②
私のサッカーのスタートでした、2年間の高校サッカー時代です
高校サッカー部に入ったものの、蹴り方も分からない、ボールがどこに行くか分からない、ボールを操ることができませんでした。
仲間と一緒にボールを蹴る、ゲームをすることはできません。
ずっとボール拾いに、雑用係ばっかりやっていました。
それから、2年の夏過ぎてから、ゲームをするようになったのですが、周りの仲間は、中学からサッカーをやっていた仲間ばかりだったので、みんな上手かったです。
運がいいことに、調度その時の学年に、良い仲間が集まったのでした。
何とか、皆と一緒に練習したいゲームをしたいという気持ちから、家に部のボールを持ち帰り、ナイターのある学校に行ってボールを蹴ったり、土日も練習が終わると試験休みにも、県営グランド(今のメモリアル)に行っては、木の間をドリブルしたり、トラップしたりして自主練習していました。
その時、私のポジションは、チームに迷惑かけないような、トップ下のインナーをやっていました。(今は、インナーという言い方のポジションはありません、FWのトップ下です)
とにかく、仲間に早く追い付きたい、早く上手くなりたいという一心で、ただ無我夢中にボールを蹴っていました。
仲間の選手を追い抜こうと一生懸命でした。
そして、春・夏の岐阜県大会では、決勝まで進みました。優勝を目標にしていましたが、全国レベルの大垣工にいつも負けて2位の成績で終わりました。県から2チームが出場する、国体予選の東海大会に出場して、静岡に行けたことは良い思い出になりました。
そんな私ですが、驚くことに、県の優秀選手に選ばれて、ベストイレブンになったのでした。
我がサッカー部には、指導者がいなかったのですが、チームに興味を持って、いろんな方々が、熱心な指導をしに来てもらえました。
私の大きな転機となったのは、その指導に来て頂いていた
中央大学OBの岐阜市在住の村瀬善紀さん(元東京オリンピック代表候補)、という方です。
村瀬さんから、中央大学へ行かないかと勧められたのでした。
当時の中央大学サッカー部というのは、日本代表や日本リーグに名前を連ねる有名な強豪大学チームです。
つづく
私のサッカーのスタートでした、2年間の高校サッカー時代です
高校サッカー部に入ったものの、蹴り方も分からない、ボールがどこに行くか分からない、ボールを操ることができませんでした。
仲間と一緒にボールを蹴る、ゲームをすることはできません。
ずっとボール拾いに、雑用係ばっかりやっていました。
それから、2年の夏過ぎてから、ゲームをするようになったのですが、周りの仲間は、中学からサッカーをやっていた仲間ばかりだったので、みんな上手かったです。
運がいいことに、調度その時の学年に、良い仲間が集まったのでした。
何とか、皆と一緒に練習したいゲームをしたいという気持ちから、家に部のボールを持ち帰り、ナイターのある学校に行ってボールを蹴ったり、土日も練習が終わると試験休みにも、県営グランド(今のメモリアル)に行っては、木の間をドリブルしたり、トラップしたりして自主練習していました。
その時、私のポジションは、チームに迷惑かけないような、トップ下のインナーをやっていました。(今は、インナーという言い方のポジションはありません、FWのトップ下です)
とにかく、仲間に早く追い付きたい、早く上手くなりたいという一心で、ただ無我夢中にボールを蹴っていました。
仲間の選手を追い抜こうと一生懸命でした。
そして、春・夏の岐阜県大会では、決勝まで進みました。優勝を目標にしていましたが、全国レベルの大垣工にいつも負けて2位の成績で終わりました。県から2チームが出場する、国体予選の東海大会に出場して、静岡に行けたことは良い思い出になりました。
そんな私ですが、驚くことに、県の優秀選手に選ばれて、ベストイレブンになったのでした。
我がサッカー部には、指導者がいなかったのですが、チームに興味を持って、いろんな方々が、熱心な指導をしに来てもらえました。
私の大きな転機となったのは、その指導に来て頂いていた
中央大学OBの岐阜市在住の村瀬善紀さん(元東京オリンピック代表候補)、という方です。
村瀬さんから、中央大学へ行かないかと勧められたのでした。
当時の中央大学サッカー部というのは、日本代表や日本リーグに名前を連ねる有名な強豪大学チームです。
つづく