心の音

日々感じたこと、思ったことなど、心の中で音を奏でたことや、心に残っている言葉等を書いてみたいと思います。

津軽紀行 その1 斜陽館を訪れて

2005-07-31 14:49:27 | Weblog
 7月27日から30日まで、仕事で青森に行きました。津軽弁に癒され、岩木山の美しさに酔いしれ、とても心に残る旅になりました。
 青森空港に着いたときの気温は21度。鹿児島は連日30度を超える暑さですから、とても涼しく感じました。青森空港からバスで約1時間で弘前に着き、ホテルニューキャッスルというところに泊まりました。半袖しか持っていかなかったため、エアコンを切っても、腕のところが何となくスースーしてあまりよく眠れませんでした。
 翌日の午後、バスに乗って津軽半島を北上、太宰治の生家「斜陽館」を目指しました。途中、車窓から岩木山が見えました。うわさには聞いていましたが、さすがに地元の人が「津軽富士」と呼ぶくらい美しい姿の山だと思いました。
 次に印象に残ったのは何といってもリンゴ畑。途中通った藤崎町は、東に八甲田山連峰、西に岩木山を望む津軽平野のほぼ中央に位置し、日本のりんごの半分以上の生産高を占めている品種「ふじ」の発祥の地です。この名前は、育成地である藤崎町の藤、富士山の富士ともう一つ、当時すばらしい日本美人と言われた山本富士子の名前が由来だと言われているそうです。
 さてりんご畑を見ながら約1時間で、金木町に到着です。太宰の生まれた町ですが、2005年3月に、市町村合併で五所川原市と合併したということでした。
 最初に芦野公園に行きました。ここは太宰が幼い頃によく遊んだ場所だそうです。公園内の桜松橋のそばには太宰治文学碑が建てられており、生前の太宰が最も好んで口にしたというフランスの詩人ポール・ヴェルレーヌの作品の一節「撰ばれてあることの 恍惚と不安と 二つわれにあり」という言葉が刻まれていました。碑の最上部には、黒い炎の中を飛ぶ金色の不死鳥の姿が浮き彫りにされています。この不死鳥は火の中に飛び込み古い身を焼き、500年に1度、新しく生まれ変わるというギリシャ神話から引用して太宰の生まれ変わりを意味するそうです。また中央部には「人間の道には狭いけれど、けわしい一つ一つの門がある」ということを意味して鉄格子がはめ込まれているというとてもユニークなものでした。旧金木町では毎年6月19日に太宰の命日として「桜桃忌」を開催してきましたが同日は太宰の誕生日でもあり、平成11年からは「生誕祭」が行われ、全国から太宰ファンが集まるのだそうです。
 さていよいよ「斜陽館」です。太宰が生まれてから青森中学校に進学する少年期まで過ごした家として有名です。まずは、赤れんがの塀に囲まれた外観から驚きです。敷地面積は約680坪もあるそうです。明治の大地主・津島源右衛門(太宰の父)が明治40年に建築した入母屋造りの建物で、当時県内長者番付第4位の大地主だった津島家にふさわしい大邸宅でした。中身も驚きの連続です。米蔵にいたるまで日本三大美林のヒバを使い、1階は11室で約278坪もあるそうで、和室でした。2階は1階の純和風な雰囲気に対して、中世のフランス、ロココ調を模していて、家具もすべて西洋風に整えられています。8室で約116坪もありました。どの部屋の調度品も、一目で高級品だと分かるものばかりで、当時この家がいかに裕福であったかを物語っていました。太宰は自分の家が搾取階級であることに負い目を感じて自殺のきっかけになったというようなことを以前聞いたことがありますが、それを実感させられるような和洋折衷の豪華な家でした。ここで議員の父、病弱な母、年齢の大きく離れた兄や姉らの中、叔母さんや、作品「津軽」でも有名な「たけ」に育てられたことなどに思いをはせながら見学することでした。
 最後に五所川原市の立佞武多の館に寄って帰りました。五所川原の短く暑い夏を象徴する立佞武多もまた、太宰が愛した夏の風物詩だということです。全長22メートルもの立佞武多は、その頭部だけで1メートル以上もあります。中国や日本の神話、伝説を模した造形は神々しく、どこか萎縮してしまいそうです。「立佞武多」は、五所川原独特のもので、青森の「ねぶた」とはまた違う流れを汲んでいます。一時は時代の変化とともに廃れてしまったものの、1996年に復元。それ以来、毎年8月1日から7日まで運行されているそうです。灯籠流しが変化したものと言われており、独特のお囃子に合わせて「ハネト」たちが祭りを盛り上げるそうです。ここの立佞武多の大きさと美しさには本当に圧倒されてしまいました。これを引いての祭りをぜひ見てみたいと強く思いました。