全ての日本女性に知って欲しい文章を見付けましたので、皆様に御紹介します。
どうぞ、ご覧下さい。
「対日戦勝記念日」制定=北方領土支配を正当化-ロシア
http://www.jiji.co.jp/jc/c?g=pol_30&k=2010072500205
ロシア大統領府は25日、メドベージェフ大統領が同日までに、日本が1945年に第2次大戦の降伏文書に調印した9月2日を「第2次大戦終結の日」に制定する法改正案に署名したと発表、改正法が成立した。
事実上の「対日戦勝記念日」の法制化で、北方領土の実効支配を正当化する狙いがあるとみられる。
法改正案の趣旨説明では、ソ連軍の対日参戦により、満州や北朝鮮、北方領土を含む千島列島が「解放」され、第2次大戦の終結を早めたとしている。
ロシアのラブロフ外相は、先に終戦65周年の節目に当たり、対日戦勝記念日制定の意義を強調しており、サハリン州など極東を中心に各種の記念行事が行われるとみられる。
(2010/07/25 21:36 モスクワ時事)
------
昭和20年8月9日、旧ソ連は、まるで火事場泥棒のようにに日ソ中立条約を一方的に破棄して、日本が降伏した後も満州、樺太、千島で残虐な殺戮の限りを尽くし、100万人以上の日本人を拉致して約30万人が犠牲になったと云われています。
そこで何があったか。
証言があります。
------
満洲国開拓団の殉難 byねずきちのひとりごと
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-730.html
より引用させて頂きます。
(引用元の後半に、残虐な被害画像がありますのでご注意下さい)
昭和二十年八月二十日頃であったろうと思う。
鞍山から新京守備のために北上したので新京の街は北も南もよく解らないが、たしか終戦の日から数えて四、五日たっていたと思われる頃の出来事だった。
そんな日、病院の玄関で大声で騒ぐ声にびっくりして、私は板で括(くく)り付けた足を引きずりながら玄関に出て見て驚いた。
十二~三の少女から二十歳ぐらいの娘が、十名程タンカに乗せられて運ばれていた。
それは、まともに上から見ることの出来る姿ではなかった。
その全員が裸で、まだ恥毛もそろわない幼い子供の恥部は紫に腫れ上がって、その原形はなかった。
大腿部は、血がいっぱい付いている。
顔を歪めつつ声を出しているようだが聞きとれない。
次の女性はモンペだけをはぎとられて、下の部分は前者と同じだが、下腹部を刺されて腸が切口から血と一緒にはみ出していた。
次の少女は乳房を切られて、片目を開けたままであったから死んでいるのかもしれない。
次もその次も、殆ど同じ姿である。
一週間私はこの病院にいて毎日毎日この光景を見て、その無惨、残酷さに敗戦のみじめさを知った」
(「されど、わが満州」P172~3)
------
目を背けたくなる事実ですが、続けます。
------
満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、今も念頭を去らない幾つかのエピソードがある。
北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、辛苦の末やっと三八度線近くの鉄原に辿り着いた。
そこで見たものは、日本人の娘達が次々にまずソ連兵に犯され、ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されて、さらに散々に辱められたうえ、虐殺されている光景であった。
折角ここまで連れてはきたが、最愛の二人の娘達もまもなく同じ運命をたどるであろうことを不悩に思い、近くの林の中の松の木に経って自決させ、これはその遺髪ですと言って私に見せてくれた」
(「ある戦後史の序章」の中にある石田一郎の手記より)
------
刑法には、堕胎の罪という項目があります。
刑法212条~216条です。
しかし、優生保護法という法律が昭和23年にでき、刑法の堕胎罪は大幅に緩和され、有名無実化されました。
この優生保護法の第一条(目的)には、つぎの一文が書かれています。
「この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする」
この法律がなんのために出来たかと言えば、満洲国、日本統治領朝鮮といった国家が消滅し、そこで暮らしていた日本人が、大変な目に遭ったからです。
満洲や朝鮮半島から復員してきた女性達が全員、強姦された訳ではない。
しかし、復員してきた彼女達を、一旦は全員、堕胎とその検査の為に施設に保護せざるを得なかった。
------
「葛根廟事件」という事件もありました。
ソビエト正規軍が、武器を持たない無抵抗の民間の日本人避難民を攻撃し、ほぼ全員を虐殺した事件です。
葛根廟というのは、ラマ教の僧院です。
興安南省と竜江省の省境に近い辺境にありました。
当時、葛根廟から25キロほど離れた興安とその周辺には、約4千人の日本の民間人が居たのです。
ソ連参戦の翌日、日本の民間人達は南方に向けて避難を開始しました。
8月12日、避難に遅れた2千人が、葛根廟をめざして、徒歩で出発しました。ほとんど女性と子供です。
ようやく葛根廟が視野に入ったとき、8月14日午前11時半、ソ連軍戦車隊が来襲します。
彼らは、武器を持たない無抵抗の女・子供に対し、機銃掃射を加えた。
あたりは血の海となり、生存者はわずか150人だった。
女や子供ばかりの隊列です。
武器もない。
誰が見ても、日本軍と間違うはずもない。
紛れも無く意図的な非戦闘員虐殺です。
------
「22名の私達が、自分の手で生命を断ちますこと、軍医部長はじめ婦長にもさぞかしご迷惑と深くお詫び申し上げます。
私達は敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるより死を選びます。
たとへ生命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満洲の地に止まり、日本が再びこの地に還ってくる時、ご案内いたします。
その意味からも、私どもの亡骸(なきがら)は土葬としてこの満洲の土にしてください」
これは、大東亜戦争が終わって10か月も経った昭和21年6月21日に書かれた、ある看護婦たちの遺書です。
彼女たち22名は、この遺書を書いた後、制服制帽姿で、銘々(めいめい)の胸のあたりで両手を合わせて合掌し、足を紐(ひも)できちんと縛ったうえで、青酸カリを呷(あお)って、集団自決した。
何があったのか。
昭和20年8月8日、ソ連軍は、日ソ不可侵条約を一方的に廃棄して、突如、満洲にいた日本軍に襲いかかりました。
満洲の東部国境付近にある虎林の町には、松岡喜身子婦長以下34人の日本人看護婦が勤務する野戦病院がありました。
戦争が終わり、彼女達は、武装解除した日本軍人らと共に長春に移された。
そしてソ連占領軍から看護婦たちのみ、八路軍長春第8病院で勤務で勤務せよと命じられます。
終戦から半年以上も経った昭和21年春、松岡婦長らは、ソ連軍から、城子溝にあるソ連陸軍病院第二赤軍救護所に、日本人看護婦数人を派遣せよと命じられます。
「勤務は1カ月間、月給は300円」という破格の好条件です。
なにかうさんくささを感じながらも、逆らえば命はありません。
婦長は、軍医らと相談のうえ、優秀で気丈な大島はなえさん(当時22歳)ら3人を選んで、送り出しました。
1カ月以上過ぎたとき、さらに3人の日本人看護婦を送れという命令がきます。
また1か月、また3人を送った。
3回目です。
そして第4回目の3人を送り出さねばならなくなった6月19日の朝、事件が起こった。
長春第8病院のドアに女性がドサリと、倒れかかってきたのです。
日本人の若い女性でした。
その女性は、振袖の着物を肌も露(あらわ)なイブニングドレスに仕立てた服を着ていた。
素足で長い距離を歩いてきたらしく、足はむくみ、傷だらけ。
顔も傷だらけで蒼白、体には11ヵ所もの盲貫銃創(小銃弾身体の途中で止まっている傷)を負い、全身が血まみれの情況だった。
そして服にも体にも、鉄条網を潜(くぐ)った時に出来たと思われる傷跡が無数にあった。
既に失血状態にあり、脈拍も不規則だった。
それは最初に送り出した、看護婦の大島さなえさんでした。
大島看護婦は、その瀕死の状態の中で、必死で婦長らに告げた。
「私達は、ソ連の病院に看護婦として呼ばれたはずなのに、最初からソ連軍将校の慰みものにされたわ。
嫌と言えば、殺される。
後から送られて来た同僚の日本人看護婦たちも、みな同様の目に遭ったわ。
もうこれ以上、看護婦を送らないよう、なんとか知らなくちゃ、それだけで逃げてきたの」
その言葉を最後に、22歳の大島さなえさんは、事切(ことき)れました。
翌日の午後、満洲のしきたりに習って大島看護婦は土葬された。
残された看護婦のみんなは、髪の毛と爪をお骨がわりに残した。
翌6月21日の朝です。
出勤した松岡婦長が医局に入ると、もう午前9時を過ぎているのに看護婦たちの姿がない。
婦長は胸騒ぎを覚えます。
そして、3階の看護婦控室まで駆け上がった。
3階は、不気味な程ひっそりしていた。
控室の入り口には、一同の靴がきちんと揃えて置いてあった。
障子を開けると、大きな屏風が逆さまに立ててあった。
中から、お線香の匂いがした。
婦長は、屏風の向こうに廻(まわ)った。
そこに看護婦たち22人が、居た。
全員、きちんとした制服制帽姿で横たわっていた。
銘々(めいめい)、胸のあたりで両手を合わせて合掌していた。
足は、制服のスカートのすそが乱れないように、紐できちんと縛っていた。
全員が、死んでいた。
22体の遺体の中央に、小さな机が置いてあった。
その上には、前日に弔いをした大島はなえさんの遺髪の箱が飾られ、線香と水が、きちんと供えられ、その横に遺書が置いてありました。
冒頭の遺書です。
彼女たちは、全員、青酸カリで集団自決したのです。
全員が、若い娘さんです。
恋もすれば、好きな人も居たかもしれない。
彼女たちの笑顔で救われた患者さんたちも、多かったに違いない。
「たとへ生命はなくなりましても、
私どもの魂は永久に満洲の地に止まり、
日本が再びこの地に還ってくる時、
ご案内いたします」
満洲開拓団の一員として、貧困にあえぐ満洲の人たちを救ける為にと志願した女性看護婦たちです。
その頃、日本だって貧しかった。
しかし、それ以上に、貧しく苦しい生活をしている人たちが満洲にいた。
だから彼女たちは彼女たちなりに、懸命に、多くの人たちを一人でも救おうと、命をかけていた。
そして、穢れなき日本人の魂を持つ彼女たちは、
「たとえ命がなくなりましても、私たちは永久に満洲に留(とど)まります」
「日本が再びこの地に還ってきたら、ご案内いたします」
「私たちの亡骸は、満洲の地に埋めてください」
という言葉を残してこの世を去った。
このお話には、後日談があります。
ボイラー係の満人の話によると、死の当日、彼女たちのうちのひとりが、ボイラー室に大きな包みを二つ、持ち込んできたそうです。
そして、これを目の前で燃やしてくれと言った。
ボイラー係りは、その場で燃やしてあげた。
彼女たちは汚れ物の一枚も残していなかったのです。全部燃やした。
それは、最後まで女性としての誇りを失うまいとした彼女たちの、女性としての身だしなみだったのではないでしょうか。
涙を誘います。
------
そして冒頭でご紹介した、モスクワ時事の配信を受けての日本政府の対応。
露の対日戦勝記念日 抗議せず
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100727k0000m010053000c.html
武正公一副外相は26日の記者会見で、ロシアで9月2日を事実上の「対日戦勝記念日」に制定する法改正が成立したことについて、「(法律には)『対日戦勝』など日本への言及も含まれておらず、ロシアが我が国の立場に一定の配慮を行ったと承知している」と述べ、ロシアに抗議しない考えを示した。
その上で「今後の日露関係に直接否定的な影響を与えないことを期待している」と語った。
(2010年7月26日 19時32分 毎日新聞)
------
一体、誰が誰に何を配慮したというのか?
歴史を学ぼうとせず、国益を守ろうとしない者が政治を司る日本。
ただの記念日制定とでも本気で思っているのか?
外交という戦争に完全に負け、北方4島は帰らないと言う事を理解しているのか。
副外相とやらのオマケが語る事からして、どれだけ国家というモノを何も考えていないかが良く分かる。
敗戦国非戦闘員への暴虐は、当時の価値観からして赦し難いモノです。
そんな事実がありながら、平気に戦勝記念だの領土主張だの。
条約を一方的に破棄し、武装解除した国に侵略し外道の限りを尽くした事に何ら恥じる事がないのだろうか?
獣にも劣るロシア人こそが、戦犯として裁かれるべき。
あとはアメリカも戦争犯罪国家で、朝鮮が犯罪民族というのが、先の大戦の判決として妥当でしょう。
------
もう一つ、皆様に見て頂きたいブログがありますのでご紹介します。
是非ご訪問ください。
ロシアの非道を許さない! by花うさぎの「世界は腹黒い」
http://hanausagi.iza.ne.jp/blog/entry/1167857/
本来なら、このロシアの理不尽な発表を逆手に、世界にその違法性を訴えるべきです。
転載と共に、外務省に抗議の1つでもして頂けたらと願います。
外務省
http://www.mofa.go.jp/mofaj/
岡田大臣
http://www.katsuya.net/
武正公一
http://www.takemasa.org/
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『樺太1945年夏 氷雪の門』オフィシャルサイトより
http://www.hyosetsu.com/intro.html
語り継がなければならないこの史実
現在ロシア領サハリンと呼ばれる、かつての樺太。
1945年8月15日の終戦の混乱の中、この地で多くの日本人が死んでいった。
8月6日、米軍による世界初の原爆が広島に、続いて8月9日には長崎にも投下された。
同日、ソ連は「日ソ不可侵条約」を破り、満州、樺太に侵攻した。
本作『樺太1945年夏 氷雪の門』は、ソ連の侵攻作戦のただなかで、最後まで通信連絡をとり、若い生命をなげうった真岡郵便局電話交換手9人の乙女の悲劇を描いた真実の物語である。
戦争は終わったはずなのに、何故、彼女たちは死を選ばねばならなかったのか。
この映画はその深層に挑んだ。
「樺太1945年夏 氷雪の門」昭和49年に制作されながら、上映10日前にソ連の圧力で上映中止に追い込まれた、という曰(いわ)く付きのもの。
ソ連は8月8日に宣戦布告、9日参戦、15日に樺太全土の婦女子に疎開命令、その後もソ連の侵攻はやまず殺戮を続ける。
20日に真岡郵便局の電話交換手9名が自決して物語は終わりますが、それまでにも病院の看護婦の集団自決、日本軍の戦闘停止交渉の使者が機関銃で虐殺、避難民にも容赦ない機銃掃射、町へは艦砲射撃、などなど。
出てくる人はみんな殺される、全く救いのない映画です。
作り物なら酷すぎる、と文句をつけるところですが、実話です…。
現在上映中ですので、オフィシャルサイトで確認し是非お出かけ下さい。
引用は以上です。
------
このロシアのやっていた事を判り易く言うと…
格闘技のプロがリング上で素人を散々攻撃し、もう止めてと言っているのに死ぬまで殴り続けて、その戦いに勝ったと言ってるようなものですね。
とあるコミュニティーで読んだのですが…
日教組を自称する人と話すと、
・日本軍が他国民の女性を慰安婦にした「作り話」は喜び、
・日本人女性が強姦されたり輪姦されて惨殺された「事実」を話すと、否定したり黙秘したりして、なんとか誤魔化そうとするそうです。
全ての反日勢力に、この言葉を贈ります。
「自分の国で苦しんでいる人がいるのに他の国の人間を助けようとする人は、他人によく思われたいだけの偽善者である(マザー・テレサ)」
わたしの竹島ですが、何か?
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読み応えのある記事が盛り沢山です。
↓ ↓ ↓
どうぞ、ご覧下さい。
「対日戦勝記念日」制定=北方領土支配を正当化-ロシア
http://www.jiji.co.jp/jc/c?g=pol_30&k=2010072500205
ロシア大統領府は25日、メドベージェフ大統領が同日までに、日本が1945年に第2次大戦の降伏文書に調印した9月2日を「第2次大戦終結の日」に制定する法改正案に署名したと発表、改正法が成立した。
事実上の「対日戦勝記念日」の法制化で、北方領土の実効支配を正当化する狙いがあるとみられる。
法改正案の趣旨説明では、ソ連軍の対日参戦により、満州や北朝鮮、北方領土を含む千島列島が「解放」され、第2次大戦の終結を早めたとしている。
ロシアのラブロフ外相は、先に終戦65周年の節目に当たり、対日戦勝記念日制定の意義を強調しており、サハリン州など極東を中心に各種の記念行事が行われるとみられる。
(2010/07/25 21:36 モスクワ時事)
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昭和20年8月9日、旧ソ連は、まるで火事場泥棒のようにに日ソ中立条約を一方的に破棄して、日本が降伏した後も満州、樺太、千島で残虐な殺戮の限りを尽くし、100万人以上の日本人を拉致して約30万人が犠牲になったと云われています。
そこで何があったか。
証言があります。
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満洲国開拓団の殉難 byねずきちのひとりごと
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-730.html
より引用させて頂きます。
(引用元の後半に、残虐な被害画像がありますのでご注意下さい)
昭和二十年八月二十日頃であったろうと思う。
鞍山から新京守備のために北上したので新京の街は北も南もよく解らないが、たしか終戦の日から数えて四、五日たっていたと思われる頃の出来事だった。
そんな日、病院の玄関で大声で騒ぐ声にびっくりして、私は板で括(くく)り付けた足を引きずりながら玄関に出て見て驚いた。
十二~三の少女から二十歳ぐらいの娘が、十名程タンカに乗せられて運ばれていた。
それは、まともに上から見ることの出来る姿ではなかった。
その全員が裸で、まだ恥毛もそろわない幼い子供の恥部は紫に腫れ上がって、その原形はなかった。
大腿部は、血がいっぱい付いている。
顔を歪めつつ声を出しているようだが聞きとれない。
次の女性はモンペだけをはぎとられて、下の部分は前者と同じだが、下腹部を刺されて腸が切口から血と一緒にはみ出していた。
次の少女は乳房を切られて、片目を開けたままであったから死んでいるのかもしれない。
次もその次も、殆ど同じ姿である。
一週間私はこの病院にいて毎日毎日この光景を見て、その無惨、残酷さに敗戦のみじめさを知った」
(「されど、わが満州」P172~3)
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目を背けたくなる事実ですが、続けます。
------
満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、今も念頭を去らない幾つかのエピソードがある。
北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、辛苦の末やっと三八度線近くの鉄原に辿り着いた。
そこで見たものは、日本人の娘達が次々にまずソ連兵に犯され、ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されて、さらに散々に辱められたうえ、虐殺されている光景であった。
折角ここまで連れてはきたが、最愛の二人の娘達もまもなく同じ運命をたどるであろうことを不悩に思い、近くの林の中の松の木に経って自決させ、これはその遺髪ですと言って私に見せてくれた」
(「ある戦後史の序章」の中にある石田一郎の手記より)
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刑法には、堕胎の罪という項目があります。
刑法212条~216条です。
しかし、優生保護法という法律が昭和23年にでき、刑法の堕胎罪は大幅に緩和され、有名無実化されました。
この優生保護法の第一条(目的)には、つぎの一文が書かれています。
「この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする」
この法律がなんのために出来たかと言えば、満洲国、日本統治領朝鮮といった国家が消滅し、そこで暮らしていた日本人が、大変な目に遭ったからです。
満洲や朝鮮半島から復員してきた女性達が全員、強姦された訳ではない。
しかし、復員してきた彼女達を、一旦は全員、堕胎とその検査の為に施設に保護せざるを得なかった。
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「葛根廟事件」という事件もありました。
ソビエト正規軍が、武器を持たない無抵抗の民間の日本人避難民を攻撃し、ほぼ全員を虐殺した事件です。
葛根廟というのは、ラマ教の僧院です。
興安南省と竜江省の省境に近い辺境にありました。
当時、葛根廟から25キロほど離れた興安とその周辺には、約4千人の日本の民間人が居たのです。
ソ連参戦の翌日、日本の民間人達は南方に向けて避難を開始しました。
8月12日、避難に遅れた2千人が、葛根廟をめざして、徒歩で出発しました。ほとんど女性と子供です。
ようやく葛根廟が視野に入ったとき、8月14日午前11時半、ソ連軍戦車隊が来襲します。
彼らは、武器を持たない無抵抗の女・子供に対し、機銃掃射を加えた。
あたりは血の海となり、生存者はわずか150人だった。
女や子供ばかりの隊列です。
武器もない。
誰が見ても、日本軍と間違うはずもない。
紛れも無く意図的な非戦闘員虐殺です。
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「22名の私達が、自分の手で生命を断ちますこと、軍医部長はじめ婦長にもさぞかしご迷惑と深くお詫び申し上げます。
私達は敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるより死を選びます。
たとへ生命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満洲の地に止まり、日本が再びこの地に還ってくる時、ご案内いたします。
その意味からも、私どもの亡骸(なきがら)は土葬としてこの満洲の土にしてください」
これは、大東亜戦争が終わって10か月も経った昭和21年6月21日に書かれた、ある看護婦たちの遺書です。
彼女たち22名は、この遺書を書いた後、制服制帽姿で、銘々(めいめい)の胸のあたりで両手を合わせて合掌し、足を紐(ひも)できちんと縛ったうえで、青酸カリを呷(あお)って、集団自決した。
何があったのか。
昭和20年8月8日、ソ連軍は、日ソ不可侵条約を一方的に廃棄して、突如、満洲にいた日本軍に襲いかかりました。
満洲の東部国境付近にある虎林の町には、松岡喜身子婦長以下34人の日本人看護婦が勤務する野戦病院がありました。
戦争が終わり、彼女達は、武装解除した日本軍人らと共に長春に移された。
そしてソ連占領軍から看護婦たちのみ、八路軍長春第8病院で勤務で勤務せよと命じられます。
終戦から半年以上も経った昭和21年春、松岡婦長らは、ソ連軍から、城子溝にあるソ連陸軍病院第二赤軍救護所に、日本人看護婦数人を派遣せよと命じられます。
「勤務は1カ月間、月給は300円」という破格の好条件です。
なにかうさんくささを感じながらも、逆らえば命はありません。
婦長は、軍医らと相談のうえ、優秀で気丈な大島はなえさん(当時22歳)ら3人を選んで、送り出しました。
1カ月以上過ぎたとき、さらに3人の日本人看護婦を送れという命令がきます。
また1か月、また3人を送った。
3回目です。
そして第4回目の3人を送り出さねばならなくなった6月19日の朝、事件が起こった。
長春第8病院のドアに女性がドサリと、倒れかかってきたのです。
日本人の若い女性でした。
その女性は、振袖の着物を肌も露(あらわ)なイブニングドレスに仕立てた服を着ていた。
素足で長い距離を歩いてきたらしく、足はむくみ、傷だらけ。
顔も傷だらけで蒼白、体には11ヵ所もの盲貫銃創(小銃弾身体の途中で止まっている傷)を負い、全身が血まみれの情況だった。
そして服にも体にも、鉄条網を潜(くぐ)った時に出来たと思われる傷跡が無数にあった。
既に失血状態にあり、脈拍も不規則だった。
それは最初に送り出した、看護婦の大島さなえさんでした。
大島看護婦は、その瀕死の状態の中で、必死で婦長らに告げた。
「私達は、ソ連の病院に看護婦として呼ばれたはずなのに、最初からソ連軍将校の慰みものにされたわ。
嫌と言えば、殺される。
後から送られて来た同僚の日本人看護婦たちも、みな同様の目に遭ったわ。
もうこれ以上、看護婦を送らないよう、なんとか知らなくちゃ、それだけで逃げてきたの」
その言葉を最後に、22歳の大島さなえさんは、事切(ことき)れました。
翌日の午後、満洲のしきたりに習って大島看護婦は土葬された。
残された看護婦のみんなは、髪の毛と爪をお骨がわりに残した。
翌6月21日の朝です。
出勤した松岡婦長が医局に入ると、もう午前9時を過ぎているのに看護婦たちの姿がない。
婦長は胸騒ぎを覚えます。
そして、3階の看護婦控室まで駆け上がった。
3階は、不気味な程ひっそりしていた。
控室の入り口には、一同の靴がきちんと揃えて置いてあった。
障子を開けると、大きな屏風が逆さまに立ててあった。
中から、お線香の匂いがした。
婦長は、屏風の向こうに廻(まわ)った。
そこに看護婦たち22人が、居た。
全員、きちんとした制服制帽姿で横たわっていた。
銘々(めいめい)、胸のあたりで両手を合わせて合掌していた。
足は、制服のスカートのすそが乱れないように、紐できちんと縛っていた。
全員が、死んでいた。
22体の遺体の中央に、小さな机が置いてあった。
その上には、前日に弔いをした大島はなえさんの遺髪の箱が飾られ、線香と水が、きちんと供えられ、その横に遺書が置いてありました。
冒頭の遺書です。
彼女たちは、全員、青酸カリで集団自決したのです。
全員が、若い娘さんです。
恋もすれば、好きな人も居たかもしれない。
彼女たちの笑顔で救われた患者さんたちも、多かったに違いない。
「たとへ生命はなくなりましても、
私どもの魂は永久に満洲の地に止まり、
日本が再びこの地に還ってくる時、
ご案内いたします」
満洲開拓団の一員として、貧困にあえぐ満洲の人たちを救ける為にと志願した女性看護婦たちです。
その頃、日本だって貧しかった。
しかし、それ以上に、貧しく苦しい生活をしている人たちが満洲にいた。
だから彼女たちは彼女たちなりに、懸命に、多くの人たちを一人でも救おうと、命をかけていた。
そして、穢れなき日本人の魂を持つ彼女たちは、
「たとえ命がなくなりましても、私たちは永久に満洲に留(とど)まります」
「日本が再びこの地に還ってきたら、ご案内いたします」
「私たちの亡骸は、満洲の地に埋めてください」
という言葉を残してこの世を去った。
このお話には、後日談があります。
ボイラー係の満人の話によると、死の当日、彼女たちのうちのひとりが、ボイラー室に大きな包みを二つ、持ち込んできたそうです。
そして、これを目の前で燃やしてくれと言った。
ボイラー係りは、その場で燃やしてあげた。
彼女たちは汚れ物の一枚も残していなかったのです。全部燃やした。
それは、最後まで女性としての誇りを失うまいとした彼女たちの、女性としての身だしなみだったのではないでしょうか。
涙を誘います。
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そして冒頭でご紹介した、モスクワ時事の配信を受けての日本政府の対応。
露の対日戦勝記念日 抗議せず
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100727k0000m010053000c.html
武正公一副外相は26日の記者会見で、ロシアで9月2日を事実上の「対日戦勝記念日」に制定する法改正が成立したことについて、「(法律には)『対日戦勝』など日本への言及も含まれておらず、ロシアが我が国の立場に一定の配慮を行ったと承知している」と述べ、ロシアに抗議しない考えを示した。
その上で「今後の日露関係に直接否定的な影響を与えないことを期待している」と語った。
(2010年7月26日 19時32分 毎日新聞)
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一体、誰が誰に何を配慮したというのか?
歴史を学ぼうとせず、国益を守ろうとしない者が政治を司る日本。
ただの記念日制定とでも本気で思っているのか?
外交という戦争に完全に負け、北方4島は帰らないと言う事を理解しているのか。
副外相とやらのオマケが語る事からして、どれだけ国家というモノを何も考えていないかが良く分かる。
敗戦国非戦闘員への暴虐は、当時の価値観からして赦し難いモノです。
そんな事実がありながら、平気に戦勝記念だの領土主張だの。
条約を一方的に破棄し、武装解除した国に侵略し外道の限りを尽くした事に何ら恥じる事がないのだろうか?
獣にも劣るロシア人こそが、戦犯として裁かれるべき。
あとはアメリカも戦争犯罪国家で、朝鮮が犯罪民族というのが、先の大戦の判決として妥当でしょう。
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もう一つ、皆様に見て頂きたいブログがありますのでご紹介します。
是非ご訪問ください。
ロシアの非道を許さない! by花うさぎの「世界は腹黒い」
http://hanausagi.iza.ne.jp/blog/entry/1167857/
本来なら、このロシアの理不尽な発表を逆手に、世界にその違法性を訴えるべきです。
転載と共に、外務省に抗議の1つでもして頂けたらと願います。
外務省
http://www.mofa.go.jp/mofaj/
岡田大臣
http://www.katsuya.net/
武正公一
http://www.takemasa.org/
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『樺太1945年夏 氷雪の門』オフィシャルサイトより
http://www.hyosetsu.com/intro.html
語り継がなければならないこの史実
現在ロシア領サハリンと呼ばれる、かつての樺太。
1945年8月15日の終戦の混乱の中、この地で多くの日本人が死んでいった。
8月6日、米軍による世界初の原爆が広島に、続いて8月9日には長崎にも投下された。
同日、ソ連は「日ソ不可侵条約」を破り、満州、樺太に侵攻した。
本作『樺太1945年夏 氷雪の門』は、ソ連の侵攻作戦のただなかで、最後まで通信連絡をとり、若い生命をなげうった真岡郵便局電話交換手9人の乙女の悲劇を描いた真実の物語である。
戦争は終わったはずなのに、何故、彼女たちは死を選ばねばならなかったのか。
この映画はその深層に挑んだ。
「樺太1945年夏 氷雪の門」昭和49年に制作されながら、上映10日前にソ連の圧力で上映中止に追い込まれた、という曰(いわ)く付きのもの。
ソ連は8月8日に宣戦布告、9日参戦、15日に樺太全土の婦女子に疎開命令、その後もソ連の侵攻はやまず殺戮を続ける。
20日に真岡郵便局の電話交換手9名が自決して物語は終わりますが、それまでにも病院の看護婦の集団自決、日本軍の戦闘停止交渉の使者が機関銃で虐殺、避難民にも容赦ない機銃掃射、町へは艦砲射撃、などなど。
出てくる人はみんな殺される、全く救いのない映画です。
作り物なら酷すぎる、と文句をつけるところですが、実話です…。
現在上映中ですので、オフィシャルサイトで確認し是非お出かけ下さい。
引用は以上です。
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このロシアのやっていた事を判り易く言うと…
格闘技のプロがリング上で素人を散々攻撃し、もう止めてと言っているのに死ぬまで殴り続けて、その戦いに勝ったと言ってるようなものですね。
とあるコミュニティーで読んだのですが…
日教組を自称する人と話すと、
・日本軍が他国民の女性を慰安婦にした「作り話」は喜び、
・日本人女性が強姦されたり輪姦されて惨殺された「事実」を話すと、否定したり黙秘したりして、なんとか誤魔化そうとするそうです。
全ての反日勢力に、この言葉を贈ります。
「自分の国で苦しんでいる人がいるのに他の国の人間を助けようとする人は、他人によく思われたいだけの偽善者である(マザー・テレサ)」
わたしの竹島ですが、何か?
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読み応えのある記事が盛り沢山です。
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