昭和2年生まれの雑記帳

一市井人の見た昭和の記録。今は思いも寄らない奇異な現象などに重点をおきます。
       

<増補修正版 5> 甲子園大空襲(4-2)

2014-05-06 | 被災体験記

   大変身 3月の大阪大空襲時、我が家の周囲に火を噴きながら落ちてくる数発の焼夷弾を、直前に壕から跳びだし、2階の窓から眺めた後に、向かいまで火が迫ってきても、煙に包まれ、酸素不足で危うく失神しかけながらも単独消火に努めたり、深夜に高射砲弾落下の中を平気で学校へ駆け向かった私がである。1度は頭上に爆弾が落下する電車の走るような轟音も聞いた。ごく近くに落下する時の音だが、不発だったから、今、この記事が書けるのだ。無神論者なのに自分には神がついているような心境に陥っていた。ずいぶん危険なことだったが、結果的にはそれで幸せだったのだ。空襲の度に脅(おび)えなくてすんだから。過去の私なら、多分、寮が燃え出した時に駆け戻り、父や、新しい友人が背負って運んでぐれた布団とか、携えられなかった数々の物品を外へ運び出していたろうと思う。なにしろ、何1つでも簡単には入手できない時代であり、この日持ち出せなかった物品や食物名を後に未練たらしく69品目も書き残している位なのだから。何が突然に自分をこうも変えてしまったのか。それは〈予告ビラ〉のせいなのだ。不意にきた空襲には少しも脅えなかったのが、予告を聞いた途端から不安感を抱きはじめ、現実に我が寮―1夜だけのものではあったが―が燃え出したのを見たときに急に意気地なしに変身してしまったのだった

   跳ね飛ぶ焼夷弾 大きな線香花火の開き始めるのを見て、その反対方向に50mほどトランクを提げて走る間に、後方で「ザザーーッ」という空気を震わす空中落下の音、続いて地面に落下と炸裂の音。多分「ズシーン」・「ドドーン」だったと思うが自信がない。立ち止まって振り返る。地面に激突した50発の焼夷弾が、その反動で、あるいは高く、あるいは低く、放物線の弧を描いて四方八方へ跳ね飛ぶ。それぞれに炎の尾を噴き出しているから分かるのだ。その尾は、まるで円形プール内に散らばった50個の口から、噴水がまちまちの方向と角度に一瞬に噴出して放物線を描いて数秒で消えるように。それも闇の中の濃榿色の噴水である。自信を持って言えないが、真上へ跳んだものの高さは5~6m、斜めに低く跳んだものの距離は20m以上もあったろうか。逃げ走った距離の半分位も跳んできたのもある。もし、その距離を逃げおおせなかったら、たとえ、身体に直撃弾を受けなかったとしても、焼夷弾が噴出している油脂―ゴムを混ぜてあったという―が身体にべったりとまとわり着いて大火傷を負ったことだろう。戦後至る所で顔や腕が白く焼けただれているケロイド症状のひとを見かけたことだった。

   喫驚(びっくり) 濃榿色の噴水が消え、辺りがもとの闇に戻ったと思う間もなく、次の編隊の爆音、見上げる空に再びチラチラと線香花火の彩り、前回と同様のことが起こる。もう一度逃げ走ったとき、思いがけず草原の中にぽつんと立つ1つの建物に出合った。土蔵を一回り小さくしたような大きさのもので、コンクリート造りらしく頑丈そうに見えた。ここなら、焼夷弾が真上から落ちてこない限りは、落下地点の反対側へ回りさえすればはね跳ぶ弾を受けることはない。ホッと一息ついて今走ってきた方向をふり返る。私たちの寮は今や完全に炎に包まれている。そのまた向こうの社宅の辺りは一帯火の海だ。その他は漆黒の闇。感傷にふける暇(いとま)もなく、次の焼夷弾群が落ちてはじける音。今度はもちろん逃げもせず建物の陰にいる。落下地点から相当の距離もあったので焼夷弾の炸裂を見ようと建物の反対側へ回ってみる。と、炎に照らし出された鉄の扉にペンキで大きく書かれた赤い文字『油脂倉庫*』!。「おい、大変だ。ガソリンタンクだ」と今度は先頭切って逃げ出す。

 *戦争中は米英語は敵性語だからとして使用しないよう奨励され、野球用語は全部日本語に切り替えられる⇒後の稿)などした。私の学校では、終戦の前々年1月末に突然英会話の授業が中国語に切り替えられたりもしている。海軍は戦前から使っていた英語はそのままだったとのこと。

   右往左往の末に その後まだ 3、4回は焼夷弾の洗礼を受けたと思う。ともかく、焼夷弾を避けてあちらこちらと方向も考えずに落下地点以外は真っ暗な広野を逃げ走っている間に、はるか前方西宮一帯の夜空を焦がす火の海をさえぎって黒々と横たわる建物らしいものが見えてきた。高さは3階建て位だが横幅がずいぶん長い。近づいてみて初めて甲子園の球場と気づく。武器を造るために大鉄傘を供出*した後のスタンド部分だけの姿だったのだ。扉は開いていた。多分供出してしまって無かったのだろう。やれ助かったと地下通路のような所へ入りこみ、コンクリートの床の上でたちまち深い眠りに陥る。しかとは分からないが3時と4時の間くらいのことだったろうか。

  *当時、家庭には鍋・釜の類や、ダイヤモンドなどの供出が奨励された。

  顔に縞(しま) 甲子園球場での翌朝、誰彼となく起きだしてお互いの顔を見て驚く。誰の顔にも薄黒く細い縦縞が数本は描かれている。前夜、逃げ走るうちにいつしか、例によって空襲には付き物の雨が―気づかなかった程度の小雨だが―火災で発生した空気の煤(すす)を溶かして墨汁のようになって降っていたのだ。煤の量はきっと大変なものだったのだろう。

  焼け跡で食物あさり 早朝、焼けてしまった寮を捜し求めて広野を戻る。その近くに焼けなかった住友の寮があったので、焼け出された一行はそこの玄関前や植え込みの間などに散在して、がやがやと昨夜の話に熱中しながら待機していた。と、一緒に逃げた同室の相棒の耳打ちに同意して、2人してその場を40分ほど抜け出す。ほとんど人影のない、一帯、同形の長屋ばかりの住宅群へ行く。住友の社宅群だったろう。食糧難の折から、全ての家々の南面の壁沿いは玄関前を除いて1m幅位、道路を掘り返して畑にしていた。(当時、市内でも特別な道路以外は舗装していなくて、たいていこのようにして道幅は狭くなっていたのだ)。そこではトマトや瓜ばかりが目についた。相当時間捜し歩いたが、戸外で熟させると盗まれるので早採りするためだろう、未熟のものばかりだった。仕方なく焼けた家の前の半焼けの瓜やトマトで空腹を満たして帰途についた。と、鶏小屋の焼け跡で丸焼きの鶏1羽を見つけた。羽はすっかり焼け落ちてしまって、肌がこんがりと狐色に焼けている。2人で片脚ずつ握って引っ張ると、見事両脚の間から真半分に引き裂けた。そのまましゃぶり食った。塩などはなかったが実に旨かった。前夜、入所して最初の(歓迎?の)膳は薬指ほどの大きさのイワシが3匹、それでも、何ヵ月ぶりかの魚で喜んでいたのだ。米飯も何ヶ月ぶりかのものであったが、子供用の茶碗にすりきり一杯、他にはまずいお茶だけで腹ぺこだったのだ。


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