鹿沼消防署 エノキの黄葉
庭先の紅葉 遠くにススキ
栃木県那須塩原市
■説明板・・・
●青木周蔵那須別邸
青木周蔵(あおきしゅうぞう)(1844-1914)は、ドイツ公使や外務大臣・駐米全権大使などを歴任した外交官で、
特にドイツ翁と称されるほど長くドイツに滞在した。
周蔵は、ドイツの貴族地主に憧れ、明治14(1881)年ここに青木農場を開設した。
この建物は、東京府麹町区(現在の東京都千代田区)に本邸を持っていた周蔵の那須別邸として、
明治21年(1888)年に建築された。当時は中央の2階建ての部分だけであったが、その後増築を重ね、
明治42(1909)年に現在の形となり、地域の人々から青木邸と呼ばれ、親しまれてきた。
設計者は松ケ崎萬長(まつがさきつむなが)(1858-1921)男爵で、岩倉使節団とともに留学生としてドイツに渡り、
12年間滞在して建築を学んだ建築家である。帰国後、ドイツとの建築技術交流に尽力し、ドイツ風建築を設計した。
この青木邸は、わが国に遺る萬長の唯一の作品で、軸組や小屋根に様式の構法を採用し、
外壁に鱗形のスレートを用いるなどの特徴をもつ貴重な近代建築である。栃木県は専門家による委員会を設けて、
平成8年から解体調査を行い、平成10年3月に、もとの位置から南東側に約50m移転して復原・改修したものである。
↓鹿沼市野尻からの風景
運動公園内にある石、これが夜泣き石なのか?↓
本来はここにあったものではない。グランド造成するときに、ここに移された可能性がある。
鹿沼市の昔話
◆上南摩から野尻へ行く途中に「おとみ坂」がある。とありますので、象間運動公園駐車場の北側の道路がおとみ坂になる。・・・・
「象間の家におとみという女の子が子守奉公にきていた。主の二歳の男の子を子守していたが、あるとき岩くずれがあり、男の子は死んでしまった。主はおとみを責め、おとみを親もとに返してしまった。
数日たったある夜、村人がこの坂道を通ると、岩のあたりから『おーん、おーん』という音がした。人々はその岩を『象間の夜泣き石』と呼ぶようになった。
7年たったある日、おとみは夜泣き石のうわさを聞き、象間にきて供養した。それから泣き声は聞こえなくなった。村人はおとみのいじらしさをしのび、この坂を『おとみ坂』と呼ぶようになった。」というおはなしです。・・・この石でありますように。
運動公園の紅葉
鹿沼市 運動公園