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私とサッカーとVAMOS ブラジル人が来た

2014-12-25 11:49:37 | 自分史

永大産業サッカー部の日本リーグ1部での試合が始まる。
初戦の相手は、釜本のいる当時の日本代表選手ばかりのヤンマーディーゼルでした。
宿舎でのミーティングの時に、監督から、スタートメンバーを発表される。
釜本マーク井上と告げられたのです。
釜本は、メキシコオリンピックの得点王であり、日本代表のCFとして得点を量産しており、なかなか抑えられないゴールゲッターでした。
仲間からは、勇気づけられ、励ましてくれます。
試合中は、釜本のプレーが分かり、自分でも相性がいいかもと思いゲームが終わり、結果は、0-0の引き分けでした。その釜本を抑えたのでした。

話は戻るのですが、1部昇格が決まってから、実行力のある監督は、ブラジルへ行きました。そして、現地で1か月近くかけ、セレクションをして、ブラジルから3人の20・21才の若い白人2人と黒人1人の選手を連れて帰って来たのです。
「これからは、ブラジル人中心のブラジルサッカーをする」という監督からの訓示がありました。

ブラジル人は、開幕から5カ月間出場できなかったので、9月までは、日本人だけでの試合でしたが、それからは、今までのサッカーではなく、中盤の3人がブラジル人というシステムです。攻めは、個人技とパスワークに、守備は、ゾーンディフェンスでの守りに急変しました。
ブラジル人を含めた感覚の違いを感じながらの練習環境や合宿所での生活と大きく変わりました。
そして、ポジション争いにコンビネーションなど、わがままなブラジル人にかき回されました。
こんな経験もなかなかできません。

日本リーグ1部に昇格した1年目には、天皇杯で、どんどん強敵を倒して勝ち進み、とうとう国立競技場の1月1日の元旦にある決勝戦に進んだのでした。
また、常勝チームであるヤンマーとの決勝戦となったのでした。
最後に釜本に決められ1-2で負けました。
元日のNHK に流れたのでした。 

そして、その1年後に、ブラジルの日系人一号のプロサッカー選手として3年前から日本リーグ藤和不動産でプレーしていた、その話題のセルジオ越後が、日本リーグ1部に入って2年目の永大産業チームに、指導者としてチームに加わったのです。

つづく

私とサッカーとVAMOS 日本リーグ1部に昇格

2014-12-22 18:15:53 | 自分史

入社した1年目に日本リーグの2部で優勝しました。
さあ、1部リーグチームとの入替戦です。相手は、関西の田辺製薬でした。
スタッフはもちろん、会社、社員、町の人から、山口県からも期待の激励を掛けられます。
若いスタッフは、何が何でも1部昇格を描いています。
相当前から、相手チームの田辺製薬のことを意識させられました。
合宿所のあちこちの食堂、トイレ洗面所、廊下とあらゆるところに相手選手の顔写真と特徴の書いたビラが貼ってあって、いや応なしに意識させられました。
そんなことからか、初戦の相手ホームの神戸中央球技場での試合は、何せ体ががちがちで思うように動かなかったことを覚えています。
プレッシャーを掛けられすぎた結果だと思います。
試合は2点先取され、やっと1点返して、1対2の負けとなりました。1週間後のホームでの試合は、我々のいつも練習しているグランドです。
試合当日の会場には、ピッチから間近いスタンドには、会社の多くの応援団と、地元の方々の大歓声の中での凄いプレーシャーを感じながらも、勇気ももらっての決戦となった試合でした。
試合が始まり、前半2点先取したのです。
後半に入り、勝つ意識が強く、何が何でも勝ち抜く・守り抜く気持ちがあり過ぎて、プレーをしながら足が震えていました。
勝った時には、もう大騒ぎでしたが、あの時ほど、レフェリーのホイッスルが待ち遠しかったことはなかったことを思い出します。
来期は、日本リーグ1部でプレーすることができるのです。

私とサッカーとVAMOS 永大産業サッカー部に入る

2014-12-20 10:48:10 | 自分史
⑤ 社会人サッカーの始まり
永大産業は、本社は大阪にありますが、サッカー部は、山口県の工場がある熊毛郡平生町(広島県寄りの瀬戸内海側、山陽本線の柳井市が最寄駅から車で20分の所)を本拠地としています。
入社する1年前にチームを立ち上げ、将来日本リーグを目指すことを目的として、会社が全面的なバックアップをしています。
芝と土のグランドが2面あり、ちょっとしたプレハブのクラブハウスがある、更衣室にシャワールームと、トレーニングルームがある。
走って30分の瀬戸内海の道路沿いに、山をくりぬいたところに、料理人さんがいる合宿所があり、他チームが来ても合宿できる施設もある環境でした。
選手を集め、強化をしているセンセーショナルな新鋭チームです。当時の全国版の新聞にも大きく載ったぐらいでした。
それもまた、運良く入ることが決まってから、ただの中国地域の社会人チームだったのが、中国地域の代表で出場していた、その12月に全国社会人大会で優勝して、日本リーグ2部に昇格したのです。
 
永大産業サッカー部には、少しでも早く来いと言われ、大学卒業前の2月から合流して、本当に遠い山口へ行ったのでした。、それからは、毎日、瀬戸内海を目の前に見ながらの合宿所生活を4年過ごしました。そして、私が永大サッカー部にいる時に、新幹線の終点が、最初は神戸だったのが、岡山になり、広島までとどんどん伸びて行った時でした。
 
永大サッカー部の大久保監督は、30代前半と若く、監督も非常に野心家で情熱のある熱い人です。
選手も26才が最高齢ですが、ほとんどが22・23才が中心選手という若い意気盛んな若い活力のあるチームでした。
 そして、入った1年間で、2部リーグを優勝しました。そして、入替戦をやり、創立3年目にして日本リーグ1部入りを達成するという大偉業を成し遂げたチームだったのです。
その時はただ夢中でしたが、後から考えると、私がその渦中に自分が関われたことを嬉しく誇りに思います。

私とサッカーとVAMOS 大学時代Ⅱ

2014-12-19 17:18:22 | 自分史
④ 大学サッカー
 この時代の中央大学は、平日練習は、キャプテンの指揮で練習をしていました。監督・コーチは、仕事があって 土日に練習に来るようになっていました。
 1年生の夏頃だと思うのですが、当時のキャプテンだった秋田商出身の鈴木重喜さんから、部屋に行った時に「井上、DFがいいんじゃないか、やったらどうだ」とアドバイスを受け、即座にやりますと答えた。
 それから、DFをやるようになりました。
 いつも残り組で、線審ばっかりだった私でしたが、2か月後に3軍として、たまにしかない2軍対3軍の試合に出る ようになったのです。そんな時に私の将来性を買われたようでして、自分の中でも成長している実感がありました。
 2年の時には、2軍に入り、関東の新人大会に出場して優勝しました。
 そして、年1回の公式大会である教育大(筑波大)との定期戦を国立競技場で行うのですが、そこで初のベンチ入りをしたの です。そして、ラスト5分ですが出場したのです。5分間ですが、ボールを自分からもらいものすごく動いてプレー しました。スタッフ、OBの方にも評価されたのでした。
 その上り調子のその時に、練習中のゲーム中にトラップした時に倒れてポキという音がしたのでした。足首の  脱臼骨折でした。調子が良いこの時に、6か月間という長い期間を棒に振ったこともありました。
 それは、ものすごいショックでした。
 それでも、早い復帰を期待され、日本サッカー協会推薦のドクターに手術してもらったのでした。
 そんなことも経験しながら、レギュラーとしては、3年の時に、左DFとして、4年になって、センターDFとしてプ レーをしました。
 いろんなことが良い経験になったと思っています。
 中央大学時代には、大学のトップチームとして、関東大学リーグや大学選手権を経験することができました。日 本代表チーム。関東の日本リーグのチーム。そういえば、若きスマートなセルジオ越後の藤和不動産チームとも試 合しました。など、いろんなチームと試合できたことは、良い経験になりました。
 最後の年には、VAMOSのスタッフである武藤義彦と一緒の部屋に1年生として入ってきました。
 武藤は、それからの腐れ縁だと思っているでしょう。
 自分の時の成績は、関東大学リーグ2位、全国大学選手権2位、天皇杯出場という結果でした。
 4年のリーグ戦の時に、読売クラブ(現ヴェルディ―)と永大産業からの誘いを受けました。
 次の進む方向は、監督や同僚に相談して、企業サッカーの方が良いのではないかという結論を出しまして、永大 産業に決めたのでした。

私とサッカーとVAMOS 大学サッカーⅠ

2014-12-18 15:46:55 | 自分史
③大学サッカーに入って  
 まずは、私を、中央大学サッカー部へ、見出して勧めて頂いた、村瀬さんのお陰で、一流サッカーの
道に入ることができました。
 当時の中央大学サッカー部は、日本代表や日本リーグに選手を輩出している有数な、日本サッカーの中心に
あった、強豪大学チームでした。
 大学に入る時も、ちょっと苦労したのですが、中央大学サッカー部に入ることがでました。
 また、新しいサッカーの生活が始まります。
 初めの1年間は、通信教育課程ということでサッカー部に入ることができたのです。
 あいさつ、練習の声掛け、グランド準備、ボール拾い、掃除、先輩の洗濯、試合のユニホーム選択などなど、サッカー以外の仕事が満載でした。
 岐阜県からはたった1人の選手でした。自分は、有名な選手でもないし、上手くないし、練習内容でも、最初のグループ練習はやるものの、シュート練習は、やれなくてボール拾いだったし、ゲームになると線審ばっかりやりました。そんな中でしたが、いろんな仕事や厳しさにも苦しいとは思いませんでしたし、レギュラーを取るぞ!という気持ちを持ち続けていました。少しの時間でも、高校の時に覚えた、自主練習を欠かしませんでした。休みの時も1人で練習しました。恩師の大先輩の村瀬さんには、時あるごとに、経過報告の手紙を出していました。この事も私の活力になっていたと思います。
 1年後に受験し直して、経済学部産業経済学科に入学しました。
 それから4年間という、都合5年間を東京都練馬区の合宿所で、サッカー生活を送ることになりました。北海道から九州まで、全国から優秀な選手が集まる大学サッカー部です。
 軍隊のような集団生活の中での厳しさを知りながら、関東ローム層のグランドで真黒になり、サッカーに明け暮れました。こんな中でも、先輩から暖かい言葉をいただいたり、仲間同士の助け合いや、励まされたりと良い人生勉強をしました。部員が60人程の、全国から優秀な選手が集まる中で、ポジション争いをしながら、サッカーに燃えていた事を思い出します。

 つづく