よくお茶関係の方が利用するお店にお相伴でまいりました。
隣席はどうやら茶の湯をやや知っている方とまったく知らない方のようでした。
デザートがわらび餅でした。
黒蜜と黄粉、それにあんがのっていてぜんざいの扱いのようで
黒文字に杉箸が添えられていました。
珍しかったらしくいろいろと店の方たずねていたので、
ついつい
そのわけを隣席からお声かけしてしまいました。
すると、やや白んだ雰囲気が……。
いけませんね。
慎むべし慎むべし。
よくお茶関係の方が利用するお店にお相伴でまいりました。
隣席はどうやら茶の湯をやや知っている方とまったく知らない方のようでした。
デザートがわらび餅でした。
黒蜜と黄粉、それにあんがのっていてぜんざいの扱いのようで
黒文字に杉箸が添えられていました。
珍しかったらしくいろいろと店の方たずねていたので、
ついつい
そのわけを隣席からお声かけしてしまいました。
すると、やや白んだ雰囲気が……。
いけませんね。
慎むべし慎むべし。
せ
先日、ある学校の呈茶席に案内されました。
建物もすばらしくてまるでホテルのようです。
その中にある和室に通されての呈茶でした。
お道具も御家元のものなどをそろえて、そこそこにしつらえていました。
ただし、いけなかったのは、お掃除です。
毛氈はぐたぐた、
前回の茶会のときにこぼしたお菓子のかけららしきものがへばりついていて、
あれならば、むしろ敷かない方が潔いかもしれません。
畳もふいてある気配がなくて、敷居のところはほこりがたまっていました。
『長闇堂記』に奈良の高畑の禰宜、宗次・掃部という2人の茶人がでてきます。
宗次は有力者で茶の湯のたしなみもふかく、とても清潔に暮らしていました。
掃部は佗茶人でしたが、宗次ほどは清潔に暮らしていなかったのに、
世間は「きれい禰宜」とよび誉めそやしました。
宗次はそのことをおもしろく思わず不満を言いますが、
形のみのきれい好きではならないと戒めれます。
心の底からのきれい好きとは、
別段、道具を並べなくても、学生は学生らしく、ひたすらに清潔にすることで、
もてなしの心を示すということです。
呈茶席を一刻もはやく出たかったのは久しぶりでした。
近々にご縁がありまして、某中高校のお茶の練習に立ちあっています。
校舎の改築にあたって、あれこれと口出しをしてしまったゆきかがり上、
なんとか生徒さんたちでお稽古が成り立つようにとご協力しています。
ほんの身近な時間なのですが、とても、のみこみが早くて驚かされています。
また、なにごとにも「知ろう」という姿勢にこちらが圧倒されてしまうほどです。
「後世畏るべし」とはまさにこのことでしょう。
ほとんど物を言わない生徒がいて、
先日、なにげなく「おもしろい?」と尋ねると、
「はい」と一言だけ答えました。
言葉は短かったのですが、そのときのまなざしには驚きました。
まっすぐでした。
万里一条鉄
あのビームにやられたら、こちらもしゃんとお手伝いしないとと思った次第です。
ち
茶の湯の稽古で濃茶点前の段階に進むと、
茶を練り上げて客に出し、次客が一口すすったところで、
正客が「お茶銘は?」と聞き、亭主が「○○でございます」
「お詰めは?」「△△(葉茶屋の名前)です」という問答がある。
最近は、各茶問屋で、各流派の宗匠好みの銘を付けていたり、
自社特有の銘を付けているのに、なぜそのような問答があるのでしょう。
それは、もともとは「初昔」(はつむかし)「後昔」(あとむかし)という
茶銘しかなかったからと考えられます。
つまりは、「あなたには最高級の『初昔』という茶を出したよ」
「それはどちらの最高級品ですか」ということになったわけでしょう。
現在では各社でそれぞれにわかるような名前を付けているのですから、
むしろ、客から「△△のお詰めですね」と答えた方が、
亭主には優しい客ぶりではないでしょうか。
以前に席をつとめたとき、予算の都合で中程度のお茶をお出ししたら、
「いつもお稽古でいただいてるのですが、こちらのはお味がよろしいですね」
と言われたことがありました。
さて、褒めたのやら皮肉られたのやら。
また、上林春松に「祖母昔」という茶銘の茶がありまして、
これは徳川家康から頂いたという由緒ある茶銘で他の茶師にはゆるされていな
いものです。
しかし、この茶銘を問答で言うと、きまってご婦人たちが笑います。
茶の湯の愛好者ならば、むしろ敬意を持って対応すべきでして、
なにか笑いどころが違うような気もいたします。
茶道で言うところの「きんとん」はこういうお菓子を指します。
単純な色の組み合わせで、さまざまな銘をつけてお出しします。
盛りつけはどうすれば良いかと尋ねられました。
① 左右を色分けに
② ピンクを上に
③ ピンクを下に
あなたならば、どう盛りつけますか。
盛りつけで銘が変わるとしたら……。
①ならば都の春(錦)
②ならば春の野
③ならば吉野山(山桜)
どうして、そうなるのでしょうか。
① 見渡せば柳桜をこきまぜてみやこぞ春の錦なりける
② ピンクが桜・緑が若草
③ 桜は山のどこから咲いてきますかね。
たかが盛りつけされど盛りつけ。
そんなことにも気づいて下さるお客がいてほしいものです。
茶事のメインはなんといっても濃茶です。
客を招く案内状に「粗茶(御茶)一服さしあげます」と書かれていたら、
濃茶をさすほどなのです。
ですから茶人としては
この一服を心のあった客と共にいただくことがなによりも大切です。
そのため濃茶の点前中は無言をならいとします。
心を込めて練り上げた一碗の茶を客に差し出すとき、
主客の間に清らかな時間がただようような茶事が理想的です。
そして、正客の一啜(いっとつ)が、静寂をやぶると一座がはじめて変化します。
正客はこの一啜の音に全神経をそそがなくてはならないのです。
ところが、楽茶碗以外ですと、ここに古帛紗という厄介者があらわれます。
「古帛紗拝借いたします」という余計なひと言を正客が言ってしまうと、
せっかくの清らかなひとときがだいなしです。
さて、どうするか、黙ってそのまま使うか、自分のを出すか、どちらがよいでしょうか。
自分のを出せば「どうぞお使い下さい」と亭主は言葉を発しなくてはなりません。
黙って使えば控えめさにかけます。
客も使い帛紗を懐中しています。
亭主の古帛紗にさりげなく重ねて使ってみてはいかがでしょうか。
また、「何名様で」のひと言も邪魔ですね。
その場合は寄り付きで中正客をあらかじめ伝えておくとよいのではないでしょうか。
たかが一啜、されど一啜。
それが茶の湯の醍醐味です。
男性の茶の湯をたしなむ方たちの着用する正装として十徳があります。
これは、家元から許しを得て着用するものです。
裏千家の場合は、茶名以上で許しを得ている方が着用しています。
僧侶の袈裟に準ずるので、絽の生地で袖も袂がなく作られています。
流派によっては家元から拝するところもあります。
いずれにしても勝手に着用がかなうものではありません。
宗匠格にならないと許しを得ていても着用しない流儀もあります。
他流派の方や宗家に伺う場合などは、控えて袴の着用をする方が慎みというものでしょう。
羽織ではないので、道中着にしてはなりません。
ご不浄に行くときも袈裟のように入り口に懸けておきます。
茶会でそうした十徳を見かけると、その会のほどがしられて好もしいものです。
利休頭巾も許しものですので、勝手に着用してはなりません。
http://tsubakiwabisuke.cocolog-nifty.com/rendezvous/2006/11/post_07be.html
杖も同じくです。
http://www.weblio.jp/content/%E9%B3%A9%E6%9D%96
口に出してもせんないこと、とよく言うが、
さりとて、せんないことを口にする人も存外に多い。
たとえば、混雑している列車に自分が乗り込んできて
「まあ、こんでるわねぇ」
あなたがいないともっとすくんですけどね。
満員と書いてあるのに
「どうして満員なのかしら」
あなたまできているからです。
お茶会でもしばしばそういう人がいます。
大寄せ茶会は「待たされ」「飲まされ」「追い出され」とは佐々木三味氏の名言です。
わかって茶券を買っているのですから、黙々と粛々と「待たされる」しかないのです。
それが嫌ならばいかないことです。
むかし、築地のお寿司屋さんで並ばされていて、
不満を言ってるお客さんに、年配のおかみさんか、
「並びたくなかったらまわるお寿司屋さんにいったらいいよ」と小気味よく言ってました。
待ってまで食べるほどのものでなかったら並ばないことが懸命でしょう。
お茶会も同じではないでしょうか。
ほんまに放置してまして失礼いたしました。
おかげさまで先日、某大きなイベントを終了してほっと一息です。
もちろんイベントはお茶がらみです。
2日間で500人ほどのお客様でした。
各々、履物を間違われないように、ビニール袋をわたして名前を書いていだき、
それに入れて持って歩いていただきました。
わたくしが最終の出口にいましたら、数名の方が、
「これ、どうするの」
とお問い合わせになります。
自分が履物を入れて持ち歩いた袋はご自身で始末するのが当たり前でしょう。
「お召し上がりになったらいかが」と皮肉ってやろうかとも思いました。
よく「なんのためにお茶を習うのですが」という質問がありますが、
こいうことを言わずもがなで始末していける人間になるためではないでしょうか。
わたしも関西の某女子大で教えている教育学者の教え子と、
茶道資料館を一緒に見学したあとでおなじ質問をされました。
とっさにスーツのポケットから呈茶席で出されてお菓子のかいしきを取り出して、
「自分が食べたあとに、こういうものを茶席においてこないためだよ」
と答えたら、彼はしてやられたという顔をしていました。
利休居士も七則でいわれていることは、当たり前が当たり前にできることです。
でも人はその当たり前をついつい忘れてしまうものでもあります。
お茶はそれを立ちどまらせて教えてくれる存在です。
茶事で客が最後に席を立つときにこう言い残します。
しかし、亭主は客の出た後
再びにじり口から客に送り礼をします。
客も露地に立ちしばし待って送り礼を受けることがならいです。
先日、松下幸之助氏の伝記を読んでいたら
松下さんは客をかならずエレベーターまで見送ると、
エレベーターが一階に着き点灯が消えるまでお辞儀していたそうです。
また工場の見学者には門の外に出るまでクルマを見届けたそうです。
相手に心を残して見送ることは、
茶の湯ならずとも大切なことなのですね。
今日、さる茶道界の大先輩に少しの時間お目にかかりました。
玄関まで送られたのでどうぞここまででと固持いたしましたら、
それではと玄関で立ち止まられました。
しかし、門の外に出ましてふたたび振り返りましたら、
案の定、まだ見送っていらっしゃいました。
茶の湯が身につくと言うことはまさにこういうことであり、
茶の湯を学ぶことの大切さはまさにここにあるのかもしれません。