古田史学に学ぶ

古田武彦氏が提唱する九州王朝説を支持しています。このブログでは、古代史に関係するニュースや私見を提供する予定です。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

『明治維新という過ち』原田伊織著 (毎日ワンズ発行)

2015年03月17日 | その他
標題の著書から引用します。

http://www.sankei.com/life/news/150207/lif1502070019-n1.html

「そういう戦の勝者が、自分の都合に合わせて歴史を書くことは極めて普通のことであり、このことは古今東西、全く変わらない。そのことを承知しておくことが、歴史を学ぶ、ひいては歴史に学ぶ知性であることを知っておくことが肝要なのだ。」(同書10頁)

 まったくそのとおりだと思います。

 日本古代史においても、古事記や日本書紀の記述を絶対視する大和王朝史観、または近畿天皇一元史観を疑うことから、真実の日本古代史を探求できるでしょう。

 日本古代史を未だに正せない原因が、“明治維新”にあると考えていましたので、「明治維新から疑う」必要があるようです。
コメント

「近代を開いた」を明快に否定 『明治維新という過ち』原田伊織著

2015年03月16日 | その他
http://www.sankei.com/life/news/150207/lif1502070019-n1.html

 私は、なぜ、先の戦争に負けたのかをその理由を知りたいと思っています。
 そのことを考えると、明治維新まで、そして、幕末までの歴史を知る必要があります。
 これまでは、近代史にそれほど興味がなかったのですが、今は、日本の歴史の中でこの分野に大いに興味をもっています。

 もちろん、日本古代史において、明治維新(この言葉は、昭和に作成されたものだそうです。)が、自由な議論を封殺した影響が未だに大きな問題であると承知していました。

 この書籍は、大阪市の難波にあるジュンク堂でたまたま見つけたものです。

 この書籍では、長州藩の吉田松陰らの教条的なテロリストたちが、日本の権力を握ったことが、先の大戦に敗北した原因だとよく理解できるようになりました。

 吉田松陰は、ペリーに米国への渡航を申入れするために、米国船に乗り込んだのではなく、ペリーを暗殺するために乗り込んだ可能性があること。
 
 斬首刑に処された理由は、「討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画」が幕府に露見したためであること。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0

 松陰が有名になった理由は、山縣有朋が創設したものであるとの指摘もあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B

 今、NHKの大河ドラマ「花燃え」が放送されていますが、“テロリスト集団”として、見る必要があるでしょう。

 また、水戸光圀が、これまでの「黄門様」とのイメージとはまったく別人であることを知りました。

 日本の進路に関心をお持ちの方は、ぜひ、一読してください。
コメント

縄文期初 「ほぞ」加工の角材 真脇遺跡で見つかる

2015年01月23日 | 日本古代史
http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/CK2015012302100007.html
コメント

中小路駿逸教授の学問的探求活動の基本

2014年05月10日 | その他
 故中小路駿逸追手門学院大学名誉教授が執筆された「イエスの父についての諸説に対するわたしの考え方」(追手門学院大学文学部紀要
41号 2005年12月30日、138頁~150頁)で、標記の学問的探求活動の基本(140頁下段)について記述されていますので、次に御紹介します。

「 学問的探求活動の基本とは何であろうか。
  第一に、現に観察されつつある事象という事実について、そこに何があり何がないかを、できるだけ正確にそのままに把握すること。

  第二に、その事実から感得できる理を、正確にとらえ、押しすすめること。
  これであって、順序も右のとおりであろう。

  すなわち、対象である事実の正確な把握が先行する、より基礎的なものであり、ここが間違うと、最初の判断が狂い、最初の命題が間違ったかたちになる。そして、そうなれば、あとがみな狂ってしまうこと、明らかなのである。
  この『資料上の“事実”の確認』がじつはいちばんむずかしく、ここでまちがっていたとわかる例が古今東西いくらも、周知のものも、ひょっとするとわたしがはじめて言ったのかもしれないものも含めて、あるのである。」

(参考)
「追手門学院大学名誉教授 故中小路駿逸さんのこと」
コメント

未来を創る科学者達 (6)遺伝子に隠された日本人の起源 ~

2014年05月10日 | その他
https://www.youtube.com/watch?v=bdLJquxFdvQ
コメント

古事記と日本書紀が編纂された理由は?

2014年02月01日 | 日本古代史
 古事記は、710年に「成立の経緯を記している序によれば、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したもの。」されたといわれています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98

 しかし、古田史学の会の西村秀己氏は、「削偽定実の真相 ー古事記序文の史料批判ー」で、九州王朝の天子が藤原京にいたことを主張されています。九州王朝から大和王朝への変遷を考える上で、極めて画期的な見解だと考えます。

 そして、同じく古田史学の会の古賀達也氏は、九州王朝の天子は藤原京から追放され、九州の太宰府に追放されたとし、さらに、同会の正木裕氏の「『続日本紀』「始めて藤原宮の地を定む。」の意味」で、西村秀己氏の「九州王朝の天子が藤原京にいた」を補強されています。

 以上から、古田史学の会の論者は、古事記編纂を命じたのは、「天武」ではなく文武天皇であると主張されています。

 しかし、私は、編纂を命じたのが「天武」ではないが、「天武」の意思・・・九州王朝の再興」・・・を踏みにじる文部天皇の行動に動揺する大和王朝内を鎮めるために、わざと「天武」の意向だと改竄して、古事記を編纂したのではないかと考えます。

 また、古事記が推古までしか記述されていない理由は、推古と次の舒明との間に大きな相違があったためだと、すでに投稿しています。今回、その理由に加えて、舒明を記述すると、「天智」と「天武」の関係を「天武」が兄で、「天智」が弟であることを記述せざるを得ないため、あえて推古で記述を終えたと考えるようになりました。

 日本書紀については、すでに投稿しているように、中国・唐王朝における内紛が原因である、と考えを変更していません。
コメント

【合本】 市民の古代  古田武彦とともに (市民の古代研究会編)を購入

2014年02月01日 | 日本古代史
 先ほど、【合本】 市民の古代  古田武彦とともに (市民の古代研究会編)を購入した。1988年1月15日に発行された中古本である。発行された当時、私は書店で手に取ったことを記憶しています。しかし、当時は古田武彦氏の著作を読むにに精一杯だったので購入には至らなかったです。
http://www.amazon.co.jp/%E5%90%88%E6%9C%AC%E5%B8%82%E6%B0%91%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3-%E7%AC%AC1%E5%B7%BB%E2%80%95%E5%8F%A4%E7%94%B0%E6%AD%A6%E5%BD%A6%E3%81%A8%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%AB-%E7%AC%AC1%E9%9B%86~%E7%AC%AC4%E9%9B%86-%E5%B8%82%E6%B0%91%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A/dp/4787788191/ref=sr_1_4?ie=UTF8&qid=1391229418&sr=8-4&keywords=%E5%B8%82%E6%B0%91%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3

 今回、中古品を購入したのは、古田史学研究会の古賀達也事務局長の「「市民の古代研究会」の拡大路線」を読み、市民の古代研究会における紛争から古田史学研究会の設立について興味を持ったためです。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta.html#wa648

 市民の古代研究会に参加していた人たちで、現在、古田氏を批判する人々は、過去にどのような発言をしていたのかを私自身も保存しておこうと考えたためです。

 人はどのようにして変質するのか、そのことを考えるには良い材料ではないでしょうか?
コメント

「出土例ない」華麗な意匠の飾り 福岡・船原古墳の金銅製馬具

2013年11月25日 | 日本古代史
http://www.chunichi.co.jp/s/chuspo/article/2013112401002069.html
コメント

2013年9月21日古田武彦氏講演会のお知らせ

2013年08月23日 | 日本古代史
http://www.minervashobo.co.jp/news/n6736.html
コメント

『「九州年号」の研究』を読む

2013年06月09日 | 日本古代史
 古田史学の会編『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年1月10日発行)を読みました。
http://www.minervashobo.co.jp/book/b94035.html

 この中で、興味を引いた内容を次に御紹介します。

1 安田報告の衝撃
 古賀達也氏が寄稿した「金石文・木簡に残る九州年号」の中で、安田陽介氏の「九州年号の原型について」を紹介されています。それは、「九州年号原型の復元にあたっては、丸山モデルや『二中歴』などの後代史料ではなく、まず同時代金石文あるいはよりより信憑性が高い古代資料に基づくべきであるという「方法論」」を提示されたものです。当然と言えば当然ですが、その方法論は正しいものだと思います。

2 正木裕氏執筆「隠された改元 ー 九州年号の改元から探る九州王朝の歴史」
 九州年号と日本書紀等の分析から様々な九州王朝における歴史事実を推測された貴重な論考ですが、私にとっては、次の内容に共感を覚えました。

 「そう解釈すれば仏教受容をめぐる蘇我物部戦争も、実質は九州王朝の統治を可とするか否かをかけての、一大騒乱として位置づけられよう。」です。

 私は、古田氏が述べられた「法隆寺の釈迦三尊像は九州王朝において製作されたもの」から、釈迦の顔は誰に似せたものかと疑問に思いました。それは、その顔は、九州王朝の天子である「タリシホコ」を似せたのではないかとの疑問です。

 そのことから、「仏教受容をめぐる蘇我物部戦争」は、表面的には仏教受容をめぐる争いですが、本質的には、九州王朝の支配を容認するか否かの争いではなかったかと推測したのです。

 同じ疑問を持たれた方がおられることを知って、嬉しく思ったしだいです。
コメント (2)

私が推測する古代史

2013年06月04日 | 日本古代史
私は、和田高明氏が、古田史学の会編『古代に真実を求めて 第四集』(明石書店、2001年10月1日発行)に寄稿された「大和朝廷の成立(1) ― その驚くべき真相」に大いに刺激を受けました。残念ながら、その続編である(2)は公表されていません。
http://www.akashi.co.jp/book/b64467.html

次は、その論考を説明したものではありませんが、私は継体以後の古代史を次のとおり推測しています。あくまでも推測です。根拠は乏しいです。

以下、箇条書きにします。

(参考) 皇室の系図一覧
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%AE%A4%E3%81%AE%E7%B3%BB%E5%9B%B3%E4%B8%80%E8%A6%A7

☆継体が、大和地域の一定程度を支配する。

☆九州王朝が、継体の大和における支配権を承認する。

☆継体は、嫡男である安閑を九州王朝に人質として送り出す。

☆安閑は、九州王朝の天子から“勾大兄(まがりのおおえ)”の称号を授与される。
“大兄(おおえ)”という称号は、過去に仲哀時に、「彦人大兄(ひこひとのおおえ)」以来、勾大兄が2番目に登場した。

☆継体は、後継者を欽明に変更する。
継体は、前々の支配者であった仁賢の娘・手白香皇女(たしらかわのひめみこ)を正妻とし、その二人の間に欽明が生まれていた。

☆欽明を九州に送り出し、逆に、安閑を大和に戻す。
安閑は、父・継体と同じく、仁賢の娘・春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)を正妻としていた。

☆安閑とその弟・宣化は、継体に対するクーデターを行う。

☆継体は、その時の傷で死亡する。

☆安閑が、大和王権を掌握する。

☆欽明は、九州王朝の天子に謁見する以前であったため、大兄の称号を授与されなかった。

☆九州王朝の天子は、欽明を憐れみ、また、今後の大和対策の“駒”として、「糟屋の屯倉」を与える。

「磐井の乱」は、近畿王権内部の不祥事を隠すために記載された。しかし、「日本の天皇及び皇太子・皇子皆死んだ」との記述は、時期は不明だが、九州王朝内部で起こったことである。

☆安閑の死亡後、宣化が後継者となる。
『古事記』では、継体記に「この中に、天國押波流岐廣庭命(欽明)は、天の下治らしめしき。次に廣國押建金日命(安閑)、天の下治らしめしき。次に建小廣國押楯命(宣化)、天の下治らしめしき。」と記述されている。しかし、順序が異なる。これは、『古事記』編者は、当初、安閑と宣化の支配権を認めていなかったが、敏達の母で宣化の娘である石比賣(いしひめ)を権威付けるために、挿入したものと思われる。

☆宣化が、自分の娘二人を欽明の妻であり、かつ、人質として送る。この人質は、九州王朝に対する人質でもある。
石比賣(いしひめ)と小石比賣である。後世で、天武が天智の4人娘を妻とした先駆けである。

☆欽明の子である、敏達、用明、崇峻、推古、聖徳太子が九州で生まれる。

☆敏達、用明、崇峻、推古、聖徳太子は、蘇我氏とともに近畿に進軍した。

☆敏達が、大和の王権を継承する。

☆例の廃仏論争の本質は、九州王朝に服従するか否の問題である。

☆仏の顔は、九州王朝の天子の顔を似せて作られた。

☆蘇我氏は、九州王朝内部では天皇家よりも地位が高かった。

☆天皇記・国記を蘇我氏が持っていたのは、その理由による。

以上のように推測しています。
コメント   トラックバック (1)

現在の大和王朝は、ほんとうは「後期九州王朝」ではないか?

2013年06月02日 | 日本古代史
まず、わが国の皇室は、“大和王朝”と評することができるでしょう。あまりこのような表現がされない理由は、皇室が“神武天皇”から連綿と続く“唯一の王朝”だと考えておられる方が多いからだと思います。

しかし、すでに古田武彦氏は、一連の著作から大和王朝に先在する“九州王朝”が存在し、その存在根拠については、ほぼ間違いないという状況まで立証されています。そして、その立証の程度を例えて言うならば、刑事訴訟における「合理的な疑いを容れない程度の立証」と言えるでしょう。つまり、裁判官が、刑事被告人を有罪にすることができるというものです。

さらに、追手門大学教授であった故中小路駿逸氏は、同大学文学部紀要(1988年12月)に「『日本書紀』の書名の「書」の字について」を寄稿されています。この論考において、『日本書紀』自体が「書」の字と「大和王朝は、九州王朝の一分派として成立したことを記載している」ことから、九州王朝の先在を“立証”されました。

中小路氏の論考で、九州王朝の先在がなんぴとにも理解できることになった考えますが、すでに24年が経過しています。しかし、日本の古代史研究界や新聞等のマスコミの論調はどのようになっているでしょうか? 未だに、近畿天皇(大和王朝)一元史観の域を出ていないのではないでしょうか。

そして、中小路氏の論考に接して、古田氏がよく言われている「九州王朝を隠蔽した」との見解に疑問を持ちました。

さて、ようやく本題に入りますが、古田氏は、桓武天皇の弟である早良親王に、九州王朝の天皇である「崇道天皇」を追号していると指摘されています。このことから、桓武天皇の父である光仁天皇は、ほんとうに天智天皇の孫なのかと疑問を持ちました。

また、日本書紀の編纂と同時に系図が作成されているにも関わらず、それは現存していません。

さらに、紀貫之は勅撰集であり『古今和歌集』の序文に柿本人麻呂を“正三位”と記述しています。これは、一般には誤りだとされていますが、古田氏は九州王朝時での官位ではないかと言われています。もしそうであるならば、なぜ紀貫之は九州王朝時の官位を記述したのでしょうか? 時の天皇の許容の範囲内だったのではないでしょうか? このことから、紀貫之自身が九州王朝の皇族の末裔ではなかったかとも、疑っています。

以上から、 「現在の大和王朝は、ほんとうは“後期九州王朝”ではないか?」という疑問が生じました。

このような私の立場からすると、日本書紀の「書」の字が、当初からあったのか、それとも、後に加えられたものかについて、大きな関心があります。しかし、その探求はほぼ不可能だとは思いますが。

私の「現在の大和王朝は、ほんとうは“後期九州王朝”ではないか?」という疑問について、どなたかが立証していただければよいのですが、現在のところは、古田氏に期待するしかないようです。

以上です。
コメント (29)

俾弥呼(ひみか): 鬼道に事へ、見る有る者少なし (ミネルヴァ日本評伝選)

2013年03月31日 | 日本古代史
日本の古代史、政治、学問・研究に興味をお持ちの方には、一読をお勧めします。

 1 新聞は、“見ないものは、見えない”と主張しているのか? 
   新聞紙上で、未だに「箸墓古墳は、卑弥呼の墓か?」などと報道されているため、日本古代史に興味をお持ちでない方であっても、“卑弥呼”の名前はよく御存じでしょう。しかし、その記者は古田説を知らないのでしょうか? そんなことはありません。完全に黙殺しているのです。“見ないものは、見えない”と主張しているようです。このような態度は、戦前に軍国主義を鼓舞した新聞社が、再び同じ過ちを繰り返しているようです。
 
 2 近畿天皇一元史観では、真実の歴史が見えない
   保守的な考えを持つ方は、現在の今上天皇の祖先は近畿で初めて天皇となり、代代に渡って皇位を継承したと信じている方がおられます。“万世一系”の考え方ですね。
   しかし、“継体天皇”は応神天皇の5世の孫です。天皇の5世孫が皇位を継承できるなら、たいてい者は天皇になれるでしょう。近畿天皇よりも以前に九州では、天皇(天子)と呼ばれる九州王朝が存在したのです。批判説もありますが、これはもはや否定できない事実です。この書籍は九州王朝を紹介することを主眼にするものではありませんが、古田説を理解するための入門書としても役立つと思います。古田説を知ることによって、今まで一般に疑問とされていたことが、すでに解明されていることを知ることでしょう。

 3 多くの方が真実の古代史を知ることは、古代史の研究が前進すること
   『古事記』や『日本書紀』の記載には、虚偽の事実があります。この研究を専門家だけでなく、一般の方が疑問に持つことを出発点として解明できる場合があります。また、身近な神社や地域の伝承から新たな発見があるかもしれません。このように、一般の方が関わりを持つことで、近畿一元史観に毒されている研究者では解明・発見できないことが、明らかになると考えます。多くの方が本書を読まれ、真実の古代史から歴史を考えるようにしていただきたいと思います。
コメント

『俾弥呼(ひみか)の真実』古田武彦著

2013年03月30日 | 日本古代史
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130316/bks13031607260001-n1.htm
コメント

良田平田遺跡:中国地方最古の文書木簡出土 7世紀末から8世紀初頭、役所間の行政文書--鳥取 /鳥取

2013年03月06日 | 日本古代史
http://mainichi.jp/feature/news/20130305ddlk31040478000c.html
コメント