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私とサッカーとVAMOS 高校時代 

2014-12-17 10:10:12 | 自分史
 ②
  私のサッカーのスタートでした、2年間の高校サッカー時代です 
 高校サッカー部に入ったものの、蹴り方も分からない、ボールがどこに行くか分からない、ボールを操ることができませんでした。
 仲間と一緒にボールを蹴る、ゲームをすることはできません。
 ずっとボール拾いに、雑用係ばっかりやっていました。
 それから、2年の夏過ぎてから、ゲームをするようになったのですが、周りの仲間は、中学からサッカーをやっていた仲間ばかりだったので、みんな上手かったです。
 運がいいことに、調度その時の学年に、良い仲間が集まったのでした。
 何とか、皆と一緒に練習したいゲームをしたいという気持ちから、家に部のボールを持ち帰り、ナイターのある学校に行ってボールを蹴ったり、土日も練習が終わると試験休みにも、県営グランド(今のメモリアル)に行っては、木の間をドリブルしたり、トラップしたりして自主練習していました。
 その時、私のポジションは、チームに迷惑かけないような、トップ下のインナーをやっていました。(今は、インナーという言い方のポジションはありません、FWのトップ下です)
 とにかく、仲間に早く追い付きたい、早く上手くなりたいという一心で、ただ無我夢中にボールを蹴っていました。
 仲間の選手を追い抜こうと一生懸命でした。
 そして、春・夏の岐阜県大会では、決勝まで進みました。優勝を目標にしていましたが、全国レベルの大垣工にいつも負けて2位の成績で終わりました。県から2チームが出場する、国体予選の東海大会に出場して、静岡に行けたことは良い思い出になりました。
 そんな私ですが、驚くことに、県の優秀選手に選ばれて、ベストイレブンになったのでした。
  
 我がサッカー部には、指導者がいなかったのですが、チームに興味を持って、いろんな方々が、熱心な指導をしに来てもらえました。
 私の大きな転機となったのは、その指導に来て頂いていた
中央大学OBの岐阜市在住の村瀬善紀さん(元東京オリンピック代表候補)、という方です。
 村瀬さんから、中央大学へ行かないかと勧められたのでした。
 当時の中央大学サッカー部というのは、日本代表や日本リーグに名前を連ねる有名な強豪大学チームです。

 つづく

私とサッカーとVAMOS 

2014-12-16 15:45:31 | 自分史

 1950年・昭和25年1月14日、岐阜市生まれ。
 その後、父親の仕事の関係で、生まれて記憶にない時から、小学1年まで、山口、別府、倉敷、岐阜の北方と転々としました。父親は、プロ野球の中日にスカウトされるぐらいだったそうですが、私は、ソフトボール・野球が大嫌いでした。
 私は、人見知りで、発言もできない気の小さい子でした。でも、学芸会や鼓笛隊に参加することもありました。足も速くなく、選手リレーに出ることもなかったし、運動能力がある方だと思わなかったのですが、少し長距離と高跳びが、人より良かったぐらいです。
 中学時代は、家に姉のラケットがあったので、テニスを3年間やって、キャプテンはしました。
 そして、高校受験に失敗して、私立高校に入ることになりました。目指している学校ではなかったので、部活は何をやるか、決めきれずに9か月も過ぎました。
 初めは、その学校の中では、成績がトップクラスだったので、勉強だけやって帰宅部でした。
 何か運動をしたいと強く思うようになり、1年の3学期から、やっとサッカーをやろうと決めたのでした。
 受験の失敗がサッカーをさせる切っ掛けになったかもしれません。

 つづく