昭和2年生まれの雑記帳

一市井人の見た昭和の記録。今は思いも寄らない奇異な現象などに重点をおきます。
       

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〈増補修正版 20〉 軍歌の変遷 (8-1) 

2014-09-17 | 昭和初期

 〈増補修正版 20〉

                軍歌の変遷  

                  パチンコ店の軍艦マーチを米軍は 

  軍艦行進曲 戦時中は戦果が上がる度に、ラジオでまずこの曲が流れ、次いで確か平沼大佐とという人が重々しい声で「大本営発表」と言ってから、ニュースを読み上げた。負け初めてからのことは覚えていない。この曲は日本が米英に宣戦を布告した時には繰り返しラジオから流されたとのこと。その時には、旧大日本帝国海軍時代の公式行進曲であり、現在の海上自衛隊でも進水式や出港式典といった公式行事などで演奏されるという。現在でも日本を代表する行進曲であるとのこと。

その曲を、戦後まもなくの米軍統治下の日本のパチンコ店でガンガン鳴らすことができたのが不思議だったが、平成14年5月の讀賣新聞で解明した。昭和26年、東京都心有楽町駅前、まだ、バラック造りの店々の一角のパチンコ店から、突然拡声器を店外へ向けてこの曲がガンガン流された。流したのはこの店の経営者T氏、30歳位で元空軍攻撃機のパイロット。都心の繁華街に進駐軍の兵士が大勢いて、日本女性と腕を組んで歩く*。面白くないT氏が反骨精神からの行為だった。所はGHQのお膝元。米国への反抗と思われはしないかと、警察にMP(米国憲兵)本部へ連行されて、レコードをその場でかけると、軽快なテンポにMPはOK。これで次第に他の店舗にも広まったとのこと。 女性客が増えてきて、現在はこの曲は流されていないとか。

  *売春婦 当時、一般に「パンパン」と言われ軽蔑されていたが、全国、進駐軍がいる所、大勢いたようである。そうしなければ家族を養っていけないひともいたか。       

元の詩の名「軍艦」、これに曲を付けて軍歌とし、その後、1900(明治33)年に「軍艦行進曲」として誕生した。海軍省の制定行進曲であり、海上自衛隊でも、海上幕僚監部通達によ儀礼曲の1つとして「軍艦行進曲の名称で制定されており、進水式や出港式典などで奏楽されている他、観閲行進曲として奏楽されている。日本を代表する行進曲の1つであり、広く国民に親しまれていた。

 作詞 鳥山啓  作曲 軍楽師瀬戸口藤吉 明治33(1900)年頃

守るも攻むるも黒鉄(くろがね)の/浮べる城ぞ頼みなる/浮べるその城日の本の/皇國(みくに)の四方(よもを守るべし/真鉄(まがね)のその船日の本に/仇なす國を攻めよかし        (全2番?中1番)

  バンバの兵隊さん 「バンバの兵隊さん、トテチテタ-」 記憶にある筆者の最初の歌だ。間をおいて「オ馬ニノッテ ハイドウドウ」という歌詞が浮かぶが、一つながりの歌なのか、更に続きがあるかどうか、また、軍歌といえるかどうかは知らない。満4歳、昭和6年頃だったか。満州事変*が始まって、日本が軍国主義に進み始めた頃だったろう。筆者はもっと後に、偶然、新聞の戦争場面の大きな写真に気づき、親に尋ねるまで戦争が始まっていることは知らなかった。父母は家業が忙しくて、子供たちが寝てからしか世間話などできなかったからだろう。筆者の世界は、父母・弟と、隣家の同年の女子だけで、鉱石ラジオはあったが、鉱石と回路との接点がすぐに不良になるので、私は聞いていなかったから世間のことは全く知らなかった。

 *満州事変 昭和6(1931)年9月~同7年2月                   

  戦友 次に覚えた歌はこれである。歌詞の内容から満州事変の時の歌とばかり思い込んでいたが、今回、日露戦争の時のものと知り驚いた。日支事変が始まってからでもよく耳にしたので掲げさせて頂く。

  ※ 以下、新字体のある旧漢字は変更させて頂く。仮名遣いは改めない。

    作詞 真下飛泉、 作曲 三善和気

 1.ここは御國(おくに)を何百里 /離れて遠き滿洲の /赤い夕陽に照らされて /友は野末の石の下

 2.思へば悲し昨日まで/真っ先駆けて突進し /敵を散々懲(こ)らしたる /勇士はここに眠れるか

 3.ああ戦の最中に /隣におりしわが友の/ にわかにはたと倒れしを/ われは思はず駆けよりて

 4.軍律厳しき中なれど/ これが見捨てゝおかれうか /「確りせよ」と抱き起し /仮包帯も彈丸(たま)の中

 5.折から起る吶喊(とっかん)に /友はようよう顏上げて /「御國の為だ構はずに/ 後れて呉れな」と目に涙

 6.後に心は残れども/ 残しちやならぬこの体 /「それぢや行くよ」と別れたが /永の別れとなつたのか

 7.戦済(す)んで日が暮れて /探しに戻る心では /どうか生きていて呉れよ/ 物など言へと願ふたに

 8.空しく冷えて魂は /故へ帰ったポケットに/ 時計許(ばか)りがコチコチと/ 動いているのも情けなや

 14.(あんど)の陰で親達の /讀まるゝ(よまるる)心思ひ遣り(おもいやり) /思はず落とす一雫(ひとしずく)   (全14番)

軍歌というよりは鎮魂歌というべきものか。曲もしみじみとしたものだ。以下に掲げるいろいろな軍歌が現れるまではよく歌われたように思う。日支事変の時代になっても出征兵士を送るときに、この歌はよく歌われた。状況にそぐわないと思うのだが、それを軍部は黙認していたとのこと。

他にも明治時代からの勇壮な歌もいろいろあり、歌われていたこともあるのだが、歌詞が難しいので、一般的ではなかったのかも知れない。次に、それらから掲げる。

  箱根八里  最も難しいのがこれ。明治34(1901に発行された「中学唱歌」に掲載されたとのこと。箱根の関所のある山道の険しさを、中国の古典に名だたる難所要害に譬(たと)えているものである。曲は、勇壮な行進曲調のものであり、時々口ずさむ好きな歌だ。中学唱歌」に初出の唱歌である。

      この辺り、ブログ不調で小文字の大きさが不統一です。    

      作詞  鳥居忱(まこと)   作曲 滝廉太郎

箱根の山は、天下の嶮(けん)/函谷関(かんこくかん)も ものならず/万丈の山、千仞(せんじん)の谷/前に聳(そび)、後方(しりえ)にささふ/は山を巡り、は谷を閉ざす/昼猶闇(なおくら)き杉の並木/羊腸の小徑は滑らか/一夫関に当たるや、萬夫も開くなし/天下する剛氣の武士(もののふ大刀腰に足駄がけ/八里の碞根(いわね)みならす、/かくこそありしか、往時の武士(もののふ)     (全2番中1番)

  敵は幾万 という勇壮な曲も出征兵士の送別にはよく歌われた。明治19(1886)年詩集から抜粋されたとか。太平洋戦争時、大本営がラジオ戦勝発表の際、その前後にもこの曲が必ず流されていたとか。3番まであったようだが、ふだん耳にしたのは1番だけだったと思う。この次に掲げる歌とともに、リズムが覚えやすく、歌謡曲は「365歩のマーチ」以外は無縁の筆者にも歌えて好きな歌だ。

     作詞 山田美妙斎 作曲 小山作之助

敵は幾万ありとても/すべて烏合(うごう)の勢(せい)なるぞ/烏合の勢にあらずとも/味方に正しき道理あり/邪はそれ正に勝ちがたく/直(ちょく)は曲きょく)にぞ勝栗の/堅き心の一徹は/石に矢の立つためしあり/石に立つ矢のためしあり/などて恐るる事やある/などてたゆとう事やある

  陸軍の歌 明治37年、全10番で当時の兵科を全部歌ってある。後に爆撃隊、機関銃隊、戦車隊、電信隊、皇軍凱旋の5節を追加したとのこと。昭和初期から次世界大戦の敗戦まで、出征時の壮行歌や凱旋時に必ずと言っていいほど主に1番を中心に盛んに歌われた。出征兵士を送る時に、私の知る範囲では一番よく歌われた歌である。歩兵の本領と同じく行軍中にも盛んに歌われたとのこと。追加の兵科の歌は耳にしたこともない。

曲は「四千余万」という中村秋香の譜を流用したものとなっている。輜重兵科の歌は「輜重兵の歌」(作詞作曲ともに不明)の歌が作られる。輜重兵科は12(1937)年までは存在しなかったため、それまでは輜重兵に関してほぼ唯一の歌であったとか。

昭和になり、兵種も増えたため、昭和12(1937)年に戦車兵、機関銃兵、航空兵、通信兵等を追加した。

昭和12(1937)年、日支事変勃発の年、「新日本陸軍」というものもでき、さらに「航空兵」「高射砲兵」「鉄道隊」「電信隊」「戦車隊」「機関銃隊」「軍犬軍鳩」を追加した西条八十作詞によるものもあるが省略する。

     作詞 大和田建樹  作曲 深沢登代吉  明治37(1904)

1.忠勇無双の我が兵は/歓呼の声に送られて/今ぞ出で立つ父母の国/勝たずば生きて還らじと/誓(ちか)ふ心の勇ましさ

2.(斥候)(せっこう) (ある)いは草に伏し隠れ/或いは水に飛び入りて/万死恐れず敵情を/視察し帰る斥候兵/肩に懸(かか)れる一軍の/安危はいかに重からん  

3.(工兵)道なき道に道をつけ/敵の鉄道うち毀(こぼ)*/雨と散りくる弾丸を身に浴びながら橋かけて/我が軍渡す工兵の/功労何にか譬(たと)うべき

⒋.(砲兵)(くわ)取る工兵助けつつ/銃(つつ)取る歩兵助けつつ/敵を沈黙せしめたる/我が軍隊の砲弾は/放つに当たらぬ方もなく/その声天地に轟(とどろ)けり

⒌.(歩兵)一斉射撃の銃(つつ)先に/敵の気力を怯(ひる)ませて/鉄条網もものかわと/躍り越えたる塁上に/立てし誉れの日章旗/みな我が歩兵の働きぞ

⒍,(騎兵)撃たれて逃げゆく八方の/敵を追い伏せ追い散らし/全軍残らずうち破る/騎兵の任の重ければ/我が乗る馬を子のごとく/労(いた)わる人もあるぞかし

⒎(輜重兵)砲工兵騎の兵強く/連戦連捷(れんしょう)せしことは/百難冒(おか)して輸送する/兵糧(ひょうろう)輜重のたまものぞ/忘るな一日遅れなば/一日たゆとう兵力を

⒏(衛生兵)戦地に名誉の負傷して/収容せらるる将卒の/命と頼むは衛生隊/ひとり味方の兵のみか/敵をも隔てぬ同仁の/情けよ思えば君の恩

 9.(凱旋)内には至仁の君いまし/外には忠武の兵ありて/我が手に握りし戦捷の/誉れは正義のかちどきぞ/謝せよ国民大呼(たいこ)して/我が陸軍の勲功(いさおし)を 

10.(平和)戦雲東におさまりて /昇る朝日ともろともに/輝く仁義の名も高く/知らるる亜細亜(あじあ)の日の出国 /光めでたく仰がるる /時こそ来ぬれいざ励め       (全10番) 

*私は「打ち壊し」と習った。

  歩兵の本領別名 歩兵の歌 明治44(1911)に発表された日本軍歌。原詩は随所に改作されている。現在歌われているものを掲げる。は第6代陸軍軍楽隊隊長永井建子けんし)慶応元(1865)年生)の軍歌「小楠公」の借用である。「メーデーの歌*」にもこの曲が借用されている。

1.万朶(ばんだ)の桜か襟の色*/花は吉野に嵐吹く /大和男子(おのこ)と生まれなば /散兵戦の 花と散れ    

2.尺余(しゃくよ)の銃(つつ)は武器ならず /寸余の剣つるぎ)何かせん /知らずやここに二千年 /鍛えきたえし大和魂(やまとだま)

 4.千里東西波越えて/ 我に仇なす国あらば/ 港を出でん輸送船/ 暫(しば)し守れや海の人      

10歩兵の本領茲(ここ)にあり/あな勇ましの我(わが)兵科/会心の友よさらばいざ/共に励まん我任務 (全10番) 

*メーデーの歌」 聞け万国の労働者/とどろきわたるメーデーの/示威者(しいしゃ)に起る足どりと/未来をつぐる  鬨(とき) の声  (全5番中1番) 

*「襟の色」とは、軍服の「襟章」の色で兵科を表していたので、桜の色を歩兵の赤色になぞ らえたものである。ただし、昭和13年以降は、両襟に階級章と兵科を表す小さい記章を別々に着けたようだ。(昭和16年発行、陸軍省兵務課編さん「教練教科書 学科乃部」)                                    

第2次世界大戦敗戦後の連合軍占領下ではGHQ(連合軍総司令部)によって演奏、放送等を禁止されたが、旧制中学校旧制高等学校などの流れを汲む学校では、現在も校歌応援歌などのメロディーとして使用され続けている例も少なくない。 陸上自衛隊でも歩兵科相当の普通科において「普通科の本領」と曲名や歌詞の一部を変えて歌われ続けられている。旧ビルマ国軍でも行進曲として採用されているとか。                      

筆者が小学校4年の時から日支事変が始まる。もちろん、満州事変は数年前に終わっているが、小学校の唱歌の教材はまだ、日露戦争の時のものだった。中でもよく覚えているのが、「水師営の会見」「広瀬中佐」だ。音程に弱い筆者にも歌いやすい曲なので、今でも折々、何かのはずみで声に出して歌っている(せいぜい3番まで)ことがある。歌謡曲がさっぱり歌えない筆者には、軍歌と、他の少数の小学校唱歌とだけが救いなのだ。

 

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