前回の記事で、原理講論の再臨論「同時性からみたイエス当時と今日」の内容を確認しました。
摂理歴史を見れば、いつの時も真なるものは組織の上から来ることはなかったのです。
イエス様もお父様も、当時としては社会的に地位が低く、みすぼらしいところから訪ねて来られたので、祭祀長や律法学者など、当時の社会的に地位や立場のある人たちは
受け入れる事が難しかったのです。
今の時代は、真の終末の時代を迎えています。
ただ教会の責任者やアベルの言うことだけを信じて行うだけで、自動的に天国へ行けると思うのは間違いで、私たちは、原理講論にあるように謙遜な心で祈り、天の御心がどこにあるかを真剣に訪ね求める信仰生活をしなければならないし、また、過去の因習的な観念に執着してはならず、真の天的な喜びが自分の心の奥深くに感ずるかを確認しなければならないのです。
お父様は、ご生涯を通じて、「訓読」生活の重要性を強調してゆかれました。韓国では漢字を読むときは「音読」が普通であるにもかかわらず、み言を声に出して読むことを「訓読」と言われたのは、なぜでしょうか?「訓読」とはみ言の意味を探すことで、それは、み言の背後にある真意を悟って責任分担を果たして欲しい、というのお父様の願いが込められているのです。
ある幹部の方が、訓読会でお父様に「み言を100回読んだ」という報告をした時に、お父様が「読むだけなら犬でもするよ」と語られたそうです。み言は、単に行(ぎょう)のように○回読めばいいというものではなく、「訓読」は、み言の背後の意味を悟らないといけないのであって、そうしてこそ、終末の時にある「最後の審判」を越えていくことができるのです。
謙遜な心で、真の救いの道を求めてゆきたいと思います。
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⇒原理に帰りましょう7「真の救いの道をたどっていますか」
摂理歴史を見れば、いつの時も真なるものは組織の上から来ることはなかったのです。
イエス様もお父様も、当時としては社会的に地位が低く、みすぼらしいところから訪ねて来られたので、祭祀長や律法学者など、当時の社会的に地位や立場のある人たちは
受け入れる事が難しかったのです。
今の時代は、真の終末の時代を迎えています。
ただ教会の責任者やアベルの言うことだけを信じて行うだけで、自動的に天国へ行けると思うのは間違いで、私たちは、原理講論にあるように謙遜な心で祈り、天の御心がどこにあるかを真剣に訪ね求める信仰生活をしなければならないし、また、過去の因習的な観念に執着してはならず、真の天的な喜びが自分の心の奥深くに感ずるかを確認しなければならないのです。
お父様は、ご生涯を通じて、「訓読」生活の重要性を強調してゆかれました。韓国では漢字を読むときは「音読」が普通であるにもかかわらず、み言を声に出して読むことを「訓読」と言われたのは、なぜでしょうか?「訓読」とはみ言の意味を探すことで、それは、み言の背後にある真意を悟って責任分担を果たして欲しい、というのお父様の願いが込められているのです。
ある幹部の方が、訓読会でお父様に「み言を100回読んだ」という報告をした時に、お父様が「読むだけなら犬でもするよ」と語られたそうです。み言は、単に行(ぎょう)のように○回読めばいいというものではなく、「訓読」は、み言の背後の意味を悟らないといけないのであって、そうしてこそ、終末の時にある「最後の審判」を越えていくことができるのです。
謙遜な心で、真の救いの道を求めてゆきたいと思います。
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