野球小僧

「展覧会の絵」から〈バーバ・ヤーガの小屋、キエフの大きな門〉 / ムソルグスキー作曲 ラヴェル編曲

今年のカウントダウン曲は、ムソルグスキー作曲=ラヴェル編曲の『展覧会の絵』から〈バーバ・ヤーガの小屋、キエフの大きな門〉に決定!

モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキーさんはロシアの作曲家です。バラキレフさん、キュイさん、リムスキー=コルサコフさん、ボロディンさんと共にロシア国民楽派の「五人組」に名を連ねています。歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」、管弦楽曲「禿山の一夜」、ピアノ組曲「展覧会の絵」でおなじみです。

古い貴族の家系に生まれ、父親は官吏を務めており、4人兄弟の末っ子です。幼少の頃から母親にピアノの手ほどきを受け、リストさんやフィールドさんの作品を弾いていました。10歳の時に家族と共にペテルブルクに移り、ヘンゼルトさん(ドイツのピアニスト)やアントン・ゲルケさん(フィールドやカルクブレンナー、モニューシュコらに師事したピアニスト)にピアノを学びました。当時、ロシアの貴族は軍人か官僚になるという当時の慣習に則り、ムソルグスキーさんも士官学校に入学します。 作曲理論は学んでいませんが、この頃から作曲を始めています。また、ボロディンさん、キュイさんやバラキレフさん、さらには理論家のスタソフさんと知り合ったのもこの頃のことでした。

バラキレフさんの指導のもとに、歌曲とピアノ曲などの習作を手がけ、1850年代の後半にムソルグスキーさんは作曲に専念することを決意し、軍役から身を退きました。1861年の農奴解放を迎えると、領地管理で生計を立てていた地主貴族のムソルグスキー家は経済的な打撃を受け、ムソルグスキーさんは、非常に多くの時間生まれた村で過ごして、一家の突然の零落を何とか食い止めようとしたものの失敗しました。

この頃からムソルグスキーさんは独学するようになり、1863年から1866年まで、歌劇「サランボー」に取り組むとともに、ペテルブルクで下級官吏として生計を立てるようになります。この頃から「リアリズム」という理念を抱くようになり、社会の低層に関心を寄せるようになりました。再現やシンメトリーのある楽式を拒否し、「現実生活」の繰り返しのない、予測のつかない流れに十分に忠実であろうとし始めます。

1865年に母親が没すると、この頃から深刻なアルコール依存症の兆しが見え始めます。しかしながら写実的な歌曲の作曲を始め、1866年に作曲された歌曲「ゴパーク」と「愛しいサーヴィシナ」は1867年に、初めて自力で出版された作品となりました。1867年は「禿山の一夜」の初稿が完成しましたが、バラキレフさんはこれを批判し、指揮することを拒み、初演されたのはムソルグスキーさんの死後1886年になってからでした。

一方、文官としての職務は安定せず、1867年に余剰人員と宣告され、出勤しても無報酬でした。

1866年よりプーシキンさんの原作歌劇「石の客」を作曲中であったダルゴムイシスキーさんに影響されて、ゴーゴリさん原作の「結婚」を1868年に作曲。その後、ボリス・ゴドゥノフさんの物語でオペラを作曲するようになります。このためプーシキンさんの戯曲や歴史物語を集め、オペラ「ボリス・ゴドゥノフ」を書き上げました。1871年に提出されるものの、プリマドンナ役がなかったことから、歌劇場から上演拒否にあっています。ムソルグスキーさんは改訂に取り掛かり、1872年に受理され、1873年にはマリインスキー劇場で抜粋上演が行われました。

その間、ムソルグスキーさんは、不運に終わった五人組の合作オペラ「ムラーダ」に関わり、「禿山の一夜」合唱版を作成し、歌劇「ホヴァーンシチナ」にも着手していました。ただ、「ボリス・ゴドゥノフ」は批評家筋の受けが悪く、上演回数は十回程度でしたが、聴衆には好評でムソルグスキーさんの活動は頂点を迎えました。

しかし、友人ヴィクトル・ハルトマン(ガルトマン)が亡くなり、肉親やルームメートのゴレニシェフ=クトゥーゾフ伯爵(「陽の光もなく」「死の歌と踊り」の作詞家)も結婚して去って行きます。1874年以降は「陽の光もなく」「モスクワ河の夜明け」(「ホヴァーンシチナ」前奏曲)、「展覧会の絵」を作曲、歌劇「ソロチンスクの定期市」「禿山の一夜」の、別の合唱版も作成しますが、この頂点からの転落のきざしが次第に明らかとなり、ムソルグスキーは友人の分かれなどもあり、アルコール依存症が関係する狂気も見受けられるようになります。やがて著名人のサークルと交際を始めますが、酒量が抑えられなくなります。

文官としての仕事は、たびたびの「病気」や欠席のためにいっそう不安定になり、内務省に転職します。それでもムソルグスキーさんは「死の歌と踊り」を作曲し、転職先では音楽熱が寛大に扱われました。1879年には伴奏者として3ヶ月間に12都市で演奏活動を行うことさえ許されていました。

ただし、サンクトペテルブルクに戻ると再び以前の荒んだ生活に逆戻りし、1880年に公務員の地位を追われてしまいます。ムソルグスキーさんの窮乏を知って友人たちは、「ホヴァーンシチナ」「ソロチンスクの定期市」を完成できるように尽力し、仕上げまでもう少しというところまで達しましたが、完成には至りませんでした。1881年初頭に心臓発作に見舞われ、3月28日に42歳でなくなりました。

ムソルグスキーさんは五人組の中で最も個性的で民族色の強い曲を書いています。これは、農奴制度における同じ人間としての共感を農民に対しても抱いていたことからでもあります。

どうぞ、良い年をお迎えください。

ちなみに、ムソルグスキーさんの曲自体をよく知らずとも、映画やテレビの中で多く使用されています(一部紹介)。

禿山の一夜
ウォルト・ディズニー 映画ファンタジア (1940年) 
映画 Asylum (1972年) 
マイケル・ジャクソンのアルバム ヒストリー
映画サタデー・ナイト・フィーバー (1977年)
ウディ・アレン 映画Stardust Memories (1980年)

バーバ・ヤガー
テレビドラマ 花子とアン(NHK連続テレビ小説)

キエフの門
プロレスラー、ジェリー・ローラーの入場テーマ 

題名は陽の光もなく
クリス・マーカー 映画Sans Soleil (1982年)
小人(グノーム)
テレビドラマ 大都会 PARTIII第37話「頭取集団誘拐」、第42話「シージャック強盗団」
テレビドラマ 西部警察PART-I 第123話「松田刑事、絶命!」、PART-III 第1話「強行着陸!!」


コメント一覧

まっくろくろすけ
eco坊主さん、こんばんは。
今までの不摂生がたたってか、ここへきての急降下です。これを2017年において行ければいいかなと。

もちろん、5位という順位もです。

よい年をお迎えください。
eco坊主
おはようございます(*Ü*)ノ"☀

今年も1年間早朝から侵入しお騒がせしました。私的にはここで勉強させていただき、楽しい会話をさせていただいたこと感謝申し上げます。ありがとうございました。

因みに私のカウントダウン曲というか年越しの曲は「蛍の光」でしょうか。今年から都倉俊一さんの指揮ですね。

それとやはり今年は「ダンシング・ヒーロー」ですね。
♫今夜だけでも シンデレラ・ボーイ Do you wanna dance tonight


来年もよろしくお願いします。㋵✿㋺✿㋛✿㋗✿㋧✿
よい年をお迎えください。
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