心の音

日々感じたこと、思ったことなど、心の中で音を奏でたことや、心に残っている言葉等を書いてみたいと思います。

福岡ソフトバンクホークス川崎宗則物語2

2005-02-09 23:05:11 | Weblog
 西日本スポーツの連載記事(2月8日)を要約します。
1「病院通い」
 1988年3月、鹿児島県姶良町の池島保育園の卒園式の日、園長先生が「みんな将来なりたいものは何かな」と質問した。「ウルトラマン」「お花屋さん」などほほえましい答えが続く中、川崎は大声でこう言った。「ボクは大きくなったら、社長になりたいと思います」
 わずか6歳で、夢は社長? ほかの父母たちとともに後ろで聞いていた母・絹代も、まさかの答えに大慌てだ。それでも、当の本人は満足げにニコニコ。照れて赤くなりながらも、貫く思いは純粋でまっすぐに伸びていた。「今や本当に社長さんですからね。もう誰も笑う人はいないでしょう」プロ野球選手は個人事業種。園長先生も驚くシンの強さは、今も当時も変わらなかった。
 内に秘めた大きな可能性。対照的に体は小さく病気がちだった。ちょうど川崎家は自宅の電気工事を興したばかりで、毎日、目が回るような忙しさだった。そうした中、親をヒヤヒヤさせたのが小児ぜんそく。「当時は月に2,3回は病院に連れて行きました。体は小さいし、食べたものもよく戻していました」父正継とともに現場に出かけていた絹代は、朝から晩まで仕事に追われながら、どうにかしてこの子の体を強くしたいと考えていた。結果、近所にある空手道場の門をたたいた。
2「大きな声」
 初めてそでを通した真っ白な胴着。決して強そうに見えなかった男の子は間もなく道場の評判となった。川崎の指導者は「来た当初から、感性があり、スピードがずばぬけていた」と抜群のセンスに目を疑った。教えたことをあっという間に吸収し、実力をグングン伸ばしていった。
 元気の良さも天下一品だった。誰に言われるわけでもなく、人一倍大きな声であいさつするようになった。「家の前でも、通る人通る人に、こんにちはと言い、このあたりではおなじみの光景でした」
 3歳からの道場通い。冬は裸で海岸を走り、寒さに涙しながらも歯を食いしばって耐えることも学んだ。やはり3歳のころ、たまたま手にした初めてのボール。野球というスポーツの存在を知り、父・正継とキャッチボールをした。初めて捕れたうれしさが忘れられず、ますます野球を知りたいと思うようになった。
 空手、野球と出会い、ぜんそくの癒えた男の子は、いよいよ元気の良さが目立つようになった。ある日、池島保育園での出来事だ。外出先から戻った園長先生は、園児達が「人間やぐら」を組んで、屋根にひっかかった靴を取ろうとしていたことに気づき、すべてが終わった後で、園児達に教育の意味を込めてカミナリを落とした。
3「自ら申告」
 ところが次の日、川崎は「先生、ボクは怒られなくていいですか?」とやってきた。前日もう家に帰っていた川崎は、園長先生に友達が怒られたことを聞き、実はやぐらの「陣頭指揮」をとっていたのは自分だったので、「ボクだけ怒られなかったら、みんなに悪いんだもん」と言った。「そんな子でした。正義感が強いところがあって、自然とみんなも集まってきましたから」
 初めて保育園に行った日のことを、小学4年時の作文で「みんながボクをじろっと見た時、思わず大声で泣いた。優しい人もいたけど、こわい人もいて、ぼくはいつもたたかれて泣いていた」と書いている。泣き虫だった少年は、空手、野球と出会い、耐えること、怒られることも覚え、確かな成長を遂げた。(山元泰明氏の記事より)