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古田史学に学ぶ

古田武彦氏が提唱する九州王朝説を支持しています。このブログでは、古代史に関係するニュースや私見を提供する予定です。

現在の大和王朝は、ほんとうは「後期九州王朝」ではないか?

2013年06月02日 | 日本古代史
まず、わが国の皇室は、“大和王朝”と評することができるでしょう。あまりこのような表現がされない理由は、皇室が“神武天皇”から連綿と続く“唯一の王朝”だと考えておられる方が多いからだと思います。

しかし、すでに古田武彦氏は、一連の著作から大和王朝に先在する“九州王朝”が存在し、その存在根拠については、ほぼ間違いないという状況まで立証されています。そして、その立証の程度を例えて言うならば、刑事訴訟における「合理的な疑いを容れない程度の立証」と言えるでしょう。つまり、裁判官が、刑事被告人を有罪にすることができるというものです。

さらに、追手門大学教授であった故中小路駿逸氏は、同大学文学部紀要(1988年12月)に「『日本書紀』の書名の「書」の字について」を寄稿されています。この論考において、『日本書紀』自体が「書」の字と「大和王朝は、九州王朝の一分派として成立したことを記載している」ことから、九州王朝の先在を“立証”されました。

中小路氏の論考で、九州王朝の先在がなんぴとにも理解できることになった考えますが、すでに24年が経過しています。しかし、日本の古代史研究界や新聞等のマスコミの論調はどのようになっているでしょうか? 未だに、近畿天皇(大和王朝)一元史観の域を出ていないのではないでしょうか。

そして、中小路氏の論考に接して、古田氏がよく言われている「九州王朝を隠蔽した」との見解に疑問を持ちました。

さて、ようやく本題に入りますが、古田氏は、桓武天皇の弟である早良親王に、九州王朝の天皇である「崇道天皇」を追号していると指摘されています。このことから、桓武天皇の父である光仁天皇は、ほんとうに天智天皇の孫なのかと疑問を持ちました。

また、日本書紀の編纂と同時に系図が作成されているにも関わらず、それは現存していません。

さらに、紀貫之は勅撰集であり『古今和歌集』の序文に柿本人麻呂を“正三位”と記述しています。これは、一般には誤りだとされていますが、古田氏は九州王朝時での官位ではないかと言われています。もしそうであるならば、なぜ紀貫之は九州王朝時の官位を記述したのでしょうか? 時の天皇の許容の範囲内だったのではないでしょうか? このことから、紀貫之自身が九州王朝の皇族の末裔ではなかったかとも、疑っています。

以上から、 「現在の大和王朝は、ほんとうは“後期九州王朝”ではないか?」という疑問が生じました。

このような私の立場からすると、日本書紀の「書」の字が、当初からあったのか、それとも、後に加えられたものかについて、大きな関心があります。しかし、その探求はほぼ不可能だとは思いますが。

私の「現在の大和王朝は、ほんとうは“後期九州王朝”ではないか?」という疑問について、どなたかが立証していただければよいのですが、現在のところは、古田氏に期待するしかないようです。

以上です。


29 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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興味深い指摘ですね。 (一読者)
2013-06-03 11:55:18
・確かに、後期九州王朝と言えなくもないような気がします。

・現在の天皇家(※大和日本国)は、直接的には幕末の光格天皇に始まります。そして、その先は697年8月1日、祖母の持統より禅位され即位した軽皇子(文武天皇)につながります。

大和日本国は、“白村江戦”で弱体化した九州倭国に代わり、中国は唐の後ろ盾を得て、
以後さまざまな制度他を整え、701年の正月元旦、内外の百官を招いて藤原宮の大極殿で朝賀の儀を行い、正式に発足しました。
『続日本紀』には「文物の儀、ここに備われり」とあります。位を嗣いだものの、正式に内外に御披露目するには、しばしの時間が必要だったということです。

・697年8月1日の文武天皇の即位という事件は、日本列島の大義名分が変更されたということですから、“王朝交代”にあたります。

こういった一連の事実経過を、きちんと把握していたのは、中小路駿逸氏だったようです。

氏の論考の数々は非常に示唆に富み、あなた様の疑問にも答えてくださるのではないでしょうか。
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コメントをありがとうございます (北東 聡)
2013-06-03 12:19:07
コメントをしていただいて、ありがとうございます

ところで、先日、私のブログ「日本文明を考える」にコメントをしていただいた方でしょうか?

ブログ「日本文明を考える」
http://blog.goo.ne.jp/civilization_jp
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そうです。 (一読者)
2013-06-03 12:35:19
・失礼しました。
あなた様が、もう一つこのブログを書いていらっしゃるのを知らなくて、偶然見付けたものですから、
思い付くままに書かせていただきました。

私などは、自分が関心のある所だけを興味本位に考えているものですから、
あなた様の古代史に対する着眼点に、驚いています。

こういったブログを通して、日々至福の時を過ごさせていただき、感謝申し上げます。
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ありがとうございます (北東 聡)
2013-06-03 13:54:14
それでは、今後はこちらのブログでよろしくお願いします。

>あなた様の古代史に対する着眼点に、驚いています。

重ねてお礼を申し上げます。

また、中小路氏の「書」の論考に接して、『日本文学の構図  ー  和歌と海と宮殿と  -  』(桜風社、昭和58年6月10日発行)を購入しました。まだ、積読の状態ですが、興味深い指摘が多〃ありそうです。
返信する
あらためて、よろしくお願い申し上げます。 (一読者)
2013-06-03 16:48:07
・中小路氏の『日本文学の構図』は、当初何を言っているのか、ピンときませんでした。しかしながら、少しずつ氏の主張が見えてきたのです。

余人の思い付かない、大変壮大なスケールでの≪日本文明論≫が語られているような気がしたした。

以来、可能な限り氏がお書きになったものを集め、さらには必要とあらば、“注”に引用されたものについても、大学図書館に通い集めました。

・今のようにインターネットが発達していたなら、理解はもっと容易であったかもしれません。

しかし、携帯電話にインターネット機能が搭載されたお陰で、どこにいても情報検索が可能になりました。このことは、本当に思ってもみないことでした。

ドラえもんの“どこでもドア”が出現したのです。こうして、私のような年寄りにも機械文明の恩恵が受けられるようになり、IT革命の恩沢を享受しているのです。
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中小路氏は、他の学者とは視点が異なる (北東 聡)
2013-06-03 17:05:53
中小路氏は、他の学者とは視点が異なりますね。
やはり、御自身が述べられているように「あるものはある。ないものない、と考える」が原点だと思います。

私は、文明論、特に日本文明論に興味がありますので、その中での日本古代史について知りたいと考えています。

また、これも積読ですが、あなた様がすでに指定された古田史学の会編『「九州年号」の研究の研究』も手元にあります。

ここで、古田氏は、「皇極、斉明天皇の非同一人」(17頁)、「斉明の『場所』は、九州である」(19頁)を序文に書かれています。

私は、何でも九州に当てはめればよい、とは思いません。
どこか、別の方向に行かれるような気がします。
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失礼しました。 (一読者)
2013-06-03 19:37:35
・先にお送りしましたコメントの二段目の文章の末尾に間違いがありましたので、訂正させていただきます。[★気がしたした。→気がしました]

・たしかにそうですね。“あるものをあると言い、ないものをないと言う”ことは、非常に大事ですね。

氏の論文は、いずれも有機的に絡まっていますが、中でも中核を成すものは『日本書紀』の書名に関するものと“佛法伝来”に関するものだと思われます。これらは圧巻です。

さらに、愛媛大学時代に書かれた「日本文学史の構図へのアプローチ、一~消えた海」には、旧約聖書に対する理解についても触れられており、これまで世界的に間違っていたということを正したものとして、“佛法伝来”問題同様波及する範囲が甚大で、非常に注目されます。

これらを読んだ方は、同僚を含め沢山いたことと思われます。しかしながら、いずれもその言説の意味する所が理解出来なかったようです。

そういった状況を指して、「読むという行為と解るという行為はまったく別物だ」ということを、失礼ながら申し上げたのです。
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通念について (北東 聡)
2013-06-03 21:52:19
私は、“佛法伝来”については、すんなりと受け入れられたました。(その理由は、後述)。

しかし、「神武天皇から一貫sぎて統治されている」という通念を持たれている方には、受け入れることができないでしょうね。

私は、継体以後の古代史を次のとおり推測しています。
箇条書きにします。

継体が、大和地域の一定程度を支配する。
九州王朝が継体を承認する。
継体は、嫡男である安閑を九州王朝に送り出す。
安閑には、“勾大兄(まがりのおおえ)”の称号が授与される。
継体は、後継者を欽明に変更する。
欽明を九州に送り出し、逆に、安閑を大和に戻す。
安閑とその弟・宣化は、継体に対するクーデターを行う。
継体は、その時の傷で死亡する。
安閑が、王権を手中にする。
欽明は、九州王朝の天子に謁見する以前であったため、大兄の称号を授与されなかった。
九州王朝の天子は、欽明を憐れみ、糟屋の屯倉を与える。
「磐井の乱」は、近畿王権内部の不祥事を隠すために記載された。
しかし、「日本の天皇及び皇太子・皇子皆死んだ」との記述は、時期は不明だが、九州王朝内部で起こったことである。
安閑の死亡後、宣化が後継者となる。
宣化が、自分の娘二人を欽明の妻であり、かつ、人質として送る。この人質は、九州王朝に対する人質でもある。
欽明の子である、敏達、用明、崇峻、推古が九州で生まれる。
敏達、用明、崇峻、推古は、蘇我氏とともに近畿に進軍した。
敏達が王権を継承する。
例の廃仏論争は、九州王朝に服従するか否の問題である。
仏の顔は、九州王朝の天子の顔を似せて作られた。
蘇我氏は、九州王朝内部では天皇家よりも地位が高かった。
天皇記・国記を蘇我氏が持っていたのは、その理由による。

以上のように推測しています。
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ううーん、難しい問題〓 (愛読者)
2013-06-03 22:51:03
・私としては、さまざまな方が提示される問題が、例え興味深いものであれ、
「あるものをあると言い、ないものをないと言う」
立場から言えば、何とも言えないのです。

しかし、非情に興味深いものではあります。
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仮説の設定 (北東 聡)
2013-06-03 23:50:36
多くの虚偽がある「古事記」、「日本書紀」という書物から考えて、一定の仮説を設定せざるを得ないと考えます。

研究の進展により、その仮説は変更する場合もあるでしょう。
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