私は、かつて
「知覚と思考(その1)」2006-12-08投稿
において
・・・
私の心はある概念(モデル)を使って、"因"を理解しようとしていました。しかし思考や概念は
物理世界に属しているので、厳密には"因"を把握できないのです。
・・・
と書きました。
つまり当時、私は「"因"(宇宙の意識)をどのように認識すべきなのか?」という、重要な問題
を抱えてしまいました。
長年、その答えを探していましたが、昨年、井筒俊彦氏の著作
「意識の形而上学 -『大乗起信論』の哲学-」(中央公論新社)
を読んで、この問題を解決するヒントを得ることができました。
本書は、
”東洋哲学全体を、その諸伝統にまつわる複雑な歴史的聯関から引き離して、
共時的思考の次元に移し、そこで新しく構造化しなおす”
という、筆者の狙いに従って書かれています。
まず本書を読んで私が理解した限りでは、『大乗起信論』で「真如」と呼ばれる存在が、
"因"(宇宙の意識)に対応すると思います。
以下に「意識の形而上学」から引用いたします。
p.15
『起信論』だけでなく大乗仏教全般を通じて枢要な位置を占めるキータームの一つ、
「真如」。・・・
「真如」は、第一義的には、無限宇宙に充溢する存在エネルギー、存在発現力、の
無分割・不可分の全一態であって、本源的には絶対の「無」であり、「空」(非顕現)
である。しかし、また逆に、「真如」以外には、世に一物も存在しない。「真如」は、
およそ存在する事々物々、一切の事物の本体であって、乱動し流動して瞬時も止まぬ
経験的存在者の全てがそのまま顕現する次元での「真如」でもあるのである。
上の文章のみを読むと難解な記述ですが、「意識の形而上学」ではこの「真如」に
ついて、異なる記述で繰り返し説明されています。
続いて、分節
p.27
・・・あるものに何々と名をつけることは、たんに何々という名をつけるだけの
ことではない。命名は意味分節行為である。あるものが何々と命名されたとたんに、
そのものは意味分節的に特殊化され特定化される。・・・
p.29
対象を分節する(=切り分け、切り取る)ことなしには、コトバは意味指示的に
働くことができない。絶対無文節的な「形而上学的なのもの」を、例えば「真如」
と名づけたとたんに、それは真如なるものとして切り分けられ、他の一切から
区別されて、本来の無差別性、無限定性、全一性を失ってしまう。
「意識の形而上学」をページの順に引用して、「真如」という言葉に関して、
「命名は意味分節行為である」とか「コトバは意味指示的に働く」といった
問題点が指摘されています。
が、私は、どのような問題なのか、なかなか判りませんでした。
今でも、十分に理解していると言う自信はありません。
それでも上の問題点について、私が理解した限りを説明してみたいと思います。
そして、「真実の知覚は外観を超えてその"因"にまで到達する」とはどのような
感覚なのか?ということをわずかでも理解したいと思います。
(この項続く)
「知覚と思考(その1)」2006-12-08投稿
において
・・・
私の心はある概念(モデル)を使って、"因"を理解しようとしていました。しかし思考や概念は
物理世界に属しているので、厳密には"因"を把握できないのです。
・・・
と書きました。
つまり当時、私は「"因"(宇宙の意識)をどのように認識すべきなのか?」という、重要な問題
を抱えてしまいました。
長年、その答えを探していましたが、昨年、井筒俊彦氏の著作
「意識の形而上学 -『大乗起信論』の哲学-」(中央公論新社)
を読んで、この問題を解決するヒントを得ることができました。
本書は、
”東洋哲学全体を、その諸伝統にまつわる複雑な歴史的聯関から引き離して、
共時的思考の次元に移し、そこで新しく構造化しなおす”
という、筆者の狙いに従って書かれています。
まず本書を読んで私が理解した限りでは、『大乗起信論』で「真如」と呼ばれる存在が、
"因"(宇宙の意識)に対応すると思います。
以下に「意識の形而上学」から引用いたします。
p.15
『起信論』だけでなく大乗仏教全般を通じて枢要な位置を占めるキータームの一つ、
「真如」。・・・
「真如」は、第一義的には、無限宇宙に充溢する存在エネルギー、存在発現力、の
無分割・不可分の全一態であって、本源的には絶対の「無」であり、「空」(非顕現)
である。しかし、また逆に、「真如」以外には、世に一物も存在しない。「真如」は、
およそ存在する事々物々、一切の事物の本体であって、乱動し流動して瞬時も止まぬ
経験的存在者の全てがそのまま顕現する次元での「真如」でもあるのである。
上の文章のみを読むと難解な記述ですが、「意識の形而上学」ではこの「真如」に
ついて、異なる記述で繰り返し説明されています。
続いて、分節
p.27
・・・あるものに何々と名をつけることは、たんに何々という名をつけるだけの
ことではない。命名は意味分節行為である。あるものが何々と命名されたとたんに、
そのものは意味分節的に特殊化され特定化される。・・・
p.29
対象を分節する(=切り分け、切り取る)ことなしには、コトバは意味指示的に
働くことができない。絶対無文節的な「形而上学的なのもの」を、例えば「真如」
と名づけたとたんに、それは真如なるものとして切り分けられ、他の一切から
区別されて、本来の無差別性、無限定性、全一性を失ってしまう。
「意識の形而上学」をページの順に引用して、「真如」という言葉に関して、
「命名は意味分節行為である」とか「コトバは意味指示的に働く」といった
問題点が指摘されています。
が、私は、どのような問題なのか、なかなか判りませんでした。
今でも、十分に理解していると言う自信はありません。
それでも上の問題点について、私が理解した限りを説明してみたいと思います。
そして、「真実の知覚は外観を超えてその"因"にまで到達する」とはどのような
感覚なのか?ということをわずかでも理解したいと思います。
(この項続く)
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