで、それは、み言の背後にある真意を悟って責任分担を果たして欲しい、というのお父様の願いが込められているのです。

 ある幹部の方が、訓読会でお父様に「み言を100回読んだ」という報告をした時に、お父様が「読むだけなら犬でもするよ」と語られたそうです。み言は、単に行(ぎょう)のように○回読めばいいというものではなく、「訓読」は、み言の背後の意味を悟らないといけないのであって、そうしてこそ、終末の時にある「最後の審判」を越えていくことができるのです。

 謙遜な心で、真の救いの道を求めてゆきたいと思います。

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同時性からみたイエス当時と今日

2016-01-17 20:58:12 | 真の救いの道をたどっていますか?
原理講論の再臨論 第4節 「同時性からみたイエス当時と今日」から引用したいと思います。 

 祭司長や律法学者たちが、イエスを殺害するまでにことが至ったのである。これによって彼らは、神に対する逆賊を処刑したものと信じ、余生を聖職のために奉仕し、経文を暗唱しながら、所得の十分の一を神にささげ、祭典を行って、天国の道へと進んでいったのである。しかし、結局彼らが肉体を脱いで行きついた所は、意外にも、地獄であったのである。不幸にも彼らが天国へ行くつもりで歩みだしたその道が、彼らを地獄へと陥れてしまったのである。
 このような現象が、終末においてもそのとおりに起こるということを知るにつけ、我々はだれしも、もう一度自分自身を深く反省せざるを得ないのである。……(中略)……今日のような歴史の転換期に生きている信徒たちほど危険な立場に立たされている者たちはいないといえるのである。
彼らがもし、イエス当時のユダヤ人の指導者たちと同じくその信仰の方向を誤れば、今日までいかに篤実な信仰生活をしてきたとしても、それらはみな水泡に帰してしまわざるを得ないのである。それゆえに、ダニエルは「賢い者は悟るでしょう」(ダニエル一二・10)と語ったのである。
(『原理講論』P601~602)


 私たちは長年、「原理講論はクリスチャン向けに書かれたもの」と、捉えてきました。ですから再臨論に書かれたこの内容も、お父様を受け入れなかったキリスト教徒に適応されることであって、私たち統一信徒は正しく真のお父様を受け入れているから大丈夫、間違いなく天国に行けるもの、と思ってきたのではないでしょうか。
 イエス様を受け入れなかったイスラエル民族、再臨主として来られたお父様を受け入れなかったキリスト教‥‥彼らと私たち祝福家庭(第三イスラエル選民)はまったく違う、と思ってはいないでしょうか。

 しかし原理は、今の「私」にこそ必要なものです。

 お父様は基元節を前に聖和されました。では、公式に言われているように、お父様は何も問題なくすべてを勝利されたうえに、聖和されたのでしょうか?
 お父様はこれまでいつも、私たち祝福家庭の過ちゆえの摂理の失敗に対して、ご自身やご家庭の犠牲を代価にして、私たちを許して下さいました。同じように、お父様の聖和に対して、私たちの問題は果たして何もなかったのでしょうか?

 お父様の聖和はどういう意味があったのか?私たちは今こそその意味を真剣に尋ね求めていかなければなりません。なぜなら、私たち第三イスラエル選民も一歩間違えば、あのユダヤ民族と同じように、天国に行っているつもりが地獄だった、ということになりかねないからです。原理講論もそのことを警告しているのです。

 終末とは善悪の主権が交替する時を言います。
 イエス再臨時代の今が終末であるのは当然ですが、お父様が「実体天一国の始発」と語られた基元節以降こそが、さらに終末の中の終末なのです。何故かというと、いよいよ神様が実体的に現れる時なので、神様とサタンとの戦いが一番激しくなる時だからです。

 それ故、このような歴史的転換期にいる私たちは、じつは大変危険な立場にあるのです。
 原理講論「同時性からみたイエス当時と今日」に記された内容は、真の終末の時代に処した「私」自身の教訓としてとらえる必要があるのです。

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あなたは真の救いの道をたどっていますか?

2016-01-14 12:26:08 | 真の救いの道をたどっていますか?
 今日の記事の題名を見て、どのように感じられましたか?

 私は再臨のメシヤである真の御父母様に従い、祝福も受けた、熱心に教会に通って活動している。だから救いの道をたどっていることは間違いない、と主張する方もおられるでしょう。
 あるいは、最近教会にも十分通えてないし、負債の多い信仰生活をしていて、救いの道からは遠いな‥という人もいるでしょうし、そもそも自分が救いを必要とする堕落人間だという自覚すらない、という人も多いかもしれません。

 それでは、果たして教会に通っていることが、そのまま真の救いの道をたどっていることになるのでしょうか?あるいはもっと本質的な何かがあるのか、あるとすれば何に気を付けなければならないのでしょうか?

原理講論の終末論には、以下のように記されています。

 終末に処している現代人は、何よりもまず、謙遜な心をもって行う祈りを通じて、神霊的なものを感得し得るよう努力しなければならないのである。つぎには、因習的な観念にとらわれず、我々は我々の体を神霊に呼応させることによって、新しい時代の摂理へと導いてくれる新しい真理を探し求めなければならない。そして探しだしたその真理が、果たして自分の体の内で神霊と一つになり、真の天的な喜びを、心霊の深いところから感ずるようにしてくれるかどうかを確認しなければならないのである。このようにすることによってのみ、終末の信徒たちは、真の救いの道をたどっていくことができるのである。
(原理講論 P175 終末論)


 今の時代は終末の時です。
 上記のみ言には、終末の時にはまず、「謙遜な心をもって行う祈りを通じて、神霊的なものを感得する」ことが必要とあります。

 謙遜な心とは相手に対して自分が低くなることです。そして、自分は罪人であることと自分の中の堕落性をありのまま認め、真摯な悔い改めを通して神様にすべてを委ねるということです。終末には、このような姿勢がまず必要です。

 次に因習的な観念に囚われないこと、言いかえれば、執着しないということが大切です。執着しないとは、今までの自分の考え方、自分なりの価値観・判断基準など、自分がこれまで重要視してきたものに、とらわれてはならないというのです。

 そして、「我々の体を神霊に呼応させることによって、新しい時代の摂理へと導いてくれる新しい真理を探し求めなければならない」と書かれています。それは、終末には新しい真理が必ず現れるので、それを探さないといけないということです。

 そしてその真理はみ言として現れてきますから、出会ったみ言が私を神様と一つにしてくれるのかどうか、私はそのみ言によって心のもっとも奥深いところで本当の喜びを感じられるのかどうか、これらを自分で確認しなければいけないのです。
 それを、誰かに聞いて判断するとか、ただ単に教会で言っていることを、盲目的に信じてそれに従っていくことでは、真の救いの道をとどっていくことができないと、原理講論では明確に教えているのです。

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