以下の記事の紹介がありました。
2015年1月26日 朝日新聞大阪本社版 17面 惜別欄
元長崎市長 本島 等さん
もとしま・ひとし
2014年10月31日死去(肺炎)92歳
12月13日「送る会」
「平和を」 向き合った被爆国の加害
長崎市長だった1988年、「天皇の戦争責任はあると思う」と
市議会で答弁し、批判を浴びても撤回しなかった。2年後、発言に
反発した右翼団体幹部に銃撃され、重傷を負った。
「思ったことを隠さずに言う。物議を醸しても動じない頑固さが、
危うくも魅力だった」。長崎からの平和運動を通じて親交のあった
平野伸人さん(68)は振り返る。
奔放に見える言動はキリスト教信仰に根ざしていた。長崎県の五
島列島に生まれ、先祖は隠れキリシタン。旧制高校在学中に徴兵さ
れ、キリストと天皇陛下はどちらが偉いか」と問う上官に「どちら
も偉いです」と答え、非国民扱いされた。一方で部下に「天皇陛下
のために死ね」と指示した自身にも「戦争責任がある」と後に語っ
た。
自民党長崎県連幹事長も務めた保守系政治家。長崎市長に就任し
た当初は、あまり平和行政に熱心でなかった。しかし、核兵器廃絶
を市長として世界に訴えても、いっこうに変わらない現状に直面。
「日本の加害責任を認め、反省する行動なしには原爆の被害を語っ
ても説得力がない」との考えに至る。
銃撃事件後、「何かが吹っ切れたよう」と周囲が言うように日本
の加害責任を語った。8月9日の式典で読む平和宣言で、戦争への
「償い」や「反省」に言及した。92年には韓国を訪れて、被爆地
の市長として初めて韓国人被爆者に謝罪した。
95年に市長を退任した後、原爆の悲惨さを強調し、投下の原因
を省みない風潮を批判する論文を発表。日本の加害責任をアジア諸
国に謝罪し、被爆地が原爆投下を「赦(ゆる)す」ことが和解のた
めに必要だと説いた。
昨春、自宅で平野さんらに一筆を求められ、震える手で「平和を」
と書いた。いちばん好きな言葉だった。 (山本恭介)
【写真】銃撃事件後、最初の平和式典で平和宣言を読み上げ、戦争
への反省と償いの必要性を訴えた=1990年8月9日、
長崎市
こちらは2006年5月6日から毎日更新しています。
◆ 平和とくらし 茨木市議*山下けいきの日々是好日
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