昭和2年生まれの雑記帳

一市井人の見た昭和の記録。今は思いも寄らない奇異な現象などに重点をおきます。
       

<増修版 11> 昭和期の物品あれこれ 8-1

2014-06-03 | 手記

<増補修正版 11> 昭和期の物品あれこれ

         戦後のステータス3種の神器」

       今は見ない 痰つぼ・土つぼ・腰手拭

  3種の神器 戦後5年の昭和25(1950)年頃「3種の神器」という言葉が生まれ、それらを備えることがステータスとされた。そして、その中身はどんどん変遷していった。初期の神器は、我が家では父の仕事がようやく軌道に乗りかけていた頃なので、揃っていると満足していた。中身は“白黒テレビ・冷蔵庫・ミキサーだったと思う。これらのうち最も早く普及したのは白黒テレビで、逆に一番遅かったのは冷蔵庫とのこと。

 「ステータス シンボル」の略、階級・地位の象徴。

ただし、後になって気づいた。冷蔵庫というのは、電気冷蔵庫のことであり、我が家にあったのは毎日氷屋が氷を配達してきて入れ替えてくれる氷式冷蔵庫だった。無知にも電気冷蔵庫の存在を知らなかったための笑い話である。テレビ本放送開始は昭和28(1953)年―米国は1941年-で、それ以前は、電気釜(炊飯器)あるいは掃除機が代わりに入っていたこともある。これら3品目の家電は、努力すれば手が届く夢の商品(ネット上の言葉)であり、新しい生活の象徴だった。

  

   神器の変遷 以下、ネットで「3種の神器」の変遷を調べてみる。

昭和30年頃には、ミキサーが洗濯機変わった。昭和31(1956)年の経済白書が「もはや戦後ではない」と明記し戦後復興の終了を宣言した神武景気以降、輸出拡大で日本経済が急成長した時期である。その31年秋には結婚し独立していたが、後に校内暴力事件が多発して、田中角栄首相(昭和47~49年)のもと、教員の待遇改善が行われるまで、世間と没交渉の私にはその風はそよぎもしなかった。とっくに3機器保有の淡い優越感の時代は終わっていた。

後年知り合った町工場の経営者から、その頃は三輪車を造って毎日バケツに一杯札が詰まったと何度も聞かされた。1万円札(聖徳太子)が初めて発行された昭和33年、物価が激しく高騰していった頃の話だ。  

 日本高度経済成長の始まりで昭和291954)年12月から昭和32年6月までに発生した爆発的な好景気のこと。日本初代の天皇とされる神武天皇が即位した年(紀元前660年)以来、例を見ない好景気という意味で名づけられた。昭和30年に数量景気とも呼んだとのこと。昭和25年~28年の朝鮮戦争中、朝鮮半島へと出兵した米国軍への補給物資の支援、破損した戦車や戦闘機の修理などを日本が大々的に請け負ったこと(朝鮮特需)によって、日本経済が大幅に拡大されたために発生した。31年末には景気が大幅に後退し、結局日本経済の上部だけを潤しただけということから「天照らす景気」と呼び変えられた。そのため、次の好景気は昭和34年~36年の岩戸景気*2となった。その間になべ底不況*3と言われたデフレーションの時期があった。昭和32年7月から33年6月にかけてのことである。

 いざなぎ景気と並び、戦後高度成長時代の好景気の1つ。景気拡大期間が42ヶ月と神武景気の31か月をしのぎ、神武景気を上回る好景気から、神武天皇よりさらに遡って「天照大神天の岩戸に隠れて以来の好景気」として名付けられた。

  *3当初はなべ底の形のように景気が停滞したままであり、不況が長期化するのではないかと予想されたためにそう呼ばれた。しかし、不況の原因は在庫急増の反動という短期的な要因であったため、昭和33年から3回にわたる公定歩合の引き下げによって不況を乗りきることができた。なべ底不況の期間は昭和32年6月を山に33年6月を底とする12か月で終了した。

昭和40年末からのいざなぎ景気時代には、カラーテレビ (Color television)クーラー (Cooler)自動車 (Car) の3種類の耐久消費財が「新・3種の神器として喧伝された。これら3種類の耐久消費財の頭文字が総てCであることから、3C”とも呼ばれた。中でも普及が早かったのは昭和39年の東京オリンピックを境に売れ出したカラーテレビで、一番遅かったのはクーラーである。

昭和40年(1965)年11月から457までの57か月間続いた高度経済成長時代の好景気の通称。

後、ソニーが昭和54年に発売開始した“ウォークマン”は3種並べることができないが、一時期若者の間で大流行した。世界的に大ヒットしたとのこと。ソニー製の携帯型ステレオカセットプレーヤーである。

本書の範囲を逸脱するが、小泉純一郎首相(平成13~18年)は、平成15年1施政方針演説食器洗い乾燥機・薄型テレビ・カメラ付携帯電話新3種の神器」と命名し、「欲しいものがないといわれる現在でも、新しい時代をとらえた商品の売れ行きは伸びている」と述べた

平成15(2003)年頃からは“デジタルカメラDVDレコーダー薄型テレビを“デジタル種の神器と呼ぶようになり、最近少し前にはパソコン、腕時計、携帯電話”に変わって来ているとあった。流行には目もくれない筆者には腕時計がどんな物を指していたのか全く分らない。また。携帯電話は、今なら“スマートフォンという所だろう。電車に乗ると,若者の殆どはこれをいじっている時代だ。一頃、“ウオークマン(WALKMAN)の時代もあったと思う。場所を選ばず、いつでもどこでも音楽を聴くことのできる製品は画期的で、世界的に大ヒットした。それ故に“ウォークマン”は長らくポータブルオーディオの世界的代名詞であったとのこと。

 ソニー昭和54に発売開始した携帯型ステレオカセットプレーヤーのブランド名。その後、ソニー製各種ポータブルオーディオプレーヤーのブランド名に引き継がれ、音楽性能を強化したソニーモバイルコミュニケーションズ携帯電話の名称にも用いられた。

平成16(2004)年4月に松下電器産業(現パナソニック)が、白物家電食器洗い乾燥機IHクッキングヒーター生ゴミ処理機を「キッチン3種の神器」と提唱しているのが一番新しいようだ。

 1億総中流 昭和33(1958)年から始まった内閣府の「国民生活に関する「第1回世論調査」の結果によると、自らの生活程度を『中流』とした者が7割を超えた。同調査では『中流』と答えた者は昭和40年頃までに8割を越え、所得倍増計画のもとで日本の国民総生産(GNP)が世界第2位となった昭和43年を経て、昭和45年以降は約9割となった。中流意識は高度経済成長の中で1960年代に国民全体に広がり、1970年代までに国民意識としての「一億総中流」が完成されたと考えられる。

  3種の神器 平成15~22年にはデジタルカメラ・DVDレコーダー・薄型テレビとのことをそう呼んだ。これが一番新しい「3種の神器」ではなかろうか。4Kテレビが平成23年10月に登場はしているが、また新しい組合せが生まれるのだろうか。


<増補修正版 11>昭和期の物品あれこれ 8-2

2014-06-03 | 手記

 

  テレビの発明 余談になるが、昭和元年(1926)に世界初のブラウン管テレビの実験に成功したのは日本人技術者、浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)の高柳健次郎氏(明治32(1899)~平成2年、91歳)であり、初めてブラウン管送受像したのは「いろは」の「イ」の字であった。昭和15(1940)年に予定の東京オリンピック(日中戦争の激化により開催中止)に向けて、NHKで国産技術によるテレビ放送を予定していた。昭和14年には劇の実験放送成功にまで漕ぎ着けたが第2次世界大戦の勃発により短期間で中止。戦前の日本のテレビ技術は世界の先端を行く*2ものだったとのことである。彼は終戦後、NHKに戻ってテレビの研究を再開するがGHQの指令によりテレビの研究を一時禁止させられている。終戦の翌年、日本ビクターに高柳の弟子と共に入社。自身が中心となりNHK、シャープ東芝と共同でテレビ放送技術とテレビ受像機を完成させている。後、文化勲章勲一等瑞宝章を受章。

 *ドイツのカール・フェルディナント・ブラウが明治7(1874)年発明した図像を表示する陰極線管を指す。

 *21843  スコットランドのアレクサンダー・ベイン、静止画像を走査し電気信号に変換して電送する装置を開発。

 1873 - イギリスで明暗を電気の強弱に変えて遠方に伝えるテレビジョンの開発が始まる。

 1907 - ロシアのボリス・ロージング、ブラウン管によるテレビ受像機を考案。

 1908 - 英国のキャンベル・スウィントン、撮像側にも陰極線管を使った電子式走査法の概念を科学雑誌Natureに発表。全電子式テレビジョンを示唆。

 1926- 高柳健次郎 世界初のブラウン管テレビの実験に成功.

 1927 - アメリカのフィロ・ファーンズワース、電子式テレビ撮像機の開発。電子走査式の撮像管「イメージディセクタ」による映像撮影に成功。ブラウン管に「$$」を表示。同年、撮像・受像の全電子化が達成される。

 1928 - スコットランドのジョン・ロジー・ベアード史上初めて動く物体をテレビで遠距離放送することに成功。また、世界初の完全電子式カラーテレビ受像管も発明。

スコットランドのジョン・ロジー・ベアードがカラーテレビの公開実験に成功。

1929 - 英国放送協会(BBC)がテレビ実験放送開始。

1931 - NHK技術研究所でテレビの研究開始。

19328 - 英国で世界初の定期試験放送(機械式、週4日)開始。

1933 - 米国のウラジミール・ツヴォルキンがアイコノスコープを開発、野外の景色を撮像することに成功。

1935 - ドイツで定期試験放送開始。ベルリンオリンピックのテレビ中継が行われる。

1936 - ハンガリーのKálmán Tihanyi、プラズマテレビの原理を示す。

1939 - 日本でテレビ実験放送開始。

1939 - NHK放送技術研究所による公開実験。

1940 - 日本初のテレビドラマ夕餉前」の実験放送。

1941 - 米国白黒テレビ放送開始

1953 シャープが国産第1号のテレビTV3-14Tを発売。価格は17万5千円。日本放送協会(NHK)のテレビ放送開始(日本での地上波テレビ放送の開始)・初の民放(日本テレビ)でのテレビ放送開始。当時の主な番組は大相撲プロレスプロ野球などのスポーツ中継や、記録映画など。白米10kgが680円、銭湯の入浴料が15円程度であった当時、テレビ受像機の価格が非常に高価(20万〜30万円程度)で一般人には買えないため、多くの大衆は繁華街や主要駅などに設置された街頭テレビや、土地の名士などの一部の富裕世帯宅、また、喫茶店、そば屋などが客寄せに設置したテレビを見ていた。

1954 - アメリカNBCが、NTSC方式によるカラー本放送開始。

1955 - ラジオ東京(現TBSテレビ)がテレビ放送開始。

195612月- NHKのカラーテレビ実験放送開始(東京タワーから放送開始)。

  昼間の電灯 戦前の3種の神器はと考えると、見聞のごく狭い私には全てを挙げることはできないが、その1つとして昼間の電灯をぜひ記しておきたい。当時、我々庶民一般の家庭の電力は従量制ではなく、定額制だった。近所の全ての家の電灯は夕方薄暗くなるといっせいに灯ったものだ。今となってみると奇観とも言えよう。子供の頃、いつも母親に「電気がついたら帰っておいでや」と言われて遊びに出たものだった。朝、明るくなる頃にはいっせいに消されていたのだが寝坊の私には関係のないことだった。元旦の朝だけは例外で相当明るくなるまで灯っていたので、ひときわ正月を嬉しく意識したのだった。昼間に電灯のつく家は新興住宅地の級友たちの家にはなかった。1軒高級住宅地の友人の家だけで見たようなおぼろげな記憶がある。一番の親友だったのだが、3年生になって付属小学校へ転校してしまってからは家へは上がっていないので正確には覚えていない。

普通の家は各室に1つ、天井の真ん中から黒いコードで吊り下げられた陣笠形乳色の笠つき電灯があるだけで、電灯の数だけ料金を払っていたのだと思う。もちろん、部屋の隅にコンセント等ある訳がなく、松下幸之助の最初の大ヒット商品が二股ソケットだったというのは分かる。但し、これは盗電奨励商品ではなかろうか。電球だけの契約で、出回り始めていた電気アイロン等も使えたと思うのだが。それまでにも火熨斗(ひのし)という道具はあった。アイロンに柄のついた形をしており、本体部分を炭火で温めるのと、本体の胴中に炭火を入れるのと両方あったようだ。前述の級友と、隣家の大家の家とだけには、自宅に風呂があった。これはステータスというよりは高嶺の花だったかも知れない。


<増補修正版 11>昭和期の物品あれこれ 8-3

2014-06-03 | 手記

   逆さ団扇(うちわ) 風呂というと銭湯だ。私の近所には、4百~5百mおきに何軒もあった。太く長い煙突から薪を燃やす煙が常時もくもくと立ち昇っていた。なによりも印象的に覚えているのが吊り団扇だ。浴場から出てきたすぐの足拭きマットの真上の天井から、柄のけ根の部分をしばり付けられて柄を上にして垂れ下っていた。そして柄の上端にも取りつけられてだらりと下がっているひもの下方を上下にゆすって風を迎えるのだ。しかとは分らないが、昭和10年代初頭には扇風機が登場して団扇と交代した。筆者が知っているのは、風呂屋のも、三味線を弾きながら山村流舞踊を教えていた祖母の座椅子の後ろにあったのも、形は平成22年位までの物と大差ないが、黒ずくめの頑丈そうな物だった。祖母宅のは 正8(?)角錐台の木製の黒い台に乗っていた。

   風呂敷の役目 風呂屋の暖簾をくぐって入ると男女別々の入口が見え、その手前、土間の両側の板敷きに沿って履物は並べておく。男女別の入口から入った所で、その中間の番台で男女両方の脱衣場を見張っている人に料金を払い脱衣場に入る。脱いだ衣類は仕分けされた棚に入れていたが、終戦直後にぼろ下駄まで盗まれるようになり、各人、風呂敷や新聞紙を持参して衣服も下足も包んだ。棚には入らないので脱衣場に並べるようになって、錠付きの下足箱や脱衣箱が設置されるようになったと思う。風呂敷が江戸時代本来の目的に戻って使用されたのは多分短い間だったろう。

   新聞紙の役目 新聞紙はビニールが普及するまでは大切な包装紙だった。買い物の時、味噌などは家庭から容器を持参したが、大抵の小物は新聞紙でくるんで渡された。新聞紙を細分し糊付けして作った専用の小袋を使っている店もあった。

戦後相当たつまで、味噌でも、釘でもたいていの物は量り売りだったので、今のように要らない物まで買わされることはなかった。釘1本でも買おうとすれば買えた。今はたいていの小さな商品は箱やプラスチックケースに入っていて、姿は見えるけれども試してみることができない。信じて買うよりない。困ったのは電車内で買い物帰りの婦人と乗り合わすこと。魚の切り身でも新聞紙包みだったので、新聞紙処か、他の買い物と一緒に入れている風呂敷包みにまで血が滲み出していることが多く、満員電車内では、それと自分のズボンとが接触しないようにすることが大変だった。婦人のほうも必死の思いだったろうが。

   火鉢・五 今や暖房はエァコンかストーブの時代に入って火鉢という物をご存知ない方も多かろうと考える。火鉢というのは普通は分厚い瀬戸物製の、壺(つぼ)を大きくしたような容器だ。初めはわら灰を半分ほど入れた上へ炭火を幾(いく)つか入れ、その上へ手をかざして暖をとった物だ。1人用から数人用まで大小様々あったが、全身暖まる代物ではなかった。火鉢は小さい物には円筒形で底があるといった物もあったが、おおむね横から見ると、カボチャのような形の物が多かった。上端は腕を乗せられるように内側に向けて曲げて幅があった。余程寒い日、1人きりだと、両脚を広げてその両端上に足裏を乗せ、腰を落としてまたがる姿勢でかがみ込んで全身を温めた。これを「キ×タマ火鉢」と称したのは世間一般のことと理解している。話が少しそれたが、火鉢に無くてはならないのが五徳と火箸(ひばし)である。五徳とは炭火の真上に薬缶(やかん)を炭火から少し離して置くための鉄や真鍮製の器具。円輪の下に3本か4本の脚が付いていたと思う。「自在」と呼ぶのだろうか、天井から提げた長い棒状のものに取り付けた鉤かぎ)に薬缶を吊るすのは今でもTVでは時々見るが、実際に町で見た記憶は無い。火箸とは炭火を挟むための金属製の箸である。木炭の灰が増え過ぎたりした時にすくって捨てたりするためには十能(じゅうのう)という物も必要だった。豆スコップという処だろうか。昭和の初期にさかのぼると、安政生まれの曾祖母は長火鉢という物を愛用していた。縦横2×1m位の長方形の木製で、濃茶褐色の胴体周りはよく拭きこめられてぴかぴかしていた。胴体には銅版を内張りしてあった。中央に炭火を置き、隅っこにどうこ)呼ぶ銅製直方体の容器が置いてあった。この中の湯は絶えず中央の炭火の輻射で温められていて、必要な時に、付属している柄杓(ひしゃく)で湯を汲み出して使い、時たま水を補給しておく仕組みだ。だから、長火鉢には五徳は必要なかった。     

 


<増補修正版 11>昭和期の物品あれこれ 8-4

2014-06-03 | 手記

   卓袱(ちゃぶ) 4本脚の食事用座卓。円形または方形の卓に、裏側に折り込める脚がついているから、必要のない時は折り込んで、壁際へでも立てかけておけば部屋が広く使えて便利だから、全国的に使われていたとのこと。

   煙管(キセル)羅宇*(ラオまたはラウ) 紙巻たばこ(=シガレット)は明治14(1881)年には日本でも博覧会に登場したり、葉巻パイプなど、新しい喫煙スタイルも渡来したりしてステータス化していたらしいが、一般的にはまだまだ刻み煙草が用いられていたようだ。私の幼年時代によく羅宇屋を見かけたから言えるのだ。羅宇屋とは煙管(きせる)の掃除や修繕屋で、夜泣きそば屋と同じような、屋根のある小さな屋台を曳いて回っていた。小型ボイラーを積んで、絶えず一筋の白い蒸気を屋根上の細い管から真上へ噴きあげていた。その蒸気で煙管の羅宇内のヤニを取るのだが、その蒸気で鳴る「ピー」という笛のような音で、遠くからでも羅宇屋だと分かったのだった。

 *煙管は真鍮製の吸口と雁首(がんくび)と呼ばれる煙草を一つまみ詰め込む皿とを竹筒でつないだもので、この竹筒の部分が羅宇と呼ばれた

  洗濯機以前 話が昭和初期に戻る。作家の故井上ひさしさんも書いておられた*と思うが、たらい洗濯板洗濯石鹸(固形)は必需品だった。洗濯板とは35×60cm位の厚板に短辺に並行に多数のきざみ目を入れたもので、これを水の入った木製のたらいの端に斜めに立てかけて、洗濯石鹸をこすりつけた洗濯物をこのきざみ目に垂直方向に押し当て、ごしごしこすって洗う道具のことである。大方の家庭はこの方法によったのではあるまいか。[]現在でも洗濯板は靴下洗い専用などの小型のものはあるようだ。

 *文庫本、書名失念。ネットでも不明

   洗い張り シンシ針というのをご存知だろうか。3軒先に洗い張り屋があったのだが、母親は時々、自分でそれをやっていた。着物の縫い目の糸を全て抜いて元の反物状態に戻した布を洗い、それを皺(しわ)がないようにピンと張るための小道具だ。反物の幅より少し長い竹ヒゴの両端に短い針を植えつけただけのもので、この針を、洗って乗り付けをして乾いていない反物の、幅の両端に突き刺すことで、シンシ針と布とは、横から見ると弓竹と弦の関係になって布は皺(しわ)が全くないようにピンと張られるのだ。15cm間隔位に、干す布の裏側に平行に張り並べる。よく手伝った。幸い我が家の前面は広かったのと、向かいは電車軌道で、その柵に沿って両端に立てた物干し棹の間に張るので通行の妨げにならなかったから出来たことだ。もちろん,乾かした布は、手縫いでまた着物に仕立て直すのだ。母は家業の手伝いもやっていた。中年までは正月3ヶ日に家族でゲームをする外は何の娯楽もなく、9歳上の夫に至って従順な家庭一筋の女性だった。昔の女性は大変だった。今でも洗い張り業などあるのだろうか。大型アイロンで片付くように思って調べるといくつもの業者の広告がネットにあった。シンシ針の作業はアイロンに任せても、抜糸は手作業が必要なためだろうかと推測し納得した次第。

  夜店 昭和6年頃か、安政生まれの曽祖父のお供をして時々夜店に行った。場所は日本橋の橋上。確か、下には川が流れていた。その川はとっくに暗渠となって埋め立てられ、上の道路には車がひしめいている。何よりも覚えていることはアセチレンガスの鼻をつく臭いだ。カーバイドに水を反応させて出る赤みのある光をランプに利用していたのだ。今の夜店よりは少々暗かった。これは昭和10年代になっても(後の)阿倍野区の夜店でもまだ使われていた。ついでに記しておくと、写真師が写真を撮る時にはマグネシュームを発光させていた。レンズが小さく、フィルムの感度が低いために強力な光が必要なためだった。金属製の皿のような物の上でマグネシュームを焚くと「ボッン」と一瞬やゝ大きな音をたてて激しく光るとともに鼻をつく臭いが漂ってくるのだった。

   年始回り 昭和8年に、翌年秋には室戸台風で倒されることになる新築の長屋へ移った。そして、翌元旦、私の記憶では最初で最後の幔幕(まんまく)張りを見た。近所では全く見られなかった。私のごく幼児期に現南区の住居では毎年していたそうだ。全ての家で注連(しめ)飾りと、玄関の両側の柱に1本ずつ松の小枝を釘で打ちつける門松はしていたと思う。そして、並びの家々の名刺受け―私の記憶ではこれを見たのは最初で最後―に名刺を入れて回った。幔幕の材質は藍色のしっかりした厚みのある生地でずっしりと重かった。間口だけはやゝ広い家だったが、十分に端から端まであり、中央だったかに我が家の家紋、花オモダカが大きく白抜きされていた。その生地の一部は今も残っている。そろ盤の袋と当時粗悪だったコンサイス辞書の紙表紙のカバーとして。 終戦前後には、この生地はパンツ、当時は猿股さるまた)と称したもの等にも化けて大いに重宝された。全部母の足踏みミシンでの労作だ。

 


<増補修正版 10>昭和期の物品あれこれ 8-6

2014-06-03 | 手記

  車の方向指示器 昔は、運転席や助手席の窓枠外に貼りつけた、地面に垂直方向の鞘(さや)内にある20cm位の棒状のものであり、右折する時は右窓のが鞘から出て、窓に垂直になり、後続車に見える仕組みだった。赤い色をしていて半透明で、夜は内蔵しているランプで光った。今思えば後続車から見えにくい位置にあったのだが、昔は車が少なかった*から不便はなかったとのこと。停止や減速する時の合図の方法はなかったのではなかろうか。

 *全国の自動車(全種保有台数 最初は10年おきに記す。明治40(1907)年 16台、大正6年 2672台、昭和2年 6.6万台、(以下、単位の万台省く)12年 21.7、22年 18.5、32年 177.5、42年 963.9、52年 3.104.8 以下略、平成25年末で7,963万台。

  車の助手 物ではなく、者なのだが、昔は法律で車には必ず助手を乘せなければならなかった。バックする時や踏切を渡る時、助手は車から降りて誘導したものだ。変わって、人件費の高い最近ではワンマンカー処か、無人カーまである有様。ついでに言うと昔の大阪市電は各乗降口に車掌(先頭は運転手)がおって、手動で扉を開閉した。確か全区間5銭(1/20円)だったから予め切符なり、回数券を買っておけば、降りる時に、1枚渡せばそれでよいのだった。主な停留場では日本手ぬぐいで頬かぶりをした女性が2~3人いて、乗ろうとする客に切符を売っていた。11枚綴りで10枚分の値段の回数券の1枚を切って渡すから1枚分が収益になったのだろうか。大阪市電の切符は5cm×10cm位のざら紙で、市電の全経路と主要駅の略図が書いてあった。乗り換える場合は予め切符に乗換駅の位置だったかにパンチャー(切符切り)でパチンと孔を開けてもらって、乗換後も同じ切符がつかえた*のだった。改札口のある郊外電車では、戦争でやゝ人出が足りなくなってきた頃から大鉄(現近畿)電鉄では中央の車掌は廃止し、各車両後尾の車掌が飛び降りて、そこと、真ん中の扉とを外から開け、発車するときは、まず中の扉を閉め、次に後ろの扉を閉め、走りだしている電車の車掌席の出入り口から飛び乗っていた。太平洋戦争がたけなわになると、法律で車掌は女性に限られた。男性は、軍隊や、軍需工場に戦士として駆り出されたのだった。

  *昭和10年代半ば日支 戦争勃発暫く後くらいまでは、電車もバスも最低乗車料金は5銭だった。

   その他 汽車・夜行寝台列車・連絡船・木炭バス・人力車・リヤカー・鉱石ラジオ・手回し(発電)電話機・蓄音器・フィルムカメラ・8ミリ映写機・幻灯器・テープレコーダー・タイプライター・ガリ版(謄写版)・複写用カーボン紙・トレーシングペーパー・青写真・製図器・烏口・万年筆・インク・ベルト式旋盤*など挙げれば枚挙にいとまがない。油紙もビニールシートに換わった。中年以上の多くの方には説明の必要がないと思われるものを列挙した。万年筆など一部で使用されているものはある。和服・足袋・番傘も一般的ではなくなっている。カンカン帽*はご存じない方が多かろう。その他まだいろいろあるに違いない。教えて頂ければ追記して『お知らせ欄』でも報告します。何卒よろしく。

平成の産物だが、ウオークマンやポケベルは早やなく、携帯電話も早や“ガラケー”*と呼ばれ、スマートフォンに取って換わられたように見える。会社からポケベルを持たされていたひとの「猫の首に錫を付けられていたようだ」の投書を見て奇妙に納得した。

 **共に『こぼれ話』として別個に採り上げる。

 *“ガラパゴス携帯”の略。スマートフォンが登場する前の「普通の携帯電話」のことを意味する。名前の由来は日本の携帯電話が世界から隔離されたような環境で独自の進化を遂げたからとか。ワンセグ・着うた・着メロ・電子マネー・お財布携帯・アプリゲームなど、日本では当たり前のような機能が、海外ではほとんど普及していないことによるとか。

 また余談だが、官立高等学校の学生は白い鼻緒の朴歯(ほおば)の下駄を履き、弊衣破帽*放歌高吟。腰のベルトにはわざと汚した日本手拭 (てぬぐい)をだらりと提げていた*2。それが彼らのステータスだったのだ。一頃、すり切れたジーンズを履いている若者が非常に多かった。ジーンズは製造過程で初めから破り、汚して売るとその頃テレビで見た。前記の弊衣破帽の心理と通ずるのか。今は新しいのを履いている若者も見かける。一方で、おしゃれ学生の氾濫。十人十色、世は様々である。

  *帽子の天辺を無茶苦茶に破り、帽子も白線もわざと汚した。冬は裾のほつれた黒いマントを羽織った。筆者の商業学校の時の級友たちも殆どはそれに幾分は近かった。中には短刀を隠し持っていて、他校生とよく喧嘩したとかいうことを自慢にしている奴もいた。

  *小説「一高時代」(作者名・出版社名失念)なども参照。

  重厚長大 「重厚長大とは、昭和の時代の機械製品の特徴を、平成時代の製品と対比して言った言葉である。以前の製品は堅牢かつ重かった。材料が主に鉄や銅の時代、今の合成樹脂の時代と比べてやむを得ないことだ。今は軽薄短小時代。大いに有難いのだが、修繕しようにも合成樹脂で封じ込められていて分解不可能で、業者でも手も足も出ない製品が極めて多くなっている。修理が効かない、いわゆる“使い捨て時代”は、この資源不足の時代には終えたい、江戸時代のリサイクル社会に学ぶことはないかとは思うのだが、一方そうなると、産業のますますの衰退を招くだろうし、とかく世の中は難しい。


<増補修正版 11>昭和期の物品あれこれ 8-7

2014-06-03 | 手記

   * (ヒル)ペニシリ  最後に“物品”とは言いにくく、しかも科学の両極端(?)の話で失礼する。昭和10年頃、曾祖母は、よくヒル*を両肩に乗せて血を吸わせていた。肩のこりをとるためだったのだろうか。どす黒いヒルは吸った血で膨れ、その血の色がヒルの皮膚を通して体全体赤黒く見えていた。

ペニシリンは、昭和4(1929)年、米国でアオカビから発見され、アオカビの学名から命名された。昭和27(1942)年 ペニシリンGが実用化して、感染症の臨床治療を一変させた。発見者・開発者ら3人に1945年、 ノーベル医学・生理学賞が授与されている。

 *池や沼など、水中にいる軟体生物。大型動物の血を吸う。体の前後端に吸盤を持ち、私の知っているのは長さ3cm弱位だったろうか。山ビルというのもあって、太平洋戦争中には、南方のジャングルで樹上から落ちてきて血を吸うので、兵たちが苦労なさったという報道もよくあった。   

   火災死 最近の火災のニュースでは、決まって死者の数が報じられる。昭和の時代では、よほどの大火事でない限り、死人が出ることは少なかった。この違いは建造材料や接着剤に化学製品が使われ出してからのことに違いない。化学製品は燃え方も激しいだろうが、有毒ガスを出すことが死因増加の大きな原因ではなかろうか。全くの素人の無責任な発言であることはお許し頂きたい。いつからかと調べたが、概ね昭和30年以後*のようである。

   *発泡スチロールは昭和25年ドイツで発明され、日本では34年より生産が始まった。プラスチックとともに燃えても大した毒性はないとのこと。家や冷蔵庫などの断熱材とするウレタンフォーム―燃焼すると毒性があるようだ。これは昭和29年ドイツで連続製造法を開発。肝心の建材について随分調べたが思わしい成果が得られなかった。      

             〔完〕(平成23年9月記・26年5月追記)

 

     昭和9年の出来事

1月1 - 東京宝塚劇場開場。

8 - 京都駅呉海兵団入団者の見送りによる大混乱。跨線橋の階段で77名が圧死(京都駅跨線橋転倒事故)。

15 - 日本共産党内部の裏切り・スパイ疑惑に関する査問事件を「赤色リンチ事件」として公表。

26 - ドイツ・ポーランド不可侵条約締結。

27 - スタヴィスキー事件によりショータン仏内閣総辞職。

28 - シェストフ「悲劇の哲学」邦訳。「シェストフ的不安」が流行語になる。

29 - 日本製鐵株式會社設立(2月1日営業開始)。

31 - 兵庫県但馬地方で30年来の大雪。18名死亡。

2月1 - 日比谷映画劇場開場。

6 - フランスで、アクション・フランセーズなどの国粋主義団体による反政府暴動が発生。翌日ダラディエ内閣総辞職。

12 - オーストリア社会民主党支持の労働者をドルフスキリスト教社会党政権が拘束した事をきっかけに両党が軍事衝突。(2月内乱)。

19 - 愛知県蒲郡市蒲郡ホテル完成(初の国際観光ホテル)・三枝博音「日本に於ける哲学的観念論の発達史」・山田盛太郎「日本資本主義分析」。

3月1 - 満州国にて帝政実施。執政溥儀が皇帝となる。

5 - 文部大臣鳩山一郎が綱紀問題で辞任。

9 - 時事新報社社長・武藤山治神奈川県大船町(現:鎌倉市)の別邸近くで狙撃される(翌10日死去)。

12 - 友鶴事件。長崎県志々伎岬沖で水雷艇友鶴が荒天下の演習中に転覆。艦長以下100名死亡。

13 - ムッソリーニ、スペイン王党派と協定。

16 - 初の国立公園指定(瀬戸内海雲仙霧島)。

21 函館市大火。24,186戸焼失、2,166名死亡。・東日本で暴風雨。727戸倒壊、50名死亡。

24 - 日活多摩川撮影所を買収、現代劇部の東京移転を開始。


<増補修正版 11>昭和期の物品あれこれ 8-8

2014-06-03 | 手記

 

4月1日 - 山口貯水池(狭山湖)完工式。

2日 - 海軍航海学校開校(横須賀市)。

13日 - 明治生命館完成。

18日 - 帝人事件

21日 - 忠犬ハチ公銅像除幕式

5月以後 - 東北地方を中心に冷害と不漁が相次ぎ、その年の同地方は深刻な凶作となって飢饉が発生した。

5月16日 - アメリカ合衆国ミネアポリスでトラック運転手がゼネストに突入(ミネアポリス・チームスター・ストライキ)。

23日 - 米国で銀行強盗・殺人を繰返していたクライド・バロウとボニー・パーカーが警官隊の待伏せに逢い射殺。

30日 - 東郷平八郎元帥死去。東郷神社建設の声が全国で起る。6月5日 国葬日比谷公園)。

 

6月1日 ユーゴ通商協定調印、輸出組合法改正施行(ダンピング取締・政府統制強化)・南都銀行設立。

7日 - 日比谷公会堂藤原歌劇団第1回公演(「ラ・ボエーム」)。

8日 - 南京蔵本書記生失踪事件

20日 - 東京台北間に無線電話開通。

25日 - 築地本願寺完成。

30日 - レーム事件ヒトラーレームシュライヒャーらを粛清。

7月3日 - 齋藤内閣が帝人事件により総辞職。

4日 - 元老西園寺公望が後継首班を推す重臣会議開催(後継内閣決定の先例)。

8日 岡田啓介内閣発足。

8月2日 - ヒンデンブルク大統領死去。

19日 - 大統領選挙にてヒトラーが当選、総統と首相を兼任( - 1945年)。

9月18日 - ソ連国際連盟加盟。

21日 - 室戸台風日本上陸。

27日 - 日本フィリピン間に無線電話開通。

10月1日 - 陸軍省がパンフレット「国防の本義と其強化の提唱」を配布、社会主義国家創立を提唱。

5日 - 冥王星において火星の日面通過が起こる。次回は2183年1月14日に発生する。

6日 - カタルーニャが独立宣言、まもなく鎮圧。

9日 - ルイ・バルトゥ仏外相とユーゴ国王アレクサンダル1世が暗殺される(日本でも号外) 。

10月15日 - 中国工農紅軍瑞金を脱出し長征を開始。

25日 - 日本 蘭印間に国際電話開通・高山本線全通。

11月1日 - 満鉄大連新京間に「特急あじあ号」を運転開始(8時間30分)。

2日 - ベーブ・ルースら17名が米大リーグ選抜チームとして来日 (〜12月1日) 。

5日 - 谷崎潤一郎文章読本」発刊。

7日 - 東北地方の冷害凶作被害に対して、昭和天皇香淳皇后から50万円の救恤金が下賜される。

8日 - 千葉県東葛飾郡で牛乳による炭疽病発生 (警視庁が業者に牛乳17の廃棄を命令) 。

11日 - 陸軍特別大演習(北関東平野)

16日 -群馬県桐生市昭和天皇誤導事件ベーブ ルース藤沢カントリー倶楽部でゴルフを楽しむ。

19日 - 桜島フェリー運航開始。

20日 - 陸軍士官学校事件

24日 - 流線型機関車第1号(C53の改造)。

27日 -第66臨時議会召集・藤井真信蔵相が病気辞任(後任高橋是清)

29日 - 日本初のアメリカン・フットボール試合 (全日本学生対横浜在留外人) 。

日付不詳田辺元「社会存在の論理」(「哲学研究」) 。

12月1日 - 丹那トンネル開通。それに伴いダイヤ改正

5日 - ワルワル事件エチオピアが武力衝突。

8日 - 日米間に国際無線電話開通。

10日 - 東北地方の冷害凶作被害に対処するため、凶作地ニ対スル政府所有米穀ノ臨時交付ニ関スル法律(昭和9年法律第52号)が公布される(同年12月21日施行)。

11日 - 東京樺太間に電話開通。

22日 - 文部省国語審議会設置。

24日 - 第67議会召集。

26日 - 大日本東京野球倶楽部結成。

29日 - 日本が米国にワシントン海軍軍縮条約の単独破棄を通告。

ヨシフ・スターリンの「大粛清」が始まる。

日付不詳- インドネルー国民会議派の指導者となる。・トルコ、第1次5か年計画。


<増修版 6>被災記録4 空中戦目撃・爆弾不発で命拾い( -1)

2014-03-16 | 手記

<増補修正版 5>被災記録4

    空中戦目撃・爆弾不発で命拾い

        爆弾の距離で異なる落下音

空中戦目撃(?) 昭和20(1945)年6月1日、458機来襲、2.8千トンの爆弾投下、大阪の北部壊滅の日の日記を全文掲げる。夕刻前の出来事だった。

 『F君(生野区在住)歓送に赴く。途上空襲警報発令。酒席半ばにして、早や天満・築港方面は火炎こそ見えねど灰色の煙濛々(もうもう)たり。敵機来襲を告げる1点7斑打の鐘音頻々たり。煙は入道雲の如く、其(そ)の上を下を、10機また20機の編隊東へ東へ飛び来たり飛び過ぎる。時として高射砲弾の命中せしか、敵機群の中に当たりて、パッと上がり、或(あるい)は火線一閃、空の要塞の白煙を引きつつ高度を落とし来るを望見す。快哉の叫び衆人の口より一斉(いっせい)に発す。突!!突!! 頭上に当たりて電車の走れるが如き音を聞く。頭を抱えて屋内へ跳び込みたり。何ら爆発音を聞かず、火災の起こるを見ず。不発弾なるか、時限弾なるか、もし、これ大型弾にして触発したりとせば吾(われ)の運命如何(いかん)、方(まさ)に風前の灯火(ともしび)たりし。警報下頭巾1つ冠(かぶ)るなく、徒歩にて阿部野橋*へ帰れるが、今にして思えば無謀のことなり。途中屡々(しばしば)砲弾破片の空気を震わせ閃光を引いて落下するあり。よくぞ傷つかざることなり。

1時前なるか空襲警報解除。大鉄電車内*にても北田辺を過ぐるも焦げ臭し。

 本日の来襲敵機数B29 400、南紀にP51*11機。撃墜47、撃破83、我が方自爆1。之(これ)敵機目撃当初に火を噴いて落ち行く機の余りに小なるは、体当たりせし友軍機にあらずや。其の直後、煙を引いて編隊より離脱したる大型機あればなり。未帰還1。炎上箇所、天満・都島・十三・梅田・西・築港・大正の各警察署管内(或は1、2の聞き漏らしたる所あらんか)第1回の空襲と併せて、大阪の残りたるは南・東部のみならんや。』

以上原文のまま、仮名遣いと漢字は現代式に改める。文語体で書いたのは1年間。陸軍士官

学校の紹介書の影響による。()内は今回追記。

   (毎日新聞社刊行『1億人の昭和史』第15巻「昭和史写真年表」から) 

  *2同級の親しい友人が航空隊の予科練習生だったかに志願し、壮行会の日に彼の家庭に 招かれた。終戦の年の3月末に徴兵年齢が1歳歳引き下げられて17歳となった。その2年前の9月からから文科系大学の授業停止が行われていたが、さらに一部の理工系以外の学生の徴兵延期は廃止されることになった。それ以前にもみずから志願して各種の兵員養成校へ入校した者も多く、正確なことは分からないが、終戦時には60人の級友中、少なくとも19人が兵役にあり、他に数人は満州国(現、中国東部)の日本が開発した鉄道や、製鉄会社に就職していた。戦後全員が無事帰国したことにも触れておきたい。軍人となっていた者も、すでに戦地に渡る船や飛行機がなく、国内待機だったためであり、他の学級の2人の友人は毎日広島湾の底で機雷の番をしていたという。敵艦が頭上を通れば、機雷をつないでいる鎖を解き放す任務だった。特攻隊だ。敵艦が攻め込んで来る前に終戦に          なって助かった。隊の名は「潜竜」か何か、「竜」の字が付いていたと思うのだが定かでない。50年以上前に聞いた話で、ずっと確かめたく思っていたのだが、その後、合同の同窓会がなく、彼らの名前もすぐに忘れてしまっていたので果さなかった。新聞はよく読んでいるが、ついぞその話は見かけないでいる。

  *米国の新鋭爆撃機“ボーイングB29”の異称。 

  * 爆弾でも焼夷弾でも落下地点からの距離によって落下音は全く異なる。後の記事で落下音の種々相を紹介するが救急車のサイレンの音が、近づく時と遠ざかる時とで異なるのは“ドップラー効果”と言われ、音源と聞くひとの間の空気の波長が短くなるか、長くなるかの違いによるものという。

  *現近畿日本鉄道長野線や、南大阪線の始発駅。その所在区名は阿倍(・)野区、区内にある北畠顕家を祀るのは安倍(・)王子神社だが、駅名や現JR線をまたぐ陸橋は阿部(・)野橋だった。

  *「大阪大空襲」編に記したように、それ以後終戦暫くまでは、大阪府南部の農家の1室へ家族4人は疎開していた。空襲警報の間、電車は止められ、全員近くの畦(あぜ)などに退避していたようだが、腹を決めて1人座席に横たわり眠っていた。何しろ夜もふけていて警報解除までに時間がかかることは見越していたから。

  *7 米軍の航空母艦搭載戦闘機「ノースアメリカンP51」(1人乗り)