昭和2年生まれの雑記帳

一市井人の見た昭和の記録。今は思いも寄らない奇異な現象などに重点をおきます。
       

42 〈修正版〉新米教師迷走 想定外続出

2013-10-09 | 中学校

 

 42 〈修正版〉新米教師迷走 想定外続出 

  これが修学旅行? 奉職の年、昭和23年(終戦後3年目)の秋に戦後初めてとかの修学旅行が行われた。まだまだ食料難の時代だった。各自米を持参してのことだ。当時は各個で天王寺公園に集合し、そこから貸切電車で琵琶湖畔の、戦争中は農業団体の訓練道場だったとかいう大きな平屋の古びた木造宿舎に直行した。

 *少し後に、校区に近い平野駅から集合地へ向けて乗車した1人の本校生が線路わきの電柱にぶっかって死んでから他所での集合が禁止されたことは『19 極度の車両不足』で取り上げた。

 だだっ広い大広間の焦げ茶色の畳は、一面に草がびっしり生えているようだった。畳のイグサが切れて2cm位ずつの長さではね上がっていたからだ。

夕方から夜にかけて生徒たちは全員そこで余興大会を催したのだ。私も苦労して自作した材料で手品を1つして好評だった。その後修学旅行には何度も参加することになるがこんな催しはこの年限りだった。手品を終えて外出してみると外灯はなく、辺り一面真の闇。建物際にちらちらと赤い火が3つだけ点滅していた。近寄ってみると、体格のよい生徒が3人煙草を吸っていた。教えている生徒ではなかった。私に気づくと各人あわてて別の手で握っていたリンゴにかじりついた。臭い消しの用意まで周到にしていたのだった。煙草を取り上げ、舎内に連れ戻したが、担任に報告はしなかった。余興大会は無事終了して生徒たちはその場にびっしりと布団を敷き詰めて寝に着いた。

  ???!! 私も眠りたかった。私は昔も今も人並み外れて長時間眠らずにはいられない質(たち)である。教員数人の寝室は大広間の隣の狭い和室だったが、長老2人がいつまでも碁を打っていて他の教員も周りで見ているから、布団の敷きようがない。押し入れの上段で寝ることにしてそこの布団を全部部屋の隅へ下ろしてあっと驚いた。布団の下は一面びっしりと全く隙間もなくネズミの糞で敷き詰められていた。よく乾燥していて、弱い嗅覚では臭いを感じなかったのは救いだったが。戦時中はこの押入れは空だったのか? 仕方なくその上へ布団を敷いてもぐった。すぐに眠りに落ちた。 

  虫垂炎 2月初めに虫垂炎(盲腸炎)にかかった。夜、きつい腹痛が始まりで、近所の医院でベッドに寝かされ、右下腹部を静かに押さえていて、ぱっと手を放すとキリッと痛んだ。虫垂炎と即断、入院に決定。診察中に突然激しい寒さに襲われ、毛布や布団を3枚位かけてもらったが、こらえきれずにベッドがガタガタと激しく音を立てて揺れた。幸い、タクシーで10分以内の所に市内でも有名な虫垂炎の専門病院があった。乗り付けた時には痛みはぴたりと収まっていた。母が付き添って来てくれていたが、手続きは自分でした。すると、患者は誰かといぶかられた。

   意外な?手術  さて手術が始まった。痛む箇所の周り3ヶ所位にチク、チク、チクと注射をした。麻酔がすんだと安心していた。最初のメスが1刺し、グサリ!  余りの痛さに身を震わせてうめく。「痛いですか」と看護婦が尋ねる。それまでの自分なら多少はやせ我慢をして答えたろうに、たまたま前日、雑誌で吉川英治氏の『歳寒漫筆』を読んでいたものだから素直に「痛い」と答えたことが後々なぜか心残りだった。氏の説はこうだった。3人の古代の禅僧の死にざまを比べて、超然死を遂げた2人よりは、病の末に弟子を枕元に呼び集め,「皆よく見ておけ。死というものはやはり苦しいものだ」とうめきながら亡くなった和尚に軍配を上げておられたのだった。

多少はやせ我慢をした方がよかったと後悔した。若かったのだから。医師は暫く中をまさぐっているように思えた。医師の手が止まった。やれやれ終わったと思ったとたんにまたグサリ!  もう1度同じことがくり返された。後日に見ると切り口は“H”の字になっていた。左右の縦線が短くて、横線は長いけれども。

それまでに、手術は全身麻酔をして行うから痛くないと何人ものひとから聞いていて安心していたのに、全く違ったではないかと、後から全身麻酔をしなかった理由をもちろん医師に尋ねたが答えてくれなかった。当時は医療保険制度が発足したばかりだから、それを利用したせいで、しないひとと差別されたとのかと考えたりもした。退院してからの町医の意見では、体力が無さそうだから、全身麻酔は危険と判断したのではないかということだった。

 

  経過は? 手術は夜遅かった。その後は翌朝まで何も知らずに熟睡した。 後から得た知識では、一般に、全身麻酔が覚めてくると痛むらしい。その点は助かった。予後も順調で1週間で退院の許可が出た。その2日ほど前には担当医が3人ほどの医師を伴ってきて、やゝ自慢そうに私を見せていた。 

   見舞い日参 途中、例の学級担任が男女生徒20人位を連れて見舞いにきてくれた。その翌日から毎夜、先に記した桃太郎さんが来てくれるようになった。病院は元遊郭に入る道路のすぐ近くにあり、彼女の家はその町の中で母親と2人暮らしだったのだ。私の母も彼女に大へん好感をもったのだが--。私は今でも彼女に感謝している。その頃、少し沈みがちだった気分が彼女のお陰で高揚し、ついには病室で下手な黒田節を大声あげて歌いだすまでに至ったのだった。空き部屋がなくて個室だったことと、退院間際に風邪をひいて退院が4日ほど延びたことを付記せねばならない。その後も私の性格への好影響は続いたと思っていることも。                 

   単元不消化 学校を2週間欠勤したので、単元消化が大分遅れた。元々遅れていたのだがそれほどは気にしていなかった。理科の主任というひとは一応はいたが、後のように会議を開いて進度調整をするでもなし、一斉テストもなかったので、何の焦ることもないままにずるずると遅れていた。他の教諭の進度を尋ねたこともなかった。自身の学生生活において、各科共教科書を最後近くまでもやってもらった経験は絶無だった。せっかく意気込んでいたラジオの部分を手つかずで残し、生徒に何がしかの期待を持たせる予約が果たせなかったことは気がかりだったが。

   理科単元  (この項は飛ばし読みして頂いて結構です)各学年6単元ずつで、教科書は単元ごとに各1冊、B5版100ページずつ位だったか、年間、単元ごとに順次発刊された。用紙はざら紙に近いもので、生徒の鞄の中身は至って少量で軽かった。今の生徒とは大違いだ。夜遅く塾帰りの生徒の昼夜2回分の荷物を詰めこんだバッグの大きさを見ると今昔の感大である。

当時は全国国定判1種類のみの筈。ちなみに、その前年は教科書がないので、年間、学校農園での実習にからませて、馬鈴薯のことばかり指導したとのこと。“食”が全ての中心だった時代なのだ。

 

 参考にここでは3年生の分だけ記し、特に第1単元については、昭和28年まであったという「学習指導要領(試案)」も紹介するが、個人で受け取った記憶はない。教科に1冊位はあったのだろうか。多分は、私の時にはまだ出版されていなかったか。7年後に数学科に転じた頃から、各個人に「指導書」が手渡され、「学習指導要領の要点も併記され、解答も記入されていて便利になったと思う。

 

  単元1 星は日常生活にどんな関係があるか。

(1)指導目標 宇宙の大きさと星空の美しさとを感得し、地球が太陽をめぐるという説明の方が合理的であることを理解し、太陽のエネルギーと人生とは離し難い関係にあること、また天空の事象が人間生活にいかに利用されて来たかについて理解する。

(2)指導方法―生徒の活動

 1,星についてのいろいろな伝説を調べて、たがいに物語ってみる。

 2,星の存在/宇宙の広さなどについて話しあう。

 3,太陽が地球を巡るのか、地球が太陽をめぐるのかについて話し合いをする。

以下16まであるが、殆どが「調べ、話し合う」か「考え、話し合う」調で、当時の米国の教育方針にのっとったそうで、社会科では生徒が黒板の前で模造紙に書いた表などを示して発表しているのを廊下からよく見かけたが、私には、到底実践できない非能率な方法としか思えなかった。また、後に語られたことでは、米国は、日本に実験的教育を押しつけていたとのこと。

 当時米国では、知識は教えられて頭に蓄えるものではなく、子どもたちが自ら考え、問題を解決していく過程で習得するものだという教育論が主流だったという。

 (3)指導結果の考査

1,平素の学習状態を観察し,あるいは学習帳などを調べて,記述尺度法によって考査する。

2,観測記録を提出させ,記述尺度法あるいは一対比較法によって考査する。

3,次の事項についての理解の状態を,再生法・真偽法・選択法・判定法等によって考査する。

 

(1) 太陽中心説と地球中心説。

(2) 宇宙の構造。

(3) 地球の公転と自転。

(4) 人間社会の要求と天文学の発達。

(5) 太陽のエネルギーと人生との関係。

(6) 天空の事象とその利用。

(7) 宇宙線について。


これらは教師用指導書の内容であろうが、そのような書物があることは、私が理科を担当していた6年間は知らなかったから、単元ごとに発刊される生徒と全く同じ教科書を少し敷衍(ふえん)して解説していくだけだった。物理的な内容は身近な現象に置き換えて解説することがよくあったが、テストをすると、その例の方だけを書く生徒が多いのには参ったものだった。

 (一) 指導目標

宇宙の広大さと星空の美しさとを感得し,地球が太陽をめぐるという説明のほうが合理的であることを理解し,太陽のエネルギーと人生とは離しがたい関係にあること,また天空の事象が人間生活にいかに利用されて来たかについて理解する。

 (二) 指導方法――生徒の活動

1,星についてのいろいろな伝説を調べて,たがいに物語ってみる。

2,星の存在・宇宙の広さなどについて話しあう。

3,太陽が地球をめぐるのか,地球が太陽をめぐるのかについて話しあいをする。

4,太陽系・銀河系・星雲・宇宙の構造について書物を読んで調べ,話しあいをする。

5,惑星の運動を相当長い期間にわたって観測し,その路すじを図にかいてみる。

6,一等星の星図を書いてみる。

7,地球の公転と自転とによってどんな効果が生ずるか。模型を使って考え,話しあう。

8,夏になると暑く,冬になると寒いのはなぜかについて考え,話しあう。

9,天文学の発達がどんな経過をたどって来たかについて調べ,話しあいをする。

10,コペルニクス,ケプラー,ガリレオなどの伝記を読んでどんな仕事をしたかについて話しあう。

11,天球とその利用法について調べ,話しあう。

12,時間の単位は何からきめたかを調べる。

13,長さの単位は何からきめたかを調べる。

14,航海をするのに,なぜ正確な時計や時報が必要なのかについて考え,話しあう。

15,太陽エネルギーが地球上でどのように変わって行っているか。そして人間がそれをどのように利用しているかについて調べ,話しあいをする。

16,宇宙線とは何のことかを書物によって調べる。

 (三) 指導結果の考査

1,平素の学習状態を観察し,あるいは学習帳などを調べて,記述尺度法によって考査する。

2,観測記録を提出させ,記述尺度法あるいは一対比較法によって考査する。

3,次の事項についての理解の状態を,再生法・真偽法・選択法・判定法等によって考査する。


1 太陽中心説と地球中心説。

2 宇宙の構造。

3 地球の公転と自転。

4 人間社会の要求と天文学の発達。

5 太陽のエネルギーと人生との関係。

6  天空の事象とその利用。

7  宇宙線について。


 

単元2 機械を使うと仕事はどんなにはかどるか。

道具を使っても仕事(エネルギー)の得をすることができること、すなわち、エネルギー保存の法則を理解するとともに機械の発明と使用とによって、人類はその文明を進歩させ、相互の利益が幸福を増進させて来たこと、今後もそうさせなければならないことを理解する。なお原動力として、現在は石炭・石油及び水力にほとんど限られているが、将来は更に別の原動力を求めなければならないことをさとる。

 以下は単元名の列記にとどめる。

単元3 電気はどのように役立っているか

単元4 交通・通信機関はどれだけ生活を豊かにしているか。

単元5 人と微生物とのたたかい。

単元6 生活はどう改めたらよいか。

 

 アン ケート 当初の3年間位だったか。学年途中で私は各学年1組ずつ、授業の進んでいる学級で、私の授業について無記名のアンケートをとった。理科をもっていた6年間、指導主事に視察されたことすらあれ、他人の授業を見せてもらったことは全くなく五里霧中でやっていたからだ。後に3年間校長として来ることになる指導主事の視察の日は、たまたま得意の発電機の理論だったから気が楽だったが。アンケートの結果は比較的好評だった。声が小さいというのが少しあったが。

  1年理科 同時に受持っていた1年生についてだが、3年の単元のようには自信がなかった。教科書に少し色をつけた程度の話しかできなかった。本当は教科書内容さえ全部理解させられれば十分ではあるのだが。それで、毎時少しだけ授業を早めに切り上げて、講談社の『少年倶楽部』付録で大切に持っていた『知識のダイヤ』とかいう2冊の豆本の1ページを板書して写させていた。これは生徒には好評だった。2年の単元はもっと苦手なものがあったのだが、これは後の稿に譲る

1年の単元名だけを列記する。

1 空気はどのようにはたらいているか。

2 水はどのように大切か。

3 火をどのように使ったら  よいか。

4 何をどれだけ食べたらよいか。 

5 草や木はどのようにして生きているか。

6 動物は人の生活にどんなに役に立っているか。

  実験 1年では3回ほど化学実験が必要だった。私は実験を見たのは小学校で水素の中での燃焼を見ただけだ。私と同年奉職、同年齢で女子師範で級長だったとかいう男まさりの女性がいて、実験はすべて、彼女がした後に、教えてもらってそのままやれたのは助かった。酸素の燃焼では教科書にある薬品など使わずに、水面に逆さにかぶせたビーカーの中で新聞紙を燃やすだけというような工夫もあった。

平成20年にマンションに越すまでは、理科だけではなく、数学も、殆どすべての教科書類を保管していたのだが、処分せざるを得なかったのは残念である。

余談かも知れないし、全国一律ではないと思うが、その後暫くしてからの社会科の授業内容には眉をひそめた。その後数年間、いつ廊下を通っても、権利の主張ばかりやたらに耳に付いて、義務の話がさっぱり聞かれなかったと思うのは、私のひがみだろうか。夏の窓を開放する時期だけのことかも知れないが、後々の世のゆがみの原因となったのではなかろうか。

  珍高校入試 この年に行われた高校入試は実に変っていた。次年度は現在に近いものに変わったが、1点だけ、重大な欠陥が内申書締め切りの前日に突如発生し、それに気づきながら、私のクラスで大問題が生じたのだった。これらも後の稿に譲る。

 

  アルバム この学年には、統一した住所録もなければ、卒業アルバムもない。日本が戦争の被害から立ち直るのはまだ少し先のことだ。

  鶏口 そうこうしているうちに私にとって、最初の生徒を送り出す卒業式が来た。生徒との別れが寂しく、免許状はあることだから、どこかの高校へ転勤しようかとまで考えた位だが「鶏口となるとも牛後たるなかれ」の教えに従って断念した。楽な方の道を選んでしまったということだ。

                 [完]平成24年8・9月記25年10月修正

 


35〈修正版〉 破茶滅茶中学校発足記 1 でもしか先生 奇快な一発採用(?)

2013-10-03 | 昭和初期

 

   35 破茶滅茶中学校発足記 1

            でもしか先生 奇な一発採用(?)

  求人皆無  私が工業専門学校を卒業したのは、昭和23年1月、電気科は出たものの、世間は見渡す限り焼け跡だらけ、どこに工場が残っているのか見当もつかない時だった。終戦の20年4月に入学式だけは行われたが、工専の前に在籍した商業学校が国の政策で半年間卒業延期になり、工場での勤労奉仕等で全く勉強していない。9月に一応授業は開始されたが、その後も新聞に、世界1長いと書き立てられた学校乗っ取りストもあって、正味勉強できた日数は1年余り。その上、実験室も空襲で焼かれていたから、卒業前の2~3ヶ月間やっと申し訳程度の小実験をやっただけ。海外から6百万人もの引き揚げ者があり、ひとの有り余っている時にそんな学校から採用しようという企業が無かったのかも知れない。とまれ、何のあてもないまま、荒れ果てた社会へ放りだされたのである。新聞も、1日1枚(今の2ページ、夕刊なし)しか発行できない時代、求人広告等は全く載っていなかったと思う。卒業前の学校でも求人の紹介等なかった。張り紙も見なかった。と言っても卒業前の半年位だったか、胸を少々やられてよく休んだから、今回、念のために、当時首席だったと思う友人に問い合わせた。彼は系列の工業学校から上がって来て、教授たちとも親しかったようだし、個人的に教授からの紹介位はあったろうかと思ったのだが、2~3枚の張り紙を見ただけとのこと。

 

  将来何になりたいか。少年の頃の自分には多少詳しく新聞を読んで知っていただけの理由で、漠然と文化勲章が欲しいとの、身の程知らずの夢はあったものの、具体的には何の努力もせず、全く何も明日のことは考えられなかった。中小企業は統合され、個人で始めることは不可能と思っていた時代である。もっともそんな気持ちも才覚も全くない人間だったが。2年半前までの数ヶ月間は、ただ、空襲から助かることと、ひもじさをしのぐこと以外は考えの及ばない世界に生きていたのだから。もっとも、変わり身の遅い人間での話であるが。

 昭和12年2月制定。(タチバナ)の図案が子供心に焼付いていたが、政府案では桜だったのを、昭和天皇がは潔く散る武人の象徴である。常緑樹の橘の方が永遠であるべき文化の勲章としては望ましいのではないかと言われて変更されたということは今回初めて知った。発案者が当時も珍しかった40代の首相広田弘毅であったことも。

 

  戦後の我が家 終戦後1週間して、やっと勤労動員から解放された筆者は、現近鉄南大阪線滝谷不動の父母や妹の疎開先へ戻ることができた。しかし、そこは8畳1間だけだったか。以前書いたが、ノミに苦しめられて大切に使ったDDTが原因で以後20年位健康不調になるのだった。1ヶ月位して、大阪市への空襲下も踏みとどまっていた祖父母が、向かい筋の平家が空いたのをすかさず押さえてくれて、私たち家族4人も大阪市南部へ戻ることができたのだった。そして間もなく、祖父母宅と入れ替わって、私たちは、元大家が自宅として建てた頑丈な――ジェーン台風の時に窓を明け放すことにはなる――家に住むことになるのだった。そこでの祖父母の姿は痛ましかった。背が高く恰幅のよかった祖父と小さかった祖母が、天秤棒の真ん中に肥え桶を吊るして、住宅街の道路を百mほど、焼け跡に借りた畑まで、肥料として自家の屎尿(しにょう)を運ぶ姿は見るに耐えなかった。特に祖母の野良着の下手くそな継当ては目立った。ごく若い時から山村流の舞踊の師匠をし、裁縫などは女中任せにしていたためだ。祖父も軍人と役所の恩給(今の年金)で、しかも”髪結いの亭主”で何不自由なく暮らせる予定だったのが、当時は年金はいっさい支払われなくなり、ハイパーインフレで貯金などはたちまち底をついていたはずだ。

  当てなし さて全くの世間知らずの筆者はというと、後から思えば愚かだったのだが、慌(あわ)てて仕事探しをするでもなく、毎日ぶらぶらしていた。体を大分弱らせていたせいもあったか。家業の校正や、自転車で時たまの小物の配達、配給の紙の引取りなどはやっていた。せいぜい3kmの範囲内だった。当時は至って悪筆だったのでで肝心の筆耕はあくまで父1人の仕事だった。まだその頃は。

前に記したが戦時下の中小企業統合のお蔭で、父は大阪鉄道局の謄写印刷の仕事を引き続き受け持っていたので、ものすごいインフレと、相変わらぬ食と物不足の時代だが、米俵位の大きな袋で買えた雑魚と、やはり大袋の正体不明の茶色の団子汁1袋と、動員先でくれた牛の脚か何か野球バット位の太さと長さのカチカチに固まった赤黒い筋肉の棒をナイフで削って汁に入れて食べて何とかしのげてはいた。戦後長らく終戦記念日の度に、メディアでは殆どのひとが“すいとん”を食べて暮したと言っていたが、父によると勤めていた会社等での昼食は主食の配給切符1枚を使ってのやゝ白いすいとんだったという。辞書によると、“すいとん(水団)”とは小麦粉を水でこねた物を実とした汁とある。我が家で手に入れていた大袋の粉は恐らく、甘藷の蔓の粉が相当混じっていたのだろう。当時は甘藷を作る家が多く、その蔓自体も貴重な食材だったのだ。

以前記したように、空襲の火は孤軍奮闘食いとめたので、新しい器物購入の必要はなかった。母は、古くなり元々弱い粗悪な衣料品の継ぎ当てや、私が動員で貰ってきた布で肌着を作るのに毎日忙しかった。着た切り雀の一張羅の制服の継ぎは当てても、当ててもまた破れ、よく似た色の布が無くなって、茶色の服に緑色の継ぎを当て、その布も無くなって、服の裏側から一部を切り取って使うまでした。町ではそこまでのひとは見かけなかったが、少しも恥ずかしいとは思わなかった。2年生になった時、疎開先の近所の上級生が、彼には窮屈で、ボタンが1つ紛失した制服をくれたので、嬉しかった。この服は、教員になっても2年間着続けることになった。

  教員応募 2ヶ月以上もぶらぶらしていた頃、ひょっと通りかかった天王寺中学校(今の高校)近くの電柱で1枚の貼り紙を見た。習字半紙に毛筆で大きく「新制中学校教員募集」とだけ書いてあった。新発足する文の里中学校(天高に仮住い)のためのものだった。その時初めて「教員でもしてみようかな、1年だけ、そして、工大の3年の編入試験を受けよう」と思ったのだった。その当時、“マスコミ”(その言葉はまだなかったが)で“でもしか先生”とよく言われていた教員にである。その意は、「教員でもしようかな/教員しかできない」から来ている。その翌日、履歴書と成績証明書を持って乗り込んだが、書類も見ずにもう決まったとあっさり断られた。次に、祖父に連れられて阿倍野区の小学校に仮住まいの学校に出向いたが同様だった。後から考えてみると、戦時中からの栄養不良の上、胸をまた少々やられてひょろひょろで青い顔をしていたのだから、安月給のために教員が不足していたとは言え頭から敬遠されたのだと思う。そこで、それまでの高等小学校(2年制)が新制中学校になるはずだと考えて、当時の大阪市南東端の元高等小学校を訪ねた。小学校5年生の頃、父親と自転車で大和川へ遊びに行く―滅多にないこと―途次に、一面の綿畑の中に見つけて覚えていた学校だ。「○○第一中学校」との木製墨書、縦長の大表札が掲げられていた。日直の教諭に教えられて、春休みで自宅におられた校長をお訪ねした。「工専出のひとだね。聞いています。」とあっさり言われて、役所へ早く手続きに行くように教わった。翌日役所へ行くと、今、資格審査*会議をしている処だ。書類は預かっておくとのこと。結局、書類は2週間後の会議に回されて、その間に指定の病院で胸部のX線撮影も受けさされ、心配していたが、当時の集団検診は間接撮影と言ったと思うが、確か35mmフィルムでの撮影なので私の軽い症状は見逃されたようだ。

 *戦後の占領下、GHQの命令によって「公職追放令」が出され、国家の中枢となるべき20万人以上の日本人が、国家主義者、占領軍政策反対者等として、戦争協力者という名前を冠せられ公職から追放された。戦前、少しでも重要なポストについていた者であれば、戦後は公職についてはいけないという指令だった。これは学会・言論界・実業界にも波及した。また現在および将来の教員の資格審査を行うよう命じた。

 初出勤 こうして4月になった。その間何の通知もなかったが、家族も共に世間知らずで、神経質と無計画家が同居する私は、始業式は8日が一般で8時始業位だと勝手に考えて、普段通り朝寝坊して、その時間ぎりぎりに学校へ着いた。すると、新任教師たち20人ほどは既に校長室に入ってしまっていた。なぜだか忘れたが、私は入りもせず職員室の一隅で待っていた。間もなく一同はどやどやと校長室から出てきて校庭で生徒が並んでいる前へ並んだので私もその端へ並んだ。始業式が始まり、何人かずつ朝礼台に上がって紹介されたが、私はついに呼ばれなかった。出勤簿にも私のページはなかったが、事務所で言うとすぐに作ってくれたので、ともかく、私が出勤した記録は残った。後から考えると、4月1日に入学式もあったのだ。それまでになぜ公衆電話からでも問い合わせなかったのかと、自分の余りの愚かさにあきれるばかりだ。もっとも、問い合せていれば、予定にないと言われてどんな結果になっていたかは推し量れないのだが。

 大錯覚 次の重大事に気づいたのは何年もしてからのことか。前掲の、春休み中の校長宅を訪ねた時に「聞いております」と言われたのは私のことでなかったのだ。校長は私を3月末日採用の大阪府立工専の出身者のことと錯覚されていたに違いない。私は誤採用だったはずだ。私は応対してくれた日直の教諭から校長宅へ電話して頂いて、それを聞いていると言われたと解釈していたのだが――。(その頃は一般家庭に電話のある家は少なかったが。)ちなみに、府立工専出の彼は2年ほどして日立造船へ転職したが、更に8年位してまた学校へ戻りたいから世話してくれと学校へ電話して来た。市教委へ問合せたが、30歳以上は駄目だと断られた。丁度、30歳を超えたばかりだった。その後の消息は知らない。

同年奉職の同年配の同僚たちも、師範学校出以外の者は殆どが2~3年以内に辞めて行った。一般会社などへ転して行ったようだ。

戦前に存在した、初等・中等学校教員の養成を目的とした中等・高等教育機関 高等小学校卒業を入学資格とする本科第一部(5年制)と、中学校もしくは高等女学校卒業を入学資格とする本科第二部(2年制)が置かれた。後、学芸大学、次いで教育大学となった。

 教員資格・任命状 前記の校長とはその後、退職の挨拶に来られた時にお会いしただけである。幸いまだ欠員があったのだろう。ともかく、やっと、私の存在が認められて翌日位に新校長に呼ばれ、教員免許状の有無と希望科目を尋ねられた。免許状はそのうちに下りるはずと答えてOKだった。その時は数学を希望したのだが、これについては次稿で述べる。やはり次稿で記すが、こうして居座れることになったのは大阪市でも特別に恵まれた学校だった。入ってから分ったことだ。初の辞令が残念ながら見当たらない。4月13日付けだったことは確かだ。発令権者名がどうなっていたか。教育委員会はこの年に発足したことになっている。その後の転勤や各種研究活動の委嘱状では大阪市教育委員会委員長名や、大阪府公立中学校校長会会長名となっている。「教員免許状」はなんと、翌年5月30日付けで、文部省から下りている。文面は「中学校高等女学校教員無試験検定合格者 大阪府 氏名 実業科の内工業 右教員免許例第三条ニ依リ頭書学科ノ教員タルコトヲ免許ス」とあった。ちなみに、その後の転勤の時の辞令は、「大阪市公立学校教員 氏名 大阪市立○○中学校教諭に補する」とあり、大阪市教育委員会委員長として、氏名が書かれている。横書きのB5版程度のものだ。黄色い罫線に囲まれ、その上の広い余白の中央に大きく(縦16mm)大阪市章の“みおつくし”が同色で描かれている。

 任命権者 断っておくことがある。当時は教員採用試験はなく、校長に採用の権限があった。何年かしてその権限が役所へ移り、その担当者にとかくの噂があった。教育委員会の採用試験は3年位後に始まったかと思うのだが調べられなかった。

 俸給 初任給は460円だった。4月、同時に勤めだした同僚より給料が少し低かったが、私はそれを師範学校出と傍系との違いと勝手に解釈していた。真相は申請が1日遅かったために2週間遅れの採用となり、数年間は給与の昇給は半年ずつ遅れたのだった。他の同僚たちの採用は3月31日づけだった。4月、隣席の元高等小学校教諭を訪ねてきた、彼より2歳だけ下の、その春卒業して靴製造に携わった生徒の給与は私の倍位だったか。その年の米10㎏は35円、物価は前年の2.6倍とある。食糧配給公団発足。主食配給1日分2合7勺(0.486㍑)だった。初任給で、たまたま自宅へ勧誘に来た外交員と生命保険の契約をした。親孝行のつもりだった。その頃、父も私に保険をかけていた。共に余命は長くないと思っていたのだった。20年後位の満期返還額は、記憶は定かでないのだが、うち続いたインフレのもと、確かその当時の給与の1~2ヶ月分程度しかなかったのではなかろうか。初給与では他に岩波文庫の『ファーブル昆虫記』の古本を8冊買って終りだったか。この時はもう交換本は必要なかった。新刊も雑誌などはぼつぼつ出始めていたか。終戦直後の出始めはカストリ雑誌と呼ばれた大衆向け娯楽雑誌だった。これらは粗悪な用紙に印刷された安価な雑誌で、エロ(性・性風俗)・グロ(猟奇・犯罪)で特徴付けられる安直で興味本位なものが多かったとのこと。

大阪市立学校の教員なのに、給与はずっと大阪府から支払われていた。事務職員は市からである。前稿に追記したように、任命は府、辞令は市教委であるということは、府の教員だったのか。頼りない話を書いた。支給日は当初の数年間は毎月1日と18日に分けて。2~3年後からはずっと18日だけになった。遠足で生徒を連れて行くと少額の手当を支給された。初めてもらった時は意外であり、ちょっぴり儲(もう)けた気分だった。後には宿直に手当がつくことも知ったが、当初の2年間は和歌山市の年配者が、通勤不便だからとて宿直室に住み着いていたから知らぬことだった。

  男女平等 俸給は私の知っている限り、最後まで男女平等だった。これは他の職場にはないことだった。だから、私の奉職3年後位からの、採用試験が始まってからの新卒採用者は学芸大学出以外は一般に、男性は私学、女性は国立大学出身だった。なお、多分昭和50年までは完全な年功序列制だった。教務主任や学年主任に主任手当が付くのがその年からのことらしいからである。ネットによると主任手当は1人1日当たり200円だったとある。なお、組合活動の強い所では、今もそれを組合にカンパさせているようだ。 

     [終]平成16年一部作成・24年8月完成・25年10月修正 

           次稿は『新米教師迷走(1)授業スタート』の予定です。


  昭和23年度の出来事

 04/01 新制高校発足.
04/28 夏時刻法公布(4~9月サマータイム.27・4・11廃止)
05/01 海上保安庁設置

06/13 作家・太宰治、玉川上水で情死

06/23 昭和電工社長、贈賄容疑で逮捕(昭電事件)
06/28 福井震災、死者3895人
07/15 GHQ、新聞の事前検閲廃止
「07/29 第14回オリンピック・ロンドン大会開催.日本の参加は不許可
08/17 プロ野球初ナイター
09/15 アイオン台風、死者・不明2838人
09/16 マッチ8年ぶりで自由販売に
10/01 警視庁、「110番」を設置
11/12 極東国際軍事裁判判決(7人に絞首刑、12・23執行)
12/18 GHQ、経済9原則発表
12/24 GHQ、岸信介らA級戦犯19人を釈放

  この年 アロハシャツ・ロングスカート・リーゼント流行

24/01/01 GHQ、国旗の掲揚を許可
01/01 大都市への転入抑制解除
01/01 家庭裁判所発足
01/17 「人身売買」。米沢市の女(38)が、山形県農村子女15歳ら2500人を1人2500円程度で売買したと摘発
01/23 第24回総選挙
01/26 法隆寺金堂が火災.壁画12面焼失
02/16 第3次吉田内閣成立
02/20 能代市大火.2237戸焼失
02/27 国宝・松山城焼失
03/07 GHQ経済顧問ドッジ、日本経済安定策明示(ドッジライン)
03/30 新潟で漂流機雷爆発、63人死亡

●書籍ベストセラー 「斜陽」太宰治 
「罪と罰」ドストエフスキー 米川正夫訳 
「この子を残して」永井隆