昭和2年生まれの雑記帳

一市井人の見た昭和の記録。今は思いも寄らない奇異な現象などに重点をおきます。
       

〈増補修正版 20〉私の終戦前後(2-2)

2014-09-25 | 昭和初期

   外米・高梁(コウリャン) 日中戦争が始まったのは昭和12(1937)年、私が小学校4年生の七夕の日だった。国内の食料事情が悪化し始めるのはそれから間もなくだったろうか。翌々年の春からは米の量が大人・子供・妊婦などのランク別にやゝ制限されて配給制となり、暫くして配給米の量は更に引下げられた。じきに、内地米の不足を補って外米と称する米が醍給されだした。仏印(仏領印度支那の略、今のベトナム)やシャム(今のタイ)のもので国産のものより少し細長かった。やゝ臭みがあるとて世評は悪かったが、嗅覚が弱いのか私は別に苦にしなかった。食糧事情は年とともにさらに逼迫(ひっぱく)して、満州では常食だが内地では鳥の餌だったとかいう高梁(コウリャン)が、時おり米の代わりに配給されるようになりさらに不評を買ったが、私はむしろ外米より1回り小粒で赤飯のような色付の高梁飯の味を好んだ。どんなものにしろ腹8分しか食べられなかったのは発育盛りとて辛かったが。

 *戦況の激化に伴い海外からの米の輸入が途絶え、その上、軍隊への食糧配給を最優先にしたため、国民への配給量は次第に減らされ、最後は2合1勺(約3百グラム)となり、ご飯にすると1日当たり4杯分(配給前の消費量の70%)にまで激減した。熱量に換算すると約1,200キロカロリーで、成人の必要熱量の60%だった。不足分を副食で補いたくても、乏しい配給制のためそれは困難だった。当時は空腹を満たす方法としてはご飯を食べることだけだった。菓子、パン、果物などなど、食糧品関係の店は入手不能のため全て店を閉じていたとか。                                   

 米つき 当時、申し訳程度に配給された米は玄米だった。精米すると分量が減ることを避けたからとのこと。これを一般にどこの家でも精米して食べたようで、そのことがニュースにもなっていた。新聞に写真も出た。1升(1.8)瓶に玄米を1合(0.1升)位入れて瓶の口から差し込んだ棒でザクザクと突いて白米にしたのだった。

  豆粕 太平洋戦争半ばの頃からだろうか高梁と時期を同じゅうしていたかと思うが、豆粕(脱脂大豆)も米の代りに配給されるようになった。それまでは家畜の餌か肥料にしか用いていなかったとかいう物だ。大量の大豆から圧搾機で油をしぼり取った後の粕で、1粒1粒の大豆は薄く圧延されて煎餅状になり、粕同士がきつくくっついて大へん厚いドーナツ状になっている。それをざっとほぐした物が配給されたのだ。家庭ではそれをまたほぐして、僅かしか配給されない米に混ぜて炊くのだ。好き嫌いのなくなっていた自分には、例によって味に不満はなかったが、下痢しがちなのには閉口した。それまでは胃腸は強いほうだったのだが、この頃から弱り始め以前記した馬鈴薯事件で徹底的に悪化の坂道を転げ落ちたのだった。

 *小学校の地理の教科書の写真で見た記憶では厚さ25㎝以上、直径90㎝位だろうか。ドーナツ状と書いたが、角に丸みはなく、分厚い板から同士円でくり抜いた形である。満州人(?)の苦力*2(クーリー)が2枚か3枚重ねたものを中央の大きな孔に通した棒で肩に担いで運搬していた。

 2Wikipedia”では、中国やインドの下級労働者に対する外国人の呼称。英語でcoolie。実質的には奴隷同様に労働力として売買された。19世紀後半の黒人奴隷解放後、欧米の植民地における需要が増大し、クーリー貿易といわれるほど大量に広東などからキューバやパナマに送られたとある。

  楠公軍飯 戦況がまだそれほど悪化しない頃だったと思うが、一時、楠公軍飯なるものを炊(かし)いだ。南北朝時代の楠木正成公が籠城の時に用いたとかでその名があり、新聞か何かで紹介された。米を煎ってから炊いたものをいう。普通の米飯のざっと倍くらいは膨らんだと思う。丼鉢に盛り上げた香ばしいご飯にありつけて久しぶりに満腹感を味わい満足したものだ。処が、実質はわずかしか食べていない上に消化もよい。却って、後の空腹が耐え難く長くは続かなかった。

 ホタル飯 これは今回ネットで見つけたものである。 ヨメナとヨモギ3升(約4,300グラム)に米1合3尺(約190グラム)を混ぜて炊くと、大量の菜っ葉の中にご飯粒が、ちょうど水辺の草葉に止まった ホタルのように、あちら1つ(粒)こちらに1つと、点在して見えることから名付けられたという。

 代用食 その頃の、小さい文字でびっしりの1枚きりの朝刊だけの新聞や、粗悪な紙の薄っぺらな婦人雑誌には代用食の欄がよくあった。昔からの食べられる雑草の紹介はもちろんのこと、松葉やドクダミミの根には栄養が豊富だとあって、疎開先の山野にはどっさりあるものだから少なからぬ期待を抱いて試してみたのだったが、好き嫌いの全くない私たち家族でもこれらばかりはお手上げだった。あのきつい臭いにさすがに辟易した。最近、ドクダミは美味しかったと言われた記事か何かに接して驚いたものだった。臭いを抜く上手な調理法があったのだろうか。戦後好評だったNHKの長期ドラマ『おしん』(橋田寿賀子脚本)では、主人公の少女おしんが貧しい家庭で大根を細かく切って入れた大根飯を朝に夕に食べたというが、それはしなかった。

   すいとん 十数年位前?までは終戦の日が近づくと、マスコミでの回想談として食べ物のことでは決まって“すいとん”を食べたというのが一番多く聞かれた。私は残念ながらすいとんを知らない。父の昼食は勤務先近くの食堂で決まってすいとんだったという。配給量の定められた“米穀通帳”からその分引かれた“外食券”1枚ずつが必要だった。父が毎日食べるので家ではしなかったかも知れない。すいとんとは、練った小麦粉(メリケン粉と言った)を手で引きちぎって、野菜と一緒に煮込んだものとか。ネットから引いた。今はすいとん粉というものを市販しているらしい。

   物々交換 次稿の『国の終戦前後』でも述べるが、スーパーインフレの時代に貨幣の価値は余りなく、特に食物に関しては、農家へ買い出しに行っても、物々交換でなければ法外な値段を吹っかけられたようだ。筆者の家庭でも疎開から帰ってみると、5段飾りの五月人形セットは甲冑だけを残して、蓄音機、レール付連結電車や、少々のゲームもなくなっていた。祖父と父が相談してのことだった。床の間の置物もなくなっていた。母の着物も随分減ったことだったろう。当時、「筍(たけのこ)生活」という言葉が盛んに使われた。筍は成長するにつけ、1枚1枚着物(皮)を脱いで行くという上手い比喩から生まれた言葉だ。 

    雑粉団子 戦争直後の我が家の食事は殆ど次のものに限られていた。野菜については覚えていない。主食はどこから買ってきたのか、濃い焦げ茶色の粉で作った団子を主体にした汁物。今考えてみると、これが我が家のすいとんだったのか。当時、甘藷の茎もよく食べたから、それの粉末も混じっていたか。蛋白質は、鹿児島へ引き揚げていた小学校の級友の母が売りに来た、米俵よりは少々小さ目の厚い紙袋一杯の雑魚(ざこ)。物々交換時代に、それなしに買えたことが有難かった。これを火にあぶったり、汁に入れたりして飽きもせずに食べ続けた。雑粉粉も同じ位の大きさのやはり厚い紙袋に入っていた。どちらも多分3か月以上は続いたか。年末近くになっての変化は、次々稿位の『長期停電』で述べる。雑魚の売主のご主人は退役海軍尉官で歴とした大阪の企業に勤めておられたのだが、疎開して困窮されていたのだろう。

                      [完]平成24年2月作成・26年9月修

 

 

 

 


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