古事記は、710年に「成立の経緯を記している序によれば、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したもの。」されたといわれています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98
しかし、古田史学の会の西村秀己氏は、「削偽定実の真相 ー古事記序文の史料批判ー」で、九州王朝の天子が藤原京にいたことを主張されています。九州王朝から大和王朝への変遷を考える上で、極めて画期的な見解だと考えます。
そして、同じく古田史学の会の古賀達也氏は、九州王朝の天子は藤原京から追放され、九州の太宰府に追放されたとし、さらに、同会の正木裕氏の「『続日本紀』「始めて藤原宮の地を定む。」の意味」で、西村秀己氏の「九州王朝の天子が藤原京にいた」を補強されています。
以上から、古田史学の会の論者は、古事記編纂を命じたのは、「天武」ではなく文武天皇であると主張されています。
しかし、私は、編纂を命じたのが「天武」ではないが、「天武」の意思・・・九州王朝の再興」・・・を踏みにじる文部天皇の行動に動揺する大和王朝内を鎮めるために、わざと「天武」の意向だと改竄して、古事記を編纂したのではないかと考えます。
また、古事記が推古までしか記述されていない理由は、推古と次の舒明との間に大きな相違があったためだと、すでに投稿しています。今回、その理由に加えて、舒明を記述すると、「天智」と「天武」の関係を「天武」が兄で、「天智」が弟であることを記述せざるを得ないため、あえて推古で記述を終えたと考えるようになりました。
日本書紀については、すでに投稿しているように、中国・唐王朝における内紛が原因である、と考えを変更していません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98
しかし、古田史学の会の西村秀己氏は、「削偽定実の真相 ー古事記序文の史料批判ー」で、九州王朝の天子が藤原京にいたことを主張されています。九州王朝から大和王朝への変遷を考える上で、極めて画期的な見解だと考えます。
そして、同じく古田史学の会の古賀達也氏は、九州王朝の天子は藤原京から追放され、九州の太宰府に追放されたとし、さらに、同会の正木裕氏の「『続日本紀』「始めて藤原宮の地を定む。」の意味」で、西村秀己氏の「九州王朝の天子が藤原京にいた」を補強されています。
以上から、古田史学の会の論者は、古事記編纂を命じたのは、「天武」ではなく文武天皇であると主張されています。
しかし、私は、編纂を命じたのが「天武」ではないが、「天武」の意思・・・九州王朝の再興」・・・を踏みにじる文部天皇の行動に動揺する大和王朝内を鎮めるために、わざと「天武」の意向だと改竄して、古事記を編纂したのではないかと考えます。
また、古事記が推古までしか記述されていない理由は、推古と次の舒明との間に大きな相違があったためだと、すでに投稿しています。今回、その理由に加えて、舒明を記述すると、「天智」と「天武」の関係を「天武」が兄で、「天智」が弟であることを記述せざるを得ないため、あえて推古で記述を終えたと考えるようになりました。
日本書紀については、すでに投稿しているように、中国・唐王朝における内紛が原因である、と考えを変更していません。
先ほど、【合本】 市民の古代 古田武彦とともに (市民の古代研究会編)を購入した。1988年1月15日に発行された中古本である。発行された当時、私は書店で手に取ったことを記憶しています。しかし、当時は古田武彦氏の著作を読むにに精一杯だったので購入には至らなかったです。
http://www.amazon.co.jp/%E5%90%88%E6%9C%AC%E5%B8%82%E6%B0%91%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3-%E7%AC%AC1%E5%B7%BB%E2%80%95%E5%8F%A4%E7%94%B0%E6%AD%A6%E5%BD%A6%E3%81%A8%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%AB-%E7%AC%AC1%E9%9B%86~%E7%AC%AC4%E9%9B%86-%E5%B8%82%E6%B0%91%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A/dp/4787788191/ref=sr_1_4?ie=UTF8&qid=1391229418&sr=8-4&keywords=%E5%B8%82%E6%B0%91%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3
今回、中古品を購入したのは、古田史学研究会の古賀達也事務局長の「「市民の古代研究会」の拡大路線」を読み、市民の古代研究会における紛争から古田史学研究会の設立について興味を持ったためです。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta.html#wa648
市民の古代研究会に参加していた人たちで、現在、古田氏を批判する人々は、過去にどのような発言をしていたのかを私自身も保存しておこうと考えたためです。
人はどのようにして変質するのか、そのことを考えるには良い材料ではないでしょうか?
http://www.amazon.co.jp/%E5%90%88%E6%9C%AC%E5%B8%82%E6%B0%91%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3-%E7%AC%AC1%E5%B7%BB%E2%80%95%E5%8F%A4%E7%94%B0%E6%AD%A6%E5%BD%A6%E3%81%A8%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%AB-%E7%AC%AC1%E9%9B%86~%E7%AC%AC4%E9%9B%86-%E5%B8%82%E6%B0%91%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A/dp/4787788191/ref=sr_1_4?ie=UTF8&qid=1391229418&sr=8-4&keywords=%E5%B8%82%E6%B0%91%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3
今回、中古品を購入したのは、古田史学研究会の古賀達也事務局長の「「市民の古代研究会」の拡大路線」を読み、市民の古代研究会における紛争から古田史学研究会の設立について興味を持ったためです。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta.html#wa648
市民の古代研究会に参加していた人たちで、現在、古田氏を批判する人々は、過去にどのような発言をしていたのかを私自身も保存しておこうと考えたためです。
人はどのようにして変質するのか、そのことを考えるには良い材料ではないでしょうか?
古田史学の会編『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年1月10日発行)を読みました。
http://www.minervashobo.co.jp/book/b94035.html
この中で、興味を引いた内容を次に御紹介します。
1 安田報告の衝撃
古賀達也氏が寄稿した「金石文・木簡に残る九州年号」の中で、安田陽介氏の「九州年号の原型について」を紹介されています。それは、「九州年号原型の復元にあたっては、丸山モデルや『二中歴』などの後代史料ではなく、まず同時代金石文あるいはよりより信憑性が高い古代資料に基づくべきであるという「方法論」」を提示されたものです。当然と言えば当然ですが、その方法論は正しいものだと思います。
2 正木裕氏執筆「隠された改元 ー 九州年号の改元から探る九州王朝の歴史」
九州年号と日本書紀等の分析から様々な九州王朝における歴史事実を推測された貴重な論考ですが、私にとっては、次の内容に共感を覚えました。
「そう解釈すれば仏教受容をめぐる蘇我物部戦争も、実質は九州王朝の統治を可とするか否かをかけての、一大騒乱として位置づけられよう。」です。
私は、古田氏が述べられた「法隆寺の釈迦三尊像は九州王朝において製作されたもの」から、釈迦の顔は誰に似せたものかと疑問に思いました。それは、その顔は、九州王朝の天子である「タリシホコ」を似せたのではないかとの疑問です。
そのことから、「仏教受容をめぐる蘇我物部戦争」は、表面的には仏教受容をめぐる争いですが、本質的には、九州王朝の支配を容認するか否かの争いではなかったかと推測したのです。
同じ疑問を持たれた方がおられることを知って、嬉しく思ったしだいです。
http://www.minervashobo.co.jp/book/b94035.html
この中で、興味を引いた内容を次に御紹介します。
1 安田報告の衝撃
古賀達也氏が寄稿した「金石文・木簡に残る九州年号」の中で、安田陽介氏の「九州年号の原型について」を紹介されています。それは、「九州年号原型の復元にあたっては、丸山モデルや『二中歴』などの後代史料ではなく、まず同時代金石文あるいはよりより信憑性が高い古代資料に基づくべきであるという「方法論」」を提示されたものです。当然と言えば当然ですが、その方法論は正しいものだと思います。
2 正木裕氏執筆「隠された改元 ー 九州年号の改元から探る九州王朝の歴史」
九州年号と日本書紀等の分析から様々な九州王朝における歴史事実を推測された貴重な論考ですが、私にとっては、次の内容に共感を覚えました。
「そう解釈すれば仏教受容をめぐる蘇我物部戦争も、実質は九州王朝の統治を可とするか否かをかけての、一大騒乱として位置づけられよう。」です。
私は、古田氏が述べられた「法隆寺の釈迦三尊像は九州王朝において製作されたもの」から、釈迦の顔は誰に似せたものかと疑問に思いました。それは、その顔は、九州王朝の天子である「タリシホコ」を似せたのではないかとの疑問です。
そのことから、「仏教受容をめぐる蘇我物部戦争」は、表面的には仏教受容をめぐる争いですが、本質的には、九州王朝の支配を容認するか否かの争いではなかったかと推測したのです。
同じ疑問を持たれた方がおられることを知って、嬉しく思ったしだいです。
私は、和田高明氏が、古田史学の会編『古代に真実を求めて 第四集』(明石書店、2001年10月1日発行)に寄稿された「大和朝廷の成立(1) ― その驚くべき真相」に大いに刺激を受けました。残念ながら、その続編である(2)は公表されていません。
http://www.akashi.co.jp/book/b64467.html
次は、その論考を説明したものではありませんが、私は継体以後の古代史を次のとおり推測しています。あくまでも推測です。根拠は乏しいです。
以下、箇条書きにします。
(参考) 皇室の系図一覧
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%AE%A4%E3%81%AE%E7%B3%BB%E5%9B%B3%E4%B8%80%E8%A6%A7
☆継体が、大和地域の一定程度を支配する。
☆九州王朝が、継体の大和における支配権を承認する。
☆継体は、嫡男である安閑を九州王朝に人質として送り出す。
☆安閑は、九州王朝の天子から“勾大兄(まがりのおおえ)”の称号を授与される。
“大兄(おおえ)”という称号は、過去に仲哀時に、「彦人大兄(ひこひとのおおえ)」以来、勾大兄が2番目に登場した。
☆継体は、後継者を欽明に変更する。
継体は、前々の支配者であった仁賢の娘・手白香皇女(たしらかわのひめみこ)を正妻とし、その二人の間に欽明が生まれていた。
☆欽明を九州に送り出し、逆に、安閑を大和に戻す。
安閑は、父・継体と同じく、仁賢の娘・春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)を正妻としていた。
☆安閑とその弟・宣化は、継体に対するクーデターを行う。
☆継体は、その時の傷で死亡する。
☆安閑が、大和王権を掌握する。
☆欽明は、九州王朝の天子に謁見する以前であったため、大兄の称号を授与されなかった。
☆九州王朝の天子は、欽明を憐れみ、また、今後の大和対策の“駒”として、「糟屋の屯倉」を与える。
「磐井の乱」は、近畿王権内部の不祥事を隠すために記載された。しかし、「日本の天皇及び皇太子・皇子皆死んだ」との記述は、時期は不明だが、九州王朝内部で起こったことである。
☆安閑の死亡後、宣化が後継者となる。
『古事記』では、継体記に「この中に、天國押波流岐廣庭命(欽明)は、天の下治らしめしき。次に廣國押建金日命(安閑)、天の下治らしめしき。次に建小廣國押楯命(宣化)、天の下治らしめしき。」と記述されている。しかし、順序が異なる。これは、『古事記』編者は、当初、安閑と宣化の支配権を認めていなかったが、敏達の母で宣化の娘である石比賣(いしひめ)を権威付けるために、挿入したものと思われる。
☆宣化が、自分の娘二人を欽明の妻であり、かつ、人質として送る。この人質は、九州王朝に対する人質でもある。
石比賣(いしひめ)と小石比賣である。後世で、天武が天智の4人娘を妻とした先駆けである。
☆欽明の子である、敏達、用明、崇峻、推古、聖徳太子が九州で生まれる。
☆敏達、用明、崇峻、推古、聖徳太子は、蘇我氏とともに近畿に進軍した。
☆敏達が、大和の王権を継承する。
☆例の廃仏論争の本質は、九州王朝に服従するか否の問題である。
☆仏の顔は、九州王朝の天子の顔を似せて作られた。
☆蘇我氏は、九州王朝内部では天皇家よりも地位が高かった。
☆天皇記・国記を蘇我氏が持っていたのは、その理由による。
以上のように推測しています。
http://www.akashi.co.jp/book/b64467.html
次は、その論考を説明したものではありませんが、私は継体以後の古代史を次のとおり推測しています。あくまでも推測です。根拠は乏しいです。
以下、箇条書きにします。
(参考) 皇室の系図一覧
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%AE%A4%E3%81%AE%E7%B3%BB%E5%9B%B3%E4%B8%80%E8%A6%A7
☆継体が、大和地域の一定程度を支配する。
☆九州王朝が、継体の大和における支配権を承認する。
☆継体は、嫡男である安閑を九州王朝に人質として送り出す。
☆安閑は、九州王朝の天子から“勾大兄(まがりのおおえ)”の称号を授与される。
“大兄(おおえ)”という称号は、過去に仲哀時に、「彦人大兄(ひこひとのおおえ)」以来、勾大兄が2番目に登場した。
☆継体は、後継者を欽明に変更する。
継体は、前々の支配者であった仁賢の娘・手白香皇女(たしらかわのひめみこ)を正妻とし、その二人の間に欽明が生まれていた。
☆欽明を九州に送り出し、逆に、安閑を大和に戻す。
安閑は、父・継体と同じく、仁賢の娘・春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)を正妻としていた。
☆安閑とその弟・宣化は、継体に対するクーデターを行う。
☆継体は、その時の傷で死亡する。
☆安閑が、大和王権を掌握する。
☆欽明は、九州王朝の天子に謁見する以前であったため、大兄の称号を授与されなかった。
☆九州王朝の天子は、欽明を憐れみ、また、今後の大和対策の“駒”として、「糟屋の屯倉」を与える。
「磐井の乱」は、近畿王権内部の不祥事を隠すために記載された。しかし、「日本の天皇及び皇太子・皇子皆死んだ」との記述は、時期は不明だが、九州王朝内部で起こったことである。
☆安閑の死亡後、宣化が後継者となる。
『古事記』では、継体記に「この中に、天國押波流岐廣庭命(欽明)は、天の下治らしめしき。次に廣國押建金日命(安閑)、天の下治らしめしき。次に建小廣國押楯命(宣化)、天の下治らしめしき。」と記述されている。しかし、順序が異なる。これは、『古事記』編者は、当初、安閑と宣化の支配権を認めていなかったが、敏達の母で宣化の娘である石比賣(いしひめ)を権威付けるために、挿入したものと思われる。
☆宣化が、自分の娘二人を欽明の妻であり、かつ、人質として送る。この人質は、九州王朝に対する人質でもある。
石比賣(いしひめ)と小石比賣である。後世で、天武が天智の4人娘を妻とした先駆けである。
☆欽明の子である、敏達、用明、崇峻、推古、聖徳太子が九州で生まれる。
☆敏達、用明、崇峻、推古、聖徳太子は、蘇我氏とともに近畿に進軍した。
☆敏達が、大和の王権を継承する。
☆例の廃仏論争の本質は、九州王朝に服従するか否の問題である。
☆仏の顔は、九州王朝の天子の顔を似せて作られた。
☆蘇我氏は、九州王朝内部では天皇家よりも地位が高かった。
☆天皇記・国記を蘇我氏が持っていたのは、その理由による。
以上のように推測しています。
まず、わが国の皇室は、“大和王朝”と評することができるでしょう。あまりこのような表現がされない理由は、皇室が“神武天皇”から連綿と続く“唯一の王朝”だと考えておられる方が多いからだと思います。
しかし、すでに古田武彦氏は、一連の著作から大和王朝に先在する“九州王朝”が存在し、その存在根拠については、ほぼ間違いないという状況まで立証されています。そして、その立証の程度を例えて言うならば、刑事訴訟における「合理的な疑いを容れない程度の立証」と言えるでしょう。つまり、裁判官が、刑事被告人を有罪にすることができるというものです。
さらに、追手門大学教授であった故中小路駿逸氏は、同大学文学部紀要(1988年12月)に「『日本書紀』の書名の「書」の字について」を寄稿されています。この論考において、『日本書紀』自体が「書」の字と「大和王朝は、九州王朝の一分派として成立したことを記載している」ことから、九州王朝の先在を“立証”されました。
中小路氏の論考で、九州王朝の先在がなんぴとにも理解できることになった考えますが、すでに24年が経過しています。しかし、日本の古代史研究界や新聞等のマスコミの論調はどのようになっているでしょうか? 未だに、近畿天皇(大和王朝)一元史観の域を出ていないのではないでしょうか。
そして、中小路氏の論考に接して、古田氏がよく言われている「九州王朝を隠蔽した」との見解に疑問を持ちました。
さて、ようやく本題に入りますが、古田氏は、桓武天皇の弟である早良親王に、九州王朝の天皇である「崇道天皇」を追号していると指摘されています。このことから、桓武天皇の父である光仁天皇は、ほんとうに天智天皇の孫なのかと疑問を持ちました。
また、日本書紀の編纂と同時に系図が作成されているにも関わらず、それは現存していません。
さらに、紀貫之は勅撰集であり『古今和歌集』の序文に柿本人麻呂を“正三位”と記述しています。これは、一般には誤りだとされていますが、古田氏は九州王朝時での官位ではないかと言われています。もしそうであるならば、なぜ紀貫之は九州王朝時の官位を記述したのでしょうか? 時の天皇の許容の範囲内だったのではないでしょうか? このことから、紀貫之自身が九州王朝の皇族の末裔ではなかったかとも、疑っています。
以上から、 「現在の大和王朝は、ほんとうは“後期九州王朝”ではないか?」という疑問が生じました。
このような私の立場からすると、日本書紀の「書」の字が、当初からあったのか、それとも、後に加えられたものかについて、大きな関心があります。しかし、その探求はほぼ不可能だとは思いますが。
私の「現在の大和王朝は、ほんとうは“後期九州王朝”ではないか?」という疑問について、どなたかが立証していただければよいのですが、現在のところは、古田氏に期待するしかないようです。
以上です。
しかし、すでに古田武彦氏は、一連の著作から大和王朝に先在する“九州王朝”が存在し、その存在根拠については、ほぼ間違いないという状況まで立証されています。そして、その立証の程度を例えて言うならば、刑事訴訟における「合理的な疑いを容れない程度の立証」と言えるでしょう。つまり、裁判官が、刑事被告人を有罪にすることができるというものです。
さらに、追手門大学教授であった故中小路駿逸氏は、同大学文学部紀要(1988年12月)に「『日本書紀』の書名の「書」の字について」を寄稿されています。この論考において、『日本書紀』自体が「書」の字と「大和王朝は、九州王朝の一分派として成立したことを記載している」ことから、九州王朝の先在を“立証”されました。
中小路氏の論考で、九州王朝の先在がなんぴとにも理解できることになった考えますが、すでに24年が経過しています。しかし、日本の古代史研究界や新聞等のマスコミの論調はどのようになっているでしょうか? 未だに、近畿天皇(大和王朝)一元史観の域を出ていないのではないでしょうか。
そして、中小路氏の論考に接して、古田氏がよく言われている「九州王朝を隠蔽した」との見解に疑問を持ちました。
さて、ようやく本題に入りますが、古田氏は、桓武天皇の弟である早良親王に、九州王朝の天皇である「崇道天皇」を追号していると指摘されています。このことから、桓武天皇の父である光仁天皇は、ほんとうに天智天皇の孫なのかと疑問を持ちました。
また、日本書紀の編纂と同時に系図が作成されているにも関わらず、それは現存していません。
さらに、紀貫之は勅撰集であり『古今和歌集』の序文に柿本人麻呂を“正三位”と記述しています。これは、一般には誤りだとされていますが、古田氏は九州王朝時での官位ではないかと言われています。もしそうであるならば、なぜ紀貫之は九州王朝時の官位を記述したのでしょうか? 時の天皇の許容の範囲内だったのではないでしょうか? このことから、紀貫之自身が九州王朝の皇族の末裔ではなかったかとも、疑っています。
以上から、 「現在の大和王朝は、ほんとうは“後期九州王朝”ではないか?」という疑問が生じました。
このような私の立場からすると、日本書紀の「書」の字が、当初からあったのか、それとも、後に加えられたものかについて、大きな関心があります。しかし、その探求はほぼ不可能だとは思いますが。
私の「現在の大和王朝は、ほんとうは“後期九州王朝”ではないか?」という疑問について、どなたかが立証していただければよいのですが、現在のところは、古田氏に期待するしかないようです。
以上です。
日本の古代史、政治、学問・研究に興味をお持ちの方には、一読をお勧めします。
1 新聞は、“見ないものは、見えない”と主張しているのか?
新聞紙上で、未だに「箸墓古墳は、卑弥呼の墓か?」などと報道されているため、日本古代史に興味をお持ちでない方であっても、“卑弥呼”の名前はよく御存じでしょう。しかし、その記者は古田説を知らないのでしょうか? そんなことはありません。完全に黙殺しているのです。“見ないものは、見えない”と主張しているようです。このような態度は、戦前に軍国主義を鼓舞した新聞社が、再び同じ過ちを繰り返しているようです。
2 近畿天皇一元史観では、真実の歴史が見えない
保守的な考えを持つ方は、現在の今上天皇の祖先は近畿で初めて天皇となり、代代に渡って皇位を継承したと信じている方がおられます。“万世一系”の考え方ですね。
しかし、“継体天皇”は応神天皇の5世の孫です。天皇の5世孫が皇位を継承できるなら、たいてい者は天皇になれるでしょう。近畿天皇よりも以前に九州では、天皇(天子)と呼ばれる九州王朝が存在したのです。批判説もありますが、これはもはや否定できない事実です。この書籍は九州王朝を紹介することを主眼にするものではありませんが、古田説を理解するための入門書としても役立つと思います。古田説を知ることによって、今まで一般に疑問とされていたことが、すでに解明されていることを知ることでしょう。
3 多くの方が真実の古代史を知ることは、古代史の研究が前進すること
『古事記』や『日本書紀』の記載には、虚偽の事実があります。この研究を専門家だけでなく、一般の方が疑問に持つことを出発点として解明できる場合があります。また、身近な神社や地域の伝承から新たな発見があるかもしれません。このように、一般の方が関わりを持つことで、近畿一元史観に毒されている研究者では解明・発見できないことが、明らかになると考えます。多くの方が本書を読まれ、真実の古代史から歴史を考えるようにしていただきたいと思います。
1 新聞は、“見ないものは、見えない”と主張しているのか?
新聞紙上で、未だに「箸墓古墳は、卑弥呼の墓か?」などと報道されているため、日本古代史に興味をお持ちでない方であっても、“卑弥呼”の名前はよく御存じでしょう。しかし、その記者は古田説を知らないのでしょうか? そんなことはありません。完全に黙殺しているのです。“見ないものは、見えない”と主張しているようです。このような態度は、戦前に軍国主義を鼓舞した新聞社が、再び同じ過ちを繰り返しているようです。
2 近畿天皇一元史観では、真実の歴史が見えない
保守的な考えを持つ方は、現在の今上天皇の祖先は近畿で初めて天皇となり、代代に渡って皇位を継承したと信じている方がおられます。“万世一系”の考え方ですね。
しかし、“継体天皇”は応神天皇の5世の孫です。天皇の5世孫が皇位を継承できるなら、たいてい者は天皇になれるでしょう。近畿天皇よりも以前に九州では、天皇(天子)と呼ばれる九州王朝が存在したのです。批判説もありますが、これはもはや否定できない事実です。この書籍は九州王朝を紹介することを主眼にするものではありませんが、古田説を理解するための入門書としても役立つと思います。古田説を知ることによって、今まで一般に疑問とされていたことが、すでに解明されていることを知ることでしょう。
3 多くの方が真実の古代史を知ることは、古代史の研究が前進すること
『古事記』や『日本書紀』の記載には、虚偽の事実があります。この研究を専門家だけでなく、一般の方が疑問に持つことを出発点として解明できる場合があります。また、身近な神社や地域の伝承から新たな発見があるかもしれません。このように、一般の方が関わりを持つことで、近畿一元史観に毒されている研究者では解明・発見できないことが、明らかになると考えます。多くの方が本書を読まれ、真実の古代史から歴史を考えるようにしていただきたいと思います。
古田先生に次のお手紙を郵送したところ、お電話でお話をしました。そこでは、対馬・壱岐を中心として活動していた海士族(天照大神)のさらなる出身地のことや、阿蘇山と阿蘇部族との関連について、お話を伺いました。
手紙の内容は次のとおりです。
「 平成23年10月13日
古田武彦先生
『俾弥呼』を拝見して
拝啓
秋が深まり、早朝や深夜においては寒さを感じる今日この頃ですが、先生におかれましは、精力的な執筆活動をなされていることに、深く尊敬の念を抱いております。私は、大阪市平野区で行政書士をしている北東 聡(きたひがし さとし)と申します。そして、突然にこのような文書を送付しますことをお許しください。
さて、標記の著書を拝読しまして、私がこれまでに疑問に思っていることについて、次に記載させていただきます。あくまでも私は研究者ではなく、一読者としてこれまでに疑問に思っていたことですので、浅学非才の素人が疑問に思うこととして、御笑覧していただければ幸いです。 敬具
1 天孫降臨の時期について
天孫降臨の時期を「紀元前238年頃」ではないかと考えております。その根拠は、古事記の「日子穂穂手見命は、高千穂の宮に五百八十歳座しき。」とあります。これは、神武が東方移動する前の295年前に天孫降臨があったことを示すと思います。そして次に、東方移動の時期は、紀元57年に倭奴国王が後漢の光武帝に朝貢して、金印を授与された後と考えます。この紀元前238年とは、中国大陸において「秦」が「東周」を滅ぼし(紀元前256年)、始皇帝が中国を統一した年 (紀元前221年)までの間にあります。つまり、中国大陸での“下克上” が、西日本において、出雲王朝に「国譲り」を迫り、九州の博多湾岸に侵入するとういう下克上を生じさせたのではないでしょうか?
2 銅鐸文明圏内の対立について
銅鐸文明圏内において、九州王朝に対する主戦派(東奈良遺跡)と恭順派(唐古・鍵遺跡)の対立があったのではないでしょうか? そのような対立があったればこそ、五瀬命や若御毛沼命が、東奈良遺跡に奇襲攻撃を企てた動機ではないかと推測しております。つまり、唐古・鍵遺跡派の誘いと進路の誘導があればこそ、実行できたものと考えます。そして、奇襲攻撃は成功しませんでしたが、その論功行賞により、若御毛沼命は、「畝傍の白檮原の宮」を“貸し与えられた”のではないでしょうか? その土地を担保するのが、伊須気余理比賣との婚姻だと思います。この当時、女性にも土地の相続権が認められており、その女性とその女性が産んだ子供の代まで、所有が認められていたのではないでしょうか?
このことが、神武が亡くなった後、當芸志美美命が伊須気余理比賣を娶って理由だと思います。奈良銅鐸圏内の有力者の娘と婚姻しない限り、奈良では生きて行けなかったのでしょう。
3 二上山は奈良銅鐸文明の聖地か?
御存じのとおり、二上山はサヌカイトを産出します。これが、唐古・鍵遺跡派の力の源泉ではなかったでしょうか?また、二上山は現在では、「にじょうざん」と呼ばれていますが、約50年前には、「ふたかみやま」と呼ばれていました。現在も現地ではそのように呼ばれています。つまり、「二人の神」が存在した“聖地”だと考えていたのではないでしょうか?
4 祟神天皇の「初国」とは?
私は上記3のとおり、神武から8代目までは妻か母親による一代限りの土地の所有を認められていた“居候生活”でしたので、その文言どおりに「初めて国を得た」と理解しております。
5 日本書紀編纂の理由について
大和王朝とすれば、古事記で何ら不都合な点はなかったと思います。
しかし、中国大陸での唐王朝の政変で、古事記では不都合だと判断したのではないでしょうか?権力を得た玄宗皇帝にとっては、大和王権(天智)との“密約”が承継されていなかったのではないでしょうか?ここで密約とは、白村江の戦いの際に、天智が東方から九州王朝を攻撃するということです。その密約を知っていた唐王朝の則天武后の官僚は、殺害されたり、失脚したため、継承されなかったと思います。
6 8世紀前半は、“文明開化”の時代ではなかったでしょうか?
大和王朝にとって、上記5の密約を知らない玄宗皇帝による侵略を阻止するために、大和王朝は王権の権威を高め、文明の高さを誇りたかったのではないでしょうか? これが、日本書紀を編纂させた理由ではないかと思います。このことが、九州王朝の建築物を奈良に移築したり、文物を収奪(購入)した理由だと考えます。さらに、東大寺の大仏建立についても、この観点から再検討が必要ではないでしょうか?
7 天武は天智の兄だった
天武は嫡男だったために、幼くして九州王朝に人質として、送られていたのではないでしょうか?その人質時代に天智が蘇我入鹿を殺害する事件が起こったものと考えます。斉明が九州王朝寄りの態度を示すのは、我が子・天武が九州王朝の人質に取られていたからだと思います。
8 天武系勢力と天智系勢力の逆転について
日本書紀の編纂理由は上記5に記載したとおりですが、古事記編纂から日本書紀編纂の間に、天武系勢力と天智系勢力との勢力が逆転したのではないでしょうか?だからこそ、天智の「大化の改新」をでっちあげて天智を称え、その後継者から権力を簒奪したことを示すために、九州王朝の歴史を簒奪して「壬申の乱」を挿入したのではないでしょうか?その理由は、天武を落としめるためです。
9 「中大兄」という称号は奪われたのでは?
そもそも、“大兄”という称号は、九州王朝に人質だった者に対して、同王朝が与えた称号ではないでしょうか?そして、「中大兄」の称号は、中皇命が、天武に与えた称号ではないでしょうか?もし、天武が人質であれば、十分に考えられると思います。そして、中皇命は称号だけではなく、自分の娘である額田王を妻として娶らせたのではないでしょうか?九州王朝にとっても、大和王権からの人質は、他の地域からの人質に比して、最も重要な人質であったことは言うまでもないことだと思います。額田王は、九州王朝の内親王ですから、白村江の戦いの敗北により九州王朝の権威が低下したとはいえ、7世紀後半の大和王権において、最も高貴な存在だったと思うのです。そのことが、天智が額田王を欲した理由だと思います。
以上です。
(追伸)
この文書は、古田史学の会の大下隆司様を通じて、先生に郵送されましたことを念のため、お知らせいたします。
北東 聡
大阪市平野区長吉長原西1-5-33
電話番号 (06) 7504 – 9722
携帯電話番号 090 - 8385 - 7531」
手紙の内容は次のとおりです。
「 平成23年10月13日
古田武彦先生
『俾弥呼』を拝見して
拝啓
秋が深まり、早朝や深夜においては寒さを感じる今日この頃ですが、先生におかれましは、精力的な執筆活動をなされていることに、深く尊敬の念を抱いております。私は、大阪市平野区で行政書士をしている北東 聡(きたひがし さとし)と申します。そして、突然にこのような文書を送付しますことをお許しください。
さて、標記の著書を拝読しまして、私がこれまでに疑問に思っていることについて、次に記載させていただきます。あくまでも私は研究者ではなく、一読者としてこれまでに疑問に思っていたことですので、浅学非才の素人が疑問に思うこととして、御笑覧していただければ幸いです。 敬具
1 天孫降臨の時期について
天孫降臨の時期を「紀元前238年頃」ではないかと考えております。その根拠は、古事記の「日子穂穂手見命は、高千穂の宮に五百八十歳座しき。」とあります。これは、神武が東方移動する前の295年前に天孫降臨があったことを示すと思います。そして次に、東方移動の時期は、紀元57年に倭奴国王が後漢の光武帝に朝貢して、金印を授与された後と考えます。この紀元前238年とは、中国大陸において「秦」が「東周」を滅ぼし(紀元前256年)、始皇帝が中国を統一した年 (紀元前221年)までの間にあります。つまり、中国大陸での“下克上” が、西日本において、出雲王朝に「国譲り」を迫り、九州の博多湾岸に侵入するとういう下克上を生じさせたのではないでしょうか?
2 銅鐸文明圏内の対立について
銅鐸文明圏内において、九州王朝に対する主戦派(東奈良遺跡)と恭順派(唐古・鍵遺跡)の対立があったのではないでしょうか? そのような対立があったればこそ、五瀬命や若御毛沼命が、東奈良遺跡に奇襲攻撃を企てた動機ではないかと推測しております。つまり、唐古・鍵遺跡派の誘いと進路の誘導があればこそ、実行できたものと考えます。そして、奇襲攻撃は成功しませんでしたが、その論功行賞により、若御毛沼命は、「畝傍の白檮原の宮」を“貸し与えられた”のではないでしょうか? その土地を担保するのが、伊須気余理比賣との婚姻だと思います。この当時、女性にも土地の相続権が認められており、その女性とその女性が産んだ子供の代まで、所有が認められていたのではないでしょうか?
このことが、神武が亡くなった後、當芸志美美命が伊須気余理比賣を娶って理由だと思います。奈良銅鐸圏内の有力者の娘と婚姻しない限り、奈良では生きて行けなかったのでしょう。
3 二上山は奈良銅鐸文明の聖地か?
御存じのとおり、二上山はサヌカイトを産出します。これが、唐古・鍵遺跡派の力の源泉ではなかったでしょうか?また、二上山は現在では、「にじょうざん」と呼ばれていますが、約50年前には、「ふたかみやま」と呼ばれていました。現在も現地ではそのように呼ばれています。つまり、「二人の神」が存在した“聖地”だと考えていたのではないでしょうか?
4 祟神天皇の「初国」とは?
私は上記3のとおり、神武から8代目までは妻か母親による一代限りの土地の所有を認められていた“居候生活”でしたので、その文言どおりに「初めて国を得た」と理解しております。
5 日本書紀編纂の理由について
大和王朝とすれば、古事記で何ら不都合な点はなかったと思います。
しかし、中国大陸での唐王朝の政変で、古事記では不都合だと判断したのではないでしょうか?権力を得た玄宗皇帝にとっては、大和王権(天智)との“密約”が承継されていなかったのではないでしょうか?ここで密約とは、白村江の戦いの際に、天智が東方から九州王朝を攻撃するということです。その密約を知っていた唐王朝の則天武后の官僚は、殺害されたり、失脚したため、継承されなかったと思います。
6 8世紀前半は、“文明開化”の時代ではなかったでしょうか?
大和王朝にとって、上記5の密約を知らない玄宗皇帝による侵略を阻止するために、大和王朝は王権の権威を高め、文明の高さを誇りたかったのではないでしょうか? これが、日本書紀を編纂させた理由ではないかと思います。このことが、九州王朝の建築物を奈良に移築したり、文物を収奪(購入)した理由だと考えます。さらに、東大寺の大仏建立についても、この観点から再検討が必要ではないでしょうか?
7 天武は天智の兄だった
天武は嫡男だったために、幼くして九州王朝に人質として、送られていたのではないでしょうか?その人質時代に天智が蘇我入鹿を殺害する事件が起こったものと考えます。斉明が九州王朝寄りの態度を示すのは、我が子・天武が九州王朝の人質に取られていたからだと思います。
8 天武系勢力と天智系勢力の逆転について
日本書紀の編纂理由は上記5に記載したとおりですが、古事記編纂から日本書紀編纂の間に、天武系勢力と天智系勢力との勢力が逆転したのではないでしょうか?だからこそ、天智の「大化の改新」をでっちあげて天智を称え、その後継者から権力を簒奪したことを示すために、九州王朝の歴史を簒奪して「壬申の乱」を挿入したのではないでしょうか?その理由は、天武を落としめるためです。
9 「中大兄」という称号は奪われたのでは?
そもそも、“大兄”という称号は、九州王朝に人質だった者に対して、同王朝が与えた称号ではないでしょうか?そして、「中大兄」の称号は、中皇命が、天武に与えた称号ではないでしょうか?もし、天武が人質であれば、十分に考えられると思います。そして、中皇命は称号だけではなく、自分の娘である額田王を妻として娶らせたのではないでしょうか?九州王朝にとっても、大和王権からの人質は、他の地域からの人質に比して、最も重要な人質であったことは言うまでもないことだと思います。額田王は、九州王朝の内親王ですから、白村江の戦いの敗北により九州王朝の権威が低下したとはいえ、7世紀後半の大和王権において、最も高貴な存在だったと思うのです。そのことが、天智が額田王を欲した理由だと思います。
以上です。
(追伸)
この文書は、古田史学の会の大下隆司様を通じて、先生に郵送されましたことを念のため、お知らせいたします。
北東 聡
大阪市平野区長吉長原西1-5-33
電話番号 (06) 7504 – 9722
携帯電話番号 090 - 8385 - 7531」
私は、以前に次の文章をこのブログで書いています。
「あくまで私見ですが、天孫降臨とは、紀元前238年頃に壱岐・対馬を中心に勢力を保持していた“海族”である「天孫(ニニギノ命)」(天とは、海の美称。) が、海を渡って、筑紫地方に侵入したものです。『魏志倭人伝』にある「大人」は、侵入者の子孫で、「下戸」は、被支配者の子孫です。この大人の階級から卑弥呼(ひみか)が現れました。」
ここで、天孫降臨の時期を「紀元前233年頃」とした理由は、古事記の序文に記載された年数(2倍年暦)を710年から逆算して算出したものです。残念ながら、古事記が手元にありませんので、具体的にその内容を記載することはできません。
この紀元前238年とは、中国大陸において「秦」が「東周」を滅ぼし、始皇帝が中国を統一したの年までの間にあるのです。つまり、中国大陸での“下克上”が、西日本において、出雲王朝に「国譲り」を迫り、九州の博多湾岸に侵入するとういう下克上を生じさせたと考えるのです。
私は、中国大陸での“政変”が、日本の政治体制に大きな影響を与えるという事実が、すでに2000年以上前から生じていたことを知りました。
ここで、ではなぜ、出雲王朝を滅ぼさずに、「国譲り」としたのかという疑問が生じます。この問題については、今後の課題とさせていただきます。
「あくまで私見ですが、天孫降臨とは、紀元前238年頃に壱岐・対馬を中心に勢力を保持していた“海族”である「天孫(ニニギノ命)」(天とは、海の美称。) が、海を渡って、筑紫地方に侵入したものです。『魏志倭人伝』にある「大人」は、侵入者の子孫で、「下戸」は、被支配者の子孫です。この大人の階級から卑弥呼(ひみか)が現れました。」
ここで、天孫降臨の時期を「紀元前233年頃」とした理由は、古事記の序文に記載された年数(2倍年暦)を710年から逆算して算出したものです。残念ながら、古事記が手元にありませんので、具体的にその内容を記載することはできません。
この紀元前238年とは、中国大陸において「秦」が「東周」を滅ぼし、始皇帝が中国を統一したの年までの間にあるのです。つまり、中国大陸での“下克上”が、西日本において、出雲王朝に「国譲り」を迫り、九州の博多湾岸に侵入するとういう下克上を生じさせたと考えるのです。
私は、中国大陸での“政変”が、日本の政治体制に大きな影響を与えるという事実が、すでに2000年以上前から生じていたことを知りました。
ここで、ではなぜ、出雲王朝を滅ぼさずに、「国譲り」としたのかという疑問が生じます。この問題については、今後の課題とさせていただきます。
大阪府と奈良県の県境に二上山(ふたかみやま)があるのをご存知でしょうか? もちろん大阪や奈良に在住されている方でご存知ない方はおられませんが。
この二上山は、銅鐸文明の内の奈良地方(以下、「奈良銅鐸文明」という。)における“王家の谷”ではなかったのか、と考えています。二上山からは、サヌカイトが産出され、それが奈良銅鐸文明の力の源泉だったと考えるのです。
今、私は資料を手元に何も持っていませんので、具体的なことは書けないのですが、この二上山の奈良県側や大阪府側の麓には、大和王権の多くの古墳があります。さらには、志紀皇子も二上山の山中に葬られています。
このような見解は、私の独断ですが、「二上山は王家の谷」であると述べさていただきます。
この二上山は、銅鐸文明の内の奈良地方(以下、「奈良銅鐸文明」という。)における“王家の谷”ではなかったのか、と考えています。二上山からは、サヌカイトが産出され、それが奈良銅鐸文明の力の源泉だったと考えるのです。
今、私は資料を手元に何も持っていませんので、具体的なことは書けないのですが、この二上山の奈良県側や大阪府側の麓には、大和王権の多くの古墳があります。さらには、志紀皇子も二上山の山中に葬られています。
このような見解は、私の独断ですが、「二上山は王家の谷」であると述べさていただきます。
中大兄皇子のような「大兄」とは、王位継承予定者であることは間違いないと思います。
さらに、「大兄」の称号を与えたのは、九州王朝だったというのが私の推測です。「大兄」の称号を持つ者が日本書紀で登場するのは、継体王から天智王までです。このことをどう理解すればよいでしょうか?
継体王から天智王(実際は、天武王)まで九州王朝に“人質”を出していたと考えると、疑問も氷解するのではないでしょうか?
さらに、「大兄」の称号を与えたのは、九州王朝だったというのが私の推測です。「大兄」の称号を持つ者が日本書紀で登場するのは、継体王から天智王までです。このことをどう理解すればよいでしょうか?
継体王から天智王(実際は、天武王)まで九州王朝に“人質”を出していたと考えると、疑問も氷解するのではないでしょうか?