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歴史Blogを志向しています。このBlogのSite Masterの名前は、高木紀久です。

魏志倭人伝

2024-04-15 20:28:03 | 日本史
魏志倭人伝


三国時代の蜀の陳寿の著述による三国志の中にある魏志の中にある倭と倭人に関するくだり。三国時代の魏の曹叡の時代に書かれた。大和王朝以前に存在した、邪馬台国(邪馬壹国,耶馬台国)が登場する。邪馬台国を治めていたのは、卑弥呼という名の人物であり、この人物は、女性であり、また、古代エジプトのファラオ、トゥタンカ=アメン王(即位当時17歳)のような若年王(女王)であった。卑弥呼は、~鬼道を能くし、衆民を惑わし~とあるが、この〈鬼道〉については、謎である。おそらく、呪禁道、陰陽道のような、呪道、魔道のたぐいであったと思われる。そうした経緯から、卑弥呼が実力で国の主権をもぎ取ったというより、擁立されたと考える方が妥適だろう。卑弥呼の後に後を襲った壹與もまた若年の王(女王)であった。卑弥呼以前には、小国が乱立して乱れ、ばらばらだった倭国は、卑弥呼後は、統合され、統一国家としてのかたちを形成していくのである。邪馬台国は、魏との朝貢外交を行っていたが、魏の政権奪取後に蜀呉もたいらげて三国時代を終わらせた晋とも朝貢外交関係を継続している。

蓬莱国異聞

2024-04-14 21:07:25 | 日本史
蓬莱国異聞


『蓬莱国異聞』とは、筆者(この記事の投稿者)の誤記憶によるあやまりと思われる。『蓬莱国異聞』なる書物は存在せず、架空の書である。蓬莱国、蓬莱山、蓬莱島、などの呼称が存在する。蓬莱山は、五仙山の一つ、あるいは、三神山の一つといわれる。蓬莱山は、中国大陸の東方百余里(現在の東シナ海)の海中に存在するとされる。こここそ“浦島伝説”、“竜宮伝説”にいわゆる、“常世国”(あるいはその入口)ではないかといわれている。徐福が不老不死の霊薬を求め、光武帝が珍しい貢ぎ物を求めたところである。蓬莱山とは、富士山のことである、とする説が存在する。

東方見聞録

2024-04-13 20:32:47 | 日本史
東方見聞録


ヴェネツィア商人であったマルコ=ポーロが著した東洋への冒険旅行記。日本、インド、中国などの記事からなる。日本のくだりでは、“黄金の国ジパング”という名称が用いられており、この中の記述によると、日本は、多くの金(きん)を産出することになっており、家屋などは、みな黄金でできているなどと書かれているが、原点は、中尊寺金色堂ではないかと言われている。この書がヨーロッパに紹介されたことによって、それまでヨーロッパに広く流布していたアジア観、東洋観であった、魑魍(怪物、多頭の種族、匪賊、野蛮人)の跳梁跋扈する世界という偏見は解消するのである。この書の登場によって、日本、インド、中国などの莫大な富の存在が、ヨーロッパ人に東洋への関心を惹起させることとなるのである。

徐福

2024-04-12 21:41:33 | 日本史
徐福


秦の時代の方士。徐福は、一般的に、秦の始皇帝の命令で、不老不死の霊薬を得るべく、蓬莱に遣わされたと考えられていると思うが、実際には、霊薬探しを申し出たのは、徐福の方である。男女の児童、方士、方医、呪医、道士、工人など、千人余りを引き連れて、海を渡った、とある。しかしながら、徐福には、数々の異なる形容が存在するのである。曰く、秦から多くの支度金と品物を受け取っておきながら、出立しなかった。曰く、蓬莱(倭国=日本)に到達はしたが、共に渡った、千名余りの手勢とともに、秦に帰国せず、そのまま日本の一つの地方の王として暮らした。曰く、蓬莱に辿り着いて、不老不死の仙薬も見つけたが、自分で用いてしまい、帰国せず、そのまま蓬莱の霊山(富士山?)に住居を構えて、仙人として暮らした、等の諸説が存在するのである。しかしながら、いずれにしても不老不死の霊薬が秦の始皇帝の手に入らなかったのは、たしかなようである。そのことは、始皇帝が不老不死の肉体を得ることなく、没したことから言って自明である。ところで、大陸から海を渡って蓬莱にやって来たという徐福の伝説は、日本の各地に見られる。日本の各地に、“徐福の墓”と伝えられる墓碑が存在するのである。


~海南にその人ありといわれた、秦の一士、徐福は、秦の始皇帝の命により、不老不死の霊薬を得るべく、秦の東方千里の海上に浮かぶ、伝説の国“蓬莱”を目指し、旅に出る。~