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歴史Blogを志向しています。このBlogのSite Masterの名前は、高木紀久です。

屈原

2022-08-03 02:26:39 | 歴史
屈原(BC340頃~BC278頃)。周末の楚の政治家。楚を辞すとは、どういうことか?彼(屈原)が、べきらの淵に身を投じる話が有名。それは、彼が彼の主君である楚王を諫めるためであった。山水画などで中国(古代中国)をテーマとしたものとしては、ほかに項羽などが有名だと思います。

呉起晩年

2016-09-06 20:50:36 | 歴史
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呉起晩年


悼王、没す。悼王が没した。悼王は、楚における呉子(呉起)の主君であり、彼(呉子=呉起)を重用した、第一人者であった。呉起が、楚においてその政治手腕を如何なく発揮できたのは、実にこの悼王の存在によるところが大きい。その悼王が亡くなったのである。そして、悼王という後ろ盾を失った、呉起の身辺に異変が生じないことはなかった。楚の一部の貴族たちが一斉に蜂起したのである。かつて、呉起の政治改革の断行によって、自身らの汚職や伝統的な贈答外交を行ったことを指摘され、官職を剥奪され、官籍を追われた者たちであった。こうした貴族らの放った私兵の一隊が、楚の政廟の中枢深くに押し入ってきた。呉起は、この日も丞相府に詰め、政務を見ていた。そこへ、敵襲の急告が飛び込んでくる。敵襲といっても身内のものの犯行である。この時すでに、貴族の私兵は、呉起の最近にまで迫っていた。兵の姿が呉起の視界にも入った。この時点で、すでにほとんど逃げ場を失った呉起。最後の手段として、楚の歴代の諸王の霊を祀った霊廟へ逃げ込む。しかし、ここにも貴族の手勢が乱入する。終局、呉起は、生前自分を庇護してくれた悼王の遺骸の上におおいかぶさったところを、射殺された。これが、魏と楚の両大国に渡って仕え、数々の功業を成した、呉起の最期である。(※ところでこの時、呉起を射た矢は、呉起もろとも悼王の遺骸をも射ていた。このため、呉起とともに悼王の遺骸を射た討っ手とその直接の主人である貴族の一人は、故王への不敬の罪により、斬罪に処されている。)

呉起戦記 -五-

2016-08-23 20:13:07 | 歴史

呉起戦記



戦(いくさ)は、魏の勝利に終わった。魏の文侯は、戦いに参加した将兵らの労をねぎらうと、呉子(呉起)を招いて、彼とその統帥をたたえた。
呉子曰く
「眼前に在る、敵勢一軍、即ち、騎(騎兵隊)、甲(甲士隊)、弩(弩隊)、徒(歩兵隊)、ことごとくこれを破し、寇軍を退せしむるとも、一金(いっきん)の戦利さえなくば、ことごとくそも無事(むじ)にも等しい...。」(正面にする敵の一大勢力、つまり、騎兵隊などの諸部隊を、全て撃破し、敵軍を退却させたとしても、一銭の戦利品も無いようでは、全ては最初から何事もなかったのと同じようなものである。)

呉起戦記 -四-

2016-08-13 20:13:28 | 歴史

呉起戦記



秦軍到来の報告を受けた文侯は、呉起に命じて事に当たらせた。呉起は、かねてより訓練していた兵らを率いて、秦軍を迎え撃った。結果は、魏の大捷であった。かつて、三品の礼をもって遇された将兵たちが、奮戦して、秦の大軍を惨々に撃ち破ったのである。今回の戦(いくさ)で戦功第一と賞されたのは、かつて文侯から三品の品格で饗応を受けた者たちであった。