42 〈修正版〉新米教師迷走 想定外続出
これが修学旅行? 奉職の年、昭和23年(終戦後3年目)の秋に戦後初めてとかの修学旅行が行われた。まだまだ食料難の時代だった。各自米を持参してのことだ。当時は各個で天王寺公園に集合*し、そこから貸切電車で琵琶湖畔の、戦争中は農業団体の訓練道場だったとかいう大きな平屋の古びた木造宿舎に直行した。
*少し後に、校区に近い平野駅から集合地へ向けて乗車した1人の本校生が線路わきの電柱にぶっかって死んでから他所での集合が禁止されたことは『19 極度の車両不足』で取り上げた。
だだっ広い大広間の焦げ茶色の畳は、一面に草がびっしり生えているようだった。畳のイグサが切れて2cm位ずつの長さではね上がっていたからだ。
夕方から夜にかけて生徒たちは全員そこで余興大会を催したのだ。私も苦労して自作した材料で手品を1つして好評だった。その後修学旅行には何度も参加することになるがこんな催しはこの年限りだった。手品を終えて外出してみると外灯はなく、辺り一面真の闇。建物際にちらちらと赤い火が3つだけ点滅していた。近寄ってみると、体格のよい生徒が3人煙草を吸っていた。教えている生徒ではなかった。私に気づくと各人あわてて別の手で握っていたリンゴにかじりついた。臭い消しの用意まで周到にしていたのだった。煙草を取り上げ、舎内に連れ戻したが、担任に報告はしなかった。余興大会は無事終了して生徒たちはその場にびっしりと布団を敷き詰めて寝に着いた。
???!! 私も眠りたかった。私は昔も今も人並み外れて長時間眠らずにはいられない質(たち)である。教員数人の寝室は大広間の隣の狭い和室だったが、長老2人がいつまでも碁を打っていて他の教員も周りで見ているから、布団の敷きようがない。押し入れの上段で寝ることにしてそこの布団を全部部屋の隅へ下ろしてあっと驚いた。布団の下は一面びっしりと全く隙間もなくネズミの糞で敷き詰められていた。よく乾燥していて、弱い嗅覚では臭いを感じなかったのは救いだったが。戦時中はこの押入れは空だったのか? 仕方なくその上へ布団を敷いてもぐった。すぐに眠りに落ちた。
虫垂炎 2月初めに虫垂炎(盲腸炎)にかかった。夜、きつい腹痛が始まりで、近所の医院でベッドに寝かされ、右下腹部を静かに押さえていて、ぱっと手を放すとキリッと痛んだ。虫垂炎と即断、入院に決定。診察中に突然激しい寒さに襲われ、毛布や布団を3枚位かけてもらったが、こらえきれずにベッドがガタガタと激しく音を立てて揺れた。幸い、タクシーで10分以内の所に市内でも有名な虫垂炎の専門病院があった。乗り付けた時には痛みはぴたりと収まっていた。母が付き添って来てくれていたが、手続きは自分でした。すると、患者は誰かといぶかられた。
意外な?手術 さて手術が始まった。痛む箇所の周り3ヶ所位にチク、チク、チクと注射をした。麻酔がすんだと安心していた。最初のメスが1刺し、グサリ! 余りの痛さに身を震わせてうめく。「痛いですか」と看護婦が尋ねる。それまでの自分なら多少はやせ我慢をして答えたろうに、たまたま前日、雑誌で吉川英治氏の『歳寒漫筆』を読んでいたものだから素直に「痛い」と答えたことが後々なぜか心残りだった。氏の説はこうだった。3人の古代の禅僧の死にざまを比べて、超然死を遂げた2人よりは、病の末に弟子を枕元に呼び集め,「皆よく見ておけ。死というものはやはり苦しいものだ」とうめきながら亡くなった和尚に軍配を上げておられたのだった。
多少はやせ我慢をした方がよかったと後悔した。若かったのだから。医師は暫く中をまさぐっているように思えた。医師の手が止まった。やれやれ終わったと思ったとたんにまたグサリ! もう1度同じことがくり返された。後日に見ると切り口は“H”の字になっていた。左右の縦線が短くて、横線は長いけれども。
それまでに、手術は全身麻酔をして行うから痛くないと何人ものひとから聞いていて安心していたのに、全く違ったではないかと、後から全身麻酔をしなかった理由をもちろん医師に尋ねたが答えてくれなかった。当時は医療保険制度が発足したばかりだから、それを利用したせいで、しないひとと差別されたとのかと考えたりもした。退院してからの町医の意見では、体力が無さそうだから、全身麻酔は危険と判断したのではないかということだった。
経過は? 手術は夜遅かった。その後は翌朝まで何も知らずに熟睡した。 後から得た知識では、一般に、全身麻酔が覚めてくると痛むらしい。その点は助かった。予後も順調で1週間で退院の許可が出た。その2日ほど前には担当医が3人ほどの医師を伴ってきて、やゝ自慢そうに私を見せていた。
見舞い日参 途中、例の学級担任が男女生徒20人位を連れて見舞いにきてくれた。その翌日から毎夜、先に記した桃太郎さんが来てくれるようになった。病院は元遊郭に入る道路のすぐ近くにあり、彼女の家はその町の中で母親と2人暮らしだったのだ。私の母も彼女に大へん好感をもったのだが--。私は今でも彼女に感謝している。その頃、少し沈みがちだった気分が彼女のお陰で高揚し、ついには病室で下手な黒田節を大声あげて歌いだすまでに至ったのだった。空き部屋がなくて個室だったことと、退院間際に風邪をひいて退院が4日ほど延びたことを付記せねばならない。その後も私の性格への好影響は続いたと思っていることも。
単元不消化 学校を2週間欠勤したので、単元消化が大分遅れた。元々遅れていたのだがそれほどは気にしていなかった。理科の主任というひとは一応はいたが、後のように会議を開いて進度調整をするでもなし、一斉テストもなかったので、何の焦ることもないままにずるずると遅れていた。他の教諭の進度を尋ねたこともなかった。自身の学生生活において、各科共教科書を最後近くまでもやってもらった経験は絶無だった。せっかく意気込んでいたラジオの部分を手つかずで残し、生徒に何がしかの期待を持たせる予約が果たせなかったことは気がかりだったが。
理科単元 (この項は飛ばし読みして頂いて結構です)各学年6単元ずつで、教科書は単元ごとに各1冊、B5版100ページずつ位だったか、年間、単元ごとに順次発刊された。用紙はざら紙に近いもので、生徒の鞄の中身は至って少量で軽かった。今の生徒とは大違いだ。夜遅く塾帰りの生徒の昼夜2回分の荷物を詰めこんだバッグの大きさを見ると今昔の感大である。
当時は全国国定判1種類のみの筈。ちなみに、その前年は教科書がないので、年間、学校農園での実習にからませて、馬鈴薯のことばかり指導したとのこと。“食”が全ての中心だった時代なのだ。
参考にここでは3年生の分だけ記し、特に第1単元については、昭和28年まであったという「学習指導要領(試案)」も紹介するが、個人で受け取った記憶はない。教科に1冊位はあったのだろうか。多分は、私の時にはまだ出版されていなかったか。7年後に数学科に転じた頃から、各個人に「指導書」が手渡され、「学習指導要領」の要点も併記され、解答も記入されていて便利になったと思う。
単元1 星は日常生活にどんな関係があるか。
(1)指導目標 宇宙の大きさと星空の美しさとを感得し、地球が太陽をめぐるという説明の方が合理的であることを理解し、太陽のエネルギーと人生とは離し難い関係にあること、また天空の事象が人間生活にいかに利用されて来たかについて理解する。
(2)指導方法―生徒の活動
1,星についてのいろいろな伝説を調べて、たがいに物語ってみる。
2,星の存在/宇宙の広さなどについて話しあう。
3,太陽が地球を巡るのか、地球が太陽をめぐるのかについて話し合いをする。
以下16まであるが、殆どが「調べ、話し合う」か「考え、話し合う」調で、当時の米国の教育方針にのっとった*そうで、社会科では生徒が黒板の前で模造紙に書いた表などを示して発表しているのを廊下からよく見かけたが、私には、到底実践できない非能率な方法としか思えなかった。また、後に語られたことでは、米国は、日本に実験的教育を押しつけていたとのこと。
*当時米国では、知識は教えられて頭に蓄えるものではなく、子どもたちが自ら考え、問題を解決していく過程で習得するものだという教育論が主流だったという。
(3)指導結果の考査
1,平素の学習状態を観察し,あるいは学習帳などを調べて,記述尺度法によって考査する。
2,観測記録を提出させ,記述尺度法あるいは一対比較法によって考査する。
3,次の事項についての理解の状態を,再生法・真偽法・選択法・判定法等によって考査する。
(1) 太陽中心説と地球中心説。
(2) 宇宙の構造。
(3) 地球の公転と自転。
(4) 人間社会の要求と天文学の発達。
(5) 太陽のエネルギーと人生との関係。
(6) 天空の事象とその利用。
(7) 宇宙線について。
これらは教師用指導書の内容であろうが、そのような書物があることは、私が理科を担当していた6年間は知らなかったから、単元ごとに発刊される生徒と全く同じ教科書を少し敷衍(ふえん)して解説していくだけだった。物理的な内容は身近な現象に置き換えて解説することがよくあったが、テストをすると、その例の方だけを書く生徒が多いのには参ったものだった。
(一) 指導目標
宇宙の広大さと星空の美しさとを感得し,地球が太陽をめぐるという説明のほうが合理的であることを理解し,太陽のエネルギーと人生とは離しがたい関係にあること,また天空の事象が人間生活にいかに利用されて来たかについて理解する。
(二) 指導方法――生徒の活動
1,星についてのいろいろな伝説を調べて,たがいに物語ってみる。
2,星の存在・宇宙の広さなどについて話しあう。
3,太陽が地球をめぐるのか,地球が太陽をめぐるのかについて話しあいをする。
4,太陽系・銀河系・星雲・宇宙の構造について書物を読んで調べ,話しあいをする。
5,惑星の運動を相当長い期間にわたって観測し,その路すじを図にかいてみる。
6,一等星の星図を書いてみる。
7,地球の公転と自転とによってどんな効果が生ずるか。模型を使って考え,話しあう。
8,夏になると暑く,冬になると寒いのはなぜかについて考え,話しあう。
9,天文学の発達がどんな経過をたどって来たかについて調べ,話しあいをする。
10,コペルニクス,ケプラー,ガリレオなどの伝記を読んでどんな仕事をしたかについて話しあう。
11,天球とその利用法について調べ,話しあう。
12,時間の単位は何からきめたかを調べる。
13,長さの単位は何からきめたかを調べる。
14,航海をするのに,なぜ正確な時計や時報が必要なのかについて考え,話しあう。
15,太陽エネルギーが地球上でどのように変わって行っているか。そして人間がそれをどのように利用しているかについて調べ,話しあいをする。
16,宇宙線とは何のことかを書物によって調べる。
(三) 指導結果の考査
1,平素の学習状態を観察し,あるいは学習帳などを調べて,記述尺度法によって考査する。
2,観測記録を提出させ,記述尺度法あるいは一対比較法によって考査する。
3,次の事項についての理解の状態を,再生法・真偽法・選択法・判定法等によって考査する。
1 太陽中心説と地球中心説。
2 宇宙の構造。
3 地球の公転と自転。
4 人間社会の要求と天文学の発達。
5 太陽のエネルギーと人生との関係。
6 天空の事象とその利用。
7 宇宙線について。
単元2 機械を使うと仕事はどんなにはかどるか。
道具を使っても仕事(エネルギー)の得をすることができること、すなわち、エネルギー保存の法則を理解するとともに機械の発明と使用とによって、人類はその文明を進歩させ、相互の利益が幸福を増進させて来たこと、今後もそうさせなければならないことを理解する。なお原動力として、現在は石炭・石油及び水力にほとんど限られているが、将来は更に別の原動力を求めなければならないことをさとる。
以下は単元名の列記にとどめる。
単元3 電気はどのように役立っているか。
単元4 交通・通信機関はどれだけ生活を豊かにしているか。
単元5 人と微生物とのたたかい。
単元6 生活はどう改めたらよいか。
アン ケート 当初の3年間位だったか。学年途中で私は各学年1組ずつ、授業の進んでいる学級で、私の授業について無記名のアンケートをとった。理科をもっていた6年間、指導主事に視察されたことすらあれ、他人の授業を見せてもらったことは全くなく五里霧中でやっていたからだ。後に3年間校長として来ることになる指導主事の視察の日は、たまたま得意の発電機の理論だったから気が楽だったが。アンケートの結果は比較的好評だった。声が小さいというのが少しあったが。
1年理科 同時に受持っていた1年生についてだが、3年の単元のようには自信がなかった。教科書に少し色をつけた程度の話しかできなかった。本当は教科書内容さえ全部理解させられれば十分ではあるのだが。それで、毎時少しだけ授業を早めに切り上げて、講談社の『少年倶楽部』付録で大切に持っていた『知識のダイヤ』とかいう2冊の豆本の1ページを板書して写させていた。これは生徒には好評だった。2年の単元はもっと苦手なものがあったのだが、これは後の稿に譲る。
1年の単元名だけを列記する。
1 空気はどのようにはたらいているか。
2 水はどのように大切か。
3 火をどのように使ったら よいか。
4 何をどれだけ食べたらよいか。
5 草や木はどのようにして生きているか。
6 動物は人の生活にどんなに役に立っているか。
実験 1年では3回ほど化学実験が必要だった。私は実験を見たのは小学校で水素の中での燃焼を見ただけだ。私と同年奉職、同年齢で女子師範で級長だったとかいう男まさりの女性がいて、実験はすべて、彼女がした後に、教えてもらってそのままやれたのは助かった。酸素の燃焼では教科書にある薬品など使わずに、水面に逆さにかぶせたビーカーの中で新聞紙を燃やすだけというような工夫もあった。
平成20年にマンションに越すまでは、理科だけではなく、数学も、殆どすべての教科書類を保管していたのだが、処分せざるを得なかったのは残念である。
余談かも知れないし、全国一律ではないと思うが、その後暫くしてからの社会科の授業内容には眉をひそめた。その後数年間、いつ廊下を通っても、権利の主張ばかりやたらに耳に付いて、義務の話がさっぱり聞かれなかったと思うのは、私のひがみだろうか。夏の窓を開放する時期だけのことかも知れないが、後々の世のゆがみの原因となったのではなかろうか。
珍高校入試 この年に行われた高校入試は実に変っていた。次年度は現在に近いものに変わったが、1点だけ、重大な欠陥が内申書締め切りの前日に突如発生し、それに気づきながら、私のクラスで大問題が生じたのだった。これらも後の稿に譲る。
アルバム この学年には、統一した住所録もなければ、卒業アルバムもない。日本が戦争の被害から立ち直るのはまだ少し先のことだ。
鶏口 そうこうしているうちに私にとって、最初の生徒を送り出す卒業式が来た。生徒との別れが寂しく、免許状はあることだから、どこかの高校へ転勤しようかとまで考えた位だが「鶏口となるとも牛後たるなかれ」の教えに従って断念した。楽な方の道を選んでしまったということだ。
[完]平成24年8・9月記25年10月修正