親子関係で、やっとあとで通じる可能性が無きにしも非ずか
という経験だったけど、まず、どうしようもないくらい大変💧
でも、身近な人達への互いのよいほうへの信頼は、
ときに必要な疑い以上に大切なことです。
よろしくお願いします。
脳操作の存在は明らかになりましたので、距離を置けない置かざるを得ないで、危害が及んだりも十分あり得るのですが、残さなくてはいけないものは、本来の人への信頼です。
どうも、一人違う立場で生まれてきたので、
在りようも他者と一致証明が不可能に近くなってるケースばかり。
各種 努力して、やっとこれでとなった瞬間、相手が豹変する
(改竄や催眠術作用は、早くても日をまたぐと出やすいのかと思ったけど、このブログをやっている間、目前にする事象がいっきに増えたのです。受ける衝撃も、強さを増してきていました。)、
この覆りは、積み上げたものがオジャンになるというような、生易しいものではありません。
理解、融和、協力、サポート
の体制の整った相手が、
誤解、起こり得ない想定外解釈、無視、ハネツケ、攻撃、強制
に、瞬時に変わるのは、
は!!? の唖然すらできない、とてつもない衝撃です。
これが、善処に向かった者への、叩きつけてくる悪のバリアでした。
このブログを始めた頃は、それまでに こんな打撃に傷ついた経験あっても、たまたまか?とか、ちょっとは間が空くようなことだったりとかで、何とかしようがあるのではと、あまく考えていたようです。
悪は、ただでさえ大変な時に、ターゲット不平等に攻撃事をさっと増やしてくる特徴、その大きな一つでした。
ところで、
証明法について
以前、ある人物が妙なことを言っていたので、また正しておこうと思い、一応名称確認でネットくってみますと(もちろん、あてにしていませんが)、ギャボンっ‼!
大嘘の大嘘が・・・💧💧💧
まあたしかに、予告言葉にありはしたので、言葉が出たときにはヤダなあ!だったのですが、一個人の学の無さだけではどうやら、ないのです。日本中、下手すると世界中で、悪による教育にとってかわられているとか・・・。
自信をもって、か弱い声で言いますと、
演繹法は、何でもな仮定をまずすえて、それがある一部分には成り立つ ケースが無いわけでもない事を示す数学の方法です。
何が導き出せるかというと、
証明うまくいっても「0パーセントではないかどうか」
という、証明の名においては、ほぼ何の進ちょくもなく、
数学の中でも1つだけ異質で、
あるだけバカらしいような証明法なのです。
でも、なぜそんな方法が捨てられないかというと、
可能性を捨ててしまっては はいけないことを示すことにあります。
また、仮定 単独では、物事を決してしまうことが絶対できないという、大前提、戒めを示します。
他の証明法は、消去法にせよ、結果は数学らしく100%の正しさ。
その保証は、
人類共通の確たる示し方「数式」を正しく たどるとき のみ。
数式以外のものは、確定を持たないので、
数学証明に用いてはいけません!
断じて。
これを!、、数式の代わりに
疑心暗鬼 や 最近の判例 にしてるとか !?
判例自体、正しいのがほぼ1つじゃないといけないのに、
はい、いいえ
まで答えが割れる一昔前の 本当の現状。。。
洗脳、卑怯でもねじ伏せ力が強いような、
悪から奨励されるところに
行列ができる、通用する
そんな判例になってきているのに 集約してきているのでは。
人のことは被害の所在や動機、経緯がまず優先されねばならないのに、ぜーんぶまるごとひっくり返る仕組みにまで逆成長している可能性大。
今まだ、危険が及んでいない人やところが残っていても、空洞化は進みきっていたのが、私、この何年か、そして ブログを始めてからわかりました。
数式ではない、事件的な証明を100%目指して試みれるとすれば、
一個人の動機など
(悪側によって背景から変化をつけられるので辛抱づよくうかがわねばなりません)における詳細の事実経緯
(特にどこに判断誘導を受けているか、相互の立場の変化落差がないか)
に照合性があるかで、
確認や対処の必要も、そこにしか求められないのです。
これは、昔、教育がしっかりしていて、
せまる状況に応じて憲法教育のテコ入れの必要と攻防があったころに、身近にせまることなどまったく想定外の時に習った基礎知識から述べています。
こんな事を思い出したり引き合いに出さねばならないとは。
でも、正しさを守るに、身の安全の不安をかきたてられるような自他への被害ごとは、長年、かなりのものでした。
今わが身の回りは、政情不安のメッカです。
この表現、通じるかな ⁈
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