1933年(昭和8年)
内田五郎、内田三郎、前田武男の3名が
「精機光学研究所」を設立し、日本初のカメラを作ろうと
研究開発に取り組んでいました。
当時、ドイツ製の「ライカ」や「コンタックス」が
世界市場を独占していたので、三人の研究は「世界への挑戦」でした。
1935年(昭和10年)
国産初のライカ型レンジファインダーカメラが製造されました。
製造台数、わずか1000台 (現存するものは131台)
近江屋写真用品株式会社を販売ルートとし
その商標名から「ハンザ」と名付け、
ボディーは精機光学研究所、距離計とレンズは日本光学としました。
(画像参照)
精機光学研究所は社名を「Canon」に変更し
日本光学は「Nikon」となりました。
現在は、このふたつの大企業が世界シェアを占めて
ライバル関係にありますが
日本でのカメラ歴史草創期では、
両者は協力関係にありました。
町の小さな研究所からはじまったカメラ作りは
世界の総合精密機器メーカー「Canon」として
新しいデジタル映像表現のありかたを
提案、開発するまでに至りました。
内田五郎、内田三郎、前田武男の3名が
「精機光学研究所」を設立し、日本初のカメラを作ろうと
研究開発に取り組んでいました。
当時、ドイツ製の「ライカ」や「コンタックス」が
世界市場を独占していたので、三人の研究は「世界への挑戦」でした。
1935年(昭和10年)
国産初のライカ型レンジファインダーカメラが製造されました。
製造台数、わずか1000台 (現存するものは131台)
近江屋写真用品株式会社を販売ルートとし
その商標名から「ハンザ」と名付け、
ボディーは精機光学研究所、距離計とレンズは日本光学としました。
(画像参照)
精機光学研究所は社名を「Canon」に変更し
日本光学は「Nikon」となりました。
現在は、このふたつの大企業が世界シェアを占めて
ライバル関係にありますが
日本でのカメラ歴史草創期では、
両者は協力関係にありました。
町の小さな研究所からはじまったカメラ作りは
世界の総合精密機器メーカー「Canon」として
新しいデジタル映像表現のありかたを
提案、開発するまでに至りました。